再構築された宇宙
■序論Ⅲ
■再構築された宇宙
マリネッティという「リーダー」を核として「組織された運動」としての未来派は、宣言や作品を中心として、1910年代初めの創立当初からの数年間、芸術的、文学的諸活動のさまざまな分野とそれ自身の社会的行動に向けて、常に革新的な煽動の風を送る扇を作り上げてきた。この徹底した革新への志向には、イタリア未来派の性格がはっきりと表われてt−る。このことは同時代の前衛芸術の展開の中でこの道動が持ってt)た重要性を、総合的に正しく評価するために充分考慮する必要がある。これと同様の性格を持つものは他には見当たらなt)。未来派にとって作品と鑑賞者との関係は、芸術即人間生活という直接的なものであった。実際、芸術が架空の理想的な状況の中でなく、直接生活環境の中で機能するのだとすれば、生活自体もそのさまざまな側面を芸術によって革新されるはずである。バッラとデペ一口が望んだのは「宇宙を活性化しつつそれを再構築すること、すなわちそれを全面的に再創造すること」であった。「見えぬもの、感じとれぬもの、計量できぬもの、知覚できぬものに骨と肉を与えよう。宇宙のあらゆる形態、すべての要素と等価な物を見つけよう……」(「未来派による宇宙の再構築」1915年)。
当然のことながら、「未来派的再構築」は発見の連続でもあった。彼らにとっての新しい地平は、機械工学的な手段が可能にした、人間による再創造という人工的なものである。サンテリアは「物質的にも精神的にも人工的な、われわれ」と述べているし(「未来派建築宣言」1914年)、デペーロは1914年に「人工的に生きること」を予告している。人工性はテクノロジーの進歩が身近に迫ってはいるもののすっかりそうと言えず、依然として旧態然たる「伝統主革」に冒された時代(与りわけ当時のイタリア)の現実に対して、未来派が革新の意欲に燃えて行なった切拾て作業の象徴的理念である。それは未来に対する信頼の証であったが、その本質は機械それ自体に対する信頼というより、機械やその生産品、そして機械の刺激によって得られる人間の発明や創造の能力に対する信頼であった。
(左)デぺ−ロ≪ストラヴィンスキー“うぐいすの歌”の舞台装置デザイン》1916年(右)パンナッジ≪“未来派機械的バレエ”のための“機械的コスチューム”のフォトモンタージュ》1922年
未来派の革新は宇宙全体を相手にし、これまで見たようにまずメトロポリス大都会(第㈵部参照)、視覚的、心理的な知覚の分野(第㈵㈵部参照)から開始された。演劇やショー(第㈽部第1章参照)はそのすぐ後に続いて、台頭しつつある新しい地平を予告するものであったし、インテリア・デザイン(第2章参照)は、個人的、あるいは公的、社会的な日常生活空間の創造的再構築を意味した。家具調度品、ファッション(第3章参照)は、あらゆる日常的なものの中に「未来派的再構築」を浸透させ、一方、郵便コミュニケーション(第4章参照)、写真とフォトモンタージュ(第5章参照)、言語の視覚化(第6章参照)、文学、著作物(第7章参照)、エディトリアル・デザインと広告(第8章参照)は、未来派の革新が視覚的コミュニケーションのあらゆる側面に向けらボレモロジアれたことを裏付ける。最後の政治、戦争学、批評、科学、習慣(第9章参照)は「再構築」と密接に関連するものである。「再構築」は1910年代に着手され始めたが、本格化するのは20年代と30年代においてである。
訳注l.バッラの≪パル・ティツタ・タック》は、1921年にローマにオープンした同名のキャバレーのためのインテリアならびにヴィジュアル・デザイン。
訳注2・デぺ一口の《悪魔のキャバレー》は、ローマの「ホテル・エリート」に1922年にオープンしたレストラン・バーのインテリアで、ダンテの『神曲』からとって名付けられた「天国」、「煉獄」、「地獄」の3つの部屋のインテリアがデザインされている。
バッラローマ、オスラヴイア衝のバッラ邸の内景㈼/2
■インテリア・デザイン
未来派の「インテリア・デザイン」は、その創造の領域を、「もの」的な作品からヴォリューム的に入り組んだ空間作品(私的空間にせよ公的1空間にせよ、日常的な空間をむしろ活性化させた空間)へと拡張させる。未来派のメンバーたちはそのことに非常に明瞭な意識を持っていた。それは第二次世界大戦から今日にかけての前衛芸術の試みの中に広く浸透していった、空間的な作品のすでに前ぶれであったとも言えるのだが、実際には「新造形主義」や「構成主義」、あるいはダダやシュルレアリスムの中で、すでに20年代や30年代に早くも、現われてくるものであった。あるジャーナリストの報告によれば、1921ヲ年にローマで行なわれたバッラの作品≪パル・ティツタ・タック≫1)の酪幕式での演説で、マリネッティは、空間的に関わるためには「あまりに三もそれ自体に限定されている絵画を過剰化する必要があるという紆論に至った」と述べている。したがって当然のことながら、ここから、…迅速な交通網と大量の人口を抱えるメトロポリスを「未来派的に構築すること」と、より身近な日常的空間を想像力と遊びに満ちた感間にすることとを繋ぎ合わせることが問題となる。最もよく知られた来派のインテリア・デザインは、バッラのローマの≪自邸≫であり、1921年の作品≪パル・ティツタ・タック≫、同じくローマのデペ一口の同時の作品≪悪魔のキャバレー≫2)、あるt)はマルケ州のエザナトーリアにあるパンナッジによる≪ザンピーニ邸≫(1925−26年)、さらには1927−28年にドットーリがデザインしたオスティアの≪水上飛行機基地≫である。他の多くのものは、10年代末に特にバッラが試みた様々な来派の空間デザインのように、単に紙の上に描かれた計画案のままに終わっている。
しかしながらその後、未来派の空間デザインの仕事は、単に架のものであったり、散発的なものであったりはするが、現実的な(さほど頻繁にではないが)クライアントの要求に対して、30年代に2つの異なる方向で展開していく。
バッラ1929
訳注3・「ファシスト革命記念展」は、1922年のファシストによるローマ進軍の10周年を記念し1932年に開催。会場ディスプレイには、未来派以外にも様々な陣営からデザイナーが参加しているが、全体的に未来派的でダイナミックなデザインが基調となっている。未来派からは、シローニ、プランポリーニ、フーこ、ドットーリ等が参加している。「内外鉱物展」は、39年にローマで開催された博覧会。
ひとつは、基本的には私的なクライアントの要求による、私的あるいは半公共的に利用される空間(バー、レストランのような)の造形に向かうものである(例えば、デぺ一口やデュルゲロフの場合)。もうひとつは、大規模な博覧会(ファシスト革命記念展から内外鉱物展にt−たるまで3)での会場デザインとして現実化へと向かうものである。そうした博覧会では、公的なクライアントであるが故に、単に公共的な用途のみではないが、明らかにマス・コミュニケーション的機能(30年代のファシスト体制に誘導された集団的なコンセンサスのための新しい政策の枠組みの中で)が要請される。こうした要請に対して、一般的に未来派のメンバーたちは、他の芸術家たちと比べても、多種多様な複合素材の「媒体」を(プランポリーニを筆頭として)想像的かつ自由自在に活用する点では、自分たちが最も適任であると考えていた(実際にもしばしばそのような結果となった)。「壁面造形」は、この種の空間的な実践のための新しい手段であり、それはしばしば大きなスケールのものとなった。10年代から20年代にかけての未来派のインテリア・デザインが、空想的かつ想像的に強烈な挑発的な刺激へと傾斜してtゝつたのに対して、30年代の未来派のインテリアやデースプレイのデザインは、むしろ集団の想像力を誘発するあらゆる可能性を意識的に採用することで(特にプランポリーニのように)、とりわけコミュニケーション的な傾向を濃厚に示す方向へと向かっていったと言える。
■調度品、ファッション
「未来派的再構築」は家庭用品や日常の生活空間についても施行される。実際、装飾品すなわちファッションにおt)てそのような「再構築」は個人の最高度の独自性を目的とし、大都会的な視点による最高度の一般性とは、ほとんど対極をなすものである。装飾品は、(まさしく、たとえば1910年代末にローマのボルボラ通りにあったバッラの家においてそうであったように)日用品のレベルで、未来派の環境形成の中に、魅力的な扇動と参加の充実感を融合させる形で導入する。すなわち日常的な喚起の次元を設定するのである。さらにファッションは、持続的な喚起力と、挑発的な性格を持つ意匠をそれとなく忍び込ませることにより、この次元をまさしく個人に、すなわち社会的であると同時に日常的な自己表現の形で展開する。未来派にとってこれを日常生活のレベルで創造的に拡大することは、革新という彼らの意図全体の必然的な帰結であり、そして生活=芸術の直接的関係の実践を意味していた。当然ながら「芸術の家」の創意は、とりわけ1920年代に未来派芸術家たちの内側から湧き起こり、結果的には、ちょうど1925年にパリで開催された有名な近代装飾工業芸術万国博覧会の会場で、3人の主役、すなわちバッラ、デペ一口、プランポリーニが認められたように、当時のいわゆる「アール・デコ」の未来派的分力として、絵画における「趣味」に与える影響の度合も増した。ローマにあるバッラの工房とプランポリーニの「イタリア芸術の家」、そしてロヴェレートにあるデペーロの「芸術の家」など有名なアトリエだけでなく、タートによってボローニヤに組織されたアトリエやリッツオとコロナによってバレルモに組織されたアトリエも重要な役割をはたした。
未来派ネクタイを着けたバッラ
■郵便コミュニケーション
とりわけ1980年代に新しい芸術的な実践として普及した、郵便アート、郵便メディアの歴史上のパイオニアは、まちがいなく未来派である。郵便コミュニケーションへの参入もまた、国際的な「未来派による宇宙の再構築」の無視できない側面であることが知られてtlる。しかし郵便コミュニケーションは、未来派が参入した分野のなかでは、彼らの選択がきわめて多様であり、そのかかわりかたは決して一義的ではなかった。バッラは、絵の描かれた有名な「葉書」のなかで、郵便メッセージを形象的な発明の空間としてふさわしいものにしたし、「カンジュッロ・タイプ」の未来派的な手紙と葉書を制度化する提案がなされたりもした。また、レターヘッドをつけて活発に自己宣伝をおこなったデペ一口、非常に特殊な意味で郵便芸術活動の真の実験を試みたパンナッジ(郵便作業員の介入までを考慮に入れている)、「布の手紙」というまったく特殊な試みをしたコロナ、葉書による自己宣伝の発明者タートなどが多彩な活動をくりひろげた。もちろん、レターヘッドをつけることによって、マリネッティのいた本部にせよ、ほかの地方にせよ、自分たちが運動の代表者たろうとしたという側面もある。マリネッティをはじめとして、未来派の人々は、運動を国内的また国際的にひろく浸透させるために、個人と個人、および大衆とのコミュニケーションの空間を実現する必要を感じていたが、それを実践するにあたって、郵便メディア(電報を含む)に主役あるいは準主役として注目し、多彩な創造を試みた。イタリア全土で枝分れした未来派の各グループも、立場の異なる個々の代表的な人物も、とくに1920年代と30年代に、自分の便箋に程度の差こそあれ、いずれも創造性に富んだ自分のレターヘッドを入れていた。それはまた、ボッチヨーニのこぷしのダイナミックな図像が入った、バッラによるデザインの、赤い公式のレターヘッドと区別するためでもあった。
バッラによる公式レターヘッドをあしらった絵はがき
■写真とフォトモンタージュ
アントン・ジュリオ・プラガーリアの「動的写真」は、未来派的写真なるもののひとつの仮説である。これは1910年代のごく初期に、弟アルトウーロの協力を得てローマで実践されたが、理論化されたのは、決定版が1913年(初版が1911年)に出版された『未来派写真力学』という小著のなかにおいてである。その仮説は当時、いかにも動的な雰囲気の中でとらえられた動作と、行為の抽象的な軌道の設定をことさらめざしていたとはいえ、「分析的な」観点が底流にあった。プラガーリアの意図は「永遠の動きを、表現された動作の永遠性のなかに表現すること」である。そして軌道は、「運動の本質、つまり運動の運動を現わす」のである。物体はほとんど、動作の革憶を感覚的に表現する動的な心霊体に変形する。だからこそプラガーリアは、彼の動的写真が「形象と事件の解体と浸透」をとらえるものである以上、「事物の内的本質」の表現に言及せざるをえなt-のだ。
1920年代の終わりに、タートは下記の提案をしている。この提案は1931年1月11日のFフトゥリズモ』に発表された宣言にまとめられているが、1930年4月11日の日付のあるこの宣言には、マリネッティも署名している。空想的で超現実的な対象の組み合わせによる写真、あるいは、擬人化されカムフラージュされた「動く物と動かぬ物のドラマ」。それから、個人の表情の分類と心理的な個別化を主眼とする顔の動的な浸透、あるいは、「孤立した、または非論理的につなぎあわされた」人体の部分を幽霊のように扱うこと。この宣言が提案する写真の可能性は多種多様であるが、これはそのなかのふたつである。
1920年代から30年代にかけモ、パンナッジ、パラデイーニ、ムナーリ、タートらが、物語的にも、造形的にも動的緊張をはらむ組み合わせのなかで、写真というイメ⊥ジの実体を造形的な方向に発展させた。一方、カスタニェーリは、感光板のうえで多重露光によるフォトモンタージュを使っている。
ブラガーリア 喫煙する人々1923
タート(機械的形態〉、フォトグラム、1928年
■言語の視覚化
「自由な状態のことば」の実験、とくに「自由語のタブロー」に究極までその視覚的要素を拡大した実験が、未来兼の文学の的な辞間、食もセンセーショナルな群帝を生み出している。の実験が、「散文Jとまさに特殊な地平でかかわる未来派文学体的で多岐にわたる再心をすべて解消することはないにせよ(事参照)、その事実にかわりはない。ともあれ、従来は印耕されたジのうえに均等に記述されてきた純粋な青章が、「視覚」による的な侵犯を受けたのである。その南港条件をマリネッティはこうている。「生命の鋭い直感力は、それらの井資理的な叢生によ1文字どおり相互にむすぴついており、数学的直感の心理学の:ラインをわれわれにあたえるだろう」(「未来派文学技術主音」1革年)。ページはもはや、そこに光れる「文体の往来、書肋、♯発にリネッテ†によれば、ラやカンジュッロ、ミラノのカッラがそれを実行している)は、感覚交差しているにせよ、平行であるにせよ、その多くの流れを同時にみながらたどることを可齢こし」、「抒情性の表現力を増すための段」となる。「自由な状態のことばは当然、自由な表記法と印瀦盛抒情的な価値の一覧表、デザイン上の類似を通じて、それ自体頑図版となる」。また新しい表記は動作をも暗示する。「自由な表記衰と印廟法はきらに、苦り手の顔の表情や動作を表現するのに役jち」、「渋面や勒作の造形力を再現する活字の不均衡のなかに如自然な表現を見出す」(「幾何学的、機械的な輝きと数字の感受1914年)。「自由語のタブロ十」における解決案は、応している。第1は、活字の「変形」を視覚化すること。第2は、ユタチュールの文掛こグラフィック的−イメージ的要素を導入すること。第1の探求の意図は、要するに、活字の変形においてテキストの意味的な密度のばらつきを感情的に拡大することである。一方第2の意国は、グラフイツケ的一記号的、またはイメージ的に純粋な要素としての本来の姿にさかのぽることであるが、これらの要義はしかし、新しーいエクリチュールの混合物のなかにあっては、活字としての要素のわきで」自立した(意味として)部分とみなされる。
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