浜田知明
■「人間」としての「心の叫び」
▶︎「浜田知明の全容」展によせて
小川正隆
1993年8月の下旬、私は久しぶりにロンドンに出かけた。 それはイギリスの誇るブリティッシュ・ミューゼアム(大英博物館)に新設されて間もない日本ギャラリーで、8月26日から1カ月ほど、現代日本の美術家の個展が開されたからである。 その8月25日、オープニングの集いが催された。そこにはこのミューゼアムの日本美術部長であるローレンス・スミス氏ら関係者が出席したが、作者の浜田知明氏を囲んで、地味ながら、厚い友情につつまれた雰囲気のレセプション・パーティだった。
言うまでもなく、この「浜田知明展」を企画し、実務の責任者だったのがスミス氏で、彼はこの展覧会のために何度も来日し、浜田氏とも相談しながら、出品作品を決定した。その結果、実際に展示されたのは、初期からの代表的版画シリーズ《初年兵哀歌≫(1951年一78年)から、原水爆戦争の危険を暗示した<ボタン(B)>(1988年)までの版画100点と、〈檻〉(1983年)など、近年になってからこの版画家が手がけることになったブロンズの彫刻16点であり、スミス氏はこの浜田展のサブタイトルとして「the darkness ofwar,the darkness of peace(戦争の暗黒、平和の暗黒)」という言葉を添えていた。
この展覧会のカタログそのものは作られなかったが、浜田芸術をより詳細に紹介するため、日本語と英語のバイリンガルによる全作品集が刊行された。私はここに浜田知明についての小論を寄せたが、スミス氏も冒頭にメッセージを記し、浜田芸術への熱い関心を次のように書いている。
「その感情の強烈さ、簡潔でありながら凝縮された表現のゆえに浜田知明の版画を長く見つめることは苦痛に近いものがある。暗がたつにつれて、浜田の初期の作品は、より公平な歴史の吟味にたえるようになり、その強烈さは、浜田の精神的な祖先と考えられるゴヤの版画のように、神秘的なすごさを感じさせるまでになった」と。
さらに言う。この作者は戦争の恐怖をはじめ、人間社会の私利私欲のありかたに風刺の目を向け、厳格にして、しかも切実な同情心をもって一貫した製作を続けてきた。こうした浜田知明は「世界的な芸術家であり、世界的ということで言えば、時の流れが与える洞察力をもって芸術の歴史が書かれるにつれ、さらに世界が彼を重要な存在とすることは疑いがない」と。
当時、スミス氏と合いながら、私は浜田氏たちとこのロンドンでの展覧会が終了したら、日本で文字通りの全作品による巡回展を開催しないか‥…・と、話し合った。なぜなら浜田版画は、このブリティッシュ・ミーゼアムの個展以前にも、1979年、版画のすぐれたコレクションでもよく知られているウィーンの国立アルベルティーナ美術館や、同じくオーストリアのダラーツ州立近代美術館でも開催され、高い評価を受けていた。このように海外ではすでに注目されていながら、日本ではまだ充実した内容で組織された巡回展などまったく開かれてはいなかったからである。
私たちは完全に「浜田知明の全容」を示す展覧会の実現を考えた。そして東京美術学校在学中の仕事から、最近作までいかにして網羅することが出来るか……。とにかく浜田氏は版画家として世に出るまでは油彩を学んで来た人であり、美術学校を卒業すると、戦時中のことで、間もなく陸軍に召集された。軍務につきながらスケッチを続け、戦後の版画の仕事につながる素描などを残しているが、慎重で、自分にきびしい浜田氏の性格から言って、このような未発表の作品やメモ的な資料まで公開することを承諾するか、どうかも疑問だった。しかし、「全容」としては欠くことができない。私たちの切なる要望を浜田氏は理解して、「浜田知明の全容」展がここに成立することになったのだ。
この浜田知明の版画に初めて出合い、強烈な衝撃と感動を私が味わったのは、1954年のことである。東京・銀座のフォルム画廊で浜田氏は銅版画の個展を開催、<初年兵哀歌・・・風景(一隅)>や<同一(廟)>などともに、<初年兵哀歌(歩哨)>を出品した。この画面は狭く暗い閉ざされた部屋のなかで、痩せ細った二等兵が手にした小銃の銃口を自分の顎に押し付け、左脚の指先で引金をひく。悲惨な自殺の場面だが、この兵士の頭部はすでに白骨化しているようにも思われる。その無気味な、切実な悲壮感が、エッチングとアクワチントによる黒白の画面にまざまざと凝縮されているのである。
浜田氏は1953年の『美術批評』誌のアンケート「あなたは何故そのモチーフを選ぶか」という質問に答えて、こう述べている。「もしも戦争に参加しなかったなら、もしも戦地を踏まなかったなら僕の芸術観はもっと変ったものになっていたかも知れない。然し戦争体験によって、人生観に於いても、作画する態度に於ても、僕はそれと切り離してものを考えることができなくなってしまった」。
浜田氏は1939年、美術学校を卒えると間もなく、熊本の歩兵 第13聯隊補充隊に現役兵として入隊、翌40年には中国大陸の戦線に送られてゆく。この時は43年に兵役満期で除隊。一時は上京して制作生活に入ったものの、1年たらずして、再び召集命令を受け、終戦まで伊豆七島の新島で、本土決戦を覚悟しながら、穴堀りなどの労役に従事した。前後あわせて5年間の軍隊生活、戦争体験だったが、この期間に初年兵として身を斬られるように切実な日々を送ったのである。そのきびしさについて、浜田氏はさきのアンケートの後半に記している。「・・厳重に張廻らされた眼に見えぬ鉄格子の中で、来る日ほる日も太陽の昇らない毎日であった。僕は自殺のことのみを考えて生きていた」。
いずれにせよ、初年兵は軍隊という組織のなかで、もっとも弱い立場にあった。今日流に言うなら、まさしくいじめの対象だった。彼らは下士官や先輩の古年兵たちに、なんの理由はく殴られ、足蹴にされて、それをじっと我慢しなくてはならなかった。まさに非人間的な、理不尽な世界だ。そんなとき、ほっと自分に立ち返ることが出来たのは、狭い便所のなかであり、夜、ひとりで歩哨(監視の任に当たること)に立っている暗くらいだった‥。浜田はそう回想している。そう言えばさきにふれたく初年兵哀歌(歩哨)〉にみる狭く暗い閉ざされた部屋は、明らかに便所にちがいない。
軍隊内部の矛盾と同時に、戦地で繰りひろげられた日本軍の惨酷な愚行・・・「何一つ明るい希望はなかった。いつ果てるとも知れぬ戦争と、納得できぬ戦争目的と、抑圧された自由の屈辱から、自殺への誘惑が 間歇的に(一定の時間を置いて起こったりやんだりするさま) 自分を襲った」と、作者自身この作品にふれて記している。
浜田知明は1917年、熊本県上益城郡高木村(現在の御船町高木)で生れている。父親の高田格次郎は小学校の校長などを勤めた教育者であり、高田家は水田のひろがるこの村の代々の地主でもあったという。そんなわけで、浜田氏の本名は、高田知明(たかた・ともあき)。今日、浜田知明(はまだ・ちめい)と呼ばれているが、それは1944年に結婚した妻、浜田久子の姓と、美術学校時代、タブローに「Chimei」とサインした習慣を一緒にしたからだ。とにかく父・格次郎の家庭教育は非常に厳格で、食べ物 の好き嫌いは言うまでもなく、冬の寒さ、夏の暑さにはまけないたくましい子どもに育てようとしていたようだ。しかし、浜田氏は小学校の上級になるにしたがって、父が買い求めていた『世界美術全集』を書棚から取り出して、図版を見詰めながら、美術の世界に 自然に入ってゆくことになった。中学時代、精神性の強い東洋の美術より、写実的な迫力あるヨーロッパの作品に関心をふかめる。
とくに興味をもったのはイタリア・ルネサンスの画家、アンドレア・マンテーニヤの作品く死せるキリスト〉の図で、大胆な短縮法による人体の描写と、的確な写生の鋭さに感動して、色鉛筆で丹念に模写を試みた。またフランドルの画家ハンス・メムリンクのく聖母子像〉、ドイツのアルブレヒト・デューラーのく四人の使途>・・・など、忘れられない作品だった。
こうして浜田氏は次第に画家を志すようになり、中学2年のころから、図画教師だった富田至誠の指導を受けることになる。この富田氏は、当時の田舎の中学教師としては異色の東京美術学校の卒業生で、油絵を学んだ人だった。浜田氏の中学の先輩には井手宣通たちがおり、この富田先生の熱心な美術教育の成果であろう、地方の中学としては異例にもー時は4人もの美術学校への進学者が出たという。こうした雰囲気のなかで、浜田氏は東京美術学校を目指した。当時もこの美術学校への進学は非常に難しく、入学者のほとんどが中学を卒業してから、1、2年画塾などでデッサンなどの訓練を受けた。浪人3、4年という新入生も珍らしくなかった。そうした中にあって、浜田知明は中学4年終了という若さで1934年に油画科の難関を突破している。私の記憶では中学4年終了で入学した人は、ほとんどいない。
美術学校では、藤島武二に師事した。ところが、この秀才は、ただの秀才ではなかった。たとえば木炭デッサンの訓練のときなど、学生の仕事の欠点を見付けて、自分流にぐいぐい描き直してゆく先生のアカデミックな教育に不満を感じて、師の姿が見えると、教室から逃げ出したものだ。いずれにせよ、浜田氏は学校での指導に反発しながら、友人たちと芸術論を闘わせた。そして自ら自分の歩むべき道を模索する。入学して間はいころはフォーヴィスムに目を向け、やがてキュビスム、とりわけジョルジ・ブラックの仕事に心ひかれる。が、一方ではモンドリアンやアルプの仕事も非常に身近に感じていたようである。研ぎすまされた知性によって簡潔に構成されてゆくモンドリアンの幾何学的抽象の世界、あるいは自然の核心とでもいうべき根源的な形態をのびのびと大らかに捉えたアルプの抽象的な造形・・浜田氏は新しい魅力ある作品に率直に融け込んでいったものだ。
また、シュルレアリスムの仕事にも無関心ではいられなかった。当時、日本では福沢一郎らがシュルレアリスムの流れのなかで大胆な仕事を試みていた。が、軍国主義花やかな時代にこうした仕事は危険思想とみなされ、福沢氏らは一時、検挙、取り調べを受けたものである。自由な美術学校時代の空気にも暗い、重苦しさが入りこんでいた。
前述したように、1939年、東京美術学校の油画科を卒業する。中学4年終了ですぐ入学した秀才が、卒業する時は、「びりから2番だった」という。それは美術の勉強を怠けていたからではなく、アカデミックな教育方針に従わなかったからだ。
卒業制作として浜田氏はピエタを念頭においた画面を描いている。死者を抱く2人を思い切りデフォルメし、色彩は白、黒、緑の3色だけに絞っていた。しかも、卒業制作は80号大という慣習にもかかわらず、その半分の40号の作品だった。異色の作品だったが、これでは高い評価を得られない。卒業すれば、すぐ兵役が待っている時代。彼は卒業後8カ月目に入隊した。不満だった美校生活も、浜田氏にとって、まだ自由が残っていた。志を同じくする仲間たちがいた。
それに比べると軍隊には、自由が全く存在していない。2、30人単位の内務から成るグループ生活で、初年兵たちは追いまくられた。しかも、階級、年功の差ですべての待遇がちがう。軍人勅諭に疑問を抱いていた彼にとって、居心地のよい場所であるはずがない。浜田氏は幹部候補生試験を拒否して、一日も早く除隊することを望んだ。肉体的な苦痛以上に、人間性を無視される精神的な痛手に彼は苦しんだ。
軍隊や戦場での切実な彼の体験について、ここに記すことは省略する。それは戦後の浜田作品がきびしく告白しているからである。1950年の〈初年兵哀歌(芋虫の兵隊)〉からはじまる銅版画のシリーズ・・油絵を学び、卒業後も今回の「全容」展に展示されている<聖馬〉(1944年)からも判るように、シュルレアリスムの世界を感じさせる油絵を制作していた彼が、なぜ銅版画に全力を注ぐことになったのか?・・・それは、色彩を捨て、油絵具を捨てて、もっとも簡潔にして明快なモノクロームの世界に身をおいて、自分の体験に忠実でありたいと願ったからにほかならない。
銅版画については、美術学校時代、<聖馬〉(1938年)というエッチングの仕事を試みている。(ウフィッツィ美術館に収蔵になった浜田知明作品19点を一点ずつ紹介いたします。)銅版画による処女作で、選択科目だった版画の実技として3点制作したそのなかの1点である。しかし、戦後になって再び銅版画を手がけるとなると、判らない点がないわけではない。浜田氏は関野準一郎、駒井哲郎(下図左と右作品・昭和46年)たちの助言を受けながら、独力で銅版画の制作に立ち向った。
≪初年兵哀歌≫シリーズの<銃架のかげ〉(1951年)、〈便所の伝説〉(同)などに見る軍隊組織内部の陰湿さ、<くぐにやぐにやとした太陽がのぼる〉(52年・下図左)や<風景>(同・下図下段)などに描かれた戦場での強烈なイメージ <初年兵哀歌>は軍隊や戦争それ自体が本質的にかかえ込んでいる愚かしさにたいする人間・浜田知明の良心からの訴えとなっている。
こうした切実な訴えは、<絞首台〉(1954年・上図右)や <刑場>(A)、(B)>(同)、あるいはく黄土地帯(A)、(B)〉(同)などへと展開されてゆく。軍隊、戦争が与えた日本人への傷痕は、戦後における香月泰男の油絵≪シベリア・シリーズ≫(下図左・右)とともに、浜田知明の作品群によってこれからも多くの人びとの心に深く刻まれてゆくに違いない。
浜田知明は、軍隊、戦争への抗議と同時に、戦後の社会情勢を見詰めながら、常に「これでよいのか」といった反省に駆り立てられた。人間世界のどうしようもない思しさが、ある時は悲劇として、またある時は喜劇として、彼の目に見えてくるが、作品として描き上げるのは容易ではない。しかし、その思いが新しい仕事に結びついたのは、1956年の<よみがえる亡霊〉(下図)の仕事だった。
戦争放棄を宣言したはずの日本が、1950年の朝鮮戦争以来、急速に変化しはじめる。警察予備隊が設けられ、海上保安庁の人員が増加され、さらには公職を追放されていたかつての職業軍人たちが、この予備隊に復活してくる。軍国化への危険を感じた浜田氏は、どうしてもこの動きに異議の発言をしなくてはいられない。<よみがえる亡霊〉は、その怒りの声だった。