4月1日から17日まで、2回目の無選首都展が開催される。目録によれば点数こそ前回並みの189点であるが、出品者も増え、明らかに第1回展よりも内容的に充実した感がある。目録にしかるべく「会則」や「出品規定」が掲載されている。出品者の陣容はあいかわらず「アクション」系は参加せず、木下等も抜けたが、「マヴォ」系はさらに高見沢路直や住谷磐根や柳川税人が加わるなどして中心的な勢力となりかけていた。中原自身はここで「Atomic l 1925」(出品目録189番)を出品している。はたしてこれが「アトミックNo.1」という副題をもつ画家の大作「乾坤(けんこん・天地・陰陽。)」かどうかにわかに断定できないが(というのも「乾坤」はこの年の9月の三科展に出品されることになるからである)、その画風は末公刊の北園克衛宛書簡のなかで「キリコ通過の中原」の作であるとした「ノスタルジア」、あるいは静謐(せいひつ)で透明な時間が支配する「海水浴」とはおそらく異なり、人間の視界の外部にある巨視と微視と幻視のコスミックな世界を幻想的な筆致で描くものであったろう。
そこで中原は「絵画原器」というものを着想する。「絵画原器」とは「計算可能」な絵画を「計算ストラクチユアー」に還元したもので、いくつか図式に分類された上でその存在形式と可能性について考察が加えられている。「絵画原器」は「計算表」さえあれば破損することもなく、「古くなつたらいつでも原器を出して新しいのを作り出す」という点で上述の絵画の破産という問題を根本的に解決するのである。この「原器」のメカニズム自体はバウハウスで活躍し、個人主義を超える客観的な正当性を追求していたモホイ=ナジの電話発注による絵画、1924年に発表されたいわゆるテレフォンビルダーに通じる。最後に著者は新美術館Muse de Noirについて、太陽の位置にしたがい回転する展示室、「絵画原器」の保管室も確保される施設の計画を細かく図解して、この長い文章を締めくくるのである。
無選首都展の実践的な行動に並行して掘り下げられた絵画原論ないし絵画のシステムに即応する作品は当面は観念としてしか存在しないわけであるが、しかし中原實の絵画作品にそうした想像力が起動され、反映されないはずはないだろう。それが第2回無選首都展(「Atomic l 1925」)、三科会員展(「Atomic No.2」)、三科公募展で連続的に出品された「アトミック」の連作であり、とりわけ2メートル四方の油彩「乾坤(けんこん)」であったと考えていいだろう。
しかし、例外的に中原實作・演出・装置の「Pensees Sans Langage.(又は蒼穹(青空)の尺度)」については台本、上演に関連する写真、梗概(こうがい・あらすじ)のリーフレット(パンフ)があり、また仲田定之助、岡村蚊象による「色彩・光線・形態・音響の階調的転換によって舞台上の空間に一切の人間登場を否定して、ただ動く抽象形態を表現する可能性を創造する着想」(仲田「回想の三科」『みづゑ』1969年2月号)であった「ファリフォトン舞台形象」についても仲田の東京朝日新聞への寄稿をはじめ文章や上浜写真が残されており、わずかに「劇場の三科」の様子を推測することができる。前出の北村小松の評では、評者が最初の「劇場の三科」の野放図な挑発を期待していたのであろう、藤田巌の「零」、川田照の人形劇「三科二十五座」、田口麟三郎の「太陽は置いて行かう」などの「途方もない面白さ」について好意的であったのに対して、このふたつにはむしろ厳しい注文をつけている。それは両者がより深く芸術性を追求する実験的性格が顕著なものであったことを逆説的に物語るのではなかろうか。