柳瀬正夢との出会、想い出、そして別れ
松岡朝子
私が柳瀬に巡り会うことになったのは、子供の暗から裁縫ごとが好きで、ことに当時としてはまだ珍しかった洋裁の仕事をなんとか自分の生業(なりわい)に出来ないものかと念じたことに始まります。・・・まだ江戸の気風を色濃く残した深川で生まれ(大正4年)、士族上がりの祖父の代からの印章屋の娘として、懸命に稼業にいそしむ人生に囲まれて育った私にとっては、祖父や父たちがそうだったように、自分の手に自分なりの技術を付けて生きて行くということはごく当り前のことでした。
文化服装学院やドレス・メーカー女学院といった、洋裁を本格的に教える学校がようやく体(てい)をなし始めた頃のことであり、また三越が初めて婦人服売り場を設けて、その立体裁断の技術が大いに話題となったものです。
洋裁を本格的に習うには洋裁学校に通うか、あるいは誰かに学ばねばならず、独力で立体裁断の技術を習得するには、基本になるスタイル画のための人体素描を誰かに手解きしてもらわねばなりません。私のデッサンの先生探しはこうして始まりました。
それ以前、私は17歳の時に、地下鉄(浅草一上野間)の検札係に採用され勤めていましたが、給与は男性の半分以下という過酷な労働条件の改善と反戦平和の目標を掲げた、モグラ争議ともいわれている1933年の東京地下争議に加わり、僅か1年足らずで解雇されました。
この時の争議の仲間を通じて、築地小劇場のスタッフや雑誌『文学案内』の編集者らと親しくなっていた私は、『文学案内』の遠藤輝武さんが柳瀬のことを教えてくれて、同じ編集の小野春夫さんが西落合の柳瀬のアトリエに連れて行ってくれました。こうして、かねての私の希望通りに「デッサンの先生」と巡り会うことになったのです。1936年(昭和11)、私が21歳の春でした。
柳瀬正夢、当時35歳。治安維持法違反で繋がれた獄舎から漸く解かれたとはいえ、獄中に居て妻を亡くし、幼い娘二人を抱えて途方にくれている時期だったと思います。後で聞いたところによると、私の紹介者は当初から「柳瀬が一人で困っているので嫁さんを世話しよう」という触れ込みだったようです。
ともあれ、私は洋裁のための「デッサン練習」に週3回位、深川高橋(たかばし)の家から電車で目白まで行き、目白から徒歩で西落合の柳瀬のアトリエに通いました。この西落合のアトリエは、大河内信敬さんの友人・松下春雄さんから借りていたもので、政治や社会詞刺の漫画を禁じられていた柳瀬が、ここで油彩画に取り組む積りだったようです。
デッサンの練習には、私の他にも数人来ていて、いずれも勤め人や労働に従事している人たちで、格別に曜日を決めて通っているという風ではありませんでした。後年、柳瀬はこうした自分の所に集って来る若い絵描きを中心に「写生派コペル」を組織して、展覧会を開催しました(1940年第1回展)。柳瀬から私も作品を出すように言われて、それまで油絵など描いたこともなかったのに、妹がミシンを踏んでいる姿を描いて出品しました。
そして、私たちは1939年(昭和14年)の初めに結婚しました。何事にも耐えられる若さでしたが、家事に、出入りする多くの客の接待にと目まぐるしい日々が待ち受けていました。
ただ、結婚した年の春に、中国華北への写生旅行に柳瀬は私たち家族を伴いました。この折の、柳瀬の写生や写真撮影に従った想い出や記憶は、今も鮮明にあります。
デッサンやスケッチの類いは細かく覚えてはいませんが、長く逗留した北京で柳瀬が描いた油絵は1点残らず記憶にあります。広大な北京城の周辺を、柳瀬は朝はやくから夕方まで描いて歩きました。樹木の多い北京城の寺院の一画を幾分俯瞰し、緑の木々の間に黄色や紫色の屋根瓦が縦横に交差する様は実に美しいものでした。それを柳瀬は非常に早い筆で描いていきます。一気に対象を掴み取るといった風でした。写真にしても同様で、同じ対象を何度も何度も撮るというようなことはせず、一瞬にして捉らえてシャッターを切りました。
こうした実り多い中国大陸での取材旅行も、1942年の満州を最後に、時代の逼迫とともに柳瀬の活動も封じられていました。そうした1943年(昭和18)春の三鷹市牟礼のアトリエの完成は、今思えばほんの短い一瞬でしたが確かな明るい輝きではありました。羽仁五郎、小林勇さんと柳瀬の三人が、同じ敷地の中に家を建てるという名目で、その実お二人の柳瀬への支援に、山越邦彦さんが設計で加わって下さる形で実現したものでした。一反歩の土地を農家から借りて、その広い敷地に家屋とアトリエを併設するというものでした。
二百坪にあまる土地は広い菜園となり、四季の野菜をふんだんに提供してくれました。東中野に住まわれていた長谷川如是閑さん、豪壮な邸宅の疎開のためにアトリエが一杯になる程の荷物とご家族を預かった松方三郎、さらに1945年(昭和20)の5月から始まった東京新聞の連載小説「おがむ」の挿絵の原稿取りの担当者が日参するというように、戦争末期の断末魔にあってむしろ柳瀬と私の周辺は、賑わいを増していきました。……5月25日深夜に柳瀬が非業の死を遂げるまでは……。
この理不尽な柳瀬の突然の死による、私と柳瀬の永劫の訣別は、私自身に、まだ多くのことを語り継ぐべき責を残していると思っています。 (まつおかあさこ/柳瀬正夢夫人)
Top