山下菊二
■郷里の記憶、シュルレアリスムとの出会い、戦地での体験など1919−45年
ここで取り上げるのは、幼年期から敗戦までのおおよそ四半世紀にわたる期間である。この時期公募展への出品やグループ展の開催など、作家活動の萌芽ともいえる活動が始まっている。しかし、本格的な活動が始まるのはその後のことであり、この四半世紀は、画家山下菊二にとっては「前史」ともいえるだろう。ただ時期に見聞きした体験のいくつかは、その後の山下のあり方を方向づけることとなった。
山下の作品を理解する前提として、この時期の体験は重要な意味を持っているのではないだろうか。
徳島市から西に、吉野川を中流まで遡った所に、辻町(現在の井川町)がある。四国のほぼ中央に位置する。町の南側には四国山脈が迫り、北側は吉野川の川原へと続いている。わずかしかない平地を徳島から高知や愛媛へ続く街道が通りぬけ、街道に沿って人家が軒を連ねている。かつては刻み煙草の産地として栄えたが、今では静かな山あいの町のたたずまいをみせている。1919年10月8日、山下はこの町で父芳太郎と母サワヱの5男として生まれた。兄4人、姉1人の末っ子である。芳太郎は町の街道沿いで菓子の製造販売業を営み、電気器具や雛人形、花札なども扱っていた。長兄に家業を継ぐ意志がなかったこともあって山下が14歳の年に店を閉じたが、それまでは一応の繁盛をみせていた。裕福とはいえないものの、比較的恵まれた家庭だったようだ。
山下はこの町で尋常小学校と高等小学校を終えた。時には度を越したいたずらをして親に叱られることもあったが、軍人に憧れるような普通の少年だったらしい。
家族の中で特筆すべき存在が、三番目の兄董美(しげよし)である。後に結婚して谷口姓を名乗ったこの兄は、山下のちょうど10歳年上にあたる。彼は中学在学中から油絵をはじめ、やがて木版画の制作に没頭していった。実家近くの小学校に代用教員として勤めながら、1931年から日本版画協会展に出品を始めた。小野忠重らの「新版画集団」に会員として名を連ね、武藤完一の『九州版画』などにも寄稿している。39年には東京に住まいを移し、一木会に参加して恩地孝四郎の指導を受けたが、戦後は徳島に戻り、人形浄瑠璃など徳島の風物に取材した作品を数多く残している。
重美は幼い山下を美術の世界に導き、後に山下が高松の工芸学校に進学する時や、美術学校の受験準備のために上京する時など、折りにふれて助言を与え、父親を説得する役まわりを演じた。
1932年3月13歳・地元の高等小学校を終えると、山下は初めて郷里を離れて隣県の香川県立工芸学校に進学した。専攻は鋳金科だったが、1回3時間の図画の授業が週3回、他に図案の授業もあった。この地方の少年の進学先としては隣町の旧制中学が一般的だったが、少しでも絵が描ける学校をとの選択だった。
山下は工芸学校の鋳金の授業を振り返って、「さまざまな工程をパスしながら作品を創ることの難しさのようなものにかかわれたことによって、絵以外の面白さに立会えたように思っています」と語っている。
多少時期が前後するが、工芸学校を卒業18歳して1年半ほど経った1938年9月、山下は兄重美たちが徳島で開いていた「野人社」というグループ展に、油彩、水彩、「塑像」など、10点の作品を出品している。卒業してあまり時間が経っていないことから、工芸学校時代の制作だと考えられる。作品は現存しないが、出品目録によると「塑像」は、≪童子灰皿≫、《男胸像≫、≪蓮に蛙灰皿≫の3点。工芸学校の実習ではきわめて実用的な作品を制作していたことがうかがえる。
しかしここでの学生生活を通じて、山下は画家を自分の進路として思い描くようになる。この学校には「絵のうまい者ばかり」が集まっていて、卒業時には美術学校への進学を準備する者もいた。山下もこの頃「絵描きになりたいと思うようになった」のだという。
5年生の年に制作した≪高松所見≫(上図・17歳)と呼ばれる油彩画が残っている。画面をいくつかに区切り、それぞれに食堂の店先や疾走する機関車、入浴する女性の姿など、雑多な光景を描き込んでいる。稚拙ながらも、明瞭にコラージュの手法を意識していたことがうかがえる。山下がこのような手法をどこで知ったか明らかでないが、その頃の国内の美術雑誌は盛んにシュルレアリスムの作品を紹介している。工芸学校に学びながら、山下はこのような美術界の新しい動きも注視していたのだろう。
1937年3月18歳に工芸学校を卒業すると、福岡にあった松屋百貨店の宣伝部に勤めた。仕事の内容はショーウインドーや店内のディスプレー、広告などの制作。先輩たちが次々と出征していったため、山下のような新人にも活躍の場が与えられたらしい。しかし翌年の5月には退職し、9月になって東京美術学校師範科への進学を目指して上京した。
山下は工芸学校を卒業した時点でも美術学校への進学を考えたが、実家は山下が2年の時に店を閉じていて、進学が許されるような状況ではなかった。しかし職場にいた東京美術学校出身の上司の感化もあって、思いがつのるようになった。師範科は学費がさほど掛からない上に、卒業後は中学校教師の職が保証されている。師範科を受験することを条件に、ようやく親の許しを得たのである。
上京すると、まず受験準備のための美術研究所をさがした。岡田三郎助や熊岡美彦、小林甫吾など、いくつかあった研究所のうちで、山下が選んだのは福沢一郎が主宰していた研究所。山下によると福沢の絵は、「下手くそな感じがするのに凄く打ってくるものが」あった。それに対し、たとえば岡田三郎助の絵などは、「技術だけが出きていて、それだけでうんざり」したのだという。
いうまでもなく、当時の福沢はフランスから帰国して間もなく、留学の成果であるシュルレアリスムの作品を独立展に発表し、新しい傾向を代表する作家として画壇の脚光を浴びていた。すでに≪高松所見≫のような作品を制作し、美術界の新しい動向に関心を示していた山下にとって、福沢の研究所は自然な選択だったといえるだろう。
研究所には、週単位で昼か夜にモデルが来たが、それ以外は自由な制作が許された。研究生が尋ねると色々と説明するが、福沢が作品を手直しすることはほとんどなかった。山下は研究所生活が面白く、一日中入り浸った。「我武者らに疲れるまで描いてゴザをかぶって一眠りして又描くという調子」だったという。
しかし研究所の自由な雰囲気に染まり、進学の意欲は次第に失せていく。もともとあまり受験の便宜を考えた研究所の選択ではなかったが、周囲の研究生から「美校では技術を身につけることに片寄り勝ちだが、これからはそんな手先の勝負ではない」、むしろ「文学や哲学を身につけた方がおもしろい絵が描ける」と聞かされたのだという。
やがて山下は進学を中止したいと郷里に伝え、それが原因となって送金を止められる。人形作りの内職やタクシーの運転手の助手などさまざまなアルバイトに手を出したが、最後に親が折れるまでは、かなり困窮した時期もあったようだ。
研究所時代に、山下はその後の制作を左右するふたつの思想と出会っている。ひとつは絵画を社会と隔絶したものとせず、政治的、社会的な思想を作品に反映しようとする考え方である。山下は「絵の中の思想」と呼び、福沢に学ぶところが大であったとする。この時の出会いが、後年の政治的な主張を明確にした制作の根底にあったという(註9)。
もうひとつはシュルレアリスムである。当時は充分に理解できなかったが、福沢の作品を目にして「不思議な世界に引きこまれていくのに感心」し、「エルンストやダリの、あの衝撃的で大火傷でも負わされそうな異形の絵に熱中」したという。
研究所の選択でもそうだったが、以前から新しい美術に関心を示していた山下が、当時の画壇で最も先鋭的であったシュルレアリスムに魅せられていったのは、自然な成り行きだったといえるだろう。
しかし山下は次のようにも語っている。
幼年期の山下は、郷里の町の「封建的な家族制度で、家と家との対立の激しい状況に対して、或る反発を感じて」いて、その頃は充分に理解していたわけではなかったが、「無意識的な人間の解放を目指している」シュルレアリスムに「感覚的に」共鳴し、「自分の内部で抑圧された何かを解放してくれるものを」感じていたのだという。
また幼年時代に、怪異な伝承がまとわりついた川向こうの淵や竹薮に覆われた谷など、「不思議な幻想を」呼び起こしてくれる場所に好んで足を運び妄想にふけったが、その頃から体質的にシュルレアリスムに共鳴する素地があったのだろうともいう。
もちろんこれは後年になってからの説明であり、山下自身が語っているように、当時からこのようにシュルレアリスムと郷里での体験を意識的に結び付けて考えたわけではないだろう。しかしやはりこのような幼年期の記憶も、何らかの影響を及ぼしていたのかも知れない。
この時期の作品としては、1940年の第1回美術文化協会展に出品した≪簡単二寒サ解放ス≫が知られている。白黒の不鮮明な写真しか残されていないので判然としないが、中央や右側には絡み合う石像や様々な有機的な形態が、手前には犬を従えた人物が描かれている。人物の後ろ姿と空を駆ける犬が点景のように描かれ、背景には山岳地帯が広がる。題名の意図は明かでないが、画面はダリを思わせるような幻想的な空間となっている。山下が本格的にシュルレアリスムを試みた最も早い時期の作例といえるだろう。
《簡単二寒サ解放ス〉1940年油彩
1939年20歳の年末、召集を受けて台湾の歩兵二連隊に入隊する。3ケ月間の訓練を受けた後、中国南部の小董墟という戦線に送り込まれた。
この戦線は「非常に装備の悪い中国の民兵のような相手」だったので、戦線としては比較的のんびりした場所だった。しかし「戦闘をしているんなら生きるか死ぬかで、まだ無意識のうちに」時間が経つが、戦線が平穏であっただけに、戦場で目撃し、自らも加担することになった日本軍の行為に深い衝撃を受けることになった。
戦後になって山下は、断片的にその状況を語っている。食料徴発のため現地民の部落を略奪した時、ひとりの老人が執拗に抗議した。上等兵は殴る蹴るの暴力で威嚇し、山下たちに銃殺することを命じた。山下たちがためらうのを見て、上等兵が銃殺した。
また逃亡した捕虜が捕らえられた時、山下たちが処刑を命ぜられ、首まで地面に埋められた捕虜の鼻、両耳を、順番に切り落とすことを強いられた。
このような行為に、山下が平然としていられたわけではない。最後に下士官が捕虜の首を切り落とした時は、「逃亡者の首からではなく、わたしの何ものかが切り落とされたような気がした」という。しかし戦場で上官の指示に逆らえるはずもなかった。戦線から台湾に戻された時は、休みごとにノートを隠し持って外出し、一日中風景や慰安所の娼婦をスケッチして過ごした。「戦争から逃げたいという気持ちが絶えずあった。その痛みを忘れたいためにそこへ逃避していたのだ」という。
1942年12月23歳に除隊となると、まもなく東京に戻った。しかし福沢の研究所は、山下が東京を離れている間に閉鎖されていた。時局の悪化につれて前衛美術に対する風当たりが強まり、福沢は前年4月にシュルレアリスムが共産主義であるとの嫌疑のもとに検挙された。山下が戻った時はすでに釈放されていたが、研究所はそのまま閉鎖となっていたのだ。
それでも山下は福沢からアトリエを使うことを許され、以前いた下宿から通いはじめた。43年24歳には第4回美術文化協会展に、≪人道の敵米国の崩壊≫(後に「日本の敵米国の崩壊」と改題上図)を出品し、友人たちと七輝会展というグループ展も始めている。44年25歳には第5回美術文化協会展に≪敵前上陸≫と≪同朋よ今だ≫を出品し、美術文化賞を受賞した。
この時期の作品としては、第4回美術文化協会展の≪人道の敵米国の崩壊≫が残っている。この作品は、暗雲を背景にホワイトハウスや星条旗、”HOLLYWOOD”(ハリウッド)と書き込まれた甲胃など、アメリカを象徴する事物を描いている。しかしホワイトハウスは瓦礫のように崩れ、星条旗はぼろ切れのように痛んでいる。いうまでもなく、当時日本が敵対していたアメリカの行く末をこのような形で示唆しようとしているのだろう。
この時期の美術文化協会は福沢の検挙を経て、体制に迎合する姿勢を明確にしていた。展覧会には戦争や日本神話に取材した作品などが並び、会の行事として華人を招いた講演会などを開いていた。この作品もシュルレアリスムの手法を採りながら、当時の前衛美術が置かれていた状況を反映しているといえるだろう。
戦後になって、山下は当時の心境を、「戦争をぼうぼうと燃えている火に例えるなら、火勢を強くするために積極的に火の中に飛びこんでゆくとか、反対ならば火を消すために一命をなげだしてでも闘うといった勇気もない中途半端な態度ですから一番つらかったと語っている。また、配給の絵具を入手するために散々な苦労をしたが、あの頃そこまでして絵を描く必要があったかとも振り返っている。
1944年3月25歳からは、福沢の紹介で東宝映画の航空教育資料製作所に勤務する。同僚に森芳雄や難波田龍起、後々まで親交が続くことになった高山良策などの画家がいた。この職場は特攻隊要員養成のために、特殊撮影でB29やアメリカ艦隊の輪型陣攻撃法の教育映画を製作していた。軍の業務を担っていたため、しばらくは召集や徴用が免除になったという。
しかし45年3月26歳には再び召集を受け、徳島の連隊に入隊した。ただこの頃になると戦争も末期に近く、輸送網が寸断されていたため、海外の戦線に送られることはなかった。空襲に追われ、夜は兵舎に寝られないため防空壕や山中で過ごし、敗戦は徳島の連隊で迎えた。
戦後になって山下は、自らの戦争体験についてさまざまな機会をとらえて発言し、戦争の問題を作品の主要なテーマとしている。
山下は戦地で日本軍の残虐行為を目撃し、自らも加担することを強いられた。山下に内心抵抗がなかったわけではないが、当時の軍隊制度の中では、拒否できるものではなかった。しかし戦後になって、戦場で上官に銃を突き返した兵があったことを知り、殺戮を眼のあたりにしながら、傍観者の立場を守った自分に、深い自責の念を抱いた。「暴殺状況に直面しながら、何等の抵抗もなし得なかったことに対する自己啓発と、国家権力への告発を持続的に追求することによって、〈戦争告発〉をわがライフ・ワークとしなければならないと考えています」というのだ。
そして関心は部落差別や従軍慰安婦の問題にも広がっていく。いずれも郷里の町や福岡の町、出征先の台湾などで見聞きし、心にわだかまっていた問題だったが、自己の戦争体験をつきつめたことが契機となって、山下の中で一連の問題としてつながっていった。山下の理解の上では、戦争という極限状態に人間を追いやった背景に、因襲や伝統に秩序だてられた日本社会の前近代的な性格があり、そういった社会のあり方が部落差別や従軍慰安婦の問題なども生みだしたと考えたのだろう。そして戦場での反省に立って、二度と傍観者であってはならないという決意が、これらの問題とも積極的に関わらせることになったのだ。
また後年の山下の作品は、民間の伝承や庶民の素朴な信仰心など、画面に盛り込まれた土俗的ともいえる日本在来のイメージが問題とされることが多い。画面の上では、あからさまに山下の郷里の町を思わせるものではなく、むしろどの地方でも少し前まで普通に見られた人々の暮らしとして描かれている。しかしこれらの多くは、幼年期に過ごした郷里の記憶が原型となっていたと考えられる。
たとえば≪あけぼの村物語≫(1953年)34歳は山梨県の曙村(現在の中富町)に取材した作品であり、画面の擬人化された赤犬は、直接的には現場で目にした赤犬が発想のきっかけとなったと思われるが、郷里の町には獣が人に憑依(ひょうい・霊などが乗り移ること)するという「犬神憑(つ)き」の迷信があり、画面の赤犬が郷里の町の迷信を敷術していることは容易に想像できる。1961年42歳の≪祀り人のない墓にもの云いかけるな(たたられる)≫(下図左)や、《女鐘の下にたてば、まがさす≫42歳(下図右)のように、郷里の伝承をそのまま題名とした作品もある。
さらに≪死霊とともに≫(1962年下図左)に描かれた世界はまわりの大人から聞かされた黄泉の国のイメージであっただろうし、経文や梵字をコラージュ風に画面に取り入れた≪またぐ≫(1963年下図右)などの作品は、郷里の人々の条理を超えた信仰の世界を暗示しているのかもしれない。
山下は幼年期を振り返って、郷里の人々の暮らしを「おたがいの生活の背後に廻って、そっと覗きこんでいるような意地悪い視線」を感じさせ、家と家との「長い因襲的な対立といったもの」が支配していたと語っている。決して山下の郷里が特に旧弊な土地柄だったわけではないが、山下にとって郷里の町とは、日本社会の前近代性をも身近に感じさせる例だったのだろう。戦争や差別、従軍慰安婦などの問題と、その背景となった社会のあり方自体を問題としようとした時、具体的に山下が思い浮かべたのは、郷里の人々の暮らしだったのではないだろうか。
この四半世紀の体験は、後の山下のあり方と大きくかかわっている。しかしその時点では、まだそれぞれが無関係な体験だった。次の論考でふれられることになろうが、それらが一連のものとして意味を持ち、作品や行動と明確な結びつきを持つには、今しばらく時間が必要である。しかしいずれにしてもこの時期の体験をふまえて、その後の山下の思考が繰り広げられていったことは間違いないだろう。
(徳島県立近代美術館主任学芸員)
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