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ゲオルゲ・グロッスと柳瀬正夢の出会いがもたらしたもの
及部克人
柳瀬正夢は、1929年11月、鐵塔書院から『無産階級の画家-ゲオルゲ・グロツス』を刊行した。柳瀬は、この著書を三部冊
1)西欧の諸家の言葉によるグロッスヘの批評、
2)グロツス自身の言葉による世界観、文明批評、芸術観、
3)私のグロツスにたいする厳密な批判
の第一番目のものとして位置づけている。「資本主義一般の膿瘍を暴きさらして餘りなかった勇猛なる彼も、今日は資本主義の癌腫を刺す手で歴史の堤防を突き破りつつある。運動の流れが建設期に向かっている現在の瞬間、正しい流れの堤防を破壊するこれらの否定的要素は濁流に浮かして運動の外へ排除せねばならない。」前書きでこのように語るのだが、彼の構想どおり、“西欧の諸家”イタロ・タヴォラトやイ・マーツアなどの批評を紹介している。イタロ・タヴォラトは、「早熟の小僧が、共同便所の壁に春畫や政治的物語りを描いたりして、己が潜在意識を洩らして喜んでゐるやうに、又は無頼漢が監獄の壁に彼の罪状を叙事的な文句で書きつらねて喜ぶやうに、小僧の画家であり、無頼漢の畫家である。彼ゲオルゲ・グロツスは小児らしい又好色文学的な畫を描いている。しかしそのいずれの場合に於いても、絵画的な善き音調から歓喜の叫びが立ちのぼってゐる」と描写する。マーツアは、「革命は若きものを否定するのみではなく、さらに新しきものを建設し、あるひは少なくとも、新たな建設への道を指示する。否定的モメントと並んで肯定的モメントも亦存在する。ゲオルゲ・グロツスにはそれが無い」とする。
1928年、マリク書店干桁の畫集『ヒンターグルント』の素描三枚が時の政府から没収にあい、グロツスと出版業者が絵の破棄と罰金刑を申し渡される
が、越えて1929年4月再審の結果、無罪となる。法廷で判事はグロツスに訊ねた。「被告はその方の蓋が、廣汎な獨逸人民をいらいらさせてゐるといふことを知ってゐるのか?」グロツスは答えた。「私は言はば、獨逸人民に属してゐるのです。そして教会が戦時に、殺人や放火の伝導演説をやるのにいらいらさせられてゐるのです。じっさいに辱められてゐると感ずのは誰でしょう。私は殺人者や放火ものの感情のために不安でたまらないのです。」続いて、グロツスの共働者マリク出版のヘルツフェルデは判事の訊問に答えて、「
問題は数百寓の人々に、新しい戦争について警告することにある。言葉や絵で、あらゆるとき、あらゆる場所で、戦争の危機について叫ばねばならない。そのために我々は戦ひを企てたのだ。
」「で、被告はあらゆる戦争に反対なのか?」「否! 我々は、内乱、奴隷の抑圧者に対する戦争、帝国主義戦争に終結を告げる戦争には賛成だ。」
柳瀬正夢は、‘‘グロッスのこよなき同志”ヘルツフェルデの法廷における応答を、この書
『無産階級の画家-ゲオルゲ・グロツス』
の跋に代えた。
漫画家松山文雄は、戦後になって、『無産階級の画家-ゲオルゲ・グロツス』のなかで柳瀬正夢自身の前書きと、イ・マーツアの言葉の引用をもとに
「柳瀬正夢は、グロツスを全く否定的なものとして位置づけたのである。
」と評価しているが、改めて柳瀬の文を見るとけっして否定的なものとして突き離してはいないことがわかる。
グロッスに深く傾倒し、影響を受け、アメリカのフレツド・エリス、ジンマーマン、グロツパー等のアイデアや筆法を取り入れ、試行錯誤
し、やがて、木の枝の先端を小石で叩き割って墨を含ませて筆にし、豊かな包容力のある柳瀬正夢流のスタイルを生み出すにいたるのだが、
グロッスへの敬愛と探求の気持は忘れることなく持ちつづけていたことがわかる。
グロツスの風刺畫を生み出したドイツの社会的な背景と日々の激動の政治的状況のなかで無産者新聞の諷刺画を描いた経験者の臨場感とを重ね合わせて追及しようとする
。充分な理解を深めたうえでの批評を構想する慎重な姿勢が見える。また、柳瀬は、1937年銀座のギャラリー・ブリユッケにおいて、「ゲオルゲ・グロッス作品及文献展示会」を5月2日~5日に開催している。ここには、『マッぺ-ゲオルゲ・グロツス第十重集』(パルガア出版1916年)、『マッぺ-ゲオルゲ.グロツス小童菓』(マリク出版以下同じ1917年)、『マッぺ一神は我等と共に』(1918年)、『畫集この人を見よ』(1923年)、『畫集一新支配階級の顔』(1930年)他など14種類の畫集が展示された。柳瀬正夢、辻恒彦、内田巌、山内光への畫廊からの謝辞が述べられている。
1930年3月に、『柳瀬正夢画集』が叢文閣から出版される。1926年3月から1929年2月までの無産者新聞とその他の新聞に掲載された風刺画を構成している。これらは、“殆ど
無新本社の編集室内で慌ただしくかかれたものだ
’が、同時に、労働者、農民の闘いの現場で “部分部分をきりとったり、組み合わせたり、文字を書き替へたりなどしで” “ ポスター戦に利用さるべきもの’’としても期待されてもいた。また、‘俺達に筆を送れ’’と呼びかけ、木桂の軸や葦の軸を用いて筆にしていた。木槿(ムクゲ)は、朝鮮の民衆が愛する花であることを誰よりも柳瀬は知っていたのだともいわれている。
相次いで刊行されたこの2冊は、上海の内山書店の店頭に並べられる。
柳瀬正夢は、
満州や北京や上海などに1929年から39年まで8回も旅行
している。私は、柳瀬正夢と
「魯迅と木刻運動」
との接点について関心をもっていた。1994年4月、町田市立版画美術館で「一九三○年代・上海・魯迅展」が開催された。展示で再現された上海の内山書店棚には『柳瀬正夢画集』や村山知義の『プロレタリアのために』が展示されていた。
魯迅
の日記によれば、内山書店から、1929年12月20日に柳瀬正夢著の『無産階級の画家ゲオルグ・グロツス』を購入
。1930年、臓集の雑誌『萌芽』第Ⅰ巻2月号にグロツス作品2点をこの本から転載。
1930年3月15日に『柳瀬正夢画集』を購入。
同年『萌芽』名称記念号第1巻5月号に、柳瀬のメーデーをテーマにした挿絵「起来/萬國の労働者」(“起て! 萬國の労働者”・・・労働農民新聞8号1927年5月1日号)、『巴凡底山』第一巻第2・3合巻号(1930年5月1日)に「大衆闘争」(‘‘ウジ虫どもを掘りかへせ” 136号1928年2月20日号)が掲載されている。
魯迅は、拓本の蒐集、外国美術作品の紹介、板垣鷹穂による『近代美術史思潮』や芸術論の翻訳・刊行を続けてきたが、1928年博一華社」をつくり、朝華週刊に外国の版画を紹介。1929年から:抄年にかけて「芸苑朝華」シリーズと題して『近代木刻選集1・2』陳谷虹児画選』『ビアズレー画選』『新ロシア画選』を刊行。さらに1931年2月『メッフェルトの木刻、セメントの図』を出版。30年1¢月4日から5日「世界版画展覧会」を開催。外国木刻版画の本名的な紹介を始める。これらは既成の「美術家」に対してではなく、「美術志望の名もない青年」を対象としていたとある。つづいて、青年美術家たちによる-八芸社との交流が始まる。中心的なメンバーであった胡一川(フィツアン)の『「一ノ胤の回想』によると、1929年、杭州国立芸専(現在の中国美術学院)で一八芸社が組織され、「一九三○年夏、社員の劉夢螢(リュウムンイン)、女兆蝮(ヤォオフー)、胡一川は上海にいって、左連の主催 する夏期文芸補習班に参加した。場所は環龍路フランス公園(現在の雁蕩路復興公園)の向かいだった。この建物の二階において左翼美術家連盟の成立式にも参加した。補習班では多くの報告を聞き、紅軍が長紗を攻撃したニュースを聞いた。そして多くの進歩的な書籍、例えば柳瀬正夢の漫画や魯迅先生編集朝花社出版の『新ロシア画選』などを見た」とある。
魯迅は内山書店から多くの日本の書籍を購入していた
。ここには、柳瀬の装帳本や漫画などの掲載された雑誌などが展示されていたと思われ、
日本の労働者の闘いを鼓舞する諷刺画に共鳴し、木刻の表現の模範として展示されていたと推量される
。1931年夏、『一八芸社』画集が発刊される。そこには国画、油絵、彫刻、図案の他、胡一川「流離」、「飢民」、江占非(ワンツアンフェイ)「五死者」の三枚の木刻も選ばれていた。上海の虹口にある毎日新聞社ビルで一八芸社習作展覧会を開催。魯迅は一八芸社習作展覧会小引で、
「時代はやすみなく進行しており、いま新しくて、若くて、有名でない作家の作品がここに立っていて、醒めた意識と強靭な努力とをもって、雑木林のなかに日に日に成長してゆく新芽を現わした。もちろんこれはほんの幼いものであると思う。だが、思うにその幼く小さいからこそ、希望はまさにこの一面に対して述べたものである。」と木刻への着手を評価し、その展開を激励している。
魯迅は1931年8月17日から22日まで、
内山完造
の弟
であり、成城学園小学部の美術教師内山嘉吉を招いて、上海一八芸社によって招集された十三人の青年美術家を対象に「創作版画講習会」を開いた
。
日本の浮世絵、イギリスの木版画、ケーテコルヴィッツの銅版画解説を交えた講習であったという。
魯迅の美術活動は、諸外国の版画や柳瀬正夢らの風刺画を紹介し、内山嘉吉の指導による木刻技術の習得の機会をつくりだした。この試みは、抗日戦争を戦うなかで、広く普及し、深められ、民衆を励ます実践的なメディアとして機能したことはよく知られている。
ゲオルゲ・グロッスと柳瀬正夢の二人の画家の共同作業とも言える研究と柳瀬自身の画集の二冊が、中国へ渡り魯迅を媒介にして、日本の中国便略と闘う坑日戦線の側の武器として機能したのだ。
*本稿は、愛媛新聞1995年3月21日号掲載の“柳瀬正夢と魯迅と 木刻運動”をもとに改稿したものである。(およべかつひと/武蔵野美術大学教授)
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