このような未来への楽観的な信念は,たとえば1928年ストラスブールで完成されたテオ・ファン・ドゥースブルク,ゾフィー・トイバー=アルプ,ジャン・アルプらの総合的な作品くオーベット〉の中にもはっきりと表現されているが,30年代になって回顧的でさらに反動的にさえなった時流の中でひどく冷遇された.それはスターリン体制下のソビエト連邦においてばかりか国家社会主義ドイツにおいても同様であった.1925−26年に工ル・リシツキーが構成主義の総合的な仕事としてハノーヴァー州立美術館に設置した抽象美術展示室(アブストラクテ・カビネット)がナチスの手によって1936年に破壊されたのはこういった動きの前兆であった.多くの国々で構成的美術の推進者たちは孤立を余儀なくされ,完全な沈黙を強いられる場合も多かった.彼らはすぐにちりぢりになった.その再編硬と強化の試みはパリでの1930年のミシェル・スーフォールの「円と正方形Cercle et Carr色」グループの結成と.1931年パリのオーギュスト・エルパンとジョールジュ・ファントンヘルローの「抽象=創造Abstraction−Creation」グループの発足などの形に表われている.後者は幾何学的構成的美術の作家たちの世界的規模の連盟を作ることに成功した.定例展と定期刊行物を通し,活発なアイディアの交換をうながし,メンバーに国際的連帯感を与えた.パリではフランス語で言う「幾何学的抽象abstractiongeometrique」という表現形式を支持するこの運動は,当時支配的であった具象的,客観的絵画言語と夢や無意識から引き出された非現実的,幻想的な主題をもったシュルレアリスムに対する果敢な対抗運動であった.しかし,世界大戦を予告する暗雲がただよっていたパリでは,モンドリアンもカンディンスキーもそこに在住していたにもかかわらず,一般美術愛好者に支持されず,二人のどちらの作品もこのフランスの首都パリの公的コレクションには受け入れられなかった.「時代は陰鬱で,風向きは逆だった」とドイツの作家ベルトルトブレヒトは第二次世界大戦前とその最中の進歩的勢力の苦境を要約して述べている.
パトリック・ヘンリー・ブルース,アーサー・ダヴ,マースデンり\一トレー,チャールズ・シーラー,ジョーゼフ・ステラ,マックス・ウェーバーなどほぼキュビスムを前提にして,そこから出発した新傾向の代表者たちに,まもなく1920年代の幾何学的抽象美術を推進したもっと若い世代がすぐに加わった.1927年ニューヨークのA・E・ガラティンによって創立された現代美術館(Museum of Living Art.1943年にフィラデルフィア美術館と合併)はモンドリアンの作品を中心とする構成的作品をアメリカ国内にもたらし,ガラティンが「非再現的」と名付けた美術を広めた.彫刻家ジョン・ストーズと画家ナイルズ・スペンサーも運動に加わった.1929年ニューヨークに近代美術館が創設され,現代美術の二大潮流一シュルレアリスムと構成主義−を知る最良の機会を提供した.あらゆる創造活動の分野を包括する新しい美術概念を広めようとしていた同美術館館長アルフレットH・バー・ジュニアは,パリ,デッサウのバウハウス,ソ連へと旅行し,強い刺戟を受けてさらに強力にその計画を推し進めようと決意した.1936年の「キュビスムと抽象美術」展は,アメリカ抽象美術家協会の創立と偶然重なって,丁度同じ頃にニューヨークのラインハート・ギャラリーで展覧会を開いていたジョージ・トK・モリス,ジョン=フエレン,チャールズ・W・ショー,チャールズ・ピーダーマン,アレクザンダー・カルダーなど「具体主義者Concretionists」グループのような構成的美術家たちに新たな自信を与えた.それ以後,∃一口ッパやアメリカの幾何学的・構成的美術に属する作家の展覧会がニューヨーク市内外で頻繁に開かれるようになった.