初年兵哀歌

初年兵哀歌

「初年兵哀歌」が語るもの 

   濱本 聴

 自らの戦争体験を描くことは、どんな画家にとっても容易であるはずがない。画家はそこでは単なる目撃者でもレポーターでもなく、渦中の人物のひとりだからだ。画家は描くものであると同時に、描かれるものでもなければならない。もちろん自分の姿をそこに描く描かないという意味ではない。自分が渦中にあったものとしての戦争を描くということである。場合によっては告発するものとされるもの、裁くものと裁かれるものといいかえてもいいだろう。この二律背反する局面に立たなければならないことが、いわゆる戦中の「戦争画」と戦後のそれと分ける最大の違いである。いわば戦中の「戦争画」は、戦争という事柄を描いたものであったのに対し、戦後のそれは戦争という体験を描いたものである。

1952少年兵哀歌 1951初年兵哀歌・銃架のかげ 1950初年兵哀歌芋虫の兵隊 1941戦地のスケッチ中原会戦 1941戦場スケッチ 197p 45p ha0102 Flight1958 ha0102 ha0103 ha0104

 「戦いの絵」と「戦争によって生じた出来事の絵」の違いである。内的な理由がまったくないとはいえないにしろ(そして外的なものの蔓延を許すのは内的なものの責任でもある)、戦中の画家たちは多くの場合、外的な事情によって「戦争画」を描かなければならなかった。一方戦後の「戦争画」はまったく内的な理由によって画家自身が描かずにはおれないものであった。目的においても作家の主体性においても、両者はまったく性格と次元を異にしている。

 ここでは戦中の「戦争画」の特殊な無思想性についてあらためて述べるつもりはない。むしろ戦後美術の中で「戦争体験」がどのように取り上げられ、そして本展の浜田知明の《初年兵哀歌≫をはじめとする作品が、戦後美術の中でどのような意味を持ち得るのかを考えたい。

 日本の戦後美術を概観したとき、直接の戦争体験を描いたものが意外に少ないことにあらためて驚かされる。社会の矛盾、不安を描いた作品は1950年代を皮切りに少なからず目にすることができるにもかかわらず、体験としての戦争を描いたものは敗戦直後に一陣の嵐のように登場して去っていった。もちろんその後も戦争体験を描き続ける画家は少なからず存在しているに違いない。しかしそれらは戦後美術史の表舞台にはほとんど登場してこないのである。それは、戦争体験の世代的なものと同時に、画家の中にも、戦後美術史を形成する美術批評の中にも、戦争体験を描くことを通過儀礼のように済ませている意識が働いているのではないかとさえ思わせる。美術の分野でも、時代は後ろよりひたすら前を向いて進むことを促し続けた。

 「戦争」というテーマを描くことよりも、一方で造形の可能性の追求と、他方では社会一般の諸問題への美術からのコミットが、入れ替わり凌(しの)ぎを削り続けた。過去の体験的なテーマを描くということは、その中では使命を終えたかに見えるのである。しかし本当に過去の体験は吸収され、客観化されたかといえば、誰しも心許無いに違いない。「むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに『止揚』されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである」(丸山真男「日本の思想」)という日本の「伝統的」な感覚的対処の仕方がここでも当て嵌(は)まるなら、社会一般の諸問題を問う姿勢の裏付けも心許無いものに見えてこざるを得ない。 私たちは幾人かの戦争体験を描き続けた画家を知っている。原爆を基点に戦争の悲惨さを描き続けた丸木位里、俊。シベリアでの2年間の抑留生活をライフワークとした香月泰男・・・…。丸木夫妻の作品は、抗議の姿勢とその対象が明確なので、ここではあえてやや複雑なこニュアンスを含んでいるようにみえる香月の作品を比較の例に取り上げてみたい。

 香月泰男は1950年代から約20年にわたって《シベリア・シリーズ≫57点を描き続けた。それは周知のとおり、敗戦後のシベリア抑留体験にもとづいたものである。そこには極寒の地での過酷な時間の中で、無念の死を遂げたものたちへの鎮魂とともに、生きる僅かな支えともなっただろう故郷や家族への痛切な情念と驚異的な自然への感動が記されている。それは戦争そのものというより、人間と自然、あるいはヒューマニズムというものに裏打ちされたものだといえるだろう。香月の表現は必ずしも直接的ではない。さらにモチーフの意味的表現だけでなく、以前から探り続けていた日本的油絵の自分なりの確立という造形的実験もそこで行われていたと考えられる。だから思いがけずもシリーズとして続くようになる間に、モチーフの意味を明確にするための言葉を付ける必要も生じたし、そういう粋が与えられることで逆に20年もそれは続けられたのである。

 一方、浜田知明の《初年兵哀歌≫が描かれたのは1978年の<初年兵哀歌(檻)〉をのぞけば、わずか5年あまり、そのタイトルが付けられた作品は15点に過ぎない。そして表現は香月の場合に比してはるかに直接的である。少なくとも描かれているものの意味をある程度理解するのに言葉の説明はいらない。そこでは体験が具体的かつ批判的に描かれるためにモチーフの枠は狭くならざるを得ず、継続は繰り返しに過ぎなくなるとさえいえるだろう。しかし浜田は自分の個人的な体験(モチーフ)が、それとは別なところで普遍的な批判的視点を含んでいることを承知していたはずである。だから画家はモチーフの限界を超えて、シリーズを打切り人間社会一般への批判へとそのテーマを拡張していったのである。浜田の仕事は≪初年兵哀歌≫を頂点としてそこに尽きるという見方もある。確かに《初年兵哀歌≫は、以後の仕事に比べモチーフの切実さにおいてはるかに訴求力に優れている。それは比類のない緊張感に満ちている。しかし一見「肩の力を抜いた」ように見える以後の作品が、《初年兵哀歌≫の延長上にあるという意味で、限定されたモチーフの中では語り続けられないものを、いかにより広く一般化して語り続けるかという作家の苦闘の深化を示すものであることも忘れてはならないだろう。

 私たちは《初年兵哀歌≫を見るときに、その題名に捕われ過ぎてはいけない。実際にはシリーズの中でも初年兵そのものをモチーフにしたものはそれほど多いわけではない(もちろんすべてが一兵卒である画家自身の眼を通した光景であるにはちがいないが)。画家自身がいうように、その題名はあとから便宜的につけられたという性格を多分に含んでいる)。最初にその題名がつけられた1954年の《初年兵哀歌(歩哨)≫は、シリーズのなかでは最後の年の制作である。画家は続けるためにではなく、区切りをつけてまとめるためにシリーズとしてのタイトルを冠した。初年兵としての体験へのこだわりを描くことのみが画家の課題であったわけでなく、それらは戦争という不条理の中で体験されたものの一端に過ぎない。たとえ画家の出発が軍隊という理不尽な社会での体験への抵抗であったとしても、その体験のうちに終始するのであれば、戦争そのものはほとんど一般社会の出来事と同程度にしか見えてこないだろう。

 それにしても1952年のく初年兵哀歌(風景)〉のような作品がなぜシリーズに入れられたのだろうか。このショッキングな(しかし現実にしばしば起こり得たはずの)光景にそのタイトルを重ねるとき、画家の痛烈なアイロニーを感じずにはいられない。それに比べく風景〉2点(1954)や<假標〉(仮のめじるし)(1954)の、まるで焼き鳥か百舌(モズ)のえさになった蛙のように串刺しにされた犠牲者の描写は戯画的にすらみえる。前者がシリーズに入れられて後三者が入れられてないということは、先程述べたシリーズ化が、区切るためであって継続するためではないということにもよるだろうが、絵の中の画家自身の位置が情景と一定の距離を持ち始めていることにもよっていると考えるべきである。ある距離を置いた地点から現実を腑撤するという意味において、それらは象徴主義的ですらある。画家はその絵の中のどこに位置しているのだろうか。<初年兵哀歌(風景)〉の画家は〈初年兵哀歌(歩哨)〉よりも〈風景〉や〈假標〉に近い位置にいる。〈初年兵哀歌(風景)〉は個人の体験としても直接的衝撃をとどめながら、同時にアイロニカルに距離を置こうとする画家の展開の狭間にある作品ではないだろうか。画家は決して個人を一般化しない。展開の上でテーマを一般化せざるを得ない経過の中でも、個人としての体験に向きあっていることを画家はここに示しているように思われる。

 画家の仕事の上で「初年兵」(「哀歌」という部分ではなく)とい言葉にこだわるなら、その言葉の持つ意味は、一兵卒として自分がその中に属しているという現実を示していることにある。その絵が衝撃的なのは、観念的に情況の背景が切実であることを示しているからではない。描いている画家自身が表現の中で、描かれるものとしても身を晒(さ)しているからである。画家が描いているのは、戦争の悲惨さやその責任の所在、抗議、あるいは鎮魂、苦悩というようなものではない。いうならば自らを含めた人間存在の弱さである画家は裸になった人間の弱さを描くことで集団的無意識が許容、助長する戦争というものの本質を描いているのである。それはゴヤが《戦争の惨禍≫で人間の愚かさを決りだして見せたように、逃げ場のない現実として私たちの前に晒されているのである。 浜田知明の表現はテーマ性という点では古典的といってもいいかもしれない。画家自身ももちろんそのことを意識した上でこう語る。「近代絵画は主題を捨てた。だが主題があるから、芸術の価値が減少することは断じてない。人間は社会的な存在だ。だから、私は社会生活の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対面したいと思う」画家の言葉を待つまでもなく、近代主義の中のフォルマリズムだけでは現実の事象を捉えきれないことは、あのピカソの〈ゲルニカ〉が示しているではないか。見るものに訴えることが伝わらないなら訴えはむなしいし、感性の麻痺した常套的な言葉を繰り返すだけなら本当の衝撃は伝わらない。現実に飲み込まれて古びていく言葉の力を回復しようとしてきたのが近代以降の表現の道程であったことはいうまでもないが、新しい言葉で何を語ろうとするのかを常に忘れないでいる努力が同時になされてそれは意味を持つものであろう。ひとりの芸術家の中で、両方が十分に成されることは現代においてはきわめて困難である。私たちは正直なところ現代美術のもっとも優れた部分でさえ、その直接に伝わらないもどかしさのために解説を必要とするのである。解説を邪道と言う人はいない。同じようにテーマを掲げて真正面から人々に訴えかけることを現代美術の中で誰が排除できるだろうか。それはいわば車の両輪のようなものではないだろうか。浜田知明は少なくとも一方の車輪の意味を重い鎖を引き摺って問い続けているのである。 香月泰男が≪シベリア・シリーズ≫の画家という世評に後押しされた部分を差引いてもなお、根本的に自らの体験を引き摺ることから終生逃れられなかったと同様に、浜田知明もまた《初年兵哀歌≫というレッテルを貼られたことにとまどいながらも、自らの体験にどこまでも誠実であろうとし続ける。モチーフは変わっても、重要なのは体験やテーマをどれほどの重さで引き摺り続けるかであろう。戦争体験を戦後の美術史の史実に位置付けて済ますのではなく、丹念に見直せば戦後から現在までの作品の中に、それとは見えない外見をとりながら、もの言わぬ苦悩を秘めた作品が少なからず見出せるはずである。直接的なモチーフによってそれらの代弁者にされた浜田知明の作品は、自分を過去の体験の中に縛り付けることで「自覚的に対象化されない過去」を対象化することへと見るものを促し続けるである

(下関市立美術館学芸員)

1)「作品に《初年兵哀歌≫の題名をつけたのは1954年(昭和29年)の<初年 兵哀歌(歩哨)〉が最初である。その後、以前の作品のうちタイトルにふさわしいものを《初年兵哀歌≫のシリーズにした。」(浜田知明「聞き書きシリーズ:人と時代を見つめて(45)」『西日本新聞』1995年7月29日)「《初年兵哀歌》という題名をとりれたのは、ほんとうにそういう題名だったかどうか知らないんですが、兵隊がよく歌った歌がありました。(中略)その歌の題名が『初年兵哀歌』だって教わったもんですから。別にシリーズをつくるつもりじやなかったんですが……(後略)」(『みづゑ』1972年7月)

2)同前「人と時代を見つめて(58)」『西日本新聞』1995年8月11日)