ユートピアをデザインしたステンペルク兄弟

グノストファー・マウント[ニューヨーク近代美術館学芸員]

 ロシア構成主義のアーティストはその多様な技術をグラフィック・アートに応用することに成功したが、その中でもステンべルク兄弟(ウラジーミル・ステンべルクとゲオルギー・ステンべルク)はおそらく最も知名度が低いといえるだろう。

Stenbergs

 しかしながら、彼らは1920年代から30年代初頭にかけて、モスクワを中心として盛んであった構成主義運動の主要なメンバーであった。ステンペルク兄弟は様々な方法で多数の作品を制作したが、当初構成主義の彫刻家として名声を博し、後に舞台デザイナー、建築家、グラフィック・デザイナーとしても成功した。また彼らは列車の車体から婦人靴に至るまで、幅広くデザインの仕事を行った。しかし、彼らが最も注目すべき成功を遂げたのはグラフィック・デザインの分野、とりわけ当時ソヴィエト・ロシアにおいて新たに芽吹いていた映画のために作られた広告ポスターのデザインにおいてである。

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 これらの映画ポスターは、新しい共産主義国家が利用しうる最も重要なアジテーション(煽動)の道具である映画と、グラフィック・アートの二つを合わせたものであった。映画とグラフィック・アートは共に国家により保護され、ポリシェヴィキ政権の最初の15年において盛んになったものである。識字率の低い国家において、単にプロレタリアートを楽しませるためと、また彼らを新たな社会的階級に転換させるためにも、映画は決定的な役割を果たした。グラフィック・デザインは特に政治ポスターに用いられる際、その直接性と経済性からアジテーションのための非常に有用な道具であった。映画とグラフィック・アートの共生関係は結果として革命的な新しい芸術形態、映画ポスターを生み出した。これらの創造性に関していえば、当時のレベルを越えるものは以降まったく見られない。

 ステンべルク兄弟の映画ポスターは1923年から33年ゲオルギーの早すぎる死まで制作されたが、それらはロシア・アヴァンギャルドの哲学的、形式的、理論的要素の非凡なる統合を表現している。これらのポスターは現在の視点から見ても急進的であるが、エキセントリック(普通のものとひどく変わったさま。風変わりなさま)な芸術的創造性の性急な情熱による成果ではなく、むしろステンべルク兄弟自身の折衷主義的経験により考え抜かれた上のものであった。彼らの現代映画理論、シュプレマティスム絵画、構成主義、アヴァンギャルド演劇の深い知識と、またグラフィック・アートの素晴らしい技術がなければ彼らの作品は生み出されなかったであろう。

 スウェーデン人の父とロシア人の母のもとモスクワで生まれたステンべルク兄弟、すなわちウラジーミル・アウグストヴィッチ(1899年生)ゲオルギー・アウグストヴィツチ(1900年生)兄弟の絆は初めから並はずれたものであった。彼らは全てのプロジェクトを共有した。ウラジーミルは生来的な気質としてより分析的、ゲオルギーはより芸術的であるとよく言われるが、ポスターをデザインする際、彼らは共同で作品に取り組み、締め切りに間に合うよう代わる代わる作業を進めた。1923年以降は全ての作品に「2ステンべルク2」のサインをし、意図的に共同の制作物であるという印象を付与し、社会主義国家という新しい精神の呼びかけを行った。

 ロシア革命が起こった際、彼らは十代であった。革命という途方もない可能性にかりたてられ、この兄弟は純粋芸術と応用芸術の関係における根本的な変化を熱心に採り入れ、自由に実験を行った。この新しい社会が成功するためには、芸術は日常生活に取り込まれなければならない、つまり大衆の要求に応じるものでなければならないと信じていた。ステンべルク兄弟は他のアヴァンギャルド芸術家(アレクサンドル・ロトチエンコ、エル・リシツキー、グスタフ・クルツィス、ウラジーミル・タトリン)と共に、具象絵画を古めかしくブルジョワ的で、結局は共産主義国家にとって不必要なものとみなし否定した。これらの若い芸術家にとって芸術の価値は、今やコミュニティーにとっての有用性であると位置付けられていたのである。

 1920年代およぴ30年代は、ヨーロッパ全土においてもグラフィック・アートの革命が起きた時期であった。グラフィック・デザイナーの制作方法に劇的な変化がおこったのだが、それはつまりダダイストによる美術と応用美術における実験の直接的な影響を受けたものである続いてドイツの主にバウハウスに参加していた芸術家により作品が作られ、そしてロシア構成主義が出現した。彼らの持つ新しい概念の特徴は、旧来の挿し絵的手法から集合的で断片的な表現方法へと規準を変化させたことである。

 ステンべルク兄弟が初めて映画のポスター制作を行った1923年、映画は既に重要な芸術形態の一つとなっていた。国家からの援助の増加に伴い、映画制作は急激に成長した。ウラジーミルは映画ポスターの重要性を説く。「映画ポスターは我々若いアーティストを惹きつけるものであり、革命的なアイデアを表現する無限の可能性、広いテーマ範囲をもっている」。ステンべルク兄弟は映画ポスターの革命を行ったが、まずはじめに彼らは映画宣伝の方法に関する概念を見直した。最も多く用いられた一般的な方法(今なお一般的であるが)は、スターを中心として映画の物語シーンを描くことであった。それに対してステンべルク兄弟は映画の全体的な雰囲気とフィーリングを捉えようとしたのである。映画から取り出した断片と部分から、彼らが直接受けた印象を再び創り出し、モンタージュの同時性を用いて物語の展開を強調するのである。つまり、ステンべルク兄弟のポスターそのものが何かを暗示しているものであり、細かな、色々なサインで構成されている一つの寓意のようなものである。

 この新しい効果はフォトモンタージュの技術(細切れの写真画像を組みあわせ、合成画を作り出す)を変化させることにより得られたものであり、当時の急進派の前衛芸術家が採用した方法である。ステンべルク兄弟はフォトモンタージュの技術を使用したが、その素材そのものは(少なくとも直接的には)使用しなかった。複製されたポスターの元となる最終的なイメージは、実際の写真の断片ではなく、写真を倣ったデッサンの断片により構成されている。これは写真の「マジカル・リアリズム」を装い、あたかもフォトモンタージュのように見せている巧妙な手法である。初期のソヴイエトでは単なる写真画像の製作はまだ困難であったが、様々な面においてこの技術的制限は、各要素の組み合わせを自由にし、且つ容認しているので、リシツキーやロトチエンコのフォトモンタージュに見られる味気なさというものが回避されている。ステンべルク兄弟は優秀なイラストレーターであり、彼らはその特性を効果的に活用した。彼らのポスターが宣伝している映画は白黒であったが、実際の写真を使う代わりにデッサンを用いることで、彼らは自由に色彩の実験を行うことができたのである。当時の作品としては例のない人工的なトーンをもった彼らの色使いは、ポスターをますます生き生きとしたものにしている。

 強大なソヴィエト国家を作るためには、工業とテクノロジーが必要であるということを痛感していた兄弟は、機械と近代的な超高層ビルを繰り返しモチーフとして用いている。実際に、彼らのどのポスターにも自然の世界はほとんど描かれていない。彼らの技術上最高のものをもう一例挙げれば、ブロック体のサンセリフ活字体があり、これはほとんど独占的にステンペルク兄弟によってのみ使用されたもので、ある種の合理性を示唆しているものである。広告は明快さが何よりも重要である。しかし、書体の読みやすさは作品そのものをつまらないものにしてしまうとは限らない。それどころか、ステンべルク兄弟のタイポグラフィーの使い方は躍動的かつ革新的である。彼らの全てのポスターには明らかに遊び感覚と実験精神が見受けられる

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 ときにユーモラスで、セクシーで、しかも心理学的には複雑な様相を呈しているこれらのポスターからは、依頼する側の映画スタジオや、やがて全体主義体制となるであろう当局の要請にとらわれず、それ自体の独自性が表現されている。使われているグラフィックの処理は多種多様であることは意義深く、それらは映画そのものに対しての大胆な個人的表現を示し、また純粋な思い入れをも示している。ステンべルク兄弟は明らかに映画との関わりを楽しんでおり、しばしばカメラマンとして、また役者としてさえも仕事を申し込まれていた。彼らは飲んだくれたり、バイクでの暴走を楽しむ“アウトロー”のように全く自由な精神の持ち主だった。スウェーデン移民の息子として彼らは自分たちの祖国でも外国人のままだった。ゲオルギーの生前は帰化することを兄弟とも拒否し、共産党具にもならなかったが、皮肉にも国家のために多くのプロパガンダ作品を制作した。

 1933年10月15日、モスクワでバイクに乗っていたゲオルギーがトラックに正面衝突し、後部座席の夫人は助かったが彼は死亡した。ウラジーミルの娘ヴィクトリアによると、自分の父親は1982年に亡くなるまで「あれは事故ではなく殺人事件であり、ソヴィエトの秘密警察KGBの陰謀だ」と主張していたというにも関わらず、ウラジーミルは1964年まで続いた赤の広場のデザイン主任への任命も含み、国家の依頼を受けつづけた。彼は他にも様々なプロジェクトを完成させ、また映画のポスターのデザインも続けた。しかし、これらのポスターは弟と制作していた1920年代ほどの高い芸術的成果を挙げられなかった。しかし、これをゲオルギーの死のために兄弟の芸術的才能の多くが失われたのだと考えるのは誤っている。むしろ、1934年にスターリンが構成主義の実験を終焉させ、それに代わるプロパガンダのための新たな公の様式として、社会主義的リアリズムの認定を宣言した結果であろう。

 ステンべルク兄弟の映画ポスターは、リシツキーやロトチエンコなどの一般的によく親しまれているグラフィック作品と比較すると、構成主義のもう一つの型を提示する。彼らのポスターは、1920年代のソヴィエト・ロシアのアートとデザインの多くの哲学的、様式的要素を基盤としている、最大の影響は映画によるものである。映画は確かにポリシェヴィキ革命において重要な役割を果たしたが、ステンべルク兄弟のポスターは、リシツキーやロトチエンコのポスターが持っている“ユートピア”社会に役立つための新しい視覚言語の創造性はあまりみられない。むしろステンべルク兄弟は現代の芸術と理論の枠組みの中で、映画の視覚的実体の忠実な描写を強調したのである。結果として彼らの作品は、ドラマの構成要素、人間の経験・恐怖、パトス、ユーモアそしてセクシャリティーまでをもより重要視したのである。

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 ポピュラーな分野にもかかわらず、これらの作品はデザインの歴史において革命的であった。ステンべルク兄弟の数々の革新・映画ポスターの本質の再考、作品を暗示させる動的効果の導入、タイポグラフィーと色彩の効果的な使用、スケールとパースぺクティヴの歪みの多用−はほかのデザイナーや運動により後に研究され広がった。彼らの作品は70年以上経過した今もなお、独創的且つ革新的で、さらには革命的である。