正夢四十五年の旅路一松山から三鷹へ一

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柳瀬信明

〈松山〉

 1900年(明治33)、柳瀬正夢(本名・正六)、愛媛県松山市小唐人町3丁目17(松山市大街道3丁目17)に生れ、明治37年愛媛県周桑郡三芳町河原津に里子にだされる。

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 明治39年、小学校(松山第一尋常小学校)入学のため松山に呼び戻される。明治41年、松山第四尋常小学校に転校、丸山定夫(新劇俳優)と同級生となる。この頃、正六少年は身長3,6尺(109cm)体重5.1貫(19.1kg)でクラス中位の体格、図画はとくに優秀で、三年、四年を通して満点の10点、手工も10点だった

〈門司〉

 1911明治44年5月23日、故郷松山を去り、門司市新川町1708に一家は移る。門司尋常小学校に転入、明治45年同校卒業。松本尋常高等小学校に入り、大正3年3月27日卒業。かねてからの画家志望を父に告白、猛反対をうける。

〈東京・田端〉

 1914大正3年9月14歳、美術学校選科入学をめざして上京するがすでに試験は終り、上京の夜、同郷の先輩、水木伸一(松山市久谷町出身。画家)をたづねる。水木は、小杉末醒(東京府北豊島郡滝野川村田端155)敷地の離れに仮寓していた。そこで正六は、村山槐多を知る。1915大正4年8月15歳、父に呼び戻されるまで田端、平塚を転々とし、大正3年14歳・冬から2ケ月ほど、南総・大原海岸(千葉県夷隅郡大原町小浜)帆万千館に滞在する。

1916-18年

<再び門司〉

 門司に帰った10月、彼の18番目の作品、「河と降る光と」が第二回院展に入選する。門司で毎年のように個展をひらき、小倉、八幡、福岡の展覧会に出品、少壮画家として知られるようになる。この間、1916大正5年10月16歳、田端、大正7年9月お茶の水、1919大正8年3月19歳、本郷と再三上京。大庭村公、長谷川如是閑の知遇をえて、『我等』「読売新聞」に職をうる

1919-28

〈東京・本郷〉

 1920大正9年8月頃20歳、待望の東京に定住の宿をみつける。本郷5丁目28、萩原酔月方に下宿し、老夫婦の親切が身にしみるという。大正10年21歳から読売に政治家肖像漫画を連投、『日本及日本人』に《時事漫画50点≫≪新東京50点≫をのせる。『我等』にカット、挿画をかき、『種蒔く人』同人となつて装丁、カットを担当し、漫画家、風刺画家、装丁家としてもスタートをきったときである。

〈中野〉

 1922大正11年11月3日22歳、「家がみつかつた。殺風景な部屋も自分の荷物を片付けてみるとすつかりなつこい自分の部屋になつた……」と日記にしるす。本郷から市外中野町15の10、青木方に引越した。のちに妻になる青木梅子(小夜子)とのであいである。ここは、“中野のオジサゾこと長谷川如是閑宅にも近くなった。アナキーキョウサンこの頃から穴明共三と名のり、社会主義思想へ傾斜して行く。日活『向島』編集にも加わり、村山知義らと「マヴォ」を結成新興美術運動の渦中の人となる。そして、下宿の娘、梅子と結婚し、正夢、青春のスタートであった

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〈杉並・馬橋〉

 新婚生活のスタートは、1924大正13年1月24歳、市外杉並村馬橋229の小さな家からはじまった。家の裏はひろい竹やぶで竹の子がよくとれ、まづしい新婚の食卓をにぎわしたという。その年の5月、長女利子誕生。 1925大正14年3人25歳・家族は少し広い家(杉並町馬橋329)にうつり、翌年12月次女照子が生まれ、そして昭和4年、高円寺駅近く、神社のそばの二階屋(馬橋344)に居を定める。昭和2年読売を退社し、『文芸戦線』、「無産者新聞」で活躍し、プロレタリア美術家同盟創立に参加。 馬橋は、妻と二児にめぐまれた幸な家庭をもち、一方、左翼画壇のリーダー的存在であった最も充実した時であったろう。柳瀬正夢・小夜子夫妻と長女・利子。(馬橋時代1925年)

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 柳瀬自筆の世田谷若榊町の家の見取図

<世田谷・若林町> 

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 1932昭和7年4月32歳、世田谷若林町549に移る。正夢自筆の見取り図をみると、六畳二間、八畳、三畳、四畳(図の斜線)は板間で硝子張のサンルーム式で子供たちの部屋になっていた。風呂、トイレもある一軒屋で、東京にきてから一番広い家で“金持ち”になったような気がしたという。

 この頃、読売に再入社し、『読売サンデー』、新聞小説『真夜中から七時まで』に挿画をのせ、チャップリン初来日にも同行した。前年、共産党に入党し、「赤旗」など非合法出版物にひそかに漫画等をかく。11月5日朝、二十数名の特高にふみこまれ、正夢は連絡、世田谷警察に連行される。このころ、すでに病気のすすんでいた小夜子は二人の子供をかかえて、正夢の救援と生活との苦斗がはじまる

<淀輪・上落合〉

 1933昭和8年3月中旬頃、正夢は市ヶ谷刑務所に移送され、一家も淀橋区上落合2ノ602にうつる。“赤の犯罪者”への世間の冷たい風にさらされ、二間の長屋に息をひそめるような生活だった。小夜子は、心労もともない病状は急激に悪化、8月初めに入院し子供たちには“お母さんのいない”わびしい日が続き、8月23日に息をひきとった。二人ぼっちの子供たちを、近所に住む小林勇まつやまふみお、村山知義、宮本百合子らが親切に面倒をみてくれた。当時、落合一帯にプロレタリア芸術文化関係の事務所も多く”左翼芸術家’’、文化人も集まり、たわむれに“落合ソヴェドと呼ばれていた。

 獄中、妻を失った正夢はこの年9月21日、保釈となり喜ぶ子供たちを前に、途方にくれたにちがいない。

〈淀橋・西落合〉

 正夢に再び油彩の筆をとらせようと友人たちの世話で、画家松下春雄のアトリエを借りられた。1934昭和9年、東長崎に近い淀橋区西落合1の306が新住居である。おなじ敷地内に「日展」で活躍した洋画家、鬼頭鍋三郎があった。

12下落合アトリエマップ

 写真はこの家のアトリエだがかなり広く、この他にひろい板間の二部屋と畳の一部屋があった。はじめてアトリエのある家に腰をすえて、久しぶりに油絵展(東京堂)をひらき、内外地によく1932年32歳の賀状写生旅行にでかける。

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<北京〉

 1939昭和14年39歳、松岡朝子と再婚。二人の娘を大連の叔母にあづけて、天津、北京と9ケ月の旅にでる。出発前に、品川・北馬場の品川荘に一時長女と身をよせ、華北交通の招待をうける。北京市景山東街東高房胡同9号、稲富方に居を定め、油彩、写真に新境地をひらく。滞在中に中江丑吉を知り、鈴江言一と旧交を暖める。

1939年-昭和14年

〈杉並・西高井戸〉

 北京から帰って、西高井戸1の96に1年たらずの住居だつた。中国滞在中に描いた油絵、スケッチ、水彩そして写真を展示した北支風物展、油絵展を東京、門司、福岡で開催し、絵もよくうれ、自宅をたてる資金になったという。

〈三鷹・下連雀〉

 1941昭和16年頃から、北京滞在の建築家、山越邦彦宅に仮遇する。三鷹駅に近い府下三鷹町下連雀210でここに2年ほど住んでから三鷹台の新宅へ移る。武蔵野が気にいってのことらしい。正夢と山越がどこで知りあって留守宅に住むようになったのかはよく分らない。

1938-42年

〈三鷹・牟礼>

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 1943昭和18年春、三鷹市牟礼113、井の頭線三鷹台駅から徒歩5分位の新居とアトリエが出来上がった。届出には、建築完成月日・昭和18年4月3日、住宅22.7坪、アトリエ24.77坪とある1941(昭和16)年41歳「友人の紹介」で柳瀬正夢の自邸設計を依頼される柳瀬邸竣工まで三鷹の留守宅に柳瀬一家が仮寓(7月)興亜院より派遣され北京大学工学院建築系教授(8月)1942(昭和17)年 柳瀬正夢邸着工(3月 翌年3月竣工)休暇で一時帰国(8月)

 戦時下の建築規定で建坪制限によるもので、自宅は正夢名儀、アトリエは山越名儀になつている。建物は山越の設計によるものである

 武蔵野の面影を残すこの地にやっと実現した自宅とアトリエでは、すでに戦争も末期をむかえ、不自由、不本意な生活を余儀なくされた。やがてくる自由の日をまちながら、1945昭和20年5月25日、東京最后の大空襲によって死亡する。新居にわづか2年有余の生活であった。   (やなせのぶあき/柳瀬正夢研究家)