池袋モンパルナス

■池袋モンパルナス

  本田晴彦(アトリエ村資料室代表)

▶はじめに

 今から90年近く前から70年前にかけて、池袋駅を中心とした西方約2キロを半径とする地域に多くの芸術家が住み着いた。100棟以上の貸しアトリエが建設され、のベ500人とも1000人ともいわれる芸術家たちが居住去来した。彼らの多くは池袋を中心に集い、議論し、また近隣に居住する芸術家を含む関係者も関わり、一つのコミュニティー文化を成立した。彼らの一部が称していただけの「池袋モンパルナス」は、今では行政や商産業までもが注目するようになった。


 池袋モンパルナスとは何か、その成立の過程、その内容などについて今日残された史料などをもとに、おおまかな流れを捉えてみたい。

▶モンパルナスとは

 今、パリの中心部から見える高層建築物は、エッフェル塔の他にモンパルナスタワーがある。1972年、旧モンパルナス駅を中心に、周辺の多くのアトリエを撤去しつつ造られたといわれるこの59階建てのビルは、フランス第l位の高さを誇った。しかし、景観の問題で物議をかもし、議論の末フランスは二度と高層建築を造ろうとはせずに、いまだこのビルがフランス最高の高さとなっている。

 このビルの建つパリ南西部の14区がモンパルナス地区であり、ここに日本人をはじめ多くの異邦人芸術家が集った。

 20世紀初頭のころから、諏訪秀三郎の経営する諏訪旅館と呼ばれたホテルがモンマルトルにあり、多くの日本人はパリに着くとまずここで荷を解いたといわれている。島崎藤村の蟄居先であり、藤田嗣治、柔道家の石黒敬七ら多くの日本人留学生、遊学者の窓口、宿舎となっていた。

 

 第一次世界大戦が終わると、戦争バブルと円高の影響で多くの日本人私費留学生、遊学者の渡仏が可能となった。たとえば前田完治は1922年に故郷からの餞別だけで渡仏をなしているし、のちに山之口貘(ばく)の葬儀委員長を務めることになる金子光晴は貧乏旅行とはいえ、中国、インドを経由し、1918年にはパリに到着することができている。萩原朔太郎が「ふらんすに行きたしと思えど/ふらんすはあまりに遠し」と1924年38歳にうたった背景にはこのようなことがあった。

 

 モンパルナス地区はパリでは開発が遅れ木造家屋が多い地区であったが、大学があり、したがって学生街も形成され、下宿代は安価であり、カフェ、寄席などがあり、また公園、墓地などもあった。バリ両駅としてモンパルナス駅があり、フランス南部からの玄関口となっていたこの地は、いわば場末としての居心地のよさがあったのだろう。こうして多くの日本人芸術家たちが住み着くようになる。

 そのことは、国際芸術家にとっても同様であり、ピカソ、シャガール、モジリアニ、スーチンといった多くの異邦人芸術家らが住みエコール・ド・パリと称されたことは美術史の一部となっている。

▶モンパルナスの池袋

 後に「独立美術協会」を創設することとなる主立ったメンバーは、モンパルナスのカフェ集い、祖国で結成する新しい美術団体の名称に、そのカフェの名前やモンパルナス、「1830年協会」に倣った「1930年協会」を候補に掲げ、結局「1930年協会」に落ち着くことになる(里見勝蔵「1930年協会について」『みづゑ』lg26年7月号)。 モンパルナスに住んだ「1930年協会」の創立メンバーたちは、モンパルナスに池袋での仲間が集まったことから、モンパルナスを「池袋村と称している(註)。ただこの頃は巣鴨村ないし西巣鴨町大字池袋であり池袋村ではなかった。

(註)「美術学校の同級あった(ママ)中山覿、西村叡、大津悦次、頓野保彦、宮坂君と私の六人が特に仲よしに皆池袋に住つて居た者が巴里で落ち合ったことを池袋村の転居だとよろこんだ。その他友人としては児島善太郎、前田寛治、中野和高、川口軌外夫妻、佐伯祐三夫妻と林龍作、川瀬嬢、岩崎雅道君等の音楽家とは限度を超越して親交した。実に前田寛ブ台君の小説−琢児の群れ−であった。」(里見勝蔵「絵画の法則からはなれよ」『中央美術』1928年2月号)

▶池袋のモンパルナス

 池袋がまるでモンパルナスのようだと気づいたのはいったい誰であったのか。

 

 岡本一平は「新宿オンパレード」(1933年8月30日)のなかで、1929(昭和4)年から1932(昭和7)年にかけての欧州滞在の経験にもとづいて、「銀座をモンマルトルとすれば、新宿はモンパルナス」と述べている。池袋に関しては、『サンデー毎日』1938年7月31日号に掲載された詩人、小熊秀雄のエッセイ「池袋モンパルナス」が嚆矢(こうし・物事のはじめ)とされる。情報の少なかったこの時代において、鋭敏な受信体を持ったこの詩人は、ヨーロッパでもパリでもないモンパルナスと池袋を、想像の中で見事に結びつけた。ただ、この言い方は一般化されず、住人たちや美術関係者もこの言葉を使うことはなかった。

▶池袋とは

 江戸期の今の池袋は「池袋の池」とよばれるいくつかの池がある湿地帯で、人が住んでいなかったといわれている。新宿や板橋は宿場であり、巣鴨は立場( 江戸時代,街道の宿駅の出入口に設けられた休息所で,掛け茶屋のこと。旅人,人足などが休憩したが,宿泊は禁じられていた)であり、いずれも江戸ではなかった。今日、池袋本町(旧本村)という町名は残されているが、池袋駅からlキロ半から2キロほど離れている。何もないからこそ線路が敷設され、線路の分岐がなされ、信号所や駅舎ができ、離れた地名が駅名になったのであろう。

 初期の池袋駅の写真を見ると、2つの島式ホームが跨線橋を挟んであり、西側と思われる位置に駅舎らしいものがある。駅周辺は畑や林のようなものが見え、今日の池袋からは全く想像できない光景が広がっている。

 豊島線とよばれた分岐線(今日の大塚、巣鴨、駒込を経て田端に至る路線)は当初は雑司ヶ谷駅とよばれるところから分岐する予定だった。今の目白駅よりやや北側のところを分岐点としていた。当初ここから田端駅までほぼ直線に線路は計画されているが、現行の地図を重ねると石川島からの移転を計画されていた監獄(現サンシャインビル)の中央を通ることとなり、これを避けて、豊島線の分岐を北上させ、凹型カーブを描こととなったようだ。(註)

 このようにして1903(明治36)年に池袋駅ができ、上野と池袋が鉄路で繋がった。

(註)伊藤暢直「日本鉄道豊島緑池袋停車場設置経緯に関する考察(1)、(2)」「豊島区郷土資料館研究紀要 生活と文化』第14号、2004年、第15号2005

 池袋駅開業の年、萬鉄五郎は早稲田中学校(現早稲田中学校高等学校)に中途入学している萬鉄五郎と交通インフラとの関係は、当時の芸術家、特に東京美術学校の生徒たちのすみかを知る上で要点となるところである。

 萬は1907(明治40)年に東京美術学校(現東京芸術大学)に入学する。東京美術学校には小石川区丸山町(現在の文京区千石3丁目付近)から通っている。この引越し魔ともいえる絵描きの東京でのすみかは、現在の不忍通り(註)を上野から北西に、今の巣鴨駅付近までにも移動するが、池袋(当時は巣鴨村であった)に向かうことなく潰(つい)える(くずれてだめになる)のは単に不忍通りが開通していなかったためである長崎村(現在の豊島区の西部)を源流とする谷端川は板橋、大塚を蛇行して、小石川区(現在の文京区の一部)では小石川(礫川)または千川と名前を変えてハケ(崖)を作り、上野から東京西部地区への交通インフラを拒んでいた。萬は不忍通り未開通の「行き止まり」であった丸山町付近を好んでいたようで、その高台からの作品と思われるデッサンや油画が散見される。不忍通りが開通していたならば、この絵描きの住居はさらに西進し現池袋地区に転居したのではあるまいか。ちなみにこの地区での不忍通りの開通は1922(大正11)年であり、寓はその3年前に茅ヶ崎に転居している。

 

 それほどに池袋は鉄道以外には「地の利」の悪いところだった。

(註)不忍通り(東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線)は明治末期に東京市区改正計画のうち環状4号線として計画された。上野公園前交差点から目白台2丁目までの部分開通であり現在目白台2丁目から新目白通りに抜ける立体交差の工事が準備されている

■人間関係 同窓と師弟

▶早稲田関係

 早稲田大学は発足当初、東京専門学校とよばれた。名称としての「早稲田」は旧制中学校で先に使われている。東京専門学校はほ82(明治15)年に開校し、早稲田中学校は1896(明治29)年に開校している。この旧制中学校の校友会誌の冒頭に歴代校長肖像画が掲載されている。作者に、廣本了、鶴田五郎、曽宮一念、内田巌、西村計雄ら池袋モンパルナス関係の画家がならぶ。彼らはすべて早稲田中学校の在籍、教員などの関係者ばかりである。

 東京美術学校第一期卒業の山口大蔵が初代美術教師として早稲田中学校開校前年の明治28年から長く勤めた。山口は横山大観と同期の日本画出身であり、岡倉天心の薫陶を受けた

 アメリカに行く前の萬鉄五郎が4年時でこの中学校に入学し、「淡翠会」という絵画サークルを作り、フォービズム風の絵を描き日本画を中心とした授業をなしていた山口を驚かしたという。

 

 早稲田関係の画家は、上記以外には野田半三、中村彝、小泉清、竹久夢二林武らがいる。小泉以外は落合、長崎、雑司ケ谷に住んだ。竹久夢二や林武は早稲田実務学校(現早稲田実業学校)に通っているが、いずれも山口大蔵が美術教員となっている。その後、萬鉄五郎が創設した絵画サークルが発展した美育部とよばれるクラブができ、絵を描くことを主としたという。校友会誌の記述によれば、山口はおもだった指導はせずに、宮津八一がもっぱらしたという(註)。

 竹久夢二、鶴田五郎、曽宮一念など早稲田関係の美術家は雑司ケ谷などの池袋界隈に多く住んでいる。なお当時の稚司ケ谷は今と異なり広大であり、池袋駅南部と東南側一帯を称した。

 

(註)「(美育部で)雑司ヶ谷の鬼子母神の境内の銀杏の木が黄葉して地にも落葉が積もってゐるのをいっしょに写生したことがありました。境内で名物宇田楽を食べた晩秋の一日を今も楽しく思ひ出します。(中略)当時の先生は山口先生でアダ名を閻魔で、俺は画がうまいから画うまと言ふのだとは先生の解釈でした。無欲な先生は画家としての大成をなさずに逝かれましたが日本画には立派な腕を持ってゐました。(中略)廿九年十二月」曽宮一念「遠足・美育部」『早稲田中学校創立六十通年記念録』昭和30年11月「私は二学期の試験を受け、幸三分の一以上の成績を得て早稲田中学校へ無試験入学を許された。(中略)私は(中略)小泉清の家に遊びに行った事があった。小泉は私が早中に来た事を喜んで、直に美音部の仲間達に紹介した。美育部を事実指導してゐたのは會津八一先生で、先輩の曾宮一念、鶴田吾郎(ママ)も時々見えた。」内田厳「都の西北」「絵画青春記第二章桜の並木道」同上掲書

学習院中等部

 目白地区(註)には近衛家が明治期から、白樺派関係者になる細川家も目白台に江戸期から住んでいた。学習院が現在地に移転したのは1908(明治41)年である。この学校の中等部(旧制中学校、現中学校高等学校)に松室重剛という美術教員がおり1889(明治22)年から1921(大正10)年まで勤務した。工部美術学校の出身者である。今日の霞ヶ関ビルの位置にあった工部美術学校が1883年に廃校になると、その校舎を居抜きで学習院が使う。ともに校長は大鳥圭介であり、この緑で松室が推挙されたのではないかといわれている。(鎌田純子「松室重剛と学習院の図画教育」『学習院大学史料館紀要』第17号)

 松室の授業は工部美術学校式であったという。すなわち、石膏像を描かせ、用器画法を教授した。若き児島喜久雄、里見弴、志賀直哉、長与善郎、柳宗悦などが描いたデッサンが学習院に現存する。のちに芸術青年達に印象派を喧伝することになる白樺派の若き日は、イタリア風の古典的デッサンを美術の初歩として学んでいたのである。

(註)目白という地名は、高田村に目白駅ができてから、その周辺で使われた汎名である。近衛家は落合にあって、いまの目白ではないが、当時から「目白の近衛家」という言い方がなされている。同様に、目白駅前通りとか目白教会、目白中学校などと使われた。

 このように、美術教育の盛んだった教育機関が池袋近辺にあったことは、池袋モンパルナスができ上がっていく一つの下地となっていたものと思われる。

▶アトリエ村とは

 電話でさえもー般的ではなかった時代には、知り合いの近所に住まうこと、歩いていける距離に人間関係を持つことが重要であった。江戸時代から続く借家文化の中で今日の不動産業らしいものはあったものの、一般的には同郷、同窓、師弟、親類といったあらゆるつてを使って借家を探さねばならなかった。たとえば、雑誌は当時の最先端の情報源であり、そこに掲載される作家住所はおおいに上京時に役立ったことだろう。そのようにして同じ地域に美術関係者が集まっていった。

 初期のはっきりした美術関係の集まりは田端にあった「絵描き村」のようだ。香取秀真や板谷波山、小杉放庵、山本鼎が中心となって、上野から近い田端に集まり住んだ。関根正二も住んでいる。この集落は関東大震災をもって終焉する。

 このように、群れをなして住む芸術家のすみかの変遷の流れを知ることが、池袋モンパルナスの成立や、発生理由の理解となろう。従って、ここではあえてアトリエ村という本来の貸しアトリエ群という言葉を広義に用い、群れて住む、という意味で用いたい。

(註)「アトリエ村」という呼び名がいつからなされていたかはっきりとはわかっていない。「アトリエ部落」という言い方もされていたようである。これを決定づけたのは、F長崎アトリエ村史料』(山辺昌彦編、豊島区郷土資料館、1987年)で、まず椎名町アトリエ村や池袋アトリエ村とよばれていた名称を、旧長崎村または町に置き換えて範囲を正確にし、「長崎アトリエ村」を1つの名称とした。さらに旧アトリエ村在住者の聞き取り、座談会、随筆などを収録し、その詳細内容を明示し史料とした。 

 この聞き取り調査の基礎になったのは立教大学文学部史学科の林英夫ゼミの学生によるもので、林の指導のもと、1983年の春から夏にかけて、各アトリエ村を分担、聞き取り調査したものを書きおこしている。この調査は、豊島区立郷土資料館開設を目的としたもので、「さくらが丘」、「すずめが丘」、「つつじヶ丘」といった豊島区のアトリエ村を対象とした。時代的にはアトリエ村の成立後に焦点を当てている。この調査報告書はアトリエ村や池袋モンパルナスの基礎史料となっている。本文記載の資料は概ね林ゼミ史料に基づくものである。

 またこれと同じ頃、作家の宇佐美承も上記の豊島区立郷土資料館資料を参考に独自に調査を進め、雑誌「すばる』の1988年5月号から1990年3月号に「池袋モンパルナス」を断続連載し、のちに加筆補筆され1990年6月に『池袋モンパルナス』(集英社)として上梓(じょうし・図書を出版すること)され、さらに集英社文庫から1995年『池袋モンパルナス・大正デモクラシーの画家たち』と副題を与えられ発刊された。

▶目白付近

 目白駅の西側に広大な土地をもつ近衛家のまわりに少しずつ絵描きが住み始めるのは大正中頃以降である。中村彙、大久保作次郎、牧野虎雄、荒木十畝といった美術学校系の作家達が住んだ。

 なかでも、中村彝が目白地区に住んだことば池袋モンパルナスの発生と大いに関係がある。1916(大正5)年、中村彝はアトリエを新築する(註)。中村彝の世話もあって、鶴田五郎、曽宮一念らがその近所に住まう。同年京都から安井曾太郎が目白駅そばに移転すると、同郷の田中佐一郎が落合に住むことになる。このように今の目白、落合は芸術家の街となっていく。のちに鶴田五郎や、田中佐一郎は長崎のアトリエ村近辺に個人のアトリエを建てた。

 

(註)この中村桑のアトリエは2010年に新宿区所有となり保存が決定された。2013年に「中村彙アトリエ記念館(仮称)」として一般公開されることになっている。

▶府営住宅と近衛家

 1921(大正10)年、東京府が落合の目白通り沿いに150棟ほどの府営住宅を建設する。のちに目白文化村を分譲する堤康次郎が文化村をつくりやすくするためにインフラを東京府にさせたともいわれている。ここには主に給与所得者が住んだ。絵描きとしては教員関係者が住んでいる。同年、近衛家の土地の一部を東京土地株式会社(現存しない)が分譲販売する。絵描きでは、夏目利政、島津良蔵などが住み、後年更なる分譲が進み、1934(昭和9)年には安井曾太郎が目白の北側の線路際から引っ越している。

▶阿比良(アビラ)芸術村

 1922(大正=年、東京土地株式会社が、後年「世界遺産」となるスペインの美しい町、アビラの名を冠した芸術村を落合の南西地域で提案、販売する。名主、村長は満谷圃四郎となっており、村民に金山平三、夏目利政、北村西望などの作家の名が見られる(1922年6月10日読売新間)が、実際に住んだのはこの中では金山平三のみである。

 東京土地株式会社はアビラ村分譲開始直後に解散され、箱根土地株式会社(株式会社コクドを経て株式会社プリンスホテルに吸収)にアビラ村の営業権を譲渡したといわれている。佐藤俊介(のちの松本竣介)、刑部仁、林芙美子、林唯一らといった人々が住んだあたりもアビラ村の一部と思われるが、詳細は不明であるo1926年の佐伯祐三の落合を描いた連作のなかで、「アビラ村への道→という作品があるが、村の名前は自然消滅していったようである。

 アトリエ村発生と時間的にも距離的にも直近の他に、芸術をからませた不動産を商品としたことがあったことは注目すべきことだろう。

▶目白文化村

 1922年6月20日から箱根土地株式会社が現在の下落合から中落合にかけての広い範囲で何回かに分けて土地を分譲する。当初は「不動園」を商品名としたが、江戸川橋にあった目白不動との混同をさけ、「平和記念東京博覧会」で話題となった「文化村」の名を入れるため「目白文化村」とすぐに変更された。のちに住人らは好んで「落合文化村」の名称を使うようになる。

 文化村とはガス水道電気といったインフラが整えられたことをさし、入居者は「有職無産者」と呼ばれた高学歴の給与所得者が多く、絵描きは教員関係者や、若干の作家がいた。文化村は土地のみの販売であったが、ここに多く作られた洋風建築は、一般的な日本人にとって初めての「壁」との出会いでもあり、室内装飾としての西洋画の需要を生んだ。

▶池袋駅付近

 池袋駅が湿地帯の中に唐突に建設されたことは、すなわち、近辺が広い空き地を持っていたことでもある。そのことが、多くの教育機関が市中から移転、あるいは新築されることとなる理由でもある。

 この池袋の教育を語る上で忘れてならない人物の一人は中村春二であろう。東京高等師範学校付属中学校(現筑波大学付属中学校高等学校)で岩崎小弥太やのちに多〈の絵描きのパトロンとなる今村繁三と同期であり、この2人の支援のもと理想教育の場を池袋に開くのである。それが成蹊実務学校であり、成蹊中学校、成蹊女学校である(現成蹊学園)。今のホテルメトロポリタンおよびその周辺を校地とした。また、中村の友人であった野口援太郎は、池袋自由の村学校をやはり池袋に開設する。

 ここからはのちに巴学園へと分かれる。さらに、城西学園、自由学園といった進取の気性に富んだ学校が池袋駅西側周辺に軒を並べていくこととなる。

 また、立教大学も1918(大正7)年に築地から移転し、広大な土地を豊島師範学校(現東京学芸大学)とともに池袋駅西側に有することとなり、文教地区としての池袋が出来上がっていく

 このように鉄道が敷設され電化され、郊外電車の発着所となり、池袋のインフラが整備され始めた頃、上野の東京美術学校の生徒が住み着くようになる。鳥取県の名刹に生まれた能勢亀二郎(註)が美校の学生であったとき、池袋に広い敷地を所有していたという。同級生の武井武雄は能勢の紹介か、能勢の土地を譲り受けるかして池袋に住まったと思われる。他に、前田寛治、鈴木亜夫、里見勝蔵らも住んだ。

(註)能勢亀太郎は1919(大正郎年に東京美術学校を卒業している。

▶花岡謙二と培風寮

 1920(大正9)年、詩人花岡謙二が池袋西口に「ミドリヤ書店」を開業する。ここは芸術家のサロンとなっていったようである。花岡は関東大震災ののちにこの店を人に譲り、自身は長崎村北荒井(現要町3丁目)に下宿屋を開業する。それは培風寮と名付けられた。当初は学生相手の賄(まかな)い付きの下宿であったが、自炊式のアパートになると芸術家の集うところとなる。2階建て4疂半程度の部屋が10室ほどのアパートで、靉光や菊地芳一郎、池上漣といった芸術家、詩人が住むこととなる。

▶すずめが丘アトリエ村

 1928(昭和3)年長崎町(現在の要町一丁目)に住んでいた奈良慶が、孫の美術学校入学のためにアトリエを建てたのがアトリエ村の始まりといわれている。その後、孫の友達のために合計10棟ほど建てたという。前述の花岡謙二の培風寮はすでにその西側にあった。この奈良の貸しアトリエを模して、宗吾しゃうぶ(しょうぶ)がそのそばにアトリエを建設する。1932(昭和7)年、松本竣介が中心となった赤荳(とう)会アトリエがこのアトリエを使用していたようだ。宗吾とのちにさくらが丘を建設する初見こう親戚関係だったともいわれている。すずめが丘アトリエ村には赤星孝、芥川永、朝比奈文雄、柿手春三、斉藤素巌、鈴木豊丘次、武田謙之助、中村直人、西村憑定、平沢熊-、藤本棄一良、古沢岩美\森田久(註)らが住んだ。高山良策や山下菊二が活躍するのは戦後のことである。

 いつ頃からこのアトリエ村がすずめが丘と呼ばれるようになったのかは不明であるが、竹やぶが多いのですずめがきたという説と、イチョウの木が多くすずめがいたという説がある。なおこのあたりには1950年代イヴ・クラインが柔道習得のため滞在しており、池袋地区と芸術の関連が永きにわたって継続しているのもこの土地の持つ個性であろう。

(註)森田久は柑10年代半ばには、大字池袋の農家を赤い屋根の洋館に改装して住んでいた。また数件のハイカラな貸家を建てて貸しアトリエとし、斎藤求なとの画家が住んでいたという。詳軌ま不明だが最初期アトリエ村ともいえよう。

長崎村初期アトリエ村

 1926年の町制変更により、長崎村が長崎町になったころ、この地区にはまだ貸しアトリエはなかったが、長屋や貸家に絵描きが住んでいる。床は畳であり、絵の具まみれの畳について引越しの際大家とやり取りの末、絵描きがまた入ればいいのだろうということで、教え子の小野幸吉を連れてくることを林武は記している(註)。同地(長崎町並木1336)にはそののち田口真作、松本竣介も住んだところで、のちに寺田政明、小熊秀雄もすんでいる。

昭和の初めから戦前にかけて、豊島区西部の長崎・千早・千川地域に、絵や彫刻を勉強する独身学生向けのアトリエ付借家群が形成され、アトリエ村と呼ばれました。最初にアトリエ村がつくられたのは1931(昭和6)年のことで、「すずめが丘アトリエ村」と呼ばれました。その後「さくらが丘パルテノン」「つつじが丘アトリエ村」など、次々に建てられ、最盛期は数100人を超える画家や彫刻家が住んでいました。

アトリエ住宅は、15畳ぐらいのアトリエに作品を搬出するための大きな窓と天窓があり、居室部分は狭く、多くは3畳から4畳半でした。彼らは切磋琢磨しながら貧しさの中で創作に打ち込み、また、夜になれば池袋の街にくり出し、自由でモダニズムに溢れた雰囲気のもと、芸術論をたたかわせたり、未来の夢を語り合うなど、様々な交流を繰り広げました。

袋の街は、アトリエ村に住む美術家たち、詩人、新興キネマの俳優などの映画人、そして立教大学の学生たちのたまり場であり、創造への意欲を育む土壌だったのです。そうした光景を、詩人の小熊秀雄は、「池袋モンパルナス」と称しました。若く貧しい芸術家たちにとって、池袋は家賃が安く、上野に通うにも便利な場所でした。これをパリに置き換えれば、「上野の山」は「モンマルトルの丘」で、池袋はパリの場末のモンパルナスだったのです。

(註)「小野幸吉全画集」(小野幸吉全画集刊行委員会発行)

▶さくらが丘アトリエ村

 このアトリエ村は1935(昭和10)年から初見六蔵、こう夫妻によって建築され始め、東西に走る道の、南側から建築されていった。貸しアトリエの張り紙があり、それをみた東京美術学校の学生だった博松正利はさくらが丘に入居したという(註、所有者の初見はアメリカで財を成したクリスチャンといわれている。ここでアトリエの標準的間取りが出来上がったともいえ、これ以前の貸しアトリエ、たとえばすずめが丘アトリエ村などとは異なった構造を持った。具体的には、おおよそ10疂から5疂の板敷きのアトリエがあり、そのアトリエは北向きのトップライトによって日中は安定した光源を得られるようになっており、居住空間としては2畳から4畳半ほどの畳敷きの和室がついていた。また水道はなく、共同井戸が何世帯かごとにあり、当時の長屋のようであった。入り口の1畳ほどの「たたき」の練炭コンロで煮炊きをした。

 こういった様式の「台所」は当時の一般的なありかたで、目白文化村のような「立ち式」台所といったような新しい住宅様式はなされていなかった。1944年の陸軍撮影の空中写真によれば60棟強ほどのアトリエが建てられたようである。従ってここには多くの作家が住んだ。赤松俊子、麻生三郎、石川実\糸園和三郎井上長三郎、小熊秀雄、桶野江節雄、博松正利、黄田貫之、斉藤求、佐田勝、島田由起子\寺田政明長沢節、野見山暁治(きょうじ)、浜田知明、丸木位里、森田茂、若松光一郎吉原治良らである。

 あまりに広い範囲に多くのアトリエがあったからなのか、まずさくらが丘アトリエ村と名付けられた後に、さくらが丘パルテノンとよばれ、さらに道路を境に第l、第2、第3パルテノンと称された。作られた順に南東側から第l、南西部を第2と呼んだそうであるが、後に入れ替わったともいわれている。北西部は第3パルテノンである。当時の住所には豊島区長崎第○パルテノンと書かれたものも多く散見できる。このように住んでいる地区の名称を住人によって名付けることは目白文化村を落合文化村と住人たちが変更したあり方と類似する

(註)これとほぼ同様の内容を白井謙二郎は板橋区立美術館開催「アトリエの謎」展1999年)付随の土方明司(当時練馬区立美術館学芸員)との対談でのべている。また林ゼミのレポートの樽松正利聞き取りによれば、さくらが丘アトリエ村の南東中央部の2列が先に作られ壁の乾かぬうちに入居したという。1936年6月11日の陸軍による空中写真にはさくらが丘アトリエ村の南東部と南西部に各2列、各6から8棟ほどのアトリエが見られることから、南側のアトリエのうち東側から着工し、西側にかけ2列ほど最初に建築されたものと思われる。

つつじが丘アトリエ村

 1938(昭和13)年から今の千早町2丁目に建てられたアトリエ村である。3列、計10棟のアトリエ村で、谷端川沿いにある。北側七棟は針灸医ないし漢方医が所有し、南側3棟は小林サスケが所有し、土地は新宿の内田という不動産屋のものだったといわれている(立教大学林ゼミ増淵レポート、1983年調査)。晩年までさくらが丘に住んでいた峯孝は、ここをアトリエにし自転車で往き来していた。峯のアトリエは現在「峯孝作品展示館」となり限定された日時で公開されている。このアトリエ村には他に、入江比呂、大塚睦、辻晋堂、三坂秋一郎、八木一雄などが住んでいる。この大塚睦のアトリエには戦後、前衛美術会のメンバーや「世紀の会」の安部公房、瀬木慎一、勅使河原宏などがあつまり、侃々諤々(けんけんがくがく)の日々であったと千川在住の桂川寛(註)は述べている。

(註)2011年10月16日逝去。享年87歳。

板橋アトリエ村(みどりが丘 ひかりが丘)ともに前述の初見が所有したといわれ、板橋区の南端の板橋区両町9丁目と10丁目にある。それぞれ十棟はどあったようだ。榎倉省吾、桑原実、白井謙二郎、兼松正樹、瀬戸団治、鳥居敏文らが住んだといわれている。

▶その他のアトリエ村

 上記の他に多くのアトリエ村があった。所有者は初見こう以外のものもあり全体の概要は大雑把のことしかわかっていない。例えば、長崎町の地主が初見六蔵、こうの事業の成功を模倣して始めたケースや、他の地域の事業家や資産のある芸術家が始めたケースなどがあったようである。ただ、多くのアトリエ村が第二次世界大戦の空襲によって焼失してしまったり、強制疎開で壊されたり、山手通りや要町通りの工事のため撤去を余儀なくされたりした。さくらが丘アトリエ村やすずめが丘アトリエ村などは空襲に遭わずに残ったことで池袋モンパルナスの実態が記憶されたといってもいいだろう。

■おわりに 

 アトリエ村の最盛期は1940年の小熊秀雄、長谷川利行の死と同期し、急速に終息する。この背景には戦争があることはいうまでもない。事実、アトリエ村はこの頃を期に応召や疎開等で急激に人口を成らし、1945年の終戦をもってこのコミュニティーは一つの区切りを付ける。空いたアトリエには空襲などで被災した人々が流入する。多くの芸術家たちはアトリエ村を去るか、転居していく。しかし、一部の前衛芸術などを中心に志向するグループや戦後新たに入居した芸術家たちによって戦後の新しい芸術運動の場にもなっていく。

 今日残されたアトリエはごくわずかであり、将来的な存続の望みは薄い。しかし、未発掘の史料は多々あり、更なる調査、研究が可能であろう。そのことによって、アトリエ村と近代史に関わる問題やそれに伴う裏面史などの開示となるかもしれない。場合によっては残されたアトリエ躯体そのものの保存も視野に入れてもいいだろう。「池袋モンパルナス」と言われた文化運動は希有の事象であり、近代美術の発生源の一つであり、なおかつ国内外でも例のきわめて少ない現象であることを知るべき必要があろう。


■絵描きたちの系列

 一口に池袋モンパルナスといってもその対象人物、友人関係、先輩後輩関係、師弟関係等々は複雑である。

 ここではアトリエ村住人をいくつかの要素で時系列に整理してみた。しかし、l人の作家が複数の系列に属し、頻繁な引越しをしていることを大きな特徴として認識しておく必要がある。これによってこの時代の文化現象が重層的に見えてこよう。

A 1910年代以降の居住者

A-1 東京美術学校系

 1910年代から池袋駅の西側に住んだ画家たちそしてこの若い芸術家たちが池袋に住み始めた頃美術雑誌に作家の住所が掲載されていく。深沢省三は鈴木三重吉と親しく佐伯祐三とは親友であった。(里見勝蔵、武井武雄、能勢亀太郎、深沢省三、森田久)

A-2 帝展系

 1910年代後半から目白通りに近い下落合に住んだ帝展の作家たち(大久保作次郎、中村彝、牧野虎雄、満谷國四郎ら)

 

A-2-1中村女系

 1920年前後に中村彝との直接のつながりで目白近辺に住んだ画家たち 中村彝のアトリエは目白文化村につくられた住宅と比すと大きくはない。彼を慕い若い作家達が集まってきている。有名なエロシエンコの像は鶴田五郎も同時に描いている。(鈴木良三、曽宮一念、鶴田五郎、二瓶等ら)

 

A-3 安井曾太郎

 フランスから帰国し二科会で注目された安井が1916年に、目白駅近くにアトリエを建て居を定めたことは若い画家たちに影響を与えたことだろう。京都で洋画を教えていた関係で、田中佐一郎などが近隣に住んでいる。目白の地が気に入ったのか同地を転居しつつ終生住んでいる。(田中佐一部、津田青楓ら)

 

A-4 ヒュウザン会系

 (川上涼花、岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、高村光太郎、高畠達四郎、山下鉄之輔、萬鉄五郎

A-5 早稲田系

 早稲田中学校などに在籍したことのある画家たち竹久夢二は早稲田実業学校在籍中に荒畑寒村と雄司ヶ谷で共同生活をしている。その他の作家達も早稲田中学卒業、中退ならびに関係者である。(会津八一相馬愛蔵、曽宮一念、竹久夢二鶴田五郎、萬鉄五郎ら

 

A-5-1新宿中村屋系

 子息が早稲田中学校で禽津八一に教えを受けた相馬愛蔵・黒光が世話をした画家たち。(鶴田五郎、中村彝、柳敬助ら)

 

A-6 雄司ケ谷、高田周辺に住んだ画家たち

 安井曾太郎と斎藤与里は関西で顔なじみである。柳敬助は不運の画家で、三越で催された大回顧展が関東大震災に遭遇しその作品の多くを焼失している。(河野通勢、斎藤与里、坂本繁二郎、竹久夢二、津田青楓、安井曾太郎、柳敬助、寓言甑五郎ら)

B 1920年代以降の居住者

B-1 目白文化村の画家文化人系

 (荒木十畝、大久保作次郎金山平三、島津良蔵、鈴木金平、鈴木良三、夏目利政、二瓶等、野田半三、牧野虎雄、安井曾太郎

B−2 中央美術系

 田口掬汀が主催する美術評論雑誌「中央美術』は関東大震災で活字をすべて失い、1924年、赤坂から椎名町(長崎村)に移転してくる。掬汀の息子が洋画家の省五、その息子が早稲田文学』の高井有一である。芸大教授まで務めた平福百穂は掬汀と秋田で同郷である。また「中央美術」の椎名町移転の編集後記には、会社移転のお知らせとして、目白駅からの行き方が詳しく述べられている。この文章を日本中の多くの若い絵描き達が読み、目白から多くの絵描きが住む長崎村への道を訪ねたことであろう。(田口掬汀、田口省五、平福百穂ら)

B−3 赤い鳥系

 夏目漱石の弟子であった鈴木三重吉は作家活動をやめて児童文学に専念する。その拠点が目白であった。挿絵の仕事を若い画家たちに提供したという。目白につくった「赤い鳥社」を関東大震災で焼失するがそれでもまた目白に社屋を構えた。(鈴木三重吉、深沢紅子、深沢省三ら)

B−4 白樺派系

 目白、長崎、雑司ヶ谷に居住した白樺派の構成者たち(木下利玄・目白中学教師、河野通勢・章土社、古屋芳雄・医師・岸田劉生のモデルもつとめた、細川護立・白樺派の金庫番といわれる)

B−5 「1930年協会」、「独立美術協会」系

 美術学校の学生が池袋に住む。音楽家の林龍三らを交え「池袋シンフォニー」と称し絵描きと音楽家の交流の場となり、それがパリに展開されていく。帰国後「1930年協会」を設立し、発展的に「独立美術協会」となる。(佐伯祐三、里見勝蔵、林武、前田寛治ら)

8−6 花岡謙二系

 現在の池袋芸術劇場にあった豊島師範学校の日の前に詩人花岡謙二 は本屋を開業する。店内で展覧会を催したと言われている。1924年に 店を人に譲り、長崎北荒井(現要町汀目)に培風寮というアパートを 開業し、ここに多くの芸術家たちが住むことになる。(靉光、菊地芳一、田中澄江、田中繁吉、前田寛治、山田新一ら)

B−7 長崎村初期アトリエ村系

 1926年頃から長崎町に絵描きが集まる。まだ貸しアトリエはなく、新開地であった長崎町の長屋や貸家に絵描きが住んでいる。林武や 松本竣介の住んだ地区は今でも小区画の家屋が建ち並び、往年の芸術村の雰囲気を残している。(田口真作、林武、松本竣介ら)

C  1930年以降の居住者

C−1 奈良アトリエ系(すずめが丘)

 現在の要町駅から北にのぴる商店街「えびす通り商店街」を西方に入った地区にある。「蛇道」といわれる数百メートルの道の両側に広がるアトリエ村で、終点近くに「培風寮がある。総数は10棟以上はあったものと思われる。(芥川永、朝比奈文雄、高山良策、竹田修、藤本東一良\森田茂、森田久、山田伸吾ら)

C−2 初見系(さくらが丘)

 初見六蔵、こう夫妻の事業の一つとして作られた最大級の貸しアトリエ村である。板敷き15畳ほどのアトリエに、2畳から4畳半ほどの畳の居住部分があり、井戸は共同であった。桜の植えられた交差する道路を挟み南西、南東、北西にそれぞれ20棟ほどの賀しアトリエが建った。南西の棟に大エで差配師の小林という人物が住み、集金修繕新築などをしたという。南東の路地の入り口に「さくらが丘パルテノン」という看板が建っていたという。(天野三郎、糸園和三郎、井上長三郎、小熊秀雄、樽松正利、斎藤求、菅沼五郎、長沢節、難波田龍起、野見山暁治、浜田知明、古沢岩美、丸木位里、赤松俊、峯孝、吉原治良ら)

C−3 つつじが丘系

 いまの千早町2丁目に1938(昭和13)年頃から建築され始めた。10棟ほどの貸しアトリエで、所有者は鍼灸師とさくらが丘パルテノンの差配師の小林だと言われている。(入ラ工比呂、大塚睦、三坂秋一郎、峯孝)c−4 板橋アトリエ村(みどりが丘、ひかりが丘)ともに前述の初見が所有したと言われる。両方とも板橋区の南端の板橋区両町9丁目と暮0丁目にあった。それぞれ柑棟ほどあったようだ。(榎本省吾、桑原実、白井謙二、末松正樹、瀬戸団治、鳥居敏文ら)

C−5 その他の貸しアトリエ

 西村喜久子アトリエ村 画家の西村喜久子が所有した貸しアトリエ。(青山籠水、佐田勝ら)

 千早町三丁目アトリエ 神保伴三郎所有 戦後建てられた8 2棟ほどである。(春日部洋、野口弥太郎ら) 興禁固アパート前アトリエ村 青野三郎所有 6棟ほど、現在は車庫 になっている(丹阿弥岩吉ら)

 谷端川沿いアトリエ 3棟あった(鳥居敏文、吉井忠、山下鉄之輔ら)

 山手通り治し、アトリエ この辺りの貸しアトリエは空襲の被害に遭って いる。先年の山手通り拡幅工事で土中から多くの焼けた画材類が発掘された。(今井繁三郎アトリエ)

 これ以外にも多くのアトリエ、貸しアトリエがあった。比較的多くのアトリエは戦災を逃れのこったものの、道路拡張等に伴う区画整理でいくつかのアトリエが消滅している。