イサム・ノグチの〈あかり〉
文: 布施英利より
わが家に〈あかり〉の部屋がある。住んでいるのは、湯河原温泉の外れにある廃業になった旅館だ。廃墟と化していたこの家に、引っ越してきた。ひどい部屋の床には、キノコが生えていた。そんな部屋の壁や床を剥がし、新しい板を張る。人生は終わることのないリフォームの日々。それがぼくの暮らしだ。
この家の4階に、元宴会場がある。和風の内装で、いちおうステージもある。ここは比較的、痛みが少なかった。応接間として使っている。25畳ほどの部屋だが、ここにイサム・ノグチの〈あかり〉を数点、置いてある。照明としても使っているが、美術品でもある。自分としては、個人ギャラリー気分である。
〈あかり〉は、少しずつ買い足している。新しい〈あかり〉を買ってくると、平べったい箱から出す。折り畳んだ和服のように、コンパクトな平面だ。これをばらばらと伸ばす。すると突然、三次元の空間が現れる。ぽくはこの瞬間が好きだ。彫刻の誕生に立ち会っている気分になる。イサム・ノグチは石の彫刻家だ。香川県牟礼のイサム・ノグチ庭園美術館にあるのも、そのほとんどが石の作品だ。石の造形と明かりの立体造形に共通点が見られる。この美術館の庭に立つと、ぽくはなぜか奈良の古寺を思い出す。薬師寺や法隆寺、そういう伽藍の寺だ。奈良の古寺は、砂利が敷かれ、ガランとしている。その乾いた感じが、イサム・ノグチ庭園美術館と似ている。しかしイサム・ノブチ庭園美術館に仏像はない。とはいえ、「本堂」ともいえるアトリエも、また奈良の古寺の趣を湛えている。20世紀に寺をつくったら、こうなるのではないか。イサム・ノグチ庭園美術館は、そんなことを思わせる。たとえば≪エナジー・ヴォイド〉という巨大な作品がある。円環というか、それが四角ぽく歪んだというか、数字のゼロみたいというか、そんな形をしている。美術館の展示品だから手を触れられない。この円環の中を潜り抜けることも禁じられている。そうなると、かえって潜りたくなる。しかし、できない。もどかしい。この彫刻をくぐったら何があるのか。もちろん、ただの向こう側であるが、そこを通れないがゆえに、まるで向こうには別の宇宙があるように感じられてくる。ドラえもんの「どこでもドア」の前に立ったような気分である。 この「宇宙」と向き合っているような感覚が、奈良の古寺で感じる何かと似ているのだ。 さて〈あかり〉であるが、これは単なる照明器具である。安価だ。ものによっては数千円で手に入る。しかしこの〈あかり〉がつくる形態や場の空気も、イサム・ノグチの傑作≪エナジー・ヴォイド〉と無縁のものではない。
エナジーボイド
わが家に、気軽に、本物の彫刻を。そんな美術のある暮らしを実現してくれるのが〈あかり〉だ。 〈あかり〉は、光の彫刻だ。紙と、細い竹がつくる形態が、内側からの光を受けて、輝く。光は、昔から美術の重要な素材だった。レンブラント光線や、印象派の外光。そういう絵の中の光だけでなく、光それ自身が美を造形してきた。たとえば中世ゴシックのステンドグラス。教会の闇にみちた建物の中に、ステンドグラスの色彩が輝く。その光は、宇宙の真理や神の啓示そのものを表している。また、青森のねぶた。夏の夜に輝く色鮮やかなねぶたは、「日本のステンドグラス」かもしれない。
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