レオナルドの科学技術

00010002■レオナルドの科学技術

  オラツィオ・クルチ

■植物学

 若いころからレオナルドは動物や草木、花などを熱心に写生し続けた。それらのスケッチは彼のすぐれた観察力を示している。20歳の時には、後に『聖告』の天使の手に再び描かれることになる名高い『サン・アントニオの百合』のデッサンを描いた。

ダビンチ博物館

 その後数年の間、草木と花の写生にますます情熱を注いだ。植物学上の特徴にも強い関心をもち、植物学的注釈を加えたデッサンも数多く残っている。それらは、フランス学士院図書館所蔵の手記、『絵画論』や『コディチェ・アトランティコ』とよばれるものの中や、またウィンザー宮王室図書館所蔵の手記にみられる。そのスケッチや注釈は彼が絵を描く場合、科学的に正しい・・・植物を描くために利用されただけではなく、その中に彼は植物学そのものの研究の動機を包含していたのである。

科学技術

 「コディチェ・アトランティコ』の中には、彼は植物が毛細管を通して根から枝まで水を吸い上げることを記している。また、茎の上に葉が規則的につくこと ヱうじ上(菓序)に気づき、それに関する法則を示している。樹木の幹が、植物学上「形成層」とよばれる若い組織によって太くなってゆくこと、その生長がくり返されることによって年輪が作られることを、正確に説明している。さらにこの年輪が、樹齢を示すこと、その太り方はその年の気侯の様子を示していることも理解していた。

 ウインザー宮王室図書館所蔵の手記に植物学的にみて正しい、花、草木、葉のスケッチが数多く納められている。これは1つの”植物図鑑”をなしている。

■地質学

 レオナルドは、地球を人間の体に似た生長の能力をもつ”巨大な生物”とみなした。そこでは、ラテンや中世の”われらが母なる大地“といった考え方を採っていたので、たとえば海の現象や火山の起源についての説明に、しばしば誤った解釈を下した。しかし、その他の大部分の研究では、今日なお正しいとされ、そして当時としては大変新しい考え方を提出している。

 とくに水について「水は自然の御者である」とのべ、水の働きによって地表が浸蝕される現象を説明した。地表の形が変るのが、水の働きによることを確認していた。水が運ぶ土砂の粒は、流れがゆるくなるに従って、大きいものから沈積して行くことを、実際に川の各地点から土砂を採って調べ、確認している。さらに彼は沈積物が地層を形づくり、固まって岩層となるという過程を、直感的に見通していた

 浸蝕と成層の研究結果かぢ、レオナルドはさらに”造山作用学”といわれる山のできかたの解釈を提起した。すなはち山は空気、水、気温などの外的な力によって造られると考えた。また地震や火山噴火、地盤沈下、隆起にも正確な記録を残している。しかし彼は地球内部の圧力にまでは論及していない。

 地層を観察しているうちに、レオナルドは当時「ニーキ」と呼ばれていた貝などの化石に出合い、これについても研究した。彼はきっばりと「化石は現在の生物の祖先にあたるものである」と断言し、地球上に化石が存在するのはノアの大洪水のせいであると信じていた当時の学者たちに論争をいどんだ。

地質学

 これらの業績の故に、レオナルドは古生物学の先駆者のひとりとされている。彼はさらに研究を進め、大地の変化を追求し、ついには地球そのものの起源と進化のあとをたどるまでに至った。

■水理学(水と水の利用に関する研究)

 ミラノ市周辺は古くから運行開運河、かんがい用運河の発達していた地方である。レオナルドがミラノ公のもとに招かれていた時に、彼はそのすぐれた工法・技術に強く心をひかれた。

 ミラノに来る前から、レオナルドは水利工事の技術に深い興味をもっていた。

 実際的な仕事の経験をもとに「水の運動と量の関係」を明らかにするための理論追求へと移った。

 「水」についての研究は手記の『I』と『F』に数多く、その他『コディチェ・アトランティコ』、『コディチェ・アルンデル』やウィンザー宮所蔵の手記のところどころにみられる。とくに最後の『ウインザー手記』には、大変見事な興味深いデッサンがある。

水理学-1

 これらの記録のなかで、レオナルドは流体力学の基礎原理をいくつかすでに指摘している。たとえば「流水の速さは、傾斜が急になると増し、抵抗や水底に凸凹があると減少する」こと、それだけでなく、「速さは流れの幅と勾配が同じであれば−深い川ほど速くなる」などである。また「川の流水量は、傾斜と深さが同じであれば、水底の幅に比例する」ということも知っていた。さらに水底や岸に沿う部分の複雑な水の運動や、船の通った跡(みお)の水の状態についても長い間研究した。

 技術の面では、ロンパルディアの運河を綿密に調査した上で、運河建設用の資材を運搬したり引揚げたりする機械や、土台建設用の「潜函」の構造、石張りの新しいシステムを発表した。運河や河川の底のドロをさらうための「しゅんせつ船」や何種類かの「水門」を考案した。

水理学-2

 こうした理論と実践の総合的認識から、実際にレッコからミラノに至る運河や、またそれより大がかりでももっと大型の船が運航できるフィレンツェから海へぬける運河をも設計した。後の方の運河については、費用の見積りや施工上の細部までの詳細な研究を残している。

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 水理学の研究の中で、レオナルドは水力エネルギーの合理的な開発・利用を重視している。ロンパルディアの、勤勉で進歩的な都ミラノで、レオナルドは、陶器、ガラス、嘩布、兵器などを製造する機械の動力に使われた水車の装置を調べ、分析しそこからより独創的な水の応用の方法を引き出した。多数の水車を同時に使う「複数水車」を設計し、水プ利用の「自動ノコギリ」を完成した。そのほか新型のバルブをつけたポンプを考案した。

■天文学

天文学

■地理学

 数学に達者だった彼は、地球の大きさを計算するさまぎまな方法を考案し、結局、その直径を12.500.000m、と算出した。これは現在測量から出されている数値12.700.000m(いずれも端数省略)とほとんど変わらない、正確なものである。

赤道半径 = 6 378 136.6 m ± 0.1 m (地球時(TT))準拠によるもの)

 雨水が大地へどのように浸透してゆくかを研究し、岩、陶土、砂礫などで構成されているいろいろの地層について、浸透のし易さを考察した。雪解け時期や干ばつ期に、わき水が規則的に増えたり減ったりすることとか、その他水に関するいろいろな現象を研究し、水のなせるわざを正確にとらえるようになった。

 「川の水は海から来るのではなく雲から来るのだ」という彼の言葉がある。水の循環を完全に説き明しているのである。雲が雨となって地に降り、川となり、川が海に流れこんで、そしてふたたび蒸発して……と循環する水の全容を正しくとらえられていた。彼は湖にも関心を示し、その記述の中にはしばしば、コモ湖、ヴァレーセ湖、ガルヌ湖、そしてマッジョーレ湖の名がみられる。

 山くずれによって谷が埋められてできた−とされる”湖盆”のできかたにも、彼独自の解釈をあたえようとした。海もまた彼の調査と観察の対象となった。彼は海の運動について、独自の方法で取り組んだ。大気とその作用に関する研究は、その現象が複雑であるために、ますますレオナルドの芸術家としての心をひきつけ、研究者としての精神を魅了した。

雲

 風がどのようにしておこるか・・・については、単に水平方向の空気の移動だけでなく、垂直方向を含めて、気団の循環を説明し、そのなかに空気のウズ巻きのデッサンを残している。また雲はどのようにしてできるのか、それがどのようにして雨になるか一についても論じている。

■地球の半径の算出

 地球の半径を算出するために、レオナルドは、高さ約5mのところにおかれた照準儀を使うことを考えた。この照準儀をかなり離れた2つの地点におき、各地点から北極星を見上げた時の見上げる角度の差と、地点間の距離によって、地球の半径を算出した。

■地図製作

 レオナルドの製図法の重要な特色は、応用水力学の研究、設計などの目的からつくられたという点で、物理学的性格をもっている。これら科学的目的のほかに、レオナルドはさまざまな工事の設計や施工に必要な地図も作成しており、これらはもっばら工事目的の実用のものである。当時山岳地帯を表現するためには、山を頂上から措いた、いわゆる ”ア・モンティチェリ〝という手法が使われていたが、これでは山の形を正確には再現できなかった。レオナルドはこの ミモンテイチェリ〝の方法を改良した。それは線描きとばかしを使い分けて、山の高低、水路をより正確に再現することであった。さらに、レオナルドは適当な色を使いわけることを加えた。川や水域には濃い青色、地面は黄色、凸部は茶色で表わすようにした。地図をかくことにおいては、レオナルドは芸術的な才能、製図家としての才能をフルに発揮した。レオナルド・ダ・ビンチが言うように、血管も、河川も、 もちろんその延長である尾根を含んだ地性線も、理論立てられた樹枝状になる そして、尖鋭な谷ほど傾斜が急である、一般の谷は、放物線状の連続傾斜を持つ、不連 続傾斜の谷は、断層や地質構造などが原因でできていて、滝の存在が予想される、など、 多くの理屈も準備される。

レオナルド・ダ・ビンチの樹形図

 フィレンツェ、ミラノ、イモラの地図およびロモランティンの地図が有名である。(ロモランティンはレオナルドがフランソワⅠ世のために城と村を設計した村である。)

▼トスカーナ地方

山岳部と川を描き表わすためにレオナルド流の手法を加えた例。

▼イモラの平面測量図 

 レオナルドによって描かれた最も有名な完壁な地図の最初の例磁石によって方位を入れ、細部まで正確に描かれている。

■化学

 レオナルドは自然現象を注意深く考察するうちに、元素とか物質という考え方に達した。そしてそれぞれの特性について研究した。

 彼は基本的には錬金術には反対する立場に立っていたが、錬金術の中に、科学の前兆としての価値を認めていた。事実、”無限の化合物”をつくるさまざまの変化を調べるという意味では錬金術は有効であるが、ただ金のような単純物質を創り出そうと全力をあげることは、明らかにナンセンスであるということを知っていた。

 実際のところ、錬金術がもとめたのは自然の神秘の中に奥深くもぐりこんで、物質の創造のプロセスを逆もどりして、はじめにあった単純な物質をつくり出すことであった。”化金石”を使ってあらゆる金属を金に変え、”不老長寿の薬”を飲んで生命を引き延ばそうとしたのである。

 しかし、錬金術は化学、つまりさまざまの物質の変化をつかさどる法則の研究に、道を開いた。レオナルドが研究し、分析した物質や元素の数は約100にもおよび、蒸留水から銀へ、澱粉から炭へ、辰砂(しんしゃ)から鉄へ、石炭から水銀へ、鋼から岩塩へと研究は進んでいる。

 レオナルドは化学の実験に多くの時間をかけた。中でも有名なのは、彼が自分自身の絵を描くために行った色の研究で、彼の使う色は彼の研究室で彼自身によって作り出されたのである。

化学蒸留器

 レオナルドは当時の蒸留器具について考案を加えた。当時の蒸留器はビン状で、その上に下向きの口のついつりがねた鐘形のフタを置くものであった。ビンは火にかけられ、鐘形のフタの中に蒸気が上がるようになっていた。蒸気を凝縮させるには、冷水にひたされた布が当てられた。レオナルドは冷却する方法を改良し、リービッヒの近代的な凝縮器にあるような、蒸留器の二重の壁の間に水を通す方法を考えた。

■数学

 数学を知らないものには、私の原理は理解できない。この言葉こそ、レオナルドの考え方の根本を示すものである。

 レオナルドは数学者とはいえないかも知れない。しかし現実家であった彼は、応用と効用の面で数学を考えていた。科学、技術の内容を表現する上で、数学が重要な役割を持っていることを確認していた。

 数学がまだそれほど重要視されていなかった時代に、レオナルドは彼の研究の上に、数学を巧みに利用した。たとえば、角材や丸木材を梁に使った場合、ほぞ穴にはめこまれた場合と、単に柱の上にのせた場合では抵抗力はどう違うか、また梁の中心に重量がかかった時の梁のたわみなどが研究された金属線の破壊重圧や張力抵抗を数学的に研究した。

数学-1 数学-2

 平面幾何学にも熱心だった。円に内接する正多角形を作図したり、弓形に関するたくさんの定理を系統的に整理した。

 放物線用や楕円形用のコンパスなど、数学器具もいろいろ考案した

■幾何学(応用)

 レオナルドの幾何学研究は、彼の科学・技術研究と密接に結びついている。彼自身「幾何学的遊戯」といっているように、正多面体をつくったり、円周や線分を等分したり、四角形の中に正八角形を書き入れたり、その他幾何学の問題を好んで扱った。

幾何学-1

 その応用の面として、天文学の分野では、太陽と月の距離や月の大きさ、を決定するのに、幾何学的な方法を使った。光学では、その光線の研究に幾何学を役立てた。彼以前に、ビュトロ・ディ・ボルゴが述べているが、レオナルドも、幾何学の法則の上に立って遠近法を研究した。幾何学そのものには、とくに新しい貢献はしなかったが、色とぼかしの遠近法には正確な説明をつけており、この点では並ぶ者のない第一人者となった。

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 最後に、彼の独特な研究として、人体の各部の長さの比率についてなされた研究がある。もっとも有名なデッサンは、ベネッイア・アカデミーに保存されているもので、「神聖な比率」ともいわれるビトルビウスの構想に従って、模範的な人体の各部の比率を示した。

 

■飛行機械

 水理学、物理学、地理学、数学と、つぎつぎに修めていった学問分野の中で、レオナルドは空気の研究を進めるうちに、飛行の問題の研究に入っていった。

 飛行の問題を彼は、2つの面で、いろいろと考察した。1つは鳥の飛び方、他の1つは飛行する機械の研究である。いずれの面でもレオナルドは最初の人であった。飛行についての考察は、文字通り彼の独創であった。背中に羽をつけた人間というロマンティックな神話を打ち砕いて、科学者として力学的な方法で、鳥のように飛ぶことを研究した。

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 鳥の飛び方、風の吹き方、空気の抵抗、その他飛行に関する気体力学の系統的な研究に入る前から、レオナルドは飛行機械を考えはじめた。

 はじめ、.彼の注意力は小鳥がはばたいて飛ぶ難い-飛び方にひきつけられたが、鳥や空気の現象について研究した後は、大きな鳥の飛び万一グライダーのような飛び方に注目した。

 鳥の飛び方の研究は、レオナルドがもっとも力をつぎこんだ問題である。鳥の解剖学的研究から、翼のはばたきをやめてバネや大石弓の力を応用することを考えた。ここで彼は蓄えられたエネルギーを使う、発動機の考え方に達することになった。

 さらに自然界・・・鳥や虫・・・に学ぶにとどまらか、で、自然界には何のかかわりのない”飛ぶ横棒”として、プロペラを考え出した

 飛行の理論的な研究は、レオナルドのもっとも大きな業績である。なかでももっとも独創的な理論は、揚力、抵抗、空気、風に関するものである

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 揚力の研究により、レオナルドは、「小鳥ははばたきによって支えられている」という、当時の学説とは全く反対の結論に達した。「空気をおさえつけるために翼を上げ下げする」と考えたレオナルドは、翼の大きさ、形状、推進力の研究へと進んでいった。はじめの飛行機は、人間がうつ伏せになって乗るやり方であった。しかし、レオナルドが本気で研究した飛行機は人間が立った姿勢で乗る形のものであった。これは“レオナルドの飛行機”と呼ばれる。この飛行機の基本的な特長は、人間の筋力によって直接翼を動かすのではなくて、2つの大きなバネで翼を動がす点である。

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 もっともすぐれた独創的な発明は「空中ネジ」(ヘリコプター)である。これは半径4.8mの大きな麻布製人螺旋(らせん)形のもので、藤で枠取りされ鉄線で補強されてある。回転すると、”ネジ”は空気中で「普通の雄ネジが木材にくい込むのと同じように」上昇するはずであった。レオナルドはそのほか「天蓋(てんがい)」と彼がよんだパラシュートや、飛行機用の舵と傾斜計を設計した。

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■船の研究

 船の研究は、飛行に関する研究ほど多くはなかったが、やはり独創的で興味深い考案が見られる。船に関連したレオナルドの覚え書は、あちらこちらに散在しており、ほかのことがらのスケッチ、とくに軍事関係のものと入り混っている。レオナルドは、船の研究を軍事の分野の研究とオーバーラップさせていたのであろう。レオナルドはとくに船の推進機について熱心に研究しつづけた。帆の操縦法を学び、それがいろいろ不便な点の多いことを知り、彼はオールのついた車輪を推進機にすることを考えた。古代やローマ時代にもすでに取り上げられていた考え方を、ふたたび取り上げたものであるが、もっと進んだ一層具体的なものだった。彼は、外輪船だと安定して航行でき、速度も帆船やオール船より速く、同時に安全であると考えた。

 

 もっとも有名なデッサンは、人の手で回わす「外輪船」である。小さな車に水かきがっいていて、この軸に筒状の歯車がっいている。この歯車に大きな直径の歯車(クランク軸に固定)がかみ合っていて、クランクの回転が水車を回すことになる

 その他、レオナルドはいろいろなタイプの船を研究し、船に関しては、なみなみならぬ見解を持っていた。港湾の水底を清掃するしゅんせつ船を2種設計している。もちろん、古代でも船が岸に直接着くことができるために、つねに港の底を深くしておく必要に迫られていた。それだから水底にたまったクズやいろいろな破片や、海の流れによって入ってきた砂利などを除くために、常に手入れをする必要があった。

 レオナルドが設計したしゅんせつ船は双胴になっていて、2つの船体の間の空間を通して、土砂をさらい上げる作業ができるようになっていた。作業の際は多数のイカリによってしっがりと水底に固定される。

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 レオナルドが考案したショベルの形は、4世紀以上経つた今日のショベルの構造と比べても見劣りしない。これは金属製の矩形の箱でできていて、前の部分には水底にうまく実入りやすいように、鋼鉄製の歯が取り付けられている。

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 水の中の物体は、その物体と同体積の水の重さに等しい浮力を受ける−というアルキメデスの原理をレオナルドはよく知っていて、この理論をよく説明しているこの原理により、彼は潜水艇と潜水夫について、正確な考察をしている。

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 この分野の研究の歴史の中で、レオナルドが研究した長時間水の中にとどまっていられる潜水服などの装備は画期的なものである。彼は潜水夫の行動について正確な記述を残している。

 彼のねらいは、海中で人が作業できるようにすることであった。そうすれば船の竜骨を修理するのに、あわてて船を引き上げなくても、水中のままで修理できるからである。レオナルドの造船技術の研究の中には、彼が水中航行のことを考えていたらしい形跡がみられる。これについては、はっきりと書いてはいないが、彼の手記のあちこちのページに、このことに関係のあるように見える文章がある。

■建 築

 あらゆる分野に才能を発揮したレオナルドは、建築の分野でもすぐれた業績を残した。1482年ミラノにおもむいた時、ロドピコ・イル・モーロに差出した有名な自己推薦状の中で建築についても触れている。「公私にわたる大建築物の建築においても、また甲地より乙地への水路建設においても、他の何びとに比べてもこの上なきご満足をいただけると信じています」建築という分野でも、レオナルドは実際に建物を造ってはいない。従って建築に取り組んで、彼の才能を十分に発揮するという機会はなかった。しかし、彼のスケッチや構想は彼の燃えあがるような想像力と、あふれるばかりの天賦の才能をよく伝えている。

 ミラノにおもむく以前、フィレンツェでも、サンタ・マリア・デル・フィオーレやイル・バソティステロなどのデザインを描いていたが、ミラノとパピアの時代に一層精力的に展開された。それらの時期のあとに、レオナルドは建築について、彼なりの結論を引き出した。彼の設計は、線ができるだけ単純化されているのが特徴である。曲線を使った”遊び”の部分でさえも、彼の線は単純化されていた。

 貴族の館の2枚のデザインが有名である。1つは交差した段階のスケッチで、もう1つは対になった4つの欄干(らんかん)の図である。これらは近代の建築の設計にも採り入れられているものである。

 邸宅やその他の建物は都市の計画の中に調和するように設計された。そのために系統的に慎重な調査がなされた。しかしレオナルドが想像力をフルに活用して研究したのは、教会の建築物であった。柔かく波をえがく曲線の群れが中心部を形づくる優雅でおごそかなものであった。建築についての一般的な問題や形の上での美的な問題のほかに、レオナルドは建設の技術や科学の問題に取り組んでいる。

 壁面がくずれる原因について、また丸天井を支える柱の抵抗力について-など静力学的な研究が根気よく続けられた。建物に付随する各種の装置や備品、家具のすえ付け方など細部にわたって研究した。たとえば煙突中の空気の涜れをよくするにはどうしたらよいか、また室内を衛生的・健康的にするには・・・などさまざまな工夫研究が重ねられていった。彼はさらに公共施設の建設技術に取り組み、いくつかの設計を残している。

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 これらの中でも非常に興味深いのが橋の研究で、「ガラータの橋」の設計は有名である。これはコンスタンチはりノープルとガラータを、アーチ形をした1本の梁だけで橋をかけようとした設計のことである。

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 この設計は、ただスケッチが残っているだけであるが、その現代的な構想一単純な線の美しさ、それを支える構造力学的な計算-はすばらしい。

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 軍用の橋も設計した。この中でもっとも注目されるのは、放物線の形をした旋回橋である。

■都市計画

 大きな都市や大きな建築物を最初に造ったのはエジプト人であった。しかし、ギリシャ人やローマ人が、平面測量を正確に行って、東西、南北に走る2本の幹線道路を中心に、これらにそれぞれ平行な道路網で町を整然と分けたことは、賞讃に値いするものである。ローマの建築家ビトルビウスはこの方式でなく、軍事的な要情から、防備の面を強調した、がん丈な城壁に囲まれた八角形の要塞都市を設計した。

 ルネサンスの建築家たちも、多くこうした考え方を踏襲していて、ビトルビウス風の都市を前提とし、ここの上での設計をくりかえしていただけだった。

 古い都市が滅び、都市がスラム化し、見捨てられて、数世紀がたった。ルネサンス期になって、産業の発達で、ふたたび爆発的に都市が発達する時代があらわれた。交通網が発達し、多種多様な産業とそれに従事する人びとが流入してくるにつれて、都市は急速に、また無秩序に成長していった。

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 1485年、レオナルドはミラノでペストの大流行に出会ったが、そこでは5万人の市民が死んでいる。この悲由の教訓から、彼はミラノ領主に、市をもっと美しく衛生的に再建するよう提言した。農民や地主は村にとどまるようにし、合理的を居住区分によって、市街地を分散し区分しようとするものであった。

 このように市内の密集化を避けるため、レオナルドは市街地を紡錘形に配置しようと考えた。「市の空気が悪臭を放たないように」主要運河を中心の軸として、それに平行して主要な道路が造られた。

 レオナルドは、立体交差する道路や、いろいろの高さを走る道路、さらにこれらと地下道を相互につなぐ連絡階段など、詳細に考案し、1つの道路システムを形づくった。水路と道路との交差はできるだけ避けなければならなかったので、市の主要な横断河川の処理に苦心が払われた。水路システムは地上の交通システムとうまく組合って経済的に重要を役割を果すとともに衛生上の問題も系統的に解決するものであった。

都市計画-1

 運河の役割はもう1つあった。高架道路には中央に長さ180cm、幅2cmの割れ目があり、ここを通って水が下水道に流れこみ、さらにそこから運河へ落ちこむのである。そうすれば道路を洗った水を楽に流し出すことができる。さらに、地下貯蔵室や収集地からの排水を流し出すためには、運河はこれらの面よりさらに低い位置になければならをかった。レオナルドは「運河は何ものにもさまたげられず、直接に家々に連なる」ようにすることを目標としていた。

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 住宅用ビルについては、多くの家庭が住めるように、階数の多いビルにすべきであると提案した。これらのレオナルドの研究は、いまでこそ都市計画や住宅建築の基本とをっているが、当時の社会ではまだそうした考え方を取り入れるには、政治的にも経済的にも受入れ態勢ができておらず、歴史的を準備もをかったため、実現されをかった。

■軍事建築

 レオナルドは若い時代にトスカーナでいろいろの学問分野とともに、軍事に関する技術・工学についてもつつこんだ研究をしていたので、ミラノ公への自己推薦状でも、自信をもって軍事的を機械類を書き並べた。

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 ▲ 二重防護壁をもつ円形要塞この近代的ともいえる発想によって造られた要塞は、堀割りで分けられた二重の同心円状の防壁と、中心核の部分からできている。四方には半円形の「半月墜」があり、防壁間の連絡には地下道が用いられた。(断面を示すため、その半分だけが展示されている。)

 ミラノ時代、彼は市民建築の研究からはじめ、つぎに軍事建築にまで研究を広げた。軍事建築の研究は彼のロマーニヤ時代、すをわちチェーザレ・ボルジアヘ仕えていた時期(1502〜1503)に、頂点に達した。

 レオナルドは、その時代に実際に造られていた軍事建築の研究と分析からはじめたが、後にをって彼は将来を見越した立場から再検討した。そうした研究を基にしてレオナルドが最初に設計したものは、城壁をできるだけ低く、丈夫にするというものだった。これは当時の建築法を近代戦に備えた築城術に転換するものであった

 「半月堡(ほ)」とよばれた前哨防護壁を強固にして、ほぼ城壁と同様のものにした。そして、半月堡の数を増加へきし、結果的には多数の突出部が城壁にできた形になった。こういう方法でレオナルドは城壁構築を完成していった。このほか、要塞を強化する研究がある。ミラノ城もおそらく彼の考案によるものであったろう。この要塞は四角の塔を中心に、外に防御前方半月堡をを囲らし、攻め難くしたと考えられる。

 「建築家そしてすべての分野にわたる技師」に彼を任命したチユーザレ・ボルジアの下で、レオナルドは軍事技術の分野でもっとも充実した研究の時期を送った。ロマーニヤの築城技術や、ウルピーノやピオムピーノの要塞を調べ、発達してきた大砲の力に対抗できる城壁を造り出すという問題に専念した。

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 そこで、すでに無用の長物とをっていた「突き出し狭ま間」(敵の頭上から石や熱湯をあびせるためのすき間)や「防御小壁」(城壁の突起部分)といった邪魔をものを取除いた新しい城壁の型を考案した。

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 各部に二重の楕円形の形をしたおおいを当てて、敵の砲弾がその表面を滑って落ちやすいように工夫された。それだけでをく、さらに強固を要塞にするために、一定の間隔をおいて半楕円形の突出部を造り、そこに大砲を並べておくことを提案した。この城壁構築の考え方は、当時一般に考えられていたものに比べると大変進歩的であったが、4つの弱点があった。それは城壁つの近くにせめてきた敵をねらい撃つ、いわゆる近接防衛ができか、ことで、これを解決するには、弾道が城壁のごく近くで互いに交差するようを火砲の配置が必要であった。そこで彼がこの間題の解決のために、楕円形のおおいで守られた砲台・・・半月堡・・・を城壁の前面に並べた。これは堀の水面下に半分ほど沈んでいて水面の上を弾道が走るようになっている。

 地下道を通じて城内と連絡する。こうした考え方に立ってさらに研究を進め、レオナルドはついにマジノ・ラインなどの原型ともいうべき“要塞の典型’’に到達した。

 この設計では、レオナルドは突出部はすべてをくし、地上に高く出るようを構造をやめ、平地すれすれの高さで−標的としてもっとも小さい一同心円状に城壁が取囲むだけの構造を造り上げた。これは厚い壁と二重の曲面の天井でおおわれている。

 2つの円形城壁の間には堀割りがある。防衛砲台は上下2段。その反対側には廊下や、排水口、弾薬を配るための部屋がある。一番外側の城壁には遠距離砲撃用の窓が高い位置に並んでついている。その内側の城壁には近距離砲撃のために低い位置に窓がある。外側の堀には、半円球または楕円形の「半月堡」が半分ほど水面下に沈んでいて、側防のための砲撃に都合よくできている。この計画によってレオナルドは、従来の石を高く積み重ねていった、古い様式の城壁の考え方を飛びこえて、近代的築城技術へ近づいていった。要塞の構造全体を平地の高さにまで下げることによって、従来の不完全さ・・・防衛の際の連絡の困難、城壁近くの死角・・・を解決するため独自の考案を打出したのである。

■武 器

 レオナルドはロドビコ・イル・モーロにあてた自己推薦状の中で、彼の芸術家としての才能のほかに、軍事技術の面でも新らしい工夫をしていることをのべ、彼が考案した兵器類を列挙した。ミラノ公国がここ数年間にますます軍備を必要としてきた事情から、軍事技師としての仕事を受けることになるのであろうと彼は考えていた。レオナルドは一方では、当時使われていた、すべての軍事手段を点検し、それを改良することをおこたらなかったが、他方彼の天才的な想像力を思うがままにふるって、ほかの人がとても考え及ばない兵器をつくり出そうと努力した。レオナルドは投石器を改良した。独創的なワク組みをした車の上に取りつけられた巨大な石弓や多数の弾丸を同時に発射することのできる投石器を設計した。

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 ▼ これらの最新の武器の中の1つに、さほど大きくなくとも大きな力を出すことめできる複数バネ付き投石器がある。

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 攻撃手段としては、防壁や橋などを攻撃するための道具も見落さなかった。動く塔(階段がっいている)、取りはずしのできる階段橋をかけるための戦車などさまざまの用具、装置を設計した。

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 レオナルドは、当時進歩していた大砲の重要性を認識していた。大砲はすでに彼の時代より約200年前からや使われていたが、何よりも冶金学の進み方が遅かったので、あまり進歩しなかった。砲身ははじめ後装式であった。弾丸と火薬は砲筒の後から、「マスコロ」と呼ばれるお椀型の部分につめて装墳された。

 火砲が進歩し、ますます砲身が大型になってきて、後から装填することができなくなった。顔の蓋の部分(マスコロ)も、強い爆発力に耐えられなくなったし、また、装填を早くすることも困難になったのである。レオナルドは、大砲の後装が大変有利であると考え、ふたたび後装化することを研究した。結局、彼の蓋をネジ式にして、堅固にすることを考案した。レオナルドは、標的に大きな破壊力を与えるためには、弾丸の落下の強さを強くすることが必要であると考えた。

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 平行に、または扇形に幾本もの砲身を並べたさまざまの「多筒式大砲」や、彼が「オルガン」と呼んだ3段式33連装の大砲も設計した

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 弾道学の分野も彼の研究対象になった。弾丸がえがく弾道を研究して、球形の弾丸では弾道が安定しないこと、その形が正しく放物線を描かないことを洞察した。そこで弾丸を細長い尖頭形にし、安定用の小さな翼をつけるという構想に達したのであった。

 彼は攻撃用の戦車も考案した。従来の無蓋車に固いおおいをつけた。彼はいう。「この戦車で敵軍の中に突入すれば、いかなる大軍といえどもこれを壊滅することができる。歩兵の大部隊は無傷で、立ち向う敵もなくこの後につづくことができる」

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 レオナルドのこうした考え方は、現在の戦車の攻撃機能を先取りしたものであった。戦車に歩兵部隊が続くのは、レオナルドの考え方そのままである。

■機 械

 レオナルドは応用機械工学の分野では、発明の上ばかりでなく、構造的問題やその細部の分析についても、当時の学者たちをはるかにぬいていた。

 機械の効率、自動装置について研究を進めるうちに、レオナルドの機械技術者としての才能が頭をもたげてきた。「機械はきわめて高尚であり、他のあらゆるものよりも利用価値が大きい」このレオナルドの言葉でも明らかなように、彼の機械に対する考え方は、作業があくまでも正確であること、そしてできるだけ人の手を省くこと、力をもつとも高い効率で利用することであった。

 そのための構造や装置を系統的に研究することが必要だった。

 彼の覚え書やスケッチは、すべてこの原理の分析と調査のためのものである。事実、彼の設計したものは、ある機械の細部や中枢部がほとんどで、1つの機械にまとまったものは大部分下書きか未完成のものである。

■〔陸上を動く機械〕

 陸上を動く機械の問題は、レオナルドが熱中したものの1つであった。車両、戦車、重量物用の車、大砲用の車などのデッサンがある。また、それらを引っばる力が小さくてすむための研究がある。車輪の直径を大きくし、軸の直径を小さくするほど、抵抗が小さくなることを実験によって明らかにした。彼はまた、先人たちが追求し続けてきた自動車も研究した。その事は、バネの力によって動くものであった。

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■〔作業機械〕

 適当なエネルギー源を見出せないまま、レオナルドは作業機械の研究に没頭した。そこで彼が使用できた原おも動力は人間や動物の力のほかは、水力、錘り、バネで あった。レオナルドはこれらの原動力をきわめてうまく利用することを考えた。これを独創的な装置やいろいろな機械のシステムを通して活用した。

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 運動する機関の各部の中でもっとも研究されたのが回転運動で、このため多種多様の歯車が研究され、これがさまざまの機械の運動や制御に応用された。

■〔その他の磯城〕

 レオナルドが、その当時使われていた機械を研究したのは、それらをより機能的に、また自動化して完全なものへと改良するためであった。

 彼の設計した印刷機では、活字をはめ込んだ台が自動的に動くようになっていた。この運動と印刷板が下る運動とは、歯車とランタン型の歯車とのかみ合せによっで同調されている。

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 レオナルドによって自動化された、もう1つの機械は金属鍛造用の大型ハンマーであった。これには錘りによる運動が、同調するようになっている。非常に興味深い機械に、ネジの切りこみを入れる機械がある。これは2本のネジで切りこみ用具を水平に動かし、中心におかれた軸にネジを切込む。この運動は、中心軸の車輪と両側の2つの車輪の大きさを変えることにより調節さすしる。

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 中心の軸にこうして定められた数のネジみぞが刻みつけられる。

 回転に関する研究の中でもっと興味深いのは、何といっても『コディチェ・アトランティコ」に見られるジャッキである。

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 力棒には歯がついていて、この歯にかみ合わされた回転変速器をテコで回わして、力棒を上下させる。機械の研究の中では、起重機に関するものが特殊な位置を示める。重量物を引き揚げるための機械には、従来の滑車や巻き上げ法とは違う独創的な 新装置が組みたてられていた。

■解剖学

 レオナルドが解剖学の研究をはじめたのは1489年。そして、その研究は1513年まで続く。はじめはミラノの物理学院とマッジョーレ病院で行なった。

 1501年フィレンツェにおいても研究を続けた。

 1508年ミラノに帰って著名な解剖学者、マルカントニオ・デッラ・トルレと共同で研究した。

 彼は、解剖された死体を慎重に研究し、観察した結果を根気よく、正確に写生した。今日でこそ、その写生は有名であり、そのため彼は解剖学の創始者の一人に、加えられているが、彼の死後しばらくの間は、当時の学者たちは、彼がこんなにすばらしい解剖のデッサンを描いていたことを全く知らなかった。

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 レオナルドは人体を解剖学と生理学の立場から観察した。実際に彼は形と機能の因果関係をさぐりながら、諸器官の「機能と役割り」を説明しようとした

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 レオナルドははじめ骨格から解剖学の研究をはじめた。1489年に、死刑囚の頭を手に入れ、正確に側面からの頭蓋骨のスケッチを描いた。手足の骨格や四肢をデッサンし、クマやサルなどの他の晴乳動物の四肢と比較した。背骨のひとつひとつの脊椎骨がくわしく正確に測定され、復元された。

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 筋肉組織についても誤りのない、高度な観察をしている。筋肉と腱のような部分とを明らかに区別したのもほじめてのことだった。筋肉組織の研究から、それが人体の外面の形や感情のあらわれ方などにどのように関係するかを正しく認識していた。しかし、心臓や循環器系統については、レオナルドは医学者ガレーノの考え方の影響を強く受けていた。たとえば2つの心室の間には、隔膜をつきぬけて連絡があると思ったり、肺循環を認めなかったり、また血液の運動は熟によってひき起こされる−血が温いときには心臓から遠ざかり、冷たくなれば近づく−と考えたりする誤りをおかした。

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 しかし、心臓の筋肉構造については正しい解釈を下した。「心臓は他の筋肉と同じように、動脈や静脈によって養われ、活力を与えられる。それはち密な筋肉でできたコップである」と彼はいう。

 「心臓の4つの部屋」や、とくに、今日「レオナルドの弓形肉柱」と呼んでいる右心室の組織について、彼はこまかく観察している。慎重に心臓の弁の機能を研究し、透視模型を作製しようと試みた。脈管系統のデッサンも多数あり、その中には、支脈をともなった大動脈、腸骨動脈、肝臓内の静脈(支脈も含めて)の図がある。

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 レオナルドは消化器官や腹膜、肝臓の正確なスケッチを一細かい点でいくつか誤った場合もあるが−われわれに残した最初の人でもある。肝臓や腸の環状管を正確にデッサンし、肝臓を「人間生命の養分の配分者」とよんだ。

 女性、男性の泌尿器・生殖器官についても、両者の異なる器官と機能を正確に記述し、みごとなデッサンを残している。

 中枢神経系統の研究は、従来の技術に新しい方法を加えて行われた。後頭部の切れ目から、溶かしたろうを流し込んで型を取り、脳室の形態を再現し

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 胎生学の分野で、レオナルドは「妊娠から、その後の子宮の様子の変化、胎児がどのように入っているか、どのような順序でそこに入ったかを調べなければならない」と述べている。彼は子宮の中での胎児の姿勢を正しくとらえた最初の人であった。養分摂取とか呼吸とかいう問題についても、正確な説明を与えた。

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