鳥獣戯画・高山寺

■鳥獣戯画の伝来 

 ここで改めて、鳥獣戯画の伝来を記す史料に触れておきたいが、古記録が物語る鳥獣戯画の情報は実に乏しい。

 そのなかでも、先に掲げた丙巻の建長五年(一二五三)の奥書が最も古いのだが、この段階で鳥獣戯画が高山寺に蔵されていたのか、はなはだ疑わしい。というのも、この奥書を記した「竹丸」は、その実態は不明ながら出家前の男子の名で、鎌倉時代半ば頃の高山寺の性格を考えると、こうした子弟がいたとは考えにくいためである。この段階で、鳥獣戯画は高山寺とは別の場所にあった可能性が高い。また、高山寺の目録類にも鳥獣戯画の名が確認されないことも、この可能性を高める。鳥獣戯画が高山寺で描かれたと記す史料は確認されておらず、この絵巻は高山寺で作られたものではなく、別の場所で描かれ、高山寺へともたらされたことは間違いあるまい。

 これに続く記録は室町時代のものである。永正十六年(一五一九)の「東経蔵本尊御道具以下請取注文之事」と題する高山寺東経蔵の什物を記した文書である。そこには鳥獣戯画のいずれかを指すと思われる「シャレ絵三巻」とともに、「上人御絵」三巻、そして「義湘元暁ノ絵」六巻と記され、それぞれが「箱一ニ入」っていたことが知られる。鳥獣戯画は建長から永正の間に高山寺へともたらされたのだろう

 続いては、「華厳宗祖師絵伝義湘絵の裏打ち紙に添付され、明治の修理時に発見された元亀元年(一五七〇)の記録(上図)、「華厳宗祖師義湘大師絵四冒、明恵上人絵三冒、元暁大師絵二男、以上九冒、獣物絵上中下同類胃二冒(開田殿□□本)、都合十一巻」とある。これらは高山寺東経蔵の什物であったが、「先年兵乱之時」、足軽が取り散らし、ところどころが焼けてしまったとの内容で、この「兵乱」とは天文十六年(一五四七)、高雄城の神川国慶を細川晴元が攻めたことを指すとされている妻)。この元亀の記録では前半の巻数と「都合十一巻」の数が合わず、どの巻を数えているのか判然としない。

 さらに、近年鬼原俊枝氏が提示された十七世紀中頃の三宅玄蕃書状には「され絵四巻」とある。これは東福門院による修理前の記録とみられることから、天文の兵乱により罷災した鳥獣戯画はその後百年の間に、おそらくは現状と同じ構成の甲乙丙丁の「四巻」に仕立て直されたとみられる。そう考えると、永正、元亀の記録に見える「シャレ絵三巻」「獣物絵上中下」は、現状の鳥獣戯画四巻(上図一部)すべてを指すのではなく、甲巻のみを指す巻構成だったのではないか。元亀の記録の巻数の艶靡も、兵乱により以前の構成がわからなくなっていた頃の巻数の混乱を反映したもので、その後今に見る鳥獣戯画甲巻の画面構成が生まれたと考えることもできる。すなわち、天文の兵乱以前の甲巻は三巻構成であった可能性を提示しておきたい。

 こうした状況により、「巻子(へそ・紡いだ糸を環状に幾重にも巻きつけたもの)」としての統制がとれなくなっていた鳥獣戯画は、今見る断簡(だんかん・きれぎれになった書き物)のようなかたちで次第にいくつかの画面が寺外へ流出していったものと推察される。現にどの断簡にも「高山寺」印は確認されず、鳥獣戯画の流出に危機感を覚えた誰かが、「高山寺」印を捺したのではないか。最初の「高山寺」印押印は、鳥獣戯画が散逸しつつあった十六世紀半ばから、本格的な修理がなされたとされる十七世紀半ば頃であったと考えることができるだろう。そして、十七世紀中頃の東福門院による修理の時に、すでに捺されていたC、D、Eの印ににじみが生じたのではないだろうか。

▶鳥獣戯画が生まれた背景

父母 源隆国源経頼の娘
兄弟 隆俊隆基隆綱俊明国俊公綱定賢隆覚覚猷長俊隆信、女子(藤原俊家室)、女子(橘俊綱室)

 それでは改めて、鳥獣戯画はどこで、誰によって描かれたのか。甲巻の作者に関しては、永らく、平安時代後期の天台僧、鳥羽僧正覚猷(かくゆう・一〇五三〜一一四〇)筆と伝えられてきた。覚猷は源隆国の子で、天王寺別当や園城寺長吏、天台座主などを歴任し、晩年は鳥羽上皇の護持僧として鳥羽殿証金剛院に住した。園城寺法輪院で図像の収集を進め、『古今著聞集』では「近き世にはならびなき絵書き」と評されるなど、画技にも長けていたとみられている。ただ、鳥獣戯画の筆者を覚猷筆とするのは梅澤記念館蔵の鳥獣戯画模本(住吉家旧蔵本)以前には遡らないとの指摘がある。確かに、本展出陳の「鳥獣戯画断簡(模本)(下図部分)に写された「狩野右京」(狩野光信、あるいは安信を指すが、いずれにせよ十六世紀後半から十七世紀半ばまでの記聾による鑑定でも「土佐筆」とされており、鳥羽僧正筆との説は近世以降に作られたものと解することができる。

 対して、鳥獣戯画の制作圏に関しては、これまで二つの有力な説が提出されている。一つが、白描図像や仏画を描く、寺院に属する絵仏師だったとする説。いま一つが主に世俗画を描いた宮廷絵所絵師だったとする説である(琵琶本展では、それぞれの説の根拠となる比較作例を展示。前者に関しては仁和寺の「薬師十二神将像」(下図)、醍醐寺の「十二神将図像」(111図)で、これらの白描図像に描かれた動物と鳥獣戯画の動物たちは、確かに近い表現である。また後者に関しては「年中行事絵」112図)で、風流傘の飾り物は益田家旧蔵本の鳥獣戯画断簡(図119)に確かに似ている。

 ただ、この「近い」「似ている」という点で、万人の納得する甲巻の作画環境を明らかにするのは難しい。ありてい( ありのまま)に言えば、どちらも「近い」「似ている」と、私には感じられてしまう。加えて、例えば甲巻の作られた平安時代後期、院政期の絵画作品は比較対象の作例が膨大にあるとは必ずしもいえず、そのなかでの比較にはやはり限界があるといわざるを得ない。むしろ、両者ともに似ているという点こそが重要なのではないか。平安時代後期、絵画の制作と享受において、寺院と世俗とが交差するような場。そのような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境にふさわしい。

 こうした議論に対し、修理にあたって行なわれた鳥獣戯画の料紙の調査は重要なヒントを与えてくれる。それによると、甲乙丙丁の四巻とも料紙には繊維のたまりが多く確認され、通常の絵画作品に用いるような紙ではないということである。こうした紙は反古紙などを漉き返した、寺院の文書類などで日常的に用いられるものであるという。これら材料面の分析に導かれるならば、その作画環境に関しては寺院の可能性が高いということになるだろう。

▶鳥獣戯画成立の場 試論

 それでは、具体的には鳥獣戯画はどこで描かれたのか。あくまで推測に過ぎないが、仁和寺を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院とが交わるような場であった。

 さらに、高山寺と仁和寺が非常に密な関係を結んでいたという点も重要である。栂尾開帳の開催や、本展出陳のさまざまな文化財の修理銘などが物語るのは、近世における両寺の密を交流である。詳細は各作品解説に譲るが、高山寺は幕末まで仁和寺の末寺だったと伝え、こうした江戸期を通じた高山寺と仁和寺の関係は、なにも江戸初期に突然生まれたものではあるまい。両寺は地理的にも近く、明恵による再興時、すなわち鎌倉時代前期から、両寺の有力者の出自や外護者がかなり重なり、人的、物的交流が盛んになされていたことは想像に難くない。鳥獣戯画に関しても、「開田殿」すなわち仁和寺法助との関係を示唆する史料も確認される。またこれまでも、鳥獣戯画は宮廷周辺で描かれ、鳥羽の宝蔵、蓮華王院宝蔵などを経て仁和寺に入り、高山寺へと施入されたとの説もあり、鳥獣戯画の伝来のみならず、その制作圏に仁和寺を介在させることもあながち奇異な視点ではないはずだ。

 明恵が法然を批判した自筆の『摧邪輪(ざいじゃりん)』も、現在は高山寺を離れ仁和寺の所蔵となっており、高山寺から仁和寺へと所管を変えた文化財は数多くあったと推察される。また逆に、今日高山寺に伝わる文化財のなかに、仁和寺に由来するものが含まれている可能性もある。高山寺伝来の白描図像(密教の修法に用いる諸尊,曼荼羅などを,墨線のみの素描で図示したもの)がそうであったように、高山寺の寺宝は他寺からもたらされたものも多い。こうした高山寺と仁和寺の密な関係を踏まえた時、鳥獣戯画は仁和寺周辺で制作された後、他の白描図像などとともに仁和寺から高山寺へ伝えられた。具体的な時代や人物を特定するには至らないが、以上のような可能性を提示しておきたい。

■おわりに

…鳥獣戯画と高山寺の近代

 これまで、高山寺、そして明恵上人ゆかりの美術とともに、鳥獣戯画についてみてきた。それは、古代から中世、そして近世へと連なる、高山寺の歴史を振り返るものでもあったと思う。そこで最後に、鳥獣戯画と高山寺が近代をどのように迎えたのかを記し、この文章をとじたい。

 維新後に進められた神仏分離策により、多くの寺院で廃仏毀釈や寺領の縮小などが行なわれたが、こうした流れはむろん高山寺にも及び、大きな打撃を受けたといわれている。そうしたなか、明治四年(一八七一)、新政府により「古器旧物保存方」が設置され、文化財の保護が意識されるようになり、翌明治五年(一八七二)には、文部省博物局によって「壬申検査」と呼ばれる近代初の文化財調査が行なわれることになった。この調査団には明治期の文化財行政を担った町田久成、蟻川式胤、内田正雄らが参加し、初めて写真による記録が行なわれ、横山松三郎が撮影を担当した。名古屋、伊勢、京都などの社寺や華族の宝物とともに、奈良では正倉院宝物の調査も行なっている。

 そしてこの調査団は同年七月二十一日から二十三日の間に高山寺に滞在し、多くの文化財を調査している。記録に拠れば(慧)、彼らは華厳宗祖師絵伝、仏眼仏母像や明恵上人像(樹上坐禅像)といった、今な中高山寺に伝えられる文化財を眼にしているが、そのなかには「鳥羽僧正筆画巻物 四本」と記される鳥獣戯画も含まれていた。おそらくはこの宝物調査により修理の必要性が説かれたのだろう。鳥獣戯画、および華厳宗祖師絵伝はおよそ十年後の明治十四年から十六年(一八八一〜八三)にかけて、博物局によって「修繕」が施された(上図)。ただ、明治十四年埋蔵山寺にとって受難の年で、高山寺下を流れる清滝川対岸の民家より出火があり、その火が延焼、仁王門(下図)空を含む塔頭の大部分が焼失した。その後、明治二十二年(一八八九)には石水院を現在地(焼失した三尊院跡地)に移築している。こうした状況のなか、これらの絵巻の修理が行なわれたのである。

 ところで今回、この特別展の開催にあたり、明治や大正期の高山寺や鳥獣戯画に関する資料を集めていたところ、ある古写真の存在を知った。明治二十一年(一八八八)、九鬼隆一、岡倉天心、フェノロサらによって行なわれた近畿宝物調査の際に撮影された記録写真である。これをまとめた「絵画写真帖」と題するアルバムには、鳥獣戯画のうち乙巻と(下図)。ご、華厳宗祖師絵伝のうち元暁絵の一部を撮影した写真が貼られている。ただ、この写真をよくよく見てみると、画面には縦横にしわが走り、料紙が毛羽立ち、虫損も随所に確認される。明治十四年から十六年にかけて修理を行ない、その数年後の画面の状態とはみなしがたい。

 先に、鳥獣戯画に捺されている、にじみのない「高山寺」印(AとB)が明治以降に捺されたのではなく、江戸期に捺された可能性が高いと述べた。そうなると、明治の修理とは、これらの印ににじみがでない方法、すなわち水を用いて画面表面のクリーニングや補修などを行なうものではなかったと推察される。この修理の際、義湘絵の裏打ちから元亀元年(一五七〇)の文書が発見されたとされることから、なんらかの改装が行なわれたことは間違いないが、その実態は「修繕ヲ加」の語が示すように、例えば糊離れした料紙を継ぐなどの限られた範囲のものだったのではないか。この可能性に立つならば、このたびの「平成の修理」は、十七世紀半ば、東福門院による修理から実に350年以上ぶりの本格修理であったのかもしれない。

 長い巻頭の文章となってしまったが、高山寺、明恵上人、そして鳥獣戯画の魅力は書きつくせるものではない。この展覧会がこれら高山寺の至宝の魅力を再発見する機会となれば、担当の一人として望外の幸せである。そしてぜひ、高山寺へもお運びいただき、そのあふれる魅力をより多くの方々にも感じていただきたいと、切に願っている。

(っちやたかひろ/東京国立博物館学芸研究部列品管理課平常展調整室研究員)