アメリカ時代(1928−1932)
■アメリカ時代(1928−1932)とその後
感激のニューヨーク到着だったが、デペロはすぐに多くの困難に直面する。幼な友達のチ一口・ルッキはデペロを賄い付きの安宿に泊めてくれ、彼の助けでデペロはほどなく仕事を始め、「デペロの未来派の家」開館の際には大家たちをも巻き込んだ。これは、ロヴェし一トの「デペロ未来派の家」のアメリカ支部といったところだった。大ニュースだったのは、デペロに加え、ニュー・トランジットインポート・アンド・エクスポート社の3人の社員がこの新事業に参加したことだった。この会社はニューヨーク市の23番街酉464番地に部屋を所有しており、その部屋は「未来派の家」のために用いられることになる(*り。
友人チ一口・ルツキも加わっていたこの会社と結んだ契約により、デペロはニュー・トランジット社に対し、米国とカナダにおける製品売上の20パーセントの権利を認めた(*2)。「未来派の家」がある種の企業化に向かった道のりは、今やうまく行くように見え、ニューヨーク滞在のはじめの数カ月の間、デペロは熱狂的に多くの企画をこなし、幅広く作品を商品化しようとした。
デペロのアメリカ滞在は1928年11月から1930年10月まで、24カ月に及んだ。ニューヨークでは、1929年1月から2月の間、グアリーノ画廊で作品展を開催することができた。展示された絵画とタペストリーは小さなパンフレットに収められ、1929年1月13日の『コリエーレ・ダメリカ』紋日曜版にもその図版が掲載された(*3)。批評界は1925年のパリでそうだったように、新機軸を打ち出した布による絵画を前にして熱狂した。それらの高度な装飾性が評価されたのである。Fコリエーレ・ダメリカ』紙が派遣した批評家のデイシリュスは、タペストリーについて語りながらその未来派精神をたたえたが(*4)、それについては、批評家グノスチャン・プリントンの説得力あるカタログ序文にも書かれた。後者は忠友アザーリの友人で、デペロは1年前の1928年のニューヨーク滞在中に知り合いになったが(*5)、アメリカにおける数少ない未来派の支持者だった。
デペロの展覧会開会の辞には、アメリカ滞在の最初の数カ月にあった生き生きとした熱情が感じられる。「私は生涯の大いなる夢の一つを、これほど早く実現できて幸せです。すなわち未来派の創造的工房であり常設展示場でもある「未来派の家」を、23番街西464番地に開いたことです。これは素早く見事に構成され準備されましたが、果てしない忍耐と労力を要しました。私は竹馬の友チ一口・ルッキが、友人のジャクソンとともに家賃を払ってくれた宿に着きました。ジャクソンは今や、私の事業に専心してくれているのです。彼もまたトレンティーノ地方出身で、今はアメリカの市民です142が、アルプスの鉄の頭とトリコロールの心臓をその掌中に持っています。我々は窓から古い家具を、使い古しの絨毯、浴槽、半ばアンティークとなっ、た鏡を放り出し、このホテルの部屋を真の芸術の家に変えました。私は指物師や大エ、あるいは室内装飾家に早変わりし、妥協しない完璧な意地っ張りの頑固者になり、厚かましい仕事をしては陽気に歌い、汗をかき、石炭の粉塵を口に入れ、自らの指を鎚で鍛え、滑稽な首の痛みをわずらい、アメリカの作品の強欲なうぬぼれを呪いながら、私の店を、私の部屋を、私の工房を作り上げたのです。私は現代イタリアの芸術活動の、来るべき中心地となる端緒を創造したと確信しています。これは必ずや、豊かな成果をもたらすでしょう」ぐ6)。
1929年の間に、さらに四つの展覧会が続いたが、それらの中で最も重要なのは、「広告クラブ」が組織したものである。そこには、カンパリのようなイタリアの大会社の広告のためのデザインとその習作とともに、『ヴァニティー・フェア』やFヴォーグ』などアメリカの雑誌の表紙のデザイン(catnos.117−123)も展示された。
1929年初頭、ニュー・トランジット社の社員たちとの関係が破綻する。関係する様々な記録類を読んでも、何が起こってこれほど短期間のうちに、「デペロの未来派の家」の様々なプロジ工クトの基盤となっていた友好関係…が変わってしまったのかは、正確には理解しがたい。だが、推定できるの三は、仕事の報酬の少なさが、こうした関係破綻の根幹にあったのだろうとい毒うことである。1929年4月1日、会社は解散し、デペロは仕事場、オフイ…ス、ギャラリーとして使っていた場所の家賃を清算するために、莫大な額の葵支払いを余儀なくされる。彼の住まいは、このことがあってから、キッチン…付き寝室兼書斎一部屋、風呂共用のものに縮小されてしまった(*7)。
ニュー・トランジット社との契約解除には、当時の会額で1200ドルという≡大金が必要で、それは事実上、「デペロの未来派の家」の閉鎖を意味した。ミだがデペロは、アメリカ支部という企画にまだ信頼を置き、降参はしない。∃彼は飽くことなく、この仕事場を再開するための新たな融資と新たな協力喜者を求めた。彼は仕事場を、芸術的な仕事に不可欠な構成要素と感じていたのである。
実際「デペロの未来派の家」の問題は、もはや未来派のそれからはかけ離れてしまった。ニュ叫トランジット社との否定的な経験のおかげで、デペロは初めてエ房の問題に直面することとなった。そして1929年までは全く無視していた、著作権、商品の流通、利潤の再分割、作業の組織化、従業員との関係など、要するに販売事業に係わるあらゆる問題の、はっきりした原因を認識することになるのである○デペロはいまや時間と労力の節約のために使用するようになった機械によって、生産と工房の最新化の問題を具体的に解決するようになっていた。
1929年9月、マリネッティに宛てた手紙にデペロは次のように記している0「景新の大ニュースだ○私はクッションの製作のために機械を購入した0イタリアではひとつを2、3日かかって作っていたものが、この特殊な機械だと1時間でできてしまう0すごいだろう。明日の月曜日には120個のクッションの、最初のささやかな注文がまとまればよいと願っている」(*9)。 さらに創作要素と制作要素も今では生産のリズムに支配されるようになっていた0イタリアからは芸術の領域や、社会的・政治的方面での変化を告げる声が届いたが、遠く離れていたデペロは、むしろ自身の制作と将来について冷静に対処することができた。困難が水平線上に浮かびつつあることも十分に承知していたのである。
この1930年代の最初の数年間に、彼が芸術の本質的問題について書き始めたことは全くの偶然ではない0芸術の理論的問題と直面しながら、現代芸術の役割について絶えず疑問を投げかけていた彼は、身近に触れていた装飾芸術の分野でも、「手本なしに創造し、構成する」(書10)様式の問題を取り上げている。
こうしたすべての問題は、ニューヨーク滞在中に姿を現した。彼が携えて来た本来の文化的背景と、それとは文化的にも経済的にもまったく異なる環境との大きな違いによって、それはいっそうはっきりした形をとった。またそれだけ、アメリカの偉大な神話にヨーロッパ人として抱いた彼の幻想と期待は大きかったのである。1930年10月、掛まアメリカにおける長い生活にピリオドを打った。
彼が出発する数カ月前、1930年4月22日付けの王立イタリア・アカデミーに宛てた、工房への財政的援助を求める内容のタイプ打ち原稿の中で、デペロは「未来派の家」がニューヨークで展開した活動を総括している。主要作品の中には、もちろんロキシー・シアターの舞台装置や衣装デザインの共同制作、ジョン・サルテリーニ社のためのランプシェードやプレス加工による鉄製品のデザイン、グロツタ社が販売するショールのデザイン、アメリカン・リード・ペンシル社のための広告スケッチ、小売店や小企業のための膨大なモノクロのデザイン・スケッチ、ワナメーカー・デパートのためのクッションやタペストリーなどが含まれている(書11)。
このリストの中に、例えばレストラン「ズッカ」の内部装飾が落ちているように、アメリカ滞在中に制作したすべての作品が掲載されているわけではないが、売却された作品のタイトルにぎっと目を通すだけでも、彼がしだいに小さな注文を手掛けるようになったことがわかる。経済的失敗の理由と思われるものについては、デペロが著書Fデペロのファシスト芸術工房』の中でこう告白している。「私は自身の想像力を解き放ち、私の脳裏で沸き立っていたあらゆるものを自由に羽ばたかせた。しかしこれまで手続きとか公共的な約束事が突きつける、厳しい要求やそれに必要な判断力に目を向けたことはなかった。私は大衆や客を満足させてやろうと考えたことなどなかったのだ」(暮12)。
1928年にフ工デーレアザーリも、これと同じ反省をしている。アメリカの大衆は前衛芸術にはほとんど関心がなく、ましてやデペロが期待し、想像するようなものではないのだ、ということを。1936年にはデペロもまた、アメリカの大衆にタペストリーの新作を紹介するときに味わった困難さを思い出しながら、同じ結論に達している。日く、「あまりに斬新で、彼らの家には危険すぎる」「もっと穏やかな表現だったら、色がもっとおとなしかったら、色調がもっとシックだったら、彼らはすペて買ってくれただろうに」(*13)。
■エピローグ
1930年の秋、再びイタリアの土を踏んだデペロにとって、「未来派の家」の再始動は困難だった。1931年以降、工房は時折しか稼働せず、注文の欠如から長期間休業することもあった。
よく知られた「ボルト本」によって1927年に活動を開始した出版部門は、1930年以降の「未来派の家」の制作を、もっともよく囁徴づけるものかもしれない。30年代初めの数年は、〈ニューヨーク一体験的映像》(cat.no.128)のような、下書きの状態で残された重要なプロジ工クトの他に、1931年のカンパリ社のためのものなど、いくつかの美術書を出版した。また「未来派宣伝美術宣言」が出され、未来派月刊誌『ディナーモ・フトウリスタ』の創刊号が1933年2月に発行された。さらに1934年の『ラジオ放送の叙情詩』のような、詩人作家の実験的活動に関連した出版なども行われた。
同じ時期に、展覧会活動の重要性が再び認識され、デペロは装飾芸術に捧げた時間をあたかも取り戻すかのように、国内や国外の絵画展に参加する。この点に関しては、1935年に職人組合協会のブロンゾ閣下に宛てた書簡の中で、デペロが「未来派の家」の活動が「絵画活動のために臨時に」(*14)休業していたと、それとなく示唆している。
この精神からデペロはレッジョ・工ミリアの駅や、いっそう重要な「E42」などの大きな装飾フロジ工クトの公的コンクールの「流行」を追いかけるようになり、後者ではモザイクの大作《技術・労働・職業》の制作を手掛けることとなった。
1933年のミラノの第5回トリエンナーレに、デペロはステファーニ代理店のための木製立体広告《腐食防止剤》を出品したが、これは「未来派の家」の得意分野と結びついている。広告は30年代に入っても、「未来派の家」のより確実な財源の代表的分野だった。
1932年から翌33年にかけてカンパリ社との契約が終了すると、デペロは広告の分野で新しい顧客を確保しようとする。それらはトレントの産業界に関連した会社であったり、また公共団体や国営会社との共同制作であったりしたが、その中には国営ガス社、ビレリ社、サンタゴステイーノ社、ラナ・ロッシ社など重要なものが含まれている。
1930年代の終わり頃になると、彼は再び広告コミュニケーションの分野で、イタリア産業協会やイタリア政府観光局(ENIT)との良好な関係を結び、1938年から1942年にかけて、自ら開発した安価なべニヤ材からなる「ブクスス」によって構成された販売促進用の作品を、「流れるように絶え間なく」作り続けたのだった。
さらにイタリアの風土を紹介する広告ジオラマや、イタリアの習慣や衣装をモティーフにしたパネル作品、モザイクやステンドグラスといったヨーロッパ各地の事務所や機関向けの作品があり、1937年にパリのEN汀事務所から注文されて制作した《冬のスポーツ》のような大規模なパッチワーク作品もある。しかし広告は、デペロや「未来派の家」の問題を解決するには十分ではなかった。
1936年から1942年にかけても、ロヴ工レートの工房からはENITやトレントの「ソチエ夕・アノニマ・グランデ・アルベルゴ」(大規模宿泊施設匿名協会)から委嘱された大型のタペストリーが10点あまり出荷されているに144せよ、タペストリーとクッションは、もはや20年代に勝ちえた成功を収めることはなかった。
タペストリーとクッションの制作においてデペロは、1921年以来、「未来派の家」に少しも変わらぬ協力をしてきたマチルド・リーギやイネス・ファットヴ」−二といったロヴェレートの熟練した職人の腕に頼っていたのである(*15)。 ミラノに長期滞在した間(1933−36年)の1934年、デペロは「未来派の家」をプレビシーティ大通り12番地に臨時に置かれた事務所で再開し、タペストリー、油彩画、クッション、デッサンを展示しながら、新しい販売キャンペーンを精力的に開始した。招待状にはこう善かれていた。「デペロ芸術は、理性的で、モダン、芸術的かつ独創的、カラフルで陽気なイタリア且のお宅に最適です」ぐ16)。
この時期の個人コレクターはモダニズムに向かって吹く不穏な空気にさらされ、未来派の画家の作品が売れることは困難になった。イタリアの経済全体も深刻な状況に陥り、国際政治の状況もまた緊張の度合いを増して行った。こうした困難な状況と、アメリカにおける経験、そして国内の手工業経済部門を苦しめていた問題に対する認識を背景に、デペロは1936年、「未来派の家」の刷新を計るべく系統だったプランを練りはじめた。最初に出来ることとして、彼は出資者としての企業と結びついた公共団体の助成を期待したが、それだけでなく技術的・組織的側面にも明確な責任をもって改革の大詑を振るったのである。このプロジェクトは1936年と1942年の二度にわたって『デペロのファシスト芸術工房』の名のもとに出版され、「地方の有力者」の賛同を待つこととなった。
導入部分で、デペロは彼の工房の1920年から30年代初めの危機までの歴史をさかのぼっている。それはきわめて正確で現実味のある総合的な価値判断をもたらすだけでなく、経済的失敗や危機を生じさせた問題も浮かび上がらせている。
この明瞭な検討の過程において、デペロは自分自身も含めて容赦はしなかった。「未来派の家」の経営を見舞ったいくつかの困難について、彼は次のように語っている。「最初の不運は、先鋭的な前衛芸術家としての私の気質にある。革新的な形態と色彩、大胆で自制しない構図、(中略)この厳しい商売に黙って従っていさえすれば、たしかにより多くを稼ぐことはできたかもしれない。しかし(私のタペストリーを)芸術的に圧勝させた、それらの輝けるダイナミズムは放棄せねばならなかったろう」。
報告は失敗の外的要因にも触れている。何よりもまず、1920年代初めの数年間にタペストリーを認めようとしなかった現代建築の後進的な状況がやり玉に挙げられる。「それどころか(こうしたタペストリーは)理性的な家、20世紀の住居に適している。そこでは欠如しがちな色彩が、豊かな色使いのタペストリーによって補われ、それがこの新しい環境を活気づけて、現代の住居や病院のように雰囲気を温かくするのである」。デペロは「未来派の家」の将来の経営を語る中で、「刷新された趣味と様式によって私たちの地域や他の地域の美しさを描く」ことのできる一連の装飾モティーフを列挙している。しかし「大胆な叢新のモデル、スポーツカーや航空機の主題、前衛に立ち、しかも無敵の人々の頭の中にいつもある、無味乾燥なまでにスポーティーで戦闘的なもの」を創造する可能性も忘れてはいなかった。
彼の発言は、詳細な技術的報告で幕を閉じる。それは未来の工房の実際のフランをともない、また個々の内部空間で展開されることになる、いくつかの機能と活動の記述が添えられている。特に室内の家具調度品を表現したパネル作品の最後のシリーズは、「大胆さと現代性に満ちたイタリア最初の工房」(*17)になるであろうその姿を完全に図示している。しかしそのプロジェクトは続かず(*18)、「デペロの未来派の家」の運命は決まった。それは最終的に閉鎖されることとなった。折しも第二次世界大戦の最中のことである。
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