日本に紹介されたロシア・アヴァンギャルド美術について

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井関正昭[東京都庭園美術館長]

 ロシア・アヴァンギャルドとは何か、あるいは何であったかを問う前にロシア・アヴァンギャルドという呼称について私なりにちょっとこだわってみたい。というのは、ロシア・アヴァンギャルドは1900年から1930年までロシアで開花した芸術運動でその中に未来派、構成主義、シュプレマティスムなどそれぞれ様式は異なるものの、いずれも従来の伝統的な写実主義を離れた多様な前衛(アヴァンギャルド)芸術の総称とされ、しかも1930年以後スターリン体制のもとで封印されていたのが、近年とりわけソ連邦の解体後、解禁によってわれわれの目にその素晴らしさが認識されてきた、これがロシア・アヴァンギャルドの一般的見方である。つまり同時代の西欧のアヴァンギャルド、すなわち立体派、未来派、ダダイズム、シュルレアリスムがそれぞれの主張や理念を明白に集約させた性格をもっていたのに比べ、ロシア・アヴァンギャルドはあくまでも後世の人たちによって決められた一つの総称であった。フランスではそれぞれの前衛運動を総称してフランス・アヴァンギャルドという呼称は与えられていない。イタリア・アヴァンギャルドという呼び方もない。

 ただソヴイエト時代にロシア・アヴァンギャルドという名称はその運動の担い手によっても同時代のマスコミにも一度として用いられたことはないというのは興味深い。結局われわれは、ロシア・アヴァンギャルドが革命の前後30年間に美術の上で前衛の意味を全うしたにかかわらず、それ以後の全く抑圧された自由に対する反発と反省が強烈であった反動としての呼称と考えてよいだろう。何かカリスマ性のある呼称である。

■ロシア・アヴァンギャルドとはそもそも何だったのだろうか。

 「1917年の社会的な事件は、素材、ヴォリューム、構成が芸術の基礎におかれた1914年のわれわれの芸術において、すでに引き起こされていた」とタトリンは書き、革命より早い時期にアヴァンギャルドの先駆けがあったことを証言している。また「立体主義と未来主義は1917年の政治的経済的生活における革命を予告する芸術の革命的な様式であった」と述べたのはマレーヴイチである。タトリンと同様ロシア・アヴァンギャルドの正しい予告だったといえよう。

 ロシア・アヴァンギャルド自身の広範な紹介はこの図録でもよい論考があるので、ここではロシア・アヴァンギャルドと日本との関係、とくにロシア・アヴァンギャルドが日本にどのように紹介されたかに触れてみたい。

 最初にロシア・アヴァンギャルドの時代、1900年から1930年までの日本の美術の状況とそこにロシア・アヴァンギャルドがどのように挿入されたかが問題であろう。近代日本美術における前衛の展開についても少なからぬ叙述が必要だが、前衛と理解できる年代としては、大正期から昭和初期にかけてつまり1920年代から同30年代にかけて美術の分野に誕生したプロレタリア美術を含む一つの傾向を日本のアヴァンギャルド美術といってよいだろう。ちょうどロシアにおけるロシア・アヴァンギャルドの生成発展の時代と重なる。しかし同時代的なアヴァンギャルドの生成とはいえ、両者の基本的な美術の背景が全く異なっていたのはいうまでもない。

 第1次世界大戦の参加で漁夫の利をしめた日本の資本主義の成長はこれを機会に市民階級に新しいデモクラシーの要求が起こり、さまざまなイデオロギーが生まれ、これを基本に美術思想としての各種の前衛運動やプロレダノア美術が生まれたといっていい。前衛運動としては立体派、未来派、ダダ、表現主義、構成主義、シュルレアリスムと呼ばれるフランス印象派以後ヨーロッパに誕生したすべての新しい前衛の運動を輸入してかなり自由に解釈していた。つまりこれらの潮流は日本においていずれもはっきりした境界はなく、単純に新興美術と呼ばれ自由かつ恣意的に離合して、またそのエピゴーネン(「模倣者、亜流、身代わり」)が生まれたり、同じ一人の画家の探求の過程で前衛に触れたり、前衛から離れたりというケースはヨーロッパの画家よりずっと多いという特徴があった。

 たとえば、日本における未来派についていえば、その輸入と受入れの経緯をみると、この時代のヨーロッパ前衛美術の移植の典型を見ることができる。イタリアで未来派が生まれたのは1909年2月マリネッティのパリにおける宣言を嚆矢(こうし・事のはじめ)とするが、日本ではその3ケ月後という早い時期に森鴎外がこの宣言を「スバル』誌上で紹介した。しかし当時これを注目する者はほとんどいなかった。印象派でさえまだ消化しきれない日本の画家が突然の激しい芸術思想である未来派に関心をしめさなかったのは当然である。

パリモフ-1 パリモフ-2-

 しかし、大正期にはいってヨーロッパの前衛が次第によく知られるようになると、未来派や立体派を自己の芸術思想の中に取り入れようとする者があらわれる。斎藤与里、木村荘八、萬鉄五郎などが個性表現の立場から未来派にかなり興味をもちついで東郷育児、恩地孝四郎、神原泰、木下秀一郎、普門暁たちが未来派へ傾倒しはじめ1920年(大正9年)に神原、木下、普門らは日本国内ではじめて「未来派美術協会」をつくることになる。そしてこの協会の設立で最も注目すべきは、ロシア未来派の画家、ダヴイッド・ブルリューク(1882〜1967)と彼の仲間で同じロシア未来派の一人とされるヴィクトル・パリモフ(1888〜1929)が来日したこと、そして彼らと新興美術運動にかかわった画家たちとの接触と交流である。パリモフという画家の生涯は余りつまびらかでないが、1911〜14年までモスクワの絵画彫刻建築学校で学び、革命による内戦を避けてウラジオストックに移ったとされる。日本においてはブルリュークと全く同じ資格で扱われた。ここで、日本がロシア・アヴァンギャルドと直接はじめてつながるわけだが、代表としてのブルリューク来日の経緯と彼の日本における足跡に触れなければならない。

ヴィクトール・パリモフ ダヴイッド・ブルリューク

 ダヴイッド・ブルリュークは1882年ハリコフに生まれ、1907年モスクワに定住、イタリアの未来派に関心をもち1913年頃未来派の小冊子に挿し絵を措き、1910年から同15年にかけ各種展覧会に出品、1918年から同22年にかけてシベリア経由日本に到着、最終的にはアメリカに向かって生涯の後半を過ごした、というのが彼の極めて簡単な経歴である。ちなみにロシア未来派運動は詩人フレーブニコフの指導で生まれ、単純にロシアの未来を民族のアイデンティを意識したいという願いに発したもので、イダノア未来派のような破壊の理念は強くなかった。

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 はっきりした革命はまだ起っていなかったが、1910年のロシアにおける騒々しい群衆を背景に新たな芸術の胎動を感じた幾人かの詩人、画家たちが未来派や立体派を糧としてロシア未来主義を生み出したといってよい。一口にいってブルリュークは詩人フレーブニコフと共にロシアの立体未来派の闘士とされ、十月革命前のロシア・アヴァンギャルドの代表であった。ブルリュークがなぜアメリカヘの亡命を希望したかの経緯はつまびらかにしないが、ロシア未来派自体は誕生から3年後第1次大戦の不穏な空気の中で解体に向う。そういった状況を察知しながらブルリュークはおそらく内戦を避けるため一家と共に東に移動しウラジオストックに至ったのである。時に1919年の6月、37歳であった。

158 ウラジオストックでブルリュークは資金を稼ぐためにナイトクラブの支配人となり経済的に余裕ができるや執筆や絵画活動を再開するウラジオストックには他にもロシア人の芸術家がいたし日本人もいた。彼らがたむろするクラブではブルリュークは彼らを糾合して展覧会を組織したりした。少しでも彼らに資金をあたえることができればと考えたのである。このウラジオストックでの国際芸術展はロシア未来派芸術展と題したが、内容は革命のかなり血なまぐさい気分のただようものだったらしい。革命がシベリアの芸術界に新風を吹き込んだといえばやや大げさかも知れない。ただ、この展覧会はブルリュークがその後来日して開いた日本で最初のロシア芸術家の展覧会の先駆けとなるものだったのは疑いない。

 「どうも開くところによると日本にも未来派の画家は結構多いらしい。ならば一つロシア未来派を売りこんでやろう」と思ったとしても不思議ではない。ブルリュークは1920年(大正9年)10月妻子をウラジオストックに残し仲間の詩人パリモフと共に敦賀に来着した。その後の来日中のブルリュークの詳細な行動の記録は西宮市大谷記念美術館の学芸員中井康之氏の調査にくわしいが(「未来派の父」帝国画伯来朝記展<1996年6月、西宮市大谷記念美術館>)ここでは これを簡単に述べておく。

 ロシア未来派の父と自称して来日したブルリュークはもともと立体未来主義者といわれたように、表現派や野獣派のロシア的変化の表現をとりいれたとされ実際には再現的な形象から離れるものではなかった。ただし、単純にいえば分析的な立体主義と多少のダイナミズムがあって、そのために立体未来主義という呼称は理に適っていたのかも知れない。日本で描き残したブルリュークの作品がそれを証明している。

 前述のようにブルリューク来日の同じ年1920年に日本の方でも神原泰、木下秀一郎、普門暁による未来派美術協会が設立され、第一国展が9月16日から銀座の玉木屋額縁店で開かれた。公募展だったので素人に近い作品が多く、それらは未来派の単純な模倣であり、未来派の精神には程遠いと批評された。日本の未来派は1909年に森鴎外の手でマリネッティの宣言が紹介されたものの、これに関心をもつ画家はまだ殆どいなかった。わずかに若い画家、萬鉄五郎、東郷育児、そして神原、普門、木下らが、当時飛ぶ鳥をおとす勢いであった二科会に対抗して協会を結成し展覧会を開催したのである。ただし、彼ら自身も未来主義とは何であるか明確な理念はもっていなかった。「当初は未来派などといっても未来派がどういうものか誰も解っていなかった」と創立者の木下自身回想している。理論家でもあった神原泰も当時「自動車の力動」という詩を発表しているがこれは明らかに未来派絵画のダイナミックな視的イメージを言葉に置き換えたものだが、彼自身はこれを「後期立体詩」と称した。この第一回未来派協会展の約1ケ月あとに来日したブルリュークとパリモフは翌年1921年10月上野で行なわれた第二回協会展に参加することになる。その間二人のロシア未来派画家は日本の未来派画家たちと強い接触を保ちながら、というより日本側としてはロシアから本物の未来派の画家が来たということで憧れの眼差しもあっただろうし、ロシア側は日本の未来派画家の存在、更にその技術の存在に大きな関心を持たざるをえなかった。二人は求めに応じてさまざまな支援に応ずることも忘れなかった。例えばブルリュークと親しくなった木下は共同で『未来派とは?答える』という著書を出版したりしている。

 当時のマスコミもこの二人の存在と行動に関心を持ち時々刻々といってよいほど彼らの行動を報道している。二人はいくつかの講演会をこなしロシア未来派を最大に宣伝し、関西だけでなく九州、小笠原、父島などの辺境にも出掛けている。ブルリュークは大正10年12月にはウラジオストックから家族を呼び寄せ横浜に定住、個展も開催するなど実際日本における足跡はかなり多様である。

 そして二人のロシア・アヴァンギャルド画家の日本における最大のイヴェントは1920年10月に開催された「日本における最初のロシア画展覧会」で京橋南伝馬町の星製薬三階で行なわれた。

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 27名、473点の出品で、ブルリュークがロシアから持参しウラジオストックでの展覧会で売れ残った作品の大部分と思われ、もちろん日本での販売を期待したが、殆ど売れなかった。その代わり目録は相当数がはけたといわれる。

 東京展ののち大阪展は11月22日から、京都展が12月5日から開催された。そして、この展覧会はブルリュークがウラジオストックでやった国際美術展に参加した多くのロシアの画家を含み、ロシアから送ってもらったマレーヴィッチやタトリンの作品もあった。この展覧会に際しブルリュークは国民新聞10月10日に次のように語っている。「自分は十五年も物の写生をやったから今は記憶と感覚で描いているロシアの未来派はイタリアの未来派の主張やカンジンスキー一流の主義あるいは象徴派立体派をすべて合したものである。一層興味のあるのは日本側の反響である。神原泰は「それは一般の日本人にとってすばらしい驚異であった。そこには現在の言葉を使うと、怪奇派、空想派、物語派、真実主義、ダダ、未来派、立体派のあらゆるものが実に雑然と実にきたならしくならんでいた。私は殆ど毎日その会場を訪ねた。」と皮肉然と書いた。翌年の『白樺』12巻1号に「先日来たロシア未来派の画かきたちでも、やっている辛が何だか仰山で不自然で、世間的臭味がつきまとっている。一体未来派その他新しい画をかくという人間を見ると、殆ど皆、少なくとも落ち着いた人間はいない。」といったのは岸田劉生である。

 ヨーロッパの事情に詳しい有島生馬は10月20日の読売新聞紙上でこう述べた。

 「ブ氏の作品は外国未来派の様式を備へんことを望んでいるらしく見えるが、マリネッティ氏やボッチオニ氏等の提唱する<デイナミズム>の理論と照らし合わせてみれば遥かに未来派の結論には及ばない。(略)パリモフ氏の芸術発展の跡は余が最大の興味をもって熟視したものである。氏はブ氏より少く詩人でありより多く画家である。氏は二年前から立体派の感覚によって未来派の模倣をなし来った。だがやはり未来派画家と言ひ切ることはどうかと思はれる。然し今年になってからの作品には剖目すべき飛躍が現われている。余は久しく其前を立ち去り得なかったほど、それは思索と経験と感興とに満ちている優秀な芸術品である。(略)彼の作品の前では余はその流派の何たるを問わず心から敬意を払わずには居られないのであった。」有島はブルリュークよりパリモフを高く評価している。

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 いちばんまともな評は石井伯亭であろうか。「ブルリュック君の画には種々な要素の交錯するのを見た。初期未来派のような純粋に抽象的なものもあるかと思えば、オジロン・ルドンのような夢幻的象徴的の処もあり、また写実的な処もあると云う風で、それ等のものが一つ図の中に同居する場合もある。初期未来派のやうに純粋にアブストラクトでは造形芸術は成立たないと云うようなことをブルリュック君は云って居た。

 ブルリュック君の今手を入れて居るのは、<離魂>と題する小品で、首の無い理髪師が剃刀を手にして居り、其首が窓枠の上に載せられて居る。ブルリュック君はそれを私等に説明した。田舎の理髪店の光景で、其処なる凹凸のある鏡はいつも未来派の画のやうに物をゆがめて映す。剃刀を取る人の心は剃らる可き人の上にあらずして、窓下を通る女を見むとして居るかもしれぬ、此画の思ひつきはそんなことである。パリモフ君の<波打際>と云う海水浴場に裸女二人を配した大作も、女の持つ傘や扇などにレースが張ってあり、前方に置かれた衣装の図には紫色の靴下が弓長られて居た。

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 モスクワのタットリンと云ふ人のであったが、成形に切られた赤、青、黒等の単純な紙布を貼付したものを私達が熟視して居る時、ブルリュック君は近づいて其説明をはじめた。(略)先ず大体は近代の忙しい生活には細目の美を感ずることが少なくて、却って此処に表示されたやうな原理的な美の激動を受けることが多い。これは其激動なり急打なりを表示したものであると云ふ。其処にカンジンスキーの主張なり製作なりと通ずる或物がありはしないかと訊いたら、彼はそれを打消してカンジンスキーは丸で別物だ。彼の斑紋には偶然的なものが多いと云ふ。(略)

 兎に角此の展覧会によって日本人は本場の未来派的作品に接することが出来、また未来派も写実の素養なしでは駄目だと云うことを暁り得たであらう。」

(石井柏亭「日本に於ける最初の帝国画展覧会」「中央美術」第6巻11号)

 未来派の理論自体をかなり早くから受け入れた日本の前衛画家たちは、実作を殆ど見る機会はなかったのでイタリア未来派の理論とは異なったブルリュークやパリモフの実際の作品を見て本物の未来派と思ったか、あるいは少なくとも戸惑ったに違いない。

 結局自分たちが創り出す絵画は立体派、未来派、野獣派のすべてを総合的に取り入れぎるをえなかったといってよい。彼らはこれらロシア・アヴァンギャルドの二人がヨーロッパの現状に詳しいと信じ直接具体的に説明を聞いて新しい画法というのは、画法の主観的な表現を主張するという一般論を確認するに留まったのである。いいかえるとロシアを通して日本にやってきたイダノアの未来主義は、未来派本来の理念を逸脱して理解されただけでなく、ロシア・アヴァンギャルド全体の理解も日本の画家たちの理解を逸脱してしまったといえよう。

 未来派協会の第三同展は「三科インディペンデント展」と名称を変えて1922年10月東京で開かれた。この三科という名は二科より一歩進んだという意味で未来派だけではないという意味を含んでいる。当時日本に来ていた同じロシアの画家ブブノはこの展覧会を見て次のように評しているのは興味深い。

 「三科会の絵と他の展覧会の絵との間に存する相違は、即ち、新旧画家の視覚による現実感受の相違であり、また両者の間の意識の相違でもあります。新しい現実感受は、空間というものを、ただ形と線との運動、ならびにそれらの相互関係のみによって表現されたものとして見るのです。空間というものこそ実に新しい描写の対象なのでありまして、それは単なる物体の描写よりも多くの動力学の発現を可能ならしめるのであります。一つの画面の上に、同一な形や線、たとえば手の筋力の形とか、あるいは手や肩や頑などの輪郭をいくつも繰り返して描くということはいかにも馬鹿げたことのように感じられます。けれども実際においてはこうした繰り返しによって、運動を強め、空間を築きあげることができるのです。」

 これは線と形の運動だけによって空間を構成しうるという素朴な抽象絵画論といえるが、ブプソワはロシアにおける新しい流れの理解者として日本の二科展を批判する一方、この三科展に期待を寄せたわけである。ちなみにワルワーラ・ブブノワ女史(1886〜1983)ペテルブルク美術アカデミーの女子学生を経てロシア・アヴァンギャルドの最初の組織である「青年同盟」の会員になっているので、彼女がロシア・アヴァンギャルドの洗礼を受けたのは疑いない。日本人と結婚した妹の縁で1922年(大正11年)来日した。ブルリューク、パリモア来日の約1年後である。ブブノワは第2次大戦後、1958年(昭和33年)に帰国するまで36年の間日本にいて、とくに版画の分野での広範な交流、多くの執筆を背景に日本の近代美術に及ぼした影響は多大なものがあった。しかし、長い滞日の間にロシア・アヴァンギャルドが一時的だが消滅してしまった点を考えると彼女を経由した日本の画壇に与えたロシア・アヴァンギャルドの影響は考えることは出来ない。ただし、先の三科展の批評は日本に着いたばかりのブブノワの、まだロシアを引きずっていた理念で新興美術と称していた日本の前衛美術を的確に掴んでいたといえよう。

 ブルリュークはこの三科展の前に日本を発ちアメリカに向かっている。パリモフもそれより早くウクライナに帰った。いずれも彼らの訪日は亡命の資金かせぎを目的としたかもしれないが、日本の画家たちとの交流を通して自分たちが時代の先端にあるという意識を確認して満足したにちがいない。

 未来派も取り込んだ日本の新興美術家たちは、1923年(大正12年)の関東大震災後の廃墟から現われた一種のアナーキーな思想に促され、前衛の体制批判的な傾向を一層強くしながら「アクション」のグループや村山知義の主宰する「マヴォ」のグループに反映して結集することになるその結果生まれた三科展は立体派や未来派の系統を踏むものであったものの、しかし未来派があげた声高な主張よりむしろ権威主義的な既成画壇に対する現実的なプログラムを目標にしていたといっていい。

 だが、周知のように、このような傾向も1930年代に入ると軍国主義の高まりの中で前衛に対する当局の監視の目が厳しくなるに従い、日本の前衛美術運動は殆ど窒息状態に陥ってしまう。あたかも、ロシアにおける前衛(アヴァンギャルド)の終焉と同じように。それも日本の官憲の不思議な芸術観と言うべきであろうか、二科会の主流である野獣派が日本では前衛ではなく、未来派と立体派が前衛であるという寄妙な理念が、未来派をしてプロレタリア美術運動に向かわせ、それが日本の軍国主義によって消え去ってしまったという運命は、両世界大戦の間の日本美術の特質となっているのである。

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