■ロシアの前衛美術・The Russian Avan-Garde
1910年代から20年代を通してロシアでは光線主義,シュプレマティスム(絶対主義),構成主義など,種々の主義の素早い交替劇のなかで先鋭的な美術がめざましい展開をとげた.1909年,マリネッティの発した「未来派宣言」がさっそく紹介されたように,ロシアには西欧の美術界の最新の動向が逐一伝えられた.シチューキンやモロゾフといった富豪の邸宅に行けば,セザンヌ,ゴッホ,ゴーガンのような後期印象主義の巨匠の優作に加え,マチスやピカソの近作に接することができた.また,エクステルのようにアポリネールやレジェと親交を結び,パリの美術界と直接的な交渉をもつ作家もいた.
ドイツのミュンヘンで活躍するカンディンスキーの役割も見逃せない.『アポロン」誌にミュンヘンの動向を紹介する「ミュンヘン便り」を連載したり,1911年末の汎ロシア芸術家会議では「芸術における精神的なもの」の草稿が代読された.さらに,カンディンスキーはミュンター等とともに「ダイヤのジャック」展などに出品し,その成果を披露している.このように西欧から不断に刺戟を受けるなかで,ロシア前衛美術の先導者であった。ラリオーノフとゴンチャローヴァは民衆の生活に根ざしたイコン画や安手の木版画ルポークなどの力強く素朴な表現に動かされ,ネオ=プリミティヴイズムの運動をおしすすめた.
ラリオーノフはやがて光線主義を打ち出すことになった.それは物体に反射する光そのものを描く様式で,印象主義以来の問題をそのままひきずっており,表現形式としてもイタリア未来派と選ぶところはなかった.しかしこのような主張が表明されたことによって,西欧とは別の文脈で,常に新規な形式を求める「もっと遠くへ」という動きに拍車がかかるとともに,ロシア美術は「非対象」絵画へむけて着実に歩を進めた.
ロシアでは「抽象」という言葉はエクステルなど西欧との結びつきが強い一部の画家を除いてほとんど用いられず,むしろ「非対象性」(ベスプレドメートノスチ)という概念が一貫して追求された.そしてその先鋒となったのが,ラリオーノフの感化を受けながら登場するマレーヴイツチとタトリンであった.このふたりこそ今世紀の美術史に対するロシアの貢献を成就させた作家といって過言ではない・ラリオーノフに「ロバの尻尾」展に誘われた頃からしだいに画家として頭角をあらわしたマレーヴイツチはフォーヴィスムやキュビスムなど西欧の新潮流を貪欲に摂取したが,1913年から明らかに独自の課題に取り組みはじめた.
この年,マレーヴィッチはロシア未来派の詩人クルチョーヌイフ,そしてペテルブルク(現レニングラード)の「青年同盟」の指導的な一員であったマチューシンとともに未来派オペラ「太陽の征服」の上演にかかわり,舞台装置と衣装を担当した.未来派の詩人たちは新しい詩的言語の可能性をキュビスムや未来派の作品上に現われた物体の断片にみて,意味の呪縛を断ち切った言語,起意味言語(サーウミ)を探求しつつあった.マレーヴィッチもこれと並行する実験に挑んだ.それ以前の,キュビスムを形式的にのみ徹底化させた仕事にかわって,画面に再現的な要素が再び・・だが相互に脈絡を失ったまま・・・布置される「非論理主義」の作品が制作された。そして,この段階の後,改めて非再現的,非対象的な要素としての平面が画面上で大きな割合を占めるようになる.
そして「平面の顕現」としてのシュプレマティスムが成立する.代表作「黒い正方形」は1915年12月ぺトロブラード(現レニングラード)で開催されたプーニ主催の展覧会「最後の未来派絵画展 0,10」で他のシュプレマティスムの絵画38点とともに初めて発表された.
白い地の上に黒い正方形だけが描かれたその作品はオペラの舞台装置の構想を練っていたマレーヴィッチにすでに「直観」されていたが,今や白の無限空間でダイナミックな運動を展開する平面の構成,「重量,速度,運動方向に基づく構成」こそが絵画芸術である,という宣言が発せられた.
こうした考え方の背景にはイタリア未来派の影響もたしかにあったが,しかしそれ以上に,マチューシンを通して関心を抱きはじめた四次元論が踏まえられていた.それはアインシュタインの相対性理論以前の議論で,幾何学的な類推によってその未知の次元の特質を明らかにしようとする空間的な想像力の課題であり,世紀末以来,西欧でさかんに論じられた.マルセル・デュシャンも四次元論に傾倒した一人であった.
「0,10」展では,結束してパンフレットを配布したマレーヴィッチのグループ(プーニ,クリューン,メニコフら)にタトリンのグループ(ポポーヴァら)が激しく対立した.タトリンは1913年,ドイツ経由でパリに行き,ピカソをそのアトリエに訪ねた.帰国後,1914年5月夕トリンはモスクワの自分のアトリエで「最初の絵画的レリーフ展」を開催し,さらに「0,10」展では「反レリーフ」や「コーナー・レリーフ」を出品した.これら一連のレリーフはピカソのギターを主題にしたレリーフに触発されたものと考えられるが,しかし種々の素材を合体させたアサンブラージュとしてすでに非対象的な性格を賦与されていた.ブロンズや石など伝統的でアカデミックな素材にかわる,ガラスなど新しい素材の彫刻への導入は,イタリア未来派が一足先に叫んでいたが,タトリンはこれを非対象という方向で実力と現させた.しかも,部屋の角に懸けられた「コーナーレリーフ」は彫刻の台座からの解放を意味し,展示空間を鋭く意識させて環境芸術への足掛りともなった.
十月革命はそれまで美術界の間辺にあった前衛作家たちを前面に押し出した.というのも,当初革命を積極的に支持したのは「未来派」と一指して呼ばれた彼らだけであったからである.
こうして革命政権との蜜月時代がはじまった.作家たちは革命記念日に実施される大衆街頭劇のために巨大な装置を制作したり,船や列車を飾ったりして煽動芸術に取り組む一方,教育人民委員会造形部会に属して美術館や美術学校などの教育機関の機構の変革のために奔走する.