殿敷侃

■序にかえて・・・殿敷侃についての覚書

寺口淳治

 殿敷侃が50歳でこの世を去ってから25年が経つ。彼の仕事を知る人々のあいだで、伝説のように語られ続けるその全体を見直すには、もう遅いのだろうか、いや、まだ早いのだろうか。

 展覧会を準備するなかで、彼のことを熱く語る多くの人々に出会った。また美術の世界で活躍し、彼の仕事の本質を理解した人たちがいたが、彼らは殿敷に関して数多く紹介の労をとり、言葉を紡いでいる。そして何より、四半世紀(四分の一の25年間・しはんせいき)の暗が経過しても、彼のアトリエはほぼ生前のままにある(それは遺そうとした人々がいるということだ)。作品のほかに彼自身が整理したアルバムや手にしたさまざまな書籍、送られてきた手紙など、そこで私が目にした物は数限りない。これらの事と物によってこの文章は成り立っている。

 今回広島市ゆかりの作家として殿敷を紹介するが、彼が広島市内で過ごしたのは、生まれてから3歳までと、高校を卒業してから上京する28歳までの、あわせても14年に満たない期間である。多感な時期を過ごした世羅での生活よりも、30歳の頃から過ごす山口の長門での生活よりも、短い時間でしかなかった。しかし広島で自らの人生を方向づけるふたつの出来事が彼の身に起こっている。ひとつは原子爆弾による被爆である。これはもちろん望んだものではないけれど、この蛮行による父母の死は大きな試練とともに彼にのしかかり、それ以上に、常に死と隣り合わせの自らの健康状態を見つめ、案じながら生きざるを得なくなった。そしてもうひとつは絵を描き始めた、つまり表現による自己拡張に目覚めたことである。このふたつば密接に絡み合いながら彼の人生を形作ることになる。

 

 殿敷は1942(昭和17)年生まれで、広島に原子爆弾が落とされる1945年8月6日は、およそ3歳と7ケ月であった。その年の春、母親とともに父の親類が住む広島県東部の世羅郡に疎開する。原子爆弾が投下された数日後、母親は彼を連れて、帰らぬ人を探すために広島市内に入る。彼の父、殿敷寛広島郵便局に勤めていた。原子爆弾は、現在世界遺産として知られる原爆ドームから南東にユ00メートルほど離れた場所の上空で炸裂したといわれているが、広島郵便局はほぼその真下にあった。その建物は影も形もなかっただろう、周辺の状況からそれらしき場所を探し回った母子は、転がっていた鉄かぶにまわりの焦土を入れ、亡骸の代わりに持ち帰る。

 

 放射能が残る市街地に入ったことから、母子は二次被爆となり、母は長く病気を患い、5年後、彼が8歳の時に亡くなる。姉と二人きりの孤児となってしまったことで、貧困や差別など口にできない苦労のなかで過ごす。高校は、現在も駅伝で有名な世羅高校の分校に通い、校内の駅伝やマラソン大会で優秀な成績を残したことがわかっている。

 高校を卒業後、国鉄に勤め、広島駅に近い寮に住むが、20歳の頃に被爆が原因と思われる肝臓病のため、入院生活を余儀なくされる。その時、病院の職員に絵を教えに来ていた名柄正之(1903-97)に出会い絵と向かい合うことになる。長期の入院生活という、ある意味社会から隔絶された環境のなか、幼い頃に経験した母の死があらためて彼に死というものを強烈に刻印した。そのような状況のもとで描かれた大量の水彩画からは、先生であった名柄の、その作風とともに絵に対する真筆な態度に共鳴し、大きな影響を受けていたことが推測される

 また、殿敷の父も油彩画を描き残していて、数点の穏やかな作風の風景画を見た。なかには1928年の年記のあるものもあり、彼が生まれる以前にその父は絵を描いていたことがわかる。父親のことをほとんど覚えていないとも語っているが、彼が絵筆をとったのは、全くの偶然ではない。

 一年ほどを病院で過ごしたあとに復職し、広島の国鉄に勤務しながら、絵を描く生活を続ける。寮の狭い部屋いっぱいに自作の絵を並べ、次の制作に向かう写真が残されている。職場美術展や平和美術展などに毎年出品を続けていて、その最初期の油彩画を見ると、同じく国鉄に勤め機関士画家と呼ばれた太田忠(1908−71)の影響が大きいことがわかる。荒々しい筆触を誇張した表現は、晩年の太田に特徴的な画風でもある。1966年には、太田の所属していた新制作展で初入選する。また、国鉄に勤務する仲間たちとグループ“目”を立ち上げるが、そこにも太田が居た。名柄にしろ太田にしろ、多くの後進を育てた、たいへん人望の厚い人物であり、殿敷の画家としてのスタートは彼らに助けられていたといえる。

 しかし、名柄や太田の描いた、風景のなかにその心情を仮託するような、あるいは花の美しさを伝え、見る者の気持ちを和ませるような、そういう絵を描くことば長く続かなかった。何を表現するかということを真筆に考え始め、彼の絵は暗鬱さを増すようになる。それは死に直面した経験とその影によるものであった。

  

 一年半ばどの上京生活を経て長門に移り、あらゆる因縁を絶つように画家としての生活を送る。知る人の少ない孤独な毎日を過ごすなか、父や母の遺品(たとえば、あの「鉄かぶと」だ)を描くことを始める。その点描による作画態度は、修行僧が精神的にも肉体的にも極限にまで自らを追い込む、その姿勢と似通っている。長門での生活はそういうことを求める彼にとって、環境としては申し分ないものだった。自らの表現を模索するなか、父母の戒名を作品名としたそれらの油彩画やペン画は、美術評論家の久保貞次郎(1909−96)の目にとまり、東京での個展、新人洋画家の登竜門として知られた安井賞への入選と、画家として一気に開花することとなった。

 また、個展開催のために久保の勧め版画を制作するようになり、その手法が肌に合っていたのだろう、銅版画からリトグラフ、のちにはシルクスクリーンヘと創作の幅を拡げた。この版画制作は彼にとってひとつの転換点でもあった。久保の助言によるものだろうが、最初期の銅版画において、版を作り、試し刷りまでは本人がやっているが、本刷りほ別の人物に任せて完成させている。このことば、たとえ自分自身の作品であっても必ずしも一人で完成させなくてもいい、という理解を彼にもたらすことになった。

 長門の仙崎にある松岡材木店のコンクリート塀に壁画を描くことになるのは、長門に移り住んでそれほど時間の経っていない1973年の初夏のことで、その後、十数年に渡り、さまざまな人々とともに何度も描き替えることになるが、最初の頃に描かれたものと、版画と出会い一人で制作せずとも自らの作品になりうることを知ったあとでは、彼のなかでその壁画制作に対する意識は全く異なっていただろう。1984年と85年に描いた壁画はそれぞれ、《ブルー・線の集積》《AFIGUREAI)PEARANCE》と自らの問題意識を作品名とし、同時期に個展などで発表する表現と通底したものとなっている。

 銅版画は小さな画面に父母の遺品や身の回りの物(貝やとんぼ)をモチーフとして制作された。そして少しあとに始めるシルクスクリーンでは、原爆についての直接的表現といえるケロイドの背中や原子雲の写真を大きく引き伸ばして転写し、同じイメージを大量に刷り、それらを反復するように一堂に並べる展示を行なっている。また、このような作品とほぼ同時期に、数字のスタンプで画面を埋め尽くすモノタイプ作品を作るが、そのシリーズのなかでも大きな作品(縦1メートル50センチ、横10メートルの巨大なものもあった)は本人だけでなく、多くの人々の手を借りて制作している。

 1981年に山口県から賞を受けた時のコメントのなかで、殿敷は「人間は、どこからきて、どこへ行くのか!!」(『第32回山口県芸術文化振興奨励賞パンフ』1981)と答えている。この言葉はポール・ゴーギャン(EugeHenri PulGauguin1888−1903)の大作《D’cvenons−nOuS?qeSOmmeS−nOuS?Odallons−nOuS?(我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか)》から採られたものだろう。この絵は、病と貧困のために死を覚悟した(自殺を決意した)ゴーギャンが、自身の死を記念する作品として全精力をつぎ込んで描かれ、その生涯で最大の作品となるものであった。ゴーギャンは、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は画題としてこの作品に与えられたのではなく、この絵そのものが発した言葉だと語り、署名のように画中に書き込んでいる。死を意識して臨んだにもかかわらず、この制作によってあらゆる束縛から解放され生命力がよみがえったと、のちに書いた手紙で告白する。

 殿敷は、ゴーギャンが生きること、そして死ぬことに直面し、この言葉を発したことを理解していただろう。死の象徴ともいえる原子雲をモチーフとし、あるいは父の遺品としてあった爪を幾重にも執拗に繰り返し登場させるような表現を続けていた彼は、その内側にどうすることもできそうにない、抗(あらが)えない[逆らえない、抵抗できない]ものを募らせていたのかもしれない。

 しかし翌年には、大きな転機が訪れる。1982年の春からヨーロッパを中心にアメリカまで足をのばす、およそ半年に渡る旅行の途中、ドイツ(当時は西ドイツ)のカッセルに立ち寄る。この年、カッセルでほ5年に一度の現代美術展、ドクメンタが開かれていて、そこでヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys  1921−86)の《Aktion7000 Eichen(7000本の樫の木)》に出会った。ボイスが唱える、誰もが彫刻家であり、未来を作り出すことができるという「社会彫刻」の考えに基づく市民参加の作品は、殿敷が始めていた他人の手を借りる共同作業とは次元の違うものであり、次のドクメンタまで5年かけて完成させる《7000本の樫の木》のスケール、そして何より、それらしきものを作らず、思考と行動を促すボイスという作家の存在は、彼に次なる大志を抱かせるに十分な刺激であった。

  帰国した殿敷は、原子爆弾との直接的な関連を示すイメージからは距離を置くようになり、翌年の山口県美術展覧会では廃品のタイヤなど1トントラック3台分を美術館の前にぷちまける今や伝説となった作品を発表する

 

 以降、すでに用済みとなったテレビやアトリエ近くの浜辺に打ち上げられる漂着物を使った作品など、その場限りで遺すことのできない一過性のもの(インスタレーション)を作り続け、これまでにない大きな飛躍を見せる。しかしこの時点で急に漂流物や廃品に着目したわけではない。長門に住んで間もない頃に新聞の取材に答えるかたちで、海岸の漂着物を絵の素材に使うと語っているし、広島の画家である入野忠芳(1959−2013)が追悼文として書いた短いけれども優れた作家論(『’93美術ひろしま』1993)のなかで、殿敷がずっと苦から廃品愛好家であったことを伝えている。好品でもあった身の回りの廃品表現とつなげる契機は、やはりボイスの影響が大きかったといえる。

 

 また、山口市民会館や福山市民会館などを会場として開催された「現代美術の方法展」(1983)や、岩国市の鋭帯橋周辺でのアートプロジェクト(1988)では、作家として参加するだけでなくコーディネーターとして展覧会を作っている。出品作家を選び連絡をとることから資金集めまで、ほぼすべてにかかわる精力的な活動を見せる。

 そして、ほぼ同時期に美術館や画廊などの閉ざされた空間から外に出る。バリケードと題された一連のシリーズを追うとわかるが、最初は美術館や画廊でテレビやタイヤなどの廃品を使って発表していた作品が、ある時期からより大がかりなものとなって屋外で作られるようになった。そのほか、海岸で市民とともに漂着物を集め填き上げるようなイベント、木の上にタイヤを担ぎ上げ風景を一変させる作品など、その手法もスケールも従来の美術の枠におさまりきらないものとなる。そして、どの作品も多くの人々の参加によって成り立ち、多い時には100人を超える人々が集まって、殿敷の制作を担っていた。人々にとってそれらは、見る作品ではなく、参加し行動するための対象であり、完成させるにはそれぞれの力が必要な作品であった。

 殿敷の、多くの人々と作り上げるような先鋭的な活動と表現は、おそらくそのことだけでは誰も集わなかったであろう。温厚に絵の指導をし、美術について熱く語る彼が居てはじめて、さまざまな人が彼の作品制作を担ったのである。参加した人々は皆、その行為に興味を持ち、汗を流す労働とその彼の疲労に満足感を得、充実した時間を過ごしたが、彼自身は決して有頂天になることばなく、醒めていただろうことば想像に難くない。長く彼とともに居た美術評論家の南鳥宏(1957−2016)が「殿敷侃・背面の眼差し」『逆流する現実』1990)と題された作家論のなかで、イベントのひとつを例に「諦念にも似た空虚な世界の出来事」と考えていただろうことを指摘している。現実世界にまみれ澱みにはまり込まないように慎重に生きようとする殿敷の姿が現れる。

   

 このような作品に至る道筋を考えるに、殿敷の生涯において、表現することと、ボイスに出会ったことが、カタルシスとしてあったのではないかと思わずにはいられない。入院生活で被爆と死に向かい合った時、絵を描く行為は救いとしてあった。しかしその後、自らの表現を突きつめていくうちに、被爆という現実と刻印された死が澱(おり・沈殿したかす)のように溜まる。動けば動くほど、もがけばもがくほど、袋小路に突き当たるように沈殿していく自らの思考と感情。その時期に出会ったボイスという存在は、表現の方向性を指し示し、そのことによって精神の解放を見ることができた。ボイスの影響は自身でも語り、外遊直後、出会った人々にボイスによる開眼を息せき切って(激しい息づかい)語る彼の姿を証言する者もある。彼にとってボイスは単なる憧れや影響で語れるものではなく、自らを浄化することに力を貸すほどの存在であった。ボイスによってもたらされた表現の手法はひとつの光明であり、彼はその方向に歩み続けた。死の床で「僕は夜明けを信じた」と書き遺すのは、この光のことに違いない。

 殿敷は最後の数年、美術館から自らの作品を引き剥がし、そして美術館にいる私たちが相手にできない作品を作り続けた。行為が主体であり、物としての作品は存在しない。今となっては絵空事のような仕事について語ることは、物に即くべき私たちには不可能なことかもしれない。現在、25年以上前に行なわれた一回限りのインスタレーションを写真や映像で見ることはできる。だが、これらは二次元に置き換えられていて、すべてを伝えているわけではない。技術は進歩するだろうから、いつか風を感じ匂いのする3Dのヴァーチャル空間で、奥行きのある彼のインスタレーションを経験できないかと思う。その時やっと、この展覧会で紹介する作品とともに彼の仕事の全体を見渡すことになるだろう。

 さて、置いてきぼりを喰わされた私たちは、作者不在のなか再び何を考え始めるのだろうか。

(てらぐちじゆんじ・広島市現代美術館副館長)