■いわさきちひろ
1918年、雪の降る師走の朝にちひろは三姉妹の長女として武生町橘で生まれた。岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオや蓄音機、オルガンなどのモダンな品々があった。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っている。こども向けの本も多くあったが、それらはちひろの気に入るものではなかった。ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれた。ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。
ちひろの入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などをこなした。距離を選択することのできる適応遠足では最長のコースを歩くのが常だった。女学校教師だった母・文江は1926年(大正15年、昭和元年)、ちひろ7歳の時に第六高等女学校に勤務している。
女学校2年(14歳)の3学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。
18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めた。ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。
1939年(20歳)4月、3人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れず、婿養子を迎えることになった。相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方ではどうしても好きになれず、形だけの結婚であった。6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、翌年に夫の自殺により帰国することになった。ちひろは二度と結婚するまいと心に決める。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。再度習い始めた書の師、小田周洋は絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家をめざした。
1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。両親は戦後、同県北安曇郡松川村に開拓農民として移住した。
ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦翌日から約1か月間にここで書かれた日記『草穂』が残されており、「国破れて山河有り」(杜甫の詩より)の題でスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。
▶︎松本善明との出会いと画家活動
1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。
東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をした。
画家としての多忙な日々を送っていたちひろだったが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった。結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。
1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。1951年4月、ちひろは長男・松本猛を出産するが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難であった。6月、2人はやむを得ず信州松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通った。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る。初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子どもが生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらったという。ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。
善明は、1951年に司法試験に合格し、1952年4月に司法修習生となる。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。善明は1954年4月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などにかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。
善明によれば、まだ司法修習生だった1954年、自宅に泥棒が入って私信(秘密の知らせ)を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、家政婦として住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、ちひろの家族のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出した、と語る出来事などがあった。一連の出来事は陰湿なスパイ事件であったが、ちひろは沈着冷静に対処していたと回顧している。
1963年、善明は日本共産党から衆議院議員(東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選した。ちひろは画家、1児の母、老親の世話、大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる[5]。
▶︎童画家活動
1940年代から1950年代にかけてのちひろは油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主だった。1952年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずちひろに自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、1954年には朝日広告準グランプリを受賞した。
ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからもおよそ20年間つづいた。1956年、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作、これが初めての絵本となった。『こどものとも』では同じく小林の文で『みんなでしようよ』も。
この頃、ちひろの絵には少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき、などの批判があり、ちひろ自身もそのことに悩んでいた。1963年(44歳)、雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当することになったことが、その後の作品に大きく影響を与える。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはそれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をした。
1962年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。1964年、日本共産党の内紛で、ちひろ夫婦と交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始める。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている。当初は2色もしくは3色刷りだったが、1969年にカラー印刷になると、ちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになった。この仕事は1974年に55歳で亡くなるまで続けられ、ちひろのライフワークともいえるものであった。
ちひろはハンス・クリスチャン・アンデルセンに深い思い入れをもっており、画家として自立するきっかけとなった紙芝居『お母さんの話』をはじめ、当初から多くの作品を手がけていた。1963年(44歳)6月に世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦では異国の風景を数多くスケッチし、アンデルセンへの思いを新たにした。さらに1966年(47歳)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたちひろは、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母・文江とともに参加し、その念願を果たした。この時、ちひろはアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残した。2度の海外旅行で得た経験は、同年に出版された『絵のない絵本』に生かされた。
1966年、赤羽末吉の誘いで、まだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入して山荘を建て、毎年訪れてはここのアトリエで絵本の制作を行うようになる。
当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていた。至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけた。2人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組んだ。そして1968年『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作した。中でも1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。
また当時、挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代であった。挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般であったが、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開した。
ちひろは「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていた。1967年『わたしがちいさかったときに』は稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文にちひろが絵を描いて出版されたものである[11]。1972年、童画ぐるーぷ車の展覧会に「こども」と題した3枚のタブローを出品した。これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973年の『戦火のなかの子どもたち』がちひろ最後の絵本となった。
1973年秋、肝臓ガンが見つかる。1974年8月8日、肝臓ガンのため死去した。