岡本太郎の芸術活動を追う

岡本太郎の芸術活動を追う

杉田真珠(岡本太郎記念館主席研究員)

1.1930年代(19歳) パリ芸術家たちとの交流

 1911年、岡本太郎(1911−199る)は漫画家・岡本一平と作家・岡本かの子の長男として生まれました。1929年、18歳になった太郎は慶應義塾普通部から東京美術学校(現・東京芸術大学)に進みますが、半年で休学して渡欧します。朝日新聞社特派員としてロンドンの軍縮会議を取材する一平に母とともに同行したのです。一行は1930年1月にパリに到着。太郎はロンドンに向かう両親と別れ、ひとリパリに残ります。

 しばらくは言葉もわからず下宿で悶々と過ごしていましたが、やがてアトリエを借り、絵を描きはじめました。その頃の太郎は、ルーヴル美術館などで古典から20世紀初頭の欧州名画の数々に接し西洋美術を皮膚感覚で吸収しています。セザンヌの作品に涙することもありました。当時すでにパリには多くの日本人画家が遊学していましたが、マチスやヴラマンクの模倣に血道を上げるばかり。フランス語も話せず、日本人だけで固まっていました。

 そんな彼らを横目に、まずは自由にフランス語を操り、生活者としてフランスに溶け込まねばならないと考えた太郎は、1931年(20歳)日本の高校に相当する学校の寄宿生になることを選びます。フランス人の学生たちに交ざって唱歌から歴史までを学んだ太郎は、翌年秋にはパリ大学に進みます。

 この年、画廊でピカソの絵画作品を見て強烈に惹き付けられた太郎は、これを契機に制作活動を本格化。展覧会への出品もはじめます。この頃の太郎は、日本の美術学校で教育を受けたアカデミックな表現と、フォーヴィスム(下説明分)などのパリの流行様式の表現との相違や矛盾に悩んでいました。師をもたない太郎にとって、進むべき道は自らの眼できり開いていくしかありません。ピカソとの出会いで、その眼がやっと機能しはじめたのです。

*フォーヴィスムとは野獣派ともいう。20世紀初頭のフランスで起こつた絵画運動。原色を太い筆を用いて大胆にキャンバスに描き、画家の感情を強烈に画面に表現しようとした。代表的な画家にはマティス、ヴラマンク、デュフィらがいる。

 太郎は、すでに帰国していた母に向けて展覧会へ出品する決意を書き送っています。太郎の書簡は現存していませんが、母からの返信には「とにかくピカソの精神がわかればあとは実行があるばかりです」とあることから、出品の決意とあわせて自分なりのピカソ論を記していたことがわかります。このときの出品作は不明ですが、太郎の名前はパリの新聞の展覧会評で注目作家のひとりとして紹介されています

 展覧会の出品から間もなく、1931年2月に結成された抽象芸術運動の世界的な組織「アブストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)協会」から誘われ、会員となります。後に「私もフランスの若い画壇人と共に仕事し、芸術運動に参加することは兼てから望んでいた」と言うとおり、太郎は喜んで会員になりました。太郎が会員になった正確な時期は不明ですが、1933年初頭(22歳)には会員であったことは 間違いないようです。太郎は最年少、ただひとりの東洋人でした。

 アブストラクシオン・クレアシオン協会は、アルプ、ブランクーシ、カンディンスキーなど20世紀美術の巨匠たちが多く参加していた抽象芸術の運動体です。太郎はわずか22歳で会員になり、会主催の展覧会で作品を発表、会が発行する年鑑に作品図版を掲載し、解説を執筆しています。太郎は世界的な芸術家たちとの交流の中で活発な議論を繰り返し、また同じ街に住む仲間としてプライベートなつきあいをしながら、作品制作を続けていったのです。

2.パリ思想家たちとの交流

 1936年10月(25歳)、太郎は展覧会で《傷ましき腕》[下図]を発表します。これを見たアンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」(下説明文)を提唱した世界的な詩人)の目にとまり、国際シュルレアリスム展への出品を勧められたのです。太郎は純粋な抽象表現を追求するアブストラクシオン・クレアシオン協会に属していたわけですが、腕やリボンなど具象的なものが描かれた《傷ましき腕》は、その規範を完全に逸脱していました。厳格な抽象だけでは現実はとらえることはできないと考えていたからです。これを契機に太郎は抽象芸術運動から離れます。

*シュルレアリスムは超現実主義。第一次大戦後のフランスで詩人アンドレ・ブルトンの宣言によってはじまる20世紀最大の芸術運動。運動は、詩や絵画を中心に芸術全領域にわたっている。理性を否定し、夢や幻覚などの表現をつうじて、人間の意識の変革をめざす。

 しかし、太郎の考えはブルトンたちの言うシュルレアリスムそのものだったわけでもありません。おそらくは、抽象芸術と同様に、シュルレアリスムの規範に縛られることも窮屈だと感じていたのでしょう。シュルレアリスムの会員にはなりませんでしたが、会員たちとは生涯にわたり親しくつきあいました。太郎は、20歳代半ばにして、抽象芸術運動とシュルレアリスムという、20世紀を代表する二大芸術運動をまさしくド真ん中で経験した、おそらく世界にただひとりの存在なのです。

 1937年(26歳)、太郎はパリの出版社から画集『OKAMOTO』[上図]を刊行します。1934年から37年に制作した作品の図版、出版当時の太郎の芸術観がわかる「略歴」、著名な美術批評家ピエール・クルティオンによる序文が掲載されています。しかしこの頃の太郎は、自分が現実の社会でどのような存在であるのか、どのように社会とつながっているのかわからずに悩んでいました。当時、太郎は思想家で小説家のジョルジュ・バタイユとブルトンらが開いたスターリンに反対する集会に参加しバタイユの演説に感激します。この会はすぐに解散してしまいましたが、その後にバタイユらがつくる「社会学研究会」に参加、ついには秘密結社「アセファル」のメンバーにもなります。

 一方、1937年(26歳)に開設された人間博物館(ミュゼ・ド・ロム)で世界の民族資料に日を奪われた太郎は、文化人類学の父マルセル・モースのもとで本格的に民族学を学びます。この博物館で行われていた モースの授業で、太郎は未開の人々が暮らしの中で生み出した一つひとつの民族資料と社会全体がつながっていることを学んでいきました。1940年の帰国直前までモースの授業に出席していた太郎は、クロード・レヴィ=ストロースミシェル・レリスとともにモースの愛弟子のひとりでした。

 第二次世界大戦勃発前のヨーロッパでは、世界的な知識人や芸術家たちが自らの考えを広く世界に宣言し、ひとつの理念のもとに集団をつくり、社会に対して思想的、芸術的な運動を行っていました。太郎は一流の思想家や芸術家たちとともにそうした運動の一翼を担いました。この時期の太郎は絵画制作から少し距離を置き、自らの基盤となる思想形成に時間をかけています太郎の思想はこのような一級の知識人たちとの交遊の中で形成されていったのです。それは芸術活動は常に現実とかかわり、社会とっながりを持つものでなければならないとの確信でした。ついに確信を得た太郎は、作品制作にも意欲的に取り組もうとしますが、ドイツ軍によるパリ陥落を目前に日本への帰国を余儀なくされます

3.第二次大戦後「対極主義」

 1940年8月(29歳)に帰国した太郎は、1942年1月(32歳)中国に出征しました。終戦後も中国で捕虜生活を送り、1946年6月にようやく復員します。しかし、両親と過ごした東京・青山の自宅は空襲で焼け、戦前にフランスから持ち帰った作品や資料もすべてなくなっていました。何もかも失った太郎は新聞や雑誌の挿絵[下図]の仕事から再出発します。挿絵として描いていたのは、《傷ましき腕》などに見られる抽象性や精神性を追求するような厳しさはなく、少女漫画のような表現でした。一方、フランスでの生活や習慣を紹介する原稿執筆の仕事も増え、まだ日本人の多くが見たことのないフランスの生活を描いた挿絵や文章はわかりやすく好評でしたが、それらは太郎の目指す芸術とは言えないものでした。

 1948年9月(37歳)、太郎は「対極主義」を執筆、同年11月に刊行した『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』(月曜書房)を刊行します。

 ここで太郎は次のように説いています。20世紀に起こったアヴァンギャルド芸術運動には相反する2つの流れがある、つまりひとつは抽象画の合理的なもの、もうひとつはシュルレアリスム等の非合理主義。この2つを矛盾のままに引き受け、対置し、強調していくべきである。太郎はこれを「対極主義」と名づけます。太郎にとって対極主義上はたんなるお題目の提唱ではなく、作品制作の上でじっさいに実践すべきものでした。それゆえに太郎の苦闘がはじまります

 1947年制作(36歳)の《電撃》[上図]《夜》[上図]以降、1940年代、50年代の太郎の絵画作品は具体的なモノを描いてはいますが、絵画全体のテーマはとても抽象的です。1949年制作の《重工業》[下図]は、描かれているものはすべて具体的なモノばかりですが、工業社会を連想させる歯車や金属パイプとまったく無関係な巨大なネギ、記号化された人体と写実的なモノなど、意味も表現方法も相反する要素が同じ画面にあることで、鑑賞者に大きな疑問を投げかけます。発表当時、この作品に対する評価は大変に厳しいものでした。

 そこで太郎は、既存の形式主義的な見方でしか作品を見ることのできない人たちに対し、今度はまったく意味のない作品をぶっけることにしました。それが《森の捉》[下図](1950年)です。《森の掟》は、無意味を決意することこそが意味になる、という考えが貫かれています。描かれているものはすべてが具体的なモノ。鑑賞者はその姿形を見て、そこに何らかの具体的な意味や物語を見出そうとします。それが太郎のねらいでした。作者が「意味はない」と言っているのに、人々はそれでもかまわずに意味をさぐろうと懸命になって作品を見ます。それはもはや形式主義的な見方ではなく、鑑賞者と作品の純粋な対話です。太郎はあえて逆説的な言葉で刺激し、凝り固まった見方から私たちを解放し、私たちを作品の本質に近づけようとしました。

4.現代芸術研究所

 1954年5月(43歳)、太郎は東京・南青山に念願だったアトリエを構えます。かつて幼少時代を両親と過ごした場所にこのとき建てたアトリエが、現在の岡本太郎記念館です。設計は坂倉準三(1901−19b9)。坂倉は、1930年代のパリで建築家ル・コルビュジェの弟子として働いていました。太郎とはその頃からの友人です。

 太郎はアトリエを「現代芸術研究所」と名づけました。現代芸術研究所という名称は太郎がアトリエ竣工と同時期にはじめた芸術運動のことも指しています。芸術は広く社会に開かれたものであるべきと考える太郎が主宰したもので、協力者には丹下健三、剣持勇、柳宗理、亀倉雄策など、昏々たる建築家やデザイナーの名前が並んでいました。「芸術を大衆の手に」と題された当時の雑誌記事のタイトルが、運動の趣旨を端的に表しています。

 じつは太郎は復員後、すぐにいくつかの前衛芸術運動を起こしていました。1948年1月、太郎は東京・上野毛にあったアトリエで、前衛芸術運動のための会合を開きます。「夜の会」と称し、文芸評論家として戦前から活躍する花田清輝、小説家の野間宏、評論家の埴谷雄高、小説家の椎名麟三、小説家の佐々木基−らが集まりました。活動の様子は1949年5月(38歳)発行の『新しい芸術の探求』(月曜書房)で見ることができます。花田の宣言にはじまり、太郎の「対極主義」、椎名「人間の条件について」、野間「実験小説論」などが収録されています。また「夜の会」は活動開始とともに公開討論を開催し、多くの若い人たちの参加をみました。

 「夜の会」には、趣旨に賛同した小説家・安部公房と詩人・関根弘も参加します。彼らは20歳代の文学者を中心とする「世紀」の活動を行っていましたが、彼らが「夜の会」でも活動するようになると、「世紀」は「夜の会」と行動をともにするようになり、「夜の会」の会員は「世紀」の特別会員に、また太郎と花田が1948年9月に設立する「アヴァンギャルド芸術研究会」とも合流文学者と芸術家がともに活動する大きな会に発展します。

 一方、太郎が主体となったこれらの芸術運動とは別に、太郎にとって大きな意味を持つ活動組織が「国際デザインコミッティー(現・日本デザインコミッティー)」でした。1953年、外務省に第10回にミラノ・トリエンナーレの公式参加要請が来ると、デザイナー・剣持勇とデザイン評論家・勝見勝は国際文化振興会(現・独立行政法人国際交流基金)に日本デザイン作品のトリエンナーレ参加を働きかけ、それを目的とした「国際デザインコミッティー」が創設されます。創設時の委員には剣持、勝見の他に、建築家の丹下、清家清と吉阪隆正、デザイナーの柳宗理、渡辺力、亀倉、写真家の石元泰博、詩人で美術評論家でもあった瀧口修造、丹下のかつての同僚で建築評論家の浜口隆一、そして太郎がいました。さらに顧問として坂倉、建築家の前川国男、フランス人建築家シャルロット・ペリアンの名もあります。

 結局、1954年のトリエンナーレには出品せず、次の1957年展から正式参加することになったのですが、トリエンナーレ参加への具体的な準備作業のほか、会はデザインや芸術を通じた国際交流を積極的に行い、デザインをテーマにした国際会議への参加や日本での開催、国際的な展覧会への参加、「グッドデザイン運動」の普及、推進を行う組織に育っていきます。1953年からはじまるこの組織の活発な活動や人脈は、太郎の芸術活動に大きな影響を与えました。

 芸術を大衆生活へ近づけようとした現代芸術研究所は活動のひとつにテキスタイル・デザイン(下説明文)を採りいれ、また太郎ははじめての立体作品《顔》(1952年)を制作した後すぐに家具デザインを行うなど、このときから太郎はデザイン分野への進出をはじめます。また建築家たちとの交流もその後の芸術活動を変えていきます。とりわけ丹下健三(1913−2005)との関係は深く、後に国立代々木競技場や大阪万博などの大きな仕事に結実していきました。

*テキスタイル・デザインは主に布地の模様などを考案することをいう。テキスタイルは繊維製品のこと。

5.「芸術の大衆化」への試み

 1952年、坂倉準三は日本橋高島屋の地下通路の設計を任されました。坂倉はかねて、建築物がその時代を代表する建築となるには、技術に裏打ちされた彫塑的外観と絵画的調和が融合した内部空間が必要であり、「絵画的調和をつくる上に、最も大きい要素となるものは、色彩である」という考えを持っていました。1951年末から太郎はモザイクタイル作品《太陽の神話》[下図]を制作し、1952年の展覧会に出品しています。それを見た坂倉が太郎に壁画制作を依頼、こうしてモザイクタイル壁画《創生》[下図]が誕生します。太郎のタイル画は坂倉の考えを実現するものでした。

 太郎がモザイクタイルに注目したのは、「色彩番号さえ記録しておけば、オリジナルとまったく同一の製品が無数に大量生産できる」から。一点モノの油絵とちがって、タイルならオリジナルと同じ品質の作品をいくらでもつくることができます。芸術を大衆社会に浸透させようとした太郎にとって、それは画期的な画材だったのです。

 さらに太郎は、この地下道壁画の仕事のあとに「色彩の純度と、魅力ある光沢を持ったタイルという材料を用いて、建築と結びついたダイナミックな作品を作りたい」と、芸術と建築の融合について言及するようになります。つまり、タイルを使えば、絵画を工業的に生産できるだけでなく、壁画として建築壁面を彩ることができるため、より生活の中に入っていけると考えたのです。

 絵画とは「油絵具でキャンバスを塗り額縁に入れて美術館に並べるもの」とする考えに、太郎は真っ向から否定します。芸術は大衆のもの。そう考える太郎は、「より現実に生き、動いている大衆生活にジカに参画するため、新しい技術、または展示形式を考える必要がある」と話しています。戦後の日本で芸術活動を再開してまもない1952年のことです。

 これ以降、太郎は表現領域を徐々に広げていきます。彫刻作品[上図]の制作をはじめるのはこの頃です。さらに家具の制作[上図]、ショーウィンドウの構成[上図]、カラー映画の色彩指導と宇宙人のデザイン、オペラや歌舞伎の舞台装置と衣装デザイン[下図]など、さまざまなデザイン分野へ進出していきます。

 アクセサリーやライターなど身に着けて持ち歩く小さな製品のデザインも積極的に行いました。また、1953年(42歳)の京都への取材旅行を皮切りに、日本の中にある芸術の問題を探求する旅を積極的に行い、文章とともに太郎が撮影した写真[下図]が雑誌に掲載されると、すぐに太郎の写真に注目が集まりました。

 さらに、大型の彫刻作品《動物》[下図](1959年)を遊園地に設置して以降、各地に大型立体作品を制作していきます。芸術が大衆に近づくため、生活の中に入っていくために、太郎は表現領域には境界を設けませんでした。発表形式や発表媒体も次々と広げ、さまざまな方法で作品を世に出していきました。そしてついには、テレビのコマーシャルや無料配布のオマケにまで広がっていきます。芸術を大衆に近づけるために、太郎はあらゆることを実践していったのです。

6.建築との融合をめざす

 高島屋地下道の壁画をきっかけに、太郎には壁画制作が多く依頬されるようになり、大和証券本社ビルに陶板レリーフによる《踊り》(1956年:現存せず)、松竹会館内セントラル劇場にモザイクタイル作品《青春》[下図](1956年)、そして旧東京都庁舎に陶板レリーフによる壁画[次下図](1956年)を7点制作します。いずれも6m、7mというサイズの大きな作品です。

 旧都庁舎は1952年に丹下健三の設計案が決定し、建設がはじまっていました。当初は壁画の構想はありませんでしたが、1956年5月(45歳)、丹下は太郎に壁画制作を依頼します。その頃、丹下と太郎はよく芸術論をたたかわせていました。建築と芸術の協力にとって大切なことは、異質なものが徹底的に自己主張をし、問題をぶつけあうことによって新次元をひらくこと。そう考える太郎は、「壁画は安易に建築に調和するのではなく、むしろそれをひっくり返すもの」であり、建築の合理性に対し「人間本来の渾沌、非合理性を強烈につきつける」ものであると主張しました。こうした議論を経て、2人の共同が実現したのです。丹下がつくるコンクリートとガラスの機能的で合理的な空間に対して、太郎は《日の壁〉[下図]《建設》など、でこぼこした陶板レリーフで強烈な色彩を突きつけました。

 しかし、建築家たちと議論を重ねていく中で、建築と芸術の関係に対する太郎の考えは、少しずつ変わっていきます。1959年(48歳)には「建築は建築で建ってしまい、そこに画家が参加する、というのでは、まだ不徹底だ」と言うようになります。その中で太郎は2つの可能性を提示しました。ひとつは、建築家と芸術家、それに建物の使用者がはじめからぶつかりあってつくることで、合理性と非合理性をあわせ持つ「対極」的なものをつくるという考え。もうひとつが、「建築自身が彫刻であっても構わない」という考えです。つまり太郎は「協力」から一歩抜け出し、芸術家が彫刻作品として建物をつくるという構想を持つようになります。

 さらに太郎は都市計画についても言及していきます。1957年、太郎、丹下、前衛いけばな作家の勅使河原蒼風、科学者の糸川英夫作家の安部公房らとの対談で、東京湾沖に埋立ての島をつくる案を提示します。これは後に丹下の「東京計画1960」の海上都市論につながる考えです。また太郎独自の考えとして”オバケ東京′‘をつくったら?」を1965年に発表します。千葉の海沿いあたりに行政、立法機関さえも別に持つ「もうひとつの東京」をつくり、既存の東京と競わせていくという案です。

 太郎は建築家になろうとしたわけではありません。無機質な建物やそのたんなる集合体としての都市ではなく、人間が生活する姿、人間が集まってつくられる都市の姿を芸術を通して考えようとしたのであり、太郎は芸術こそがそのような場所に入り込んでいくべきだと考えていたのです。

7.二科会脱退

 太郎は、フランスから帰国した翌年の1941年(30歳)、第28回二科展にパリで制作した《傷ましき腕》など4点を出品し、二科賞を受賞します。1937年、母・かの子がパリにいる太郎に宛て「君日本の位置を二科へでもおく気はないか。でなけりゃ帝展は君のような新興芸術ワカルマイナ」と書いていることからも、太郎が二科に出品するのは自然な流れでした。第二次大戦後の1947年1月(36歳)、太郎は二科会の会員に推挙され、以後、太郎は毎年二科展に作品を発表していきます。

 1907年、第1回文部省美術展覧会(文展)が開催されます。それまでは美術の展覧会といえば私設の画塾などが開くものか、博覧会の一部分でしかありませんでした。文展は、国が全国から美術作品を募集・審査して入選作品を選び、順位つけをする展覧会。ここに入選すること、またその審査員になることが権威でした。他に大きな美術展覧会がない時代だったので、文展の時期になるとマスコミは大きく報道し、観覧者数も年々増大していきました。1914年、文展から分かれて二科会が創設され、文展は1918年に帝国美術院が主催する「帝展」となります。戦後の日本では、芸術家は帝展や二科会などの大きな美術団体に属し、入選することが権勢を手にする道であり、団体に属さない芸術家は社会が認めない風潮がありました。

 前述のように、フランスにいた頃、太郎は世界的な芸術家や思想家たちが集まって団体をつくり、社会に対して芸術的、思想的な運動を行う姿を目の当たりにし、またその中でじっさいに活動もしていました。帰国後も、自らが中心となって運動体を組織し、芸術運動を展開しました。そんな太郎が考える芸術家集団とは芸術運動のためのもの太郎は明治から続く旧態依然とした権力志向の美術団体や美術界の中に飛び込み、内部から変革しようとしたのです。

 しかし、けっきょく、膠着した日本の美術界を内部から変えようという太郎のもくろみは成就しませんでした太郎は「二科の現状は私の考えとますます反する方向に向かっているので、これ以上の協力は無意味」との声明を発表し、1961年8月に二科会を脱退します。太郎の脱退は、ほぼ全新聞が報じ、連日テレビ、ラジオのニュース番組が取り上げる大事件でした。それほど関心を呼んだのは、美術団体に入っていない芸術家はまともな活動は不可能であり、一流の芸術家とはいえないとする見方が依然として社会にあったからです。これこそが太郎が闘おうとした美術界の悪弊でした。

 脱退から2か月後、太郎ははやくも自身の個展を開催します。美術界だけでなく社会全体が、二科会を離れた太郎の動向に大きく注目していました。世間の大きな関心の中で発表したのは、それまでの文学的、具象的要素の一切ない新しい絵画表現[⇒P90~]でした。書を思わせる黒い太い線が描かれ、それまで画面中央にあった物語性の強い形態は黒い太い線に取って代わっています。この線の表現は禅、あるいは梵字を想起させることから宗教的、呪術的要素が取り込まれているとの指摘もありますが、いずれにしろ、会を脱退し多くが注目する中で、心機一転、それまでとは全く違うものをつくろうと模索し、完成させた結果です。太郎の二科会脱退以前から、一部の批評家たちかは美術団体の存在意義に疑問を呈していましたが、太郎の脱退とその後の活躍によって、美術団体、画壇はそれまで持っていた力を一気に失っていくことになりました。団体の権威に頼らなくても芸術家として活躍できることを、はからずも太郎が証明してしまったからです。

8.太陽の塔・明日の神話

 大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。テーマ館というパビリオンの中で、展示を通してこのテーマをわかりやすく解読するのがテーマプロデューサーの仕事です。しかし太郎ははじめからこのテーマには否定的でした。科学技術は進歩したかもしれないが、人類なんか進歩なんかしていない。そう考えていたからです。太郎は、人間の根源、人間の原初的な生活を視覚化した幻想的で芸術的な空間をつくり、観客を迎えました。

 そうしたテーマ館の精神を象徴するものが《太陽の塔》です。近未来の都市を思わせる会場の中にあって、ひとり太古からそこに立っていたかのような風情で周囲を見下ろすその姿は、産業技術を礼賛する万博の価値観とは真逆のメッセージを放っています。太郎は後にこう記しました。「人間はすべてその姿のままで宇宙にみち、無邪気に輝いているものなのだ。《太陽の塔》が両手をひろげて、無邪気に突っ立っている姿は、その象徴のつもりである」

 閉幕後、パビリオンはほぼすべてが撤去されましたが、《太陽の塔》は残りました。他のパビリオンと同様に解体されるはずだったのですが、保存を求める声が高まり、1975年1月に永久保存が決定したのです。

 《太陽の塔》が岡本太郎慕大の立体作品であるのに対し、一方の《明日の神話》は最大の平面作品です。1961年以降、太郎は太い黒い線で表現する絵を描きはじめますが、《明日の神話》はそれ以前の1940年代、50年代の画風と共通する要素が多く、中には過去の作品に表れたものと同じ表現もあります。具象的なものが多く描かれていますが、全体としての意味は抽象的であることも50年代作品と共通しています。

 依頼を受けた旅先で描かれた鉛筆による下書きを見ると、この時点で太郎の頭の中にはすでにはっきりとした完成のイメージがあったことがわかります。絵画は自らの創造世界をそのまま表現でき、かつ瞬間を永遠にとどめておける唯一のメディアです。太郎はその可能性をよく知っていました。《明日の神話》は、そうした絵画の特性を最大限にいかすものです。太郎が核の炸裂する瞬間を永遠にとどめたのは、人類がいまあることの根源を問うためでした。壁画は30年あまり消息不明となっていましたが、2003年にメキシコで発見され、修復を経て2008年に渋谷駅に設置されました。

9.宇宙を跳ぶ眼

 1975年頃から太郎の仕事が少しずつ変わっていきます。万博以前から壁画や彫刻など多くの作品を公共の場に制作していたのですが、万博の頃から立体作品の制作依頼が急増します。芸術を大衆の生活の中に持ち込むことをさまざまな形で実践してきた太郎にとって、それは喜ばしいことだったでしょう。太郎は広場、公園、あるいは地方博覧会のシンボルなど多くの作品を次々に制作していきます。

 かたや太郎は戦後すぐから1980年代後半まで、途切れることな〈旺盛な執筆活動を続けています。新聞、雑誌で多くの連載を持ち、テレビやラジオの出演も引き受けました。各地に大型立体作品を設置し、自身のテレビ出演などが続く一方で、新作絵画の発表が減っていきます。大規模な個展を毎年開催し、時には年に数回開くこともありましたから、発表の場はありました。しかもそれまでと変わらないベースで絵画制作を行っていたにもかかわらず、あえて新作の発表は控えていたのです。

 じつは1975年(64歳)前後から太郎の絵画はその画風を大きく変えています大きく黒い円が頻繁に登場し、また生きものを想起させる不思議な形が描かれるのです。そうした作品が数多く残されているのですが、そのほとんどは発表されることがありませんでした。さらこ1940年代、50年代の過去の作品を引っ張り出し、そここ大きな眼の「生きもの」を加筆していきます。こうした加筆作品も発表されることはありませんでした。そのいくつかは、加筆の度合いが大き過ぎてまったく別の作品になってしまい、もともとの作品は「所在不明」とされていたものもあります。大きな眼を持つ生きものが描かれたこの種の作品について、太郎はいっさい語っていません。

 ただ、太郎は個々の作品解説はしませんでしたが、“大きな眼”の意味を考える上で重要な文章を書いています。1970年代になると太郎は世界各地の芸術探求の取材旅行を活発に行うようになり、その成果を次々と雑誌等に発表していきますが、その総まとめとして1978年「宇宙を翔ぶ眼」を発表します。タイトルのすぐ後、本文がはじまる前に「眼は存在が宇宙と合体する穴だ。その穴から宇宙を存在のなかにとけ込ます」とあります。

 本文では世界の古代文明、文化の中で感動するのは美術史で学ぶようなものではなく、そこから外れてしまったものばかりだと言い、縄文、ケルト、ユーラシア大陸の東西にひろがるスキタイなどをあげています。古代文明の、ぐるっと地球を一周するつながり、ひろがりについて述べたすぐ後で、文章は次のように唐突に締めくくられます。

 「顔は宇宙だ。顔は自であり、他であり、全体なのだ。そのド真ん中に目がある。はじめに言ったように、それは宇宙と一体の交流の穴。たとえ土で作られていようが金属だろうが、生きた、ナマの穴なのである。世界の美のあらゆる層に、何とさまざまの顔があり、また眼があるのだろう。まん丸い眼、とがったの、凹んだ穴ぼこ、あらゆる眼がにらみ、挑みあい、絶対をたしかめあう。一つの顔の宇宙の中に、また無限の顔、そして目玉が光っている。言いようのない実在感をもって」

 発表されなかった「生きもの」の作品群について、太郎の生涯のパートナーだった岡本敏子は「制作途中の作品」と言っていました。その言葉の意味は、太郎が絵画表現において次なる段階を見出していたことを示しています。太郎が次に何をしようとしていたのか、次の次は何なのか。大きな眼のある作品群は、私たちにそれを考えることの重要性と楽しみを投げかけています。