■略年譜

111 121■1922(大正11)年

 2月15日、山口県徳山町(現周南市)御弓町に、宮崎十二郎、こよねの五男(11人兄弟の第10子)として生まれる。

■1928(昭和3)年

 [6歳]徳山尋常高等小学校に入学。

■1932(昭和7)年[10歳]

 小学校5年の頃、担任の数学教師・田中金一から美術について特別の指導を受ける。

■1933(昭和8)年[11歳]

 田中金一に伴われ、水彩画家・河上大二のアトリエを訪ねる。河上の影響により、画家を目指すようになる。三兄・清人の強い希望により徳山商業学校に入学するが、意に添わず間もなく中退。田中金一の尽力で徳山尋常高等小学校高等科へ復学。

■1935(昭和10)年[13歳]

 田中金一の紹介により、岸田劉生の画友であった前田麦二に師事。前田のアトリエで初めて岸田劉生、椿貞雄らの油彩画にふれる。本格的に油絵を学ぶ意志を固めるとともに、芝居小屋に出入りする前田の影響で舞台美術に関わり、巡業に同行するなど、旅芸人の生活に馴染む。

■1939(昭和14)年[17歳]

 日本美術学校油絵科に入学。大久保作次郎、林武、柳亮、猪熊弦一郎、三岸節子らの指導を受けるが、軍事教練の時間も多かった。1942(昭和17)年[20歳]日本美術学校油絵科を繰り上げ卒業。12月、広島西部第2部隊に入隊(原隊は1945年原爆により消滅)。外地勤務を希望し、ソ満国境守備隊395に所属する。

■1945(昭和20)年[23歳]

 8月、後方への伝令中に部隊は玉砕、東北満州の五通常、鏡泊湖付近で野営中に終戦を迎える。牡丹江付近の東京城でソ連軍によって武装解除され、中国東北部の蘭崗に収容。12月、シベリア鉄道で移送され、バム鉄道(バイかレ・アムール幹線鉄道、通称第2シベリア鉄道)建設のため、コムソモリスク付近のゴーリン205分所に収容される。その後いくつかの収容所を転々とし、47年頃からは、美術品の模写、肖像画や壁画(収容所の食堂に3×10mの大作ほか)の制作を行う。美術制作が仲間の虜囚たちの心を豊かにし、希望を与えた体験から、芸術のもつ力を意識するようになった0

■1949(昭和24)年[27歳]

 12月、ナホトカから興安丸で舞鶴に引き揚げる。徳山に帰郷したのは年が明けてからであった。1950(昭和25)年[28歳]広島、長崎を訪れる。

■1951(昭和26)年[29歳]

 上京し、中野区鷺宮に下宿。後に飯田橋に移り、雑誌のカットなどを措いて生計をたてる。この頃より、北陸、東北、北海道などを放浪。

■1954(昭和29)年[32歳]

 10月、渡辺文子と結婚、武蔵野市吉祥寺に住む。のち学芸大前、市ヶ谷北町、矢来町に転居。

■1956(昭和3り年[34歳]

 寺内萬治郎に師事し、与野会に入る。新道繁、田村一男の指導を受ける。1959(昭和34)年[37歳]4月、第45回光風会展(2−19日、東京都美術館)に《浬東》出品、プールプ貰を受賞。

■1960(昭和35)年[38歳]

 4月、第46回光風会展(2−19日、東京都美術館)に《浬東A》《港東B》出品、光風会賞を受賞。

■1965(昭和40)年[43歳]

 6月、第1回個展(2卜26日、銀座・資生堂ギャラリー)に《石狩》《さいはて》《こんぶ取り》など16点を出品。11月、第8回新日展(1日一12月6日、東京都美術館)に《祭りの夜》を出 品、特選受賞。

■1967(昭和42)年

 [45歳]1月、第10回安井賞候補新人展(27日−2月26日、東京国立近代美術館)に《見世物芸人》を出品、安井賞を受賞。7月、第2回個展(24−29日、銀座・資生堂ギャラリー)に《見世物の女》 《テントの中≫《野》など28点を出品。

■1968(昭和43)年[46歳]

 2月、第3回個展(1−10日、日本橋画廊)に《旅の女たち》など30点を出品0

■1969(昭和44)年[47歳]

 7月、第4回個展(卜11日、日本橋画廊)に《けし》《道≫《女と花》ほかを出品。8月、山口県出身作家現代美術展(9日一9月7日、山口県立山口博物館)に《旅の女たち》など4点を出品。山口県立美術館館長・河野良輔の案内で、三隅町に香月泰男のアトリエを訪ね、香月らと長門の萩焼の窯元・坂倉新兵衛のもとで陶板などをつくる。

■1971(昭和46)年[49歳]

 3月、第5回個展(12−15日、日本橋画廊)に《赤い花》《女たち》《踊り子たち》はか30点を出品。フジテレビテレビ美術館「宮崎進一強く悲しきもの人間一」(3月13日放映)。

■1972(昭和47)年[50歳]

 7月、渡仏(−74年10月)。パリ、マレー地区の古いアパートに居を定め、オーストリア、スイス、ノルウェー、ドイツ、イタリアを旅行0

■1973(昭和4S)年[51歳]

 南仏、スペイン、ポルトガル、スイス、イタリアを旅行0

■1974(昭和49)年[52歳]

 ベルギー、オラン久チェコスロヴァキア、ドイツなどを旅行o10月、帰国。アトリエを鎌倉に移す。

■1976(昭和51)年[54歳]

 11月、宮崎進《油絵≫展(11−16日、日本橋・高島屋/大阪・高島屋)に《ランドスケープ》《黄色い壁≫など34点を出品。多摩美術大学講師となる。

■1977(昭和52)年[55歳]

 3月、宮崎進素描展(28日−4月7日、名古屋・ギャルリーユマニテ/同乗京店/4月1l−21日、ヒロ画廊)に、1973−77年の作品28点を出品010月、日本・現代の裸婦展(14日−11月6日、広島県立美術館)に《裸》 を出品。11月、宮崎進個展(8−30日、名古屋・ギャルリーユマニテ/一78年3月12日、福岡・ギャラリーふくだ)に《横たわる女・ジプシー》ほか23点を 出品。

■1978(昭和53)年[56歳]

 10月、宮崎進展(23日−11月2日、大阪フォルム画廊東京店/11月13−22日、同大阪店)。11月、妻、文子死去。「明日への具象展」結成に際し、奥谷博、大沼映夫、島田幸三らとともに実行委員となる。

■1979(昭和54)年[57歳]

 4月、女性美を描く一日本・現代の裸婦展(10−22日、愛媛県立美術館/高知県郷土文化会館、島根県立博物館)に《裸婦≫(素描)《小屋の女》を出品。9月、宮崎進展(10−26日、大阪フォルム画廊東京店/名古屋、大阪、高知を巡回)に《荒れ地の眺め》《伏せる女》《早春》など40点を出品。モスクワ、レニングラートなどソ連各地を旅行。

■1980(昭和55)年[58歳]

 12月、宮崎進小品展(18−28日、福岡・ギャラリーふくだ)に《鏡の中》ほか23点を出品。山陽新幹線小郡駅(現新山口駅)コンコースにステンドグラス《秋吉台の四季》(4.0×7.8m)を制作。1981(昭和56)年[59歳]多摩美術大学油絵科教授となる。

■1982(昭和57)年[60歳]

 11月、現代日本美術の展望一油絵展(3日−12月5日、富山県立近代美術館)に《風景》《伏せるひと〉を出品。日本テレビ「実の世界・鏡の中の私」に出演。

■1984(昭和59)年[62歳]

 1月、宮崎進展(25日−2月25日、銀座・禰生画廊/名古屋・丸栄)に《冬の光》《ある風景≫ほかを出品。6月、宮崎進素描展(4−12日、京都・村田画廊)。7月、松田正平・宮崎進展(8−20日、宇部・清画廊)。11月、《冬の光》で第8回長谷川仁記念賞受賞。第l回脇田和・野見山暁治・宮崎進新作三人展(=]−12月12日、新宿・香美画廊)に《青い空間≫ほか8点を出品(91年、第5回展まで開催)。フジテレビテレビ美術館「宮崎進心の告白・具象と抽象の接点で」(4月29日放映)。山口県の新庁舎落成に《少年と瀬戸》《長門路の春》を納める。132

■1985(昭和60)年[63歳]

 4月、第1回具象絵画ビエンナーレ(13日一5月12日、神奈川県立近代美術館/三重、福岡、笠間を巡回)に《午後≫を出品。

■1986(昭和61)年[64歳]

 9月、宮崎進の世界展(卜30日、静岡・池田20世紀美術館)に《さいはて》《伏せる女(冬の光)》《凍る土≫ほか54点を出品。『宮崎進画集1953−1986』(求龍堂)を出版。テレビ東京「美に生きる」に出演(6月25日放映)。1987(昭和62)年[65歳]2月、宮崎進ドローイング展(16−28日、名古屋・ギャルリーユマニテ/同東京店)。10月、宮崎進展(27日一11月5日、銀座・日動画廊)。愛知県立芸術大学非常勤講師となる(−89年)。

■1988(昭和63)年[66歳]

 2月、織田贋喜・宮崎進二人展(14−22日、京都・ギャラリー創)。6月、宮崎進展(29日−7月5日、日本橋・高島屋/大阪、京都、横浜を巡回)に《つくる刻》《午後の光》ほか21点を出品。1989(平成元)年[67歳]3月、湧現する内なる風景宮崎進展(3−22日、池袋・西武アートフォーラム)に《流離(さすらい)》《光と風》ほか43点を出品。10月、宮崎進展(14日−11月5日、徳山市文化会館)に54点を出品。

■1990(平成2)年[68歳]

 6月、宮崎進展(26日¶7月8日、京都アートセンター)。9月、私が私のスタイルです展[大沼映夫、奥谷博、島田章三、宮崎進](ト30日、有楽町アートフォーラム/高槻、名古屋、笠間を巡回)に《内なる風景を措く》《Head≫ほかを出品(92、94年にも開催)。三つの啓示[島田孝三・野田弘志・宮崎進]展(17−29日、銀座・東邦アート)。10月、小詩篇宮崎進新作展(5−20日、京都・三条祀園画廊)。11月、シベリア捕虜収容所平和祈念展(1−6日、銀座・松坂屋)に出品。山口県芸術選奨受賞。

■1991(平成3)年[69歳]

 9月、ジャパンフェスティバル1991〈ANewWave〉(ロンドン、バービカン・センター)に《冬の樹》を出品。

■1992(平成4)年[70歳]

 3月、第1回国際コンテンポラリーアートフェスティバル[NICAFYokohama,92](14−17日、パシフイコ横浜)に出品(NICÅFへは2003年第8回まで毎回出品)。大沼映夫・島田章三・宮崎進三人展(23日一4月11日、名古屋・ハセガワァート)開催(95、97年にも開催)。4月、多摩美術大学教授を退任、同大学客員教授となる。宮崎進NewPainti咽SandDrawings展(6−25日、名古屋・ギャルリーユマニテ/同東京店)に《TORSO》ほか18点を出品。アルファストギャラリー(ニューヨーク)開廊記念展(16日一5月30日)に出品。6月、宮崎進多摩美術大学退職記念展(22日一7月10日、同大学美術参考資料館)に《石狩》《ある風景》《鳥と人の詩》ほか45点を出品。9月、詩画集『TORSOトルソ』(詩・田村隆一、画・宮崎進)を求龍堂から出版、詩画展(3−9日、銀座・和光ホール)開催。10月、ドイツ各地を旅行。

1993(平成5)年[71歳]11月、宮崎進展(11日−94年1月15日、ニューヨーク、アルファストギャラリー)に《Silence》《IntheWind》ほかを出品。ニューヨーク、ワシントン、ボストンを旅行。

1994(平成6)年[72歳]7月、宮崎進展(1日一8月7日、下関市立美術館/笠間、平塚、三重、新潟を巡回)に油彩画、素描、コラージュなど95点を出品。詩画集『TORSOトルソ』原画展(2日−8月14日、高崎市美術館)。

■1995(平成7)年[73歳]

 3月、第10回小山敬三美術賞受賞。11月、シベリア抑留絵画展(21−26日、京都市美術館/舞鶴市に巡回)に《捕われた男≫など絵画33点、彫刻4点を出品。コラグラフによる版画の個展(30日一12月20日、東麻布・ギャラリーMMG)開催。NHK「土曜美の朝」に出演(12月27日放映)。

1996(平成8)年[74歳]4月、宮崎進〈NewWorks〉展(4−24日、名古屋・ギャルリーユマニテ/同東京店)にドローイン久彫刻、版画など48点を出品。宮崎進展(11−15日、パリ・SAGA/ギャラリーMMG)。6月、トルソーー具象と抽象のワクを越えて一宮崎進展(高崎市美術館)。

■1997(平成9)年[75歳]

 5月、三越美術部創設90周年記念宮崎進展一森と大地の記憶から−(20−25日、日本橋・三越)に《アムール》など36点を出品。10月、宮崎進展“MemoryofEarth”(30日−11月3日、東京インターナショナルアートフェスティバル[TIAF]東京国際フォーラム、ハセガワァート)11月、宮崎進展(6−20日、名古屋・ハセガワァート)12月、宮崎進展銅版画シリーズ『忘れないために』(Lestweforgetthevictims)(9日一98年1月22日、東麻布・ギャラリーMMG)

■1998(平成10)年[76歳]

 3月、第48回芸術選奨文部大臣賞を受賞。4月、多摩美術大学美術館館長に就任。10月、第48回神奈川文化賞を受賞。11月、TheLANDSCAPE(30日−12月19日、ギャルリー東京ユマニテ/名古屋)。平和記念事業特別基金財団の「シベリアを記録する」に出演。

1999(平成11)年[77歳]4月、所蔵品による宮崎進展(16日−5月23日、徳山市美術博物館)に油彩画、素描、版画、彫刻など143点出品。多摩美術大学名誉教授となる。10月、宮崎進展(4−23日、ギャルリー東京ユマニテ)。宮崎進作品展《コラージュへの道程》(20−31日、京都・アートギャラリー北野)。11月、大沼映夫・宮崎進二人展(3−7日、NICAFTOKYO’99東京国際フォーラム/12月8−13日、名古屋・丸栄)。12月、宮崎進の世界一もうひとつのシベリアー(21日一2000年1月30日、山口県立美術館)。

2000(平成12)年[78歳]4月、愛知県立芸術大学客員教授となる(一04年)。NHKBS「50年目のシベリアー画家宮崎進・執念の旅」放映(8月)。

■2001(平成13)年[79歳]

 5月、現代作家デッサン・シリーズ宮崎進展(9−15日、松屋銀座)。6月、宮崎進展(25日ー7月19日、ギャルリー東京ユマニテ)に蜜蟻作品、彫刻、ミクストメディアによる大作《壁》などを出品。9月、神奈川文化賞50年の美術家たち展(11日−11月25日、神奈川県立近代美術館鎌倉別館)に《TORSO〉〈光と風》を出品。11月、一点の作品展・宮崎進展(10日一12月1日、神戸・花岡画廊)。

■2002(平成14)年[80歳]

 4月、宮崎進展よろこびの歌を唄いたい(27日一7月7日、横浜美術館)に平面・立体の大作を含む約80点を出品。

■2003(平成15)年[81歳]

 11月、宮崎進展一ドローイングを中心に一(4−22日、ギャルリー東京ユマニテ)に《記憶≫《Head》《手》など25点を出品。

■2004(平成16)年[82歳]

 2月、宮崎進素描・記憶のメモ(12−25日、ギャルリー東京ユマニテ)に《原野〉など素描30点、《頭部》など彫刻2点を出品。9月、第26回サンパウロ・ビエンナーレ(25日−12月19日、ブラジル・サンパウロ市)国別参加部門の日本代表として《冬の旅》《泥土》《花咲く大地》《頭部》など計12点を出品。

■2005(平成17)年[83歳]

 6月、宮崎進展(2−18日、ギャルリー東京ユマニテ)に《泥土》《鳥》《すべてが弛みる大地》など22点を出品。8月、宮崎進展生きる意味を求めて(12日一9月25日、周両市美術博物館)にサンパウロ・ビエンナーレ出品作を含む96点を出品。11月、周両市文化協会より特別文化功労賞を贈られる。宮崎進展シベリアからサンパウロまで(21日−12月18日、酒田市美術館)に平面の大作、立体、ドローイング、版画127点を出品。

■2006(平成18)年[84歳]

 6月、広島市より「ヒロシマ」の制作依頼を受ける。新収蔵作品展(3日−9月3日、広島市現代美術館)に《「ヒロシマ」この大地の上で〉《「ヒロシマ」VOICE》《「ヒロシマ」Land≫を出品。宮崎進の仕事WorksofShinMiyazaki(9−29日、ギャルリー東京ユマニテ)に《黒い花》〈漂泊》などを出品。8月、作家たちの贈り物(12日【10月9日、神奈川県立近代美術館葉山)にサンパウロ・ビエンナーレ出品作を展示。9月、宮崎進・角田和夫二人展シベリアから平和を考える(23日−10月22日、香美市立美術館)。

■2007(平成19)年[85歳]

 4月、新収蔵作品展(28日−7月22日、広島市現代美術館)に《「ヒロシマ」存在するものの力》《習作「ヒロシマ」川》《習作「ヒロシマ」哀史≫を出品。5月、宮崎進『鳥のように−シベリア記憶の大地』(岩波書店)刊行。刊行記念展・みいだされた永遠宮崎進展(28日一6月8日、岩波書店一ツ橋ビル)開催。

■2008(平成20)年[86歳]

 3月、宮崎進展大地の匂い(10−22日、ギャルリー東京ユマニテ)に《冬の樹》《Land≫《荒地≫など20点を出品。10月、宮崎進展記憶と祈り(8−28日、日本橋高島屋美術画廊X)。周南市施行5周年記念特別功労表彰を受ける(10月29日)。134

■2009(平成21)年[87歳]

 2月、宮崎進『旅芸人の手帖』(岩波書店)刊行。4月、周南市美術博物館名誉館長に就任。6月、宮崎進一漂泊Wanderi昭一(9日−7月20臥多摩美術大学美術館)に「旅芸人シリーズ」を中心に油彩33点、ドローイング、写真を展示。

■2010(平成22)年[88歳]

 NHK日曜美術館「宮崎進一シベリア・鎮魂のカンヴァス【」(8月1日・8日放映)。

■2011(平成23)年[89歳]

 3月、宮崎進の戦後(2日−5月8日、山口県立美術館)。

■2012(平成24)年[90歳]

 1月、コレクション展示室宮崎進90年の軌跡(19日−4月1日、周南市美術博物館)に収蔵作品26点を展示。3月、美術館収蔵品展宮崎進とその時代展(9日一5月13日、伊勢現代美術館)。

■2014(平成26)年[92歳]

 いのち4月、立ちのぼる生命宮崎進展(5日−6月29日、神奈川県立近代美術館葉山)。『冬の旅』(新潮社)出版。土居由美[編]