作者の言葉
R††ist−sし]oTds作家の言葉[1955(唱和30)年個展関係費料]毎年個展を続けて今年で七回になりました。子供なら一年生です。長いこと絵を描いてますが近頃自分の吉葉がやっと見い出せたような気がします。私の絵はわからないという声を多く耳にします。絵に説明をつけるようにと要望が毎回ありましたので今年は不本意ながらつけました。絵の解説にならずに餞舌に終った様です。私の恐れるのはこの解説により私の作画精神に一つの限定を与えられることであります。芸術はオリジナル(独創的)なものでなければならない。新しいものでなくてはならない。そして今日のものではなくてならない。断えず生成発展をすべきものと考える私は限定されることを嫌います。絵を解ろうとする熱望は望ましいことですが、近代絵画は理解しようと思うより、より多く観ることで自然に解決がつくことと思いま−れ「抽象的な表現は近代人にとって誠に自然な要求である限り人々は必ず何かを発見する」でしょう。「芸術は限に見えるものをあらわすのではない。眼に見えるようにするのである」 ポール・クレー アブストラクト現代私のしている仕事は抽象絵画という型に入れられそうです。(厳密にいうと違う)が私は余りそれにこだわりたくない。「抽象画とはイズムの形式ではない」筈です。私は今流行の抽象絵画というものを否定したくなるほど恐れています。ただ単なる線や面の操作によって絵画が安易にでき上るものと考えられやすいからですム実際に言ってみて自然主義的な描写によるよりも抽象画は一段と操作がむづかしいと自分の体験から明確に言える様ですムもう少し感じたことを言えばそれは「自然の内奥に入りこみその生成の過程に立会うこと」であるからでしょう。創造することを自分の中に体験するからでしょう。観る人は先ず画面の中に何が描かれているか知りたいことと思います。普通一般に私達がすでに知っている何か物の形を(又時には自然の雰囲気をも)絵の中に見つけた時にその絵が解ったと思う様です。然し近代絵画は全くその観るところを違ったところにおいて描くのです。だから理解しようとするだけでは恐らく無駄なことだと思います。芸術に理解が必要でしょうか。この絵は「祭」と題して昨年の新制[作]展に出品した一つです。画因はあの賑やかなお祭にあったのではなく形態と色彩の抽象的な操作によって出来たまでで題はあとからつけたのです。絵画的空間の処理とゆうことは極めてむづかしい問題で フォルムす。形態と相対的な関連をもっているからであり更に色彩とも密接な関係があるからです一面レ画のどんな部分でも全体に影響する。それを完全にするにはやはり画面全体に於て秩序ある統一を最も敏感な感覚によって操作し又処理する外にないのでしょう。この絵は以上のような意味で赤線のリズム、それを包つむ空間、絵の周囲をかこむ黒いとざされた辺りの操作に苦心しました。マチエール(絵の航)が重々しいのが気になりました。エメラルドグノーンで軽るくした積りです。 ヽヽヽヽ発想から表現え[ママ]の過程にあって途中にカイザイ物の入ることを近代絵画は好まない。私の作画体験から云うとたとえ途中で大きな壁にぷつ力りていても絵ができ上る時は無意識の中に行はれることが多い。この絵も大体そんな風にしてできた−ツです。極めて明快な調子で自分でも仕事をしていて楽し力りた。だが黄赤に対する補色がもっと欲しいところを我慢して入れなかつた。そんな点は苦しいです。「抽象画の本質的な考え方は何を描いているかが問題ではない。しかし答えを明確に、それのみの答えを必要とする。厳密な抽象的創造は自然の均衡と秩序を失うことではない」
1012R†tlSt−suJoTds作表の吉糞この絵は赤と黄が主調色となって出来ています。意味ありげな赤い線は強烈で、黄色い面はそれを一層引きたたしめています。何か強い意欲のようなも[の]を表してみたかったのです。緑の円は−ツの安定を画面全体に必要とすると考えたのであの処を適当と思つて置いた。原色の対比で出来ているがこれで−ツの秩序ある絵がどうやら仕上ったと思います。この絵は何を措いたかと閉れると困る。物の形−そうゆうものはないのです。この絵は去年新制作展に出品した−ツです。この頃から(去年五月)私の絵に灰色に代って赤、黄、育といった今まで使わなかった色が入つて来た様に思います。特に朱、黄系統の色に強く魅かれる様になりました。近代絵画に於ては色自体に価値を必要とします二物の色ではなく、私はこれまでそれを混同していたことに気がつきました。絵画に現実的なリアリテを求むるとき色彩は私の場合必然的に原色に近いものを要求するのです。強くひかれたと云うことは私に現実がそうさせたのでしょう。自像[fi9.1]と題して出したのですが他意はないのです。無理にこぢつければ新しい自己発見の記念像とでも申しますか。線というものは実に不思議なものです。私達に人間の意志、感情を伝えてくれるものだから。東洋の絵には実に素晴しい線があります。雪舟の線、宗達の線、浮せ絵の線、デッサン(芸凱ま線の芸術だと思います。この絵は日本の色紙に試みました。何か変った、落着いた感じが出る様です。画因は中国(支那)の極く古い時代の図柄の中にあります1(東洋のプリミチープです)簡単にでき上っているように見えますが苦労は油絵を描く時と同じです。 テーマ問題は絵画以前にあると思います。主題は子供です七マチスは死の直前までデッサンをしいたそうでれデッサンが大切だということは今更申すまでもないことですが一般に絵の下図の如く考えられている様です。私は絵のもと素と考えています。私はデッサンをタブロー(デッサンに対す[る]絵)以上に重要視しています,この四枚はプリミチブ(原始的)なものに近頃心をひかれているのでそんな何かが出ないかと探して描いた中の一部です。「プリミチブ」なものの中に近代絵画の進路に可能性を暗示している様に思うのですが。自分の作品を文字で解説することは私の一番きらいなことです。どんな名文で記述しても(私にはそれも出来ない)殆んど効果はないと考えるのです。さてこの絵は人間の顔が描かれている様に見えます。発想は人物ですが男か女か誰れかということも考えてみなかったです。人間の姿をもっとはっきり描いたらどうなるか。恐らく私の意図する大事なものが表現できなくなると思います。強いて画題をつければ「仏像」とでもするでしょう。私は仕事の上で日本人である以上はたとえ西洋の画材を使用しても日本人の絵としてどこまでも強く出なければな クリマらないと考えます。それは風土の問題でしょう。この絵は多分にそうゆうことを意識して作ったのですが、さてどこがどうかと説明を求められてもー寸できないです。それはこの絵の発想が説明しにくいのです。だから観る方の人も説明のつかない感覚にたよって観る外には方法がないと思うのです。このことは特にこの絵に限ったことではありませんカi。自分としては三か月もかかってやっと仕上げた作品でその過程に於て学ぶところが多かったものです。「立華」と題しましょうか。
オーペルにてl鎌田正蔵fi91:白像1954年昨年の夏、かねてからの念願であった、ゴッホの墓を詣でることが出来ました。パリ在住の岩谷夫妻の案内で、外に友人二人を加え五人、北駅を十時四十分発の電車で、オーベル、シュル・オワースまで約一時間でした。ゴッホの墓は駅から歩いて十五分位の、高台の畑の中にある。コング」一卜の塀に囲こまれた共同墓地の一隅にありました。途中にゴッホの描いたあの「オーベルの教会」が建ってました。この日は曇り空で、時々薄日がさす八月にしては少し肌寒い日でした。緑色の濃い蔦の葉に埋もれてゴッホと弟テオの墓が仲よく並んでいて、左の方が兄のです。丁度昼時でしたので、私達は夫妻の手料理やおにぎりを墓の前の石に腰をおろして食べながら、ゴッホのオーベルでの生活のことなどを話し合いました。何故に、この丘で自殺をはかったのか、いろいろ考えられますが、はつきりしたことは分らないようです。遺書もなかったそうです。しかし病状が、かなり悪化していたことはたしかだったと思われま丸それにしても、此処オーベルに来て力吟の七十日間に八十枚近くも描いたゴッホという男は、どんな人間だったのか。こんな話を一時間近くも話し合いました。はるばる東洋の島国から訪ねて来て、おにぎりを頬ばりながら話をしている私達を、地下のゴッホは何んと見たことでしょう。塀の外は一面の広い麦畑で、空にはひばりがさえずっていました。−『画廊好雅堂ニュース』画廊好雅堂、昭和54年春期号(第2号)、1979年3月12日、4頁●その他の作家の吉葉については『画集60年鎌田正蔵展』図録、小泉晋弥、杉原聴、菅野洋人(編)郡山市立美術館、1996年を参照されたい。●挿絵は『画集60年鎌田正蔵展』図諒より複写した。13
鎌田正歳時年譜ChTOnOlo別本格年譜は「鎌田正蔵年譜」『画業60年鎌田正蔵展』図録、小泉晋弥、杉原聡、菅野洋人(編)郡山市立美術館、1996年、91−106頁を基本とした。凡例●本略年譜には、鎌田正蔵に関する事蹟を編年順に収めた。●展覧会出品記録には、冒頭に「O」を付した。●同時代の動向に関する記述には、冒頭に「》」を付した。1913(大正2)【0鳶10月3日、鎌田悌次郎と秀子の長男として、父の赴任先の島根県松さ工市に生まれる。リ1父・悌次郎、実母・秀子と1917(大正6)頃】3、4兼福島県田村郡三春町清水に転居(鎌田家は代々三春藩主秋田家の家臣であつた)。その後仙台、東京・牛込へ移り、10歳の時に、南洋庁に赴任していた父を追ってヤップ島、ボナペ島へ渡る(1925年に三春に戻る)。その間に2歳年下の妹・美屋子と母を相次いで亡くす(悌次郎はその後再婚するも、義母も16歳の時に亡くす)。南洋にて1926(大正15)F13鳶4月、三春町の旧制・田村中学(現・県立田村高等学校)へ入学。翌年、父が三春町長となる(1931年11月まで)。1929(昭和4)【16点画家になることを決意。父に反対されるも、その父の紹介で石塚省≡(三春生まれ、松岡映丘の弟子)の世話になる。1931(昭和7)F18鳶3月、田村中学校卒業。東京美術学校(現・東京嚢術大学)の受験に失敗。東京・谷中の田村学寮に転居し、同舟舎で小林万吾に木炭デッサンを学ぷ。その後、品川八ツ山に下宿、翌年には父とともに叔父の恭三郎宅(代々木上原)へ転居。1933(昭和8)」20鳶4月、東京美術学校油画料予科入学。田辺至教室でデッサンを学ぶ。1934(昭和9)121歳2月、福島コレクション展(東京・有楽町、日本劇場)開催。この時、鎌田はピカソやルオー、モディリアーニの《髪をほどいた横たわる裸婦》を見る。4月、東京美術学校油画科本科入学。岡田≡郎助教室で本格的に油絵を始める。1937(昭和12)124鳶5月11日、東京美術学校油画科同級生の石原寿市、加藤太郎、杉全直、高橋善八、山本占太郎、福留五郎、白滝弥彦、日向裕、山元憲一、杉原正巳とともに同人会(のちの貌)を結成。6月、三毎外超現実主義作品展(束昇銀座、日本サロンほか)開催。鎌田はエルンストの風景に非常に惹かれたが、ダノには関心を寄せなかった。〇11月8−11日、第1回貌展(東京・銀座、紀国屋画廊)《的のある風景》《壁》を出品(1939年の第4国展まで出品)。この年、池袋、長崎のアトリエ村、通称パルテノンヘ転居。1938(昭和13)】25歳3月、東京美術学校油画料卒業。4月初旬、『JEUXD■ESPRlT』第1号発行(1939年の第8号まで発行)。10月、父が三春町長に再選(1941年12月まで)。12月6日、≡春に帰郷。その4日後、仙台野砲二連隊入営。「貌」の仲間たち上段左から山元恵「加藤太郎、杉全直、下段左から鎌田、杉原正己 1938年頃1939(昭和14)L26鳶03月10−30日、第9回独立美術協会展(東京・上野、東京府美術館)《庭園》(c∂t.2)入選。1941(昭和16)】28鳶12月10日、除隊。1942(月初17)】29歳1月、仙台野砲二連隊に再召集される。4月29日、悌次郎死去。夏頃、杉全直の仲介で福沢一郎の戦争画制作のための資料として、軍服や鉄兜などを貸出す。その礼として福沢から鳩のデッサンを送られ、それに刺激を受けて鎌田も鳩のスケッチをする。1944(唱和19)【31鳶4月29日、岡山マサと結婚。1945(昭和20)【32書5月末、作品を預けていた加藤太郎のアトリエ(世田谷区代田)が爆撃を受け焼失。》 8月15日、終戦。9月、復員、三春町へ帰る。11月、小名浜高等女学校(現・県立小名浜高等学校)教諭となり、小名浜・古漬に移る。1946(昭和21)133歳5月、若松光一郎、熊坂太郎、鈴木新夫、柴田善登、柴田左千雄とともに同人会(のちの新吉会)を結成。05月25−26日、第1回同人会油絵展(いわき市、マルトモホール)《自画像》(c∂t.3?)ほか4点を出品(以後、第4回展を除き、第12回展まで出品)。1947(唱和22)】34歳6月1日、県立安積高等女学校(のちの県立安積女子高等学校、現・県立安積黎明高等学校)教諭となる。7月、三春町へ移る。9月17日、長女・陽子誕生。1948(昭和23)135歳06月19日−7月5日、第8回美術文化協会展(東京」=野、東京都美術館)《ニンフ》入選。8月1日、佐藤昭一、西田藤次郎、杉三郎、丸樹長三郎、米倉免、安藤路郎らとともに福島県新美術連盟を結成、鎌田は同連盟の委員となる。〔〕11月5−7日、福島県新美術連盟第1回展(郡山市商工会館ホール)出品(以後、第3回展まで出品)。011月10−14日、第2回福島県総合美術展(福島市公会堂)《赤い服の女》出品、特選・知事賞受賞(以後、第41回屈まで断続的に出品)。1949(暗朝24)i36鳶1月、安積女子高校の教員住宅(現・郡山市長者)に移る。03月5−17日、第9回美術文化協会展(東京都美術館)《少女》(c∂t.5)入選。011月18−20日、鎌田正蔵油絵個展(第1回、郡山市、クラブ自動車階上)25点出品(以後1955年まで毎年個展開催)。1950(昭和25)】37煮》 6月、朝鮮戦争勃発(1953年7月、休戦)。〇10月28−29日、鎌田正蔵油絵個人展(亡父悌次郎追善供養)・(≡春町、三春小学硬大講堂)30点出品。こ11月25−27日、第2回鎌田正蔵油絵個人展(クラブ自動車階上)16点出品。1951(昭和26)【38託〇11月11】15日、第2回県南美術協会展(郡山市公会堂)出品(以後、第41回展まで断続的に出品)。011月12−14日、第3回鎌田正蔵油絵個人展(郡山市、ツタヤ洋品店2階ホール)15点出品。《【裸体男性群像]》(働実)の前で 1951年頃
1952(昭和27)】39鳶1月頃、郡山市で1941年に結成された蒼寺社の同人となる(以後1963年まで同社の展覧会に断続的に出品)。09月21−10月7日、第16回新制作協会展油絵部(東京都美術館)で《作品》(c∂t_11)が初入選(以後、1998年まで毎年出品)。011月2十25日、第4回鎌田正蔵油絵個人展(ツタヤ洋品店2階ホール)10点出品。1953(昭和28)弓40鳶05月30−6月1日、鎌田正蔵油絵個人展(福島市、物産鋸)26点出品。08月22−26日、第2回平和のための美術展(郡山市公会堂)《働実》(cat.9?)ほか1点を出品(以後第4回展まで毎回出品)。011月21−24日、第5回鎌田正蔵個展(ツタヤ洋品店2隋ホール)約14点出品。1954(昭和29)【41点9月、郡山市豊田町(現・長者)に自らが設計した住居兼アトリエが落成。1956(昭和31)!43裁9月21日−10月7日、第20回新制作協会展油絵部(東京都美術頗)《作品B》《黒い火》で新作家賞受賞、協友となる。1957(昭和32)144鳶佐藤昭一、佐藤宏道、芳賀忠行、渡部武に賛同し、束原正光、橋本章とともに新作家グループを結成(のちに新作家美術会、続いて集団新作豪に改称)。(つ4月27−30日、第1回新作家グループ展(ツタヤホール)出品(1980年まで毎回出品)。9月21日−10月7日、第21回新制作協会展油絵部(東京都美術鶴)《水土》で新作家賞受賞。011月22−24日、鎌田正蔵個人展(三春町小学校)21点出品。1958(昭和33)145義春、蒼胃社の仲間、佐藤昭一、橋本貢と新築の郡山市立図書館(現・郡山市歴史資料館)の壁にレリ⊥フ制作。07月1−10日、鎌田正蔵小品展(白河市、松河屋2階)12点出品。この年、アートクラブ会員となる。若松光一郎(右)と自宅前で 1958−59年1959(昭和34)146t・05月18−24日、鎌田正蔵個展(東京・銀座、サトウ画廊)14点出品。1960(唱和35)L47鳶7月、杉全直を招き、講演会を行う。cll月14−20日、第2回鎌田正蔵個展(東京・銀座、サトウ画廊)12点出品。郡山市立図書館のレリーフ装飾の前で 左から鎌田、杉全直 1960年7月1962(昭和37)149裁11月7日、安積女子高校創立50周年を記念して、朝倉摂の講演会を行う。cこの年、アートクラブ展《作品(緑色)》(cat15)出品。朝倉摂(左)と安積女子高校で 1962年11月7日1964(昭和39)151歳》 8月、べトナム戦争勃発(1973年1月、停戦)。1965(唱和40)【52裁》 3月16日、平和運動家アリスリ\−ズがベトナム戦争に反対して、デトロイトで焼身自殺を遂げる。1966(唱和41)153鳶9月22日−10月10日、第30回新制作協会展油絵部(東京都美術館)く祝日(A)》《祝日(B)》《祭日(B)》入選、会員推挙。1968(昭和43)【55鳶3月、安積女子高校教諭退職。4月、郡山女子大学短期大学部生活芸術科教授就任。1969(唱和44)【56鳶=7月1】10日、鎌田正蔵個展(郡山市、工ムポリアム画廊)15点出品。1972(唱和47=59煮010月18−23日、鎌田正蔵個展(郡山市、カドエビ画廊)。1973(昭和48)⊆60龍7月30日−8月20日、若松光一郎とヨーロッパ旅行。11月、若松光一郎、鈴木新夫と素心会結成。1974(唱和49)≡61兼01月19−28日、鎌田正蔵素描展私の見たヨーロッパ(カドエビ画廊)。1975(唱和SO)【62鳶8月17−25日、ギリシア旅行。1976(昭和51)163鳶05月5−9日、鎌田正蔵展(1961−1976.自選展)(三春町公民東3Fホール)約32点出品。011月17−27日、東京美術学校昭和13年卒業生によるGroup13に参加。第1回展(東京・銀座、和光6階ギャラリー)《責装(A)》《責蓑(B)》出品(以後、1990年まで出品)。1978(昭和53)】65鳶8月1−20日、スペイン、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅。1979(R和54)【66鳶9月28日一10月6日、若松光一郎と東ドイツ旅行。裁き▲ ” い‥宮山帆船T・・一・・一・門ハ仙噂∧ 《小家族(A)》と《小家族盲)》の前で 1981年8月叩裏箔仙1982(昭和57)【69栽03月24−29日、鎌田正蔵展‘■あるフォルムの探求に向っで近作絵画20点(郡山市、力増ね画廊)。〇5月7−31日、鎌田正蔵展−あるフォルムの探求に向ケぐ−(東京六本木、ストライカ\ウス美術館)21点出品。この年、三春町清水にアトリエ落成。1984(唱和59)【71歳3月、郡山女子大学教授退職。010月20日一21日、アトリエ展(個展、三春町アトリエ)。1986(唱和61)【73歳》 4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故発生。04月27−29日、第2回アトリエ展(個展、≡春町アトリエ)。1990(平成2)岳77歳10月10日−11月25日、「日本のシュールレアリスム1925−1945」展(名古屋市美術飴)に出品。1991(平丘3)】78ま》 1月、湾岸戦争勃発(同年2月、停戦)。1994(平丘6)【81兼5月12−22日、鎌田正蔵作品展黒い絵(郡山市、Galleru静〉32点出品。11月3日、郡山市文化功労賞受賞。1996(平成8)L83鳶04月13日−5月12日、「画業60年一鎌田正蔵展」(郡山市立美術館)。1999(平成11)7月15日、肺炎のため死去。ゆゆ
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