荒川沖の歴史ヒストリア
■「荒川沖」
荒川沖宿の由来は、水戸街道が慶長九年に開通したとき、
荒川本郷から移住した有力農民七戸が街道沿いに宿場を形成したのが村の起こりで、
いわゆる荒川沖宿で水戸街道二十宿の一つである。
この駅は茨城県土浦市にありますが名前の元は隣町の「稲敷郡阿見町荒川本郷」と関係があります。
江戸時代以前、この一帯は「荒川野」と呼ばれていました。
これは川(実際は乙戸川や霞ヶ浦と牛久沼)が頻繁に氾濫していた為一帯は年中水に浸かっていました。
この様子から「荒れる川の野」「川に荒らされた野」と言われたのが始まりらしいです。
その「荒川野」を沖に見る地区が現在の「荒川沖」です。
江戸時代には水戸街道の宿場町となっていました。
年中川が氾濫する地区を避けて街道が通っていたためです。
駅名はここから付けられたとされる。あるブログより検索する。
荒川沖の今昔
■"荒川沖"名前の由来
荒川沖は、阿見町荒川本郷から分かれた集落で、荒川本郷から遠くに見えるところから“荒川の沖”
(沖:遠いところの意味)と言われ、水戸街道の歴史と共に歩んで来たところである。
■水戸街道と共に栄えた庶民の宿場
もともと水戸街道は、鎌倉街道の脇街道として、水戸道中とか江戸往還などと言われる細い道が通っていたが、
徳川家康が江戸幕府開設早々の慶長九年(1604)7月から同14年12月にかけて、直轄工事でまっすぐに改修したものである。
荒川沖と牛久間の改修については、牛久藩主山口重政がその任に当たり、完成後慶長15年11月荒川道取締りのために、
領内の信田郡荒川村(阿見町荒川本郷)の有力農民7戸を選んで、ここに移転させ、藩の役人の下で街道取締りに当らせた。
そして街道用務の増大に伴って、領民を張りつけた。
寛永8年(1631年)の記録では、宿戸数は40戸になって、街道の宿駅村落としての形態が形成されたという。
荒川宿はかくして、その名を正式名称としたが、当時の書付をみると、沖村、荒川村沖荒川村などと書かれており、
一般的には荒川宿で通用していたのである。
その荒川宿は、いわゆる殿様が宿泊する陣屋宿場でなく、牛久陣屋宿場>と中村陣屋宿場>の中間にあたる
「継立宿場」としてもっぱら庶民の宿場であった。
発展してゆく宿場
- 荒川本郷から移転した農民は初め、開拓農耕のかたわら、公的交通の用務に従事していたが、往還の増加に対応して、商いにも精をだすようになり、 旅籠や灯油、灯心を油屋、そば屋などの店を開く者も多くなり、宿場らしい雰囲気をつくっていった。 ところで荒川宿の継立問屋は、代々名主の川村八宗治家が継いでいたが、その継立区域は、 上りは牛久本陣までの一里三十三町、下りは中村宿二十四町までの間であった。 往還は公的な場合は馬とか籠であったから、宿駅の問屋では、乗馬10頭とか籠3挺、 それに荷担ぎ人足25人というように、常時備えておかなければならなかった。 文政5年(1822年)の記録でみると、荒川宿を通った諸大名は、津軽、松前、南部、仙台、秋田、 水戸、土浦藩など22藩におよんでいるが、特に関東の大名は、2月と8月の半年交代が例であったから、 問屋の仕事は他の街道に比べて忙しく、且つ気遣いが多かったと言われている。 また、街道宿には、旅籠や女郎屋がつきものだった。藩でもこれを半ば公然と認めていた。 だから荒川宿の夜は軒行灯の灯色を映らせて、遊女屋から流れる三味線の音や酒盛りのざれ唄が、 そこかしこに聞こえて「女なくして何の道中かなし」といった、宿場独特の情緒で夜が明けたという。 一方、近辺で農業を専業とする者も、農業の合間には問屋の荷担ぎ人足や宿場雑務に雇われ賃金を得たので、 他村に比べて経済的に恵まれていた。半面宿場特有の女と酒、賭博に身を持ち崩し、先祖伝来の田畑を失う者もいたという。 宿通り(荒川沖派出所から西一丁目)の佐野屋、二六屋、荒井屋、おおぎ屋 松屋、岡本屋、鶴屋などの屋号は、そうした往時の繁昌した宿場商店の名残りである
荒川沖宿とは 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
- 荒川沖宿
- 荒川沖宿の現代地図に旧水戸街道の道筋を重ねた地図。 荒川沖宿(あらかわおきしゅく)は、水戸街道の、千住宿から9つ目の宿場町。 概要 [編集] 現在の茨城県土浦市荒川沖西にあたる。宿場町は南北に数百メートルの範囲で広がっていた。 小さな宿場町で、本陣は置かれていなかった。宿場町としての役務は隣の牛久宿と分担して行っており、荒川沖宿のみで完結したものではなかったという。正規の宿場町ではあったものの、継ぎの宿という位置づけであったとされる。 周辺 [編集] * 八幡神社 - 八幡神社系列の神社。宿場町の南端はずれにある。 * 荒川沖天満宮 - 天満宮系列の神社。 * 鶴町醤油 - 醸造業者。 * 茅葺の商店建築 - 2007年12月現在、旧道筋に2棟の大きな茅葺の民家が現役建築物として残されている。ひとつは元旅籠の「佐野屋」であり、もうひとつは商店として使われている「鶴町たばこ店」である。 隣の宿 [編集] 牛久宿 - 荒川沖宿 - 中村宿 * 牛久宿~荒川沖宿は二里(約8キロ)。 * 荒川沖宿~中村宿は一里(約4キロ)。