「個」の解体と「手技」からの開放と

000 ■或いは柳瀬正夢の《五月の朝と朝飯前の私≫

尾崎眞人

 1923年6月12日23歳午前、橋浦泰雄は足助素一の突然の訪問を受ける。そして有島武郎の失踪を知らさせる。時を同じく、その有島武郎に初めて「議会似顔絵」を認めてもらった柳瀬正夢は、「一万五千の民衆の力を利用しよう」と日活の宣伝誌『向島』の編集に関わり始めていた。その後7月9日、有島武郎の告別式が行われ大正の社会主義的理想主義者の一角は崩れる『種蒔く人』の援助者であっただけではなく、個人的な理解者の一人を失った柳瀬正夢は、足助素一に「啓、現在の御心傷の程御察し申し上げ候考えても考えてもお心に参らす御言葉は之無くて唯々御病後の御自愛をのみ祈り居候」という簡潔な文章を送っている。柳瀬正夢は、村山知義らと6月20日にマヴォを結成し、7月27日の伝法院での陳列に向けていた。その時の柳瀬正夢は、プライベートでは妻となる敏子との恋愛が発生していた一方の芸術活動ではマヴォ展の会場探しや、会場が伝法院に決まると会場の下見にと多忙な日々であった。日記にはいたる箇所に朝方の3時、4時という帰宅や消灯時間が記されている。

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 従来、美術史の問題の一つとして「大正の新興美術」から「プロレタリア美術」への展開がどのように行われたのかという疑問が発せられていた。柳瀬正夢や村山知義といった作家たちが、「大正の新興美術」から「プロレタリア美術」へと自己展開していったことは歴史的に証明されるものの、「作品」の物的証明が解決されないで今日まできている。

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 この試論で問題とする柳瀬正夢に対しても、「大正の新興美術」の未来派的表現から、「プロレタリア美術」を示す漫画表現に移行したという論点でしか語られていない。しかし柳瀬正夢の初期の「漫画表現」は、「時事漫画」としての大衆啓蒙のものであり、「プロレタリア美術」の大衆化としての戦略化された表現方法ではなかったと考えている。そして「五月の朝と朝飯前の私」が、柳瀬正夢における「大正の新興美術」の最後を飾る代表作で、その後の「プロレタリア美術」とは一線を違えるという定説に対しても疑問が残らざるをえない。

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 私論として「五月の朝と朝飯前の私」を、柳瀬正夢の「プロレタリア美術」運動の出発点としての作品と考え、これを論じてみたい。1923年23歳の第1回〈マヴォ展〉に出品された作品のなかで、図1パンセ(赤紫)図2 淡彩の緑「五月の朝と朝飯前の私」だけが、他と異なっているのである1921年21歳の〈未来派第2回展〉に出品以来、未来派風な作品を描き、1923年の第1回〈マヴォ展〉にも未来派風作品を出品していた作者にとって、何故「五月の朝と朝飯前の私」は、他の〈マヴォ展〉出品作品とは異なるものとして表現されたのか、漠然とした疑問が私にはあった。

■「五月の朝と朝飯前の私」は何を対象として描いたのか。

 「五月の朝と朝飯前の私」に関しては、各研究者が再三に渡って論じてきた作品でもある。これらの論文を要約すると、その作品の特徴は次のように論じられている。

① 柳瀬正夢にとって「五月の朝と朝飯前の私」の作品は、「大正の新興美術」の最後を飾る代表作である。この作品の直後 に「プロレタリア美術」に転換する。

② 描かれている内容は、未来派風に都市のスピード感溢れる動的イメージを抽象化した作品である。

 上記の二点が共通的に論じられている。試論では、始めに「作品の構図」や「技法」を考え、同時期制作された作品と比較しながら位置づけを試みたい。

■「五月の朝と朝飯前の私」にみられる<回転運動〉

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 作品の中で使用される色は、赤・黄・パンセ(赤紫)・カラメル(黄土)・緑・黒などが使用され、大小の矩形を重合わせて画面は構成されている。重合わせの順番は前後複雑に組み合わせられているが、基本的には①パンセ(赤紫)を下敷きにし(図1)、②右部上方の赤褐色(図2)③淡彩の緑色(図3)④右部下方の赤褐色(図2)㈭ カラメル(黄土)(図1)⑤ 黄・黒・深緑(図5)という順番に画面を、左回りに大きく転回するかのように組み合わせられている。大まかには図版-1から図-5といった色面の構成になっている。なお各斜線部は、他の色と重複していることを示す。現存している1922年−1923年作の作品と比較すると「五月の朝と朝飯前の私」の特質がみえてくる。1921年まで「分割された色彩の同時対比」の作品を描いていたが、これらは具象的主題のみられる作品であった。それが1922年には、抽象的色彩の分割を描くようになる。例えば次のような作品である。

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 これら表−1を比較してみると、正方形キャンバス作品では、小さく括られた色彩面は、ほぼ中心部に向かって、或いは中心部からの螺旋的動きが見られる。それに対して長方形キャンバスは境界線に固定されるか、横ズレの動きが見られるぐらいである。この正方形という変形キャンバスは、初めから螺旋的動きが、計算されて選択された形態と考えるのが妥当であろう。これらの作品が未来派美術展やマヴォ展に出品された作品である以上、未来派的なスピード感や動きを色彩面が持ったとしても不思議はないわけである。

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 しかしその動きのなかで柳瀬の「螺旋形的動き」は、「赤」を主体にした、或いは「赤色」の視覚効果を利用したエネルギーの強い作品となっている。かつてヴォーティシズムvortrxismが収赦するエネルギーを渦巻きに秘めたように、柳瀬の「螺旋形的動き」も旋風である。そして作品題名を考えると、未だ覚醒していない「仮睡」であったり、「底の復報」、「潜む暴力」といったアナーキーなイメージを受ける単語によって形成されている。そして浅野緻氏論文の紹介にあった「下より上への行動」も、これらに先行する作品とは考えられないだろうか註6)。

 「五月の朝と朝飯前の私」作品に見られる〈回転運動〉の特質は、このように運動を視覚化するために、正方形の特殊キャンバスを用い、エネルギーカの強い螺旋形的動きを用も)た系列の作品といえる。

■「五月の朝と朝飯前の私」にみられるくスタンプィング〉

 a)からi)の「五月の朝と朝飯前の私」までの作品の中で、唯一異なる点がある。他の作品は、ドゥローイングとペインティングという絵画表現の基本事項で表現されるのに対して、「五月の朝と朝飯前の私」ではこれらの基本事項が敢えて無視されているといってもよいであろう。むしろ「五月の朝と朝飯前の私」で柳瀬が用いた特殊な表現にこそ、同作品の意味付けが考えられる。柳瀬の特殊な表現とは、

 ①〈スクラッチ〉②〈チュビング〉③〈ドライ・ブラシ〉④〈スタンプィング〉といった技法で、画面が形成されている。

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 〈スクラッチ〉という削り取りや引っかきの表現にしろ、〈チュビング〉〈ドライ・ブラシ〉〈スタンプィング〉という表現にしろ、この作品では極力作者の主観的なドゥローイングとペインティングは避けられている。図−6のように、赤・緑・黄土・鉄色(=呉須の柚薬)の矩形を形成するへラなどによる〈ドライ・ブラシ〉や、その矩形上に釘、ネジ釘、マッチの軸、櫛の歯、安全ピンでの〈スタンプィング〉は、表面のマチエールを美しくしているばかりではなく、作者の意図が働いていると考えられる。では、「五月の朝と朝飯前の私」にみられるような、作家の主観性に支えられた手の行為を排除するということは、何を意味するのだろうか。極論を言えば作家を他者と差異化するための個別化された線、個別化された面といった、作家である個別化のためのオリジナリティを否定することにあったのではないだろうか。そこには「手技」というアーティストを存続させる理由付けからの開放が見られる。この「手技」からの開放こそが、同時期の他の作品と比較して、顕著に異なる差異となる。

 柳瀬正夢は、アーティストでもアルティザン(=手職人)でもない、無産者も表現できる表現の作品として「五月の朝と朝飯前の私」を世に送りだしたのではないだろうかと私は思っている。それに加えて図−7の左上部のパンセ(赤紫)に施された、ネジ釘の〈スタンプィング〉に注目したいと思う。明らかにここで使岡されているのは、「ネジ釘」のマークである。従来■マークは、1929年に絨塔書院から出版された大山邦夫著「嵐に立つ」で、最終形態が確立したされる。先行する幾つかのマークがあるが、「五月の朝と朝飯前の私」に見られるネジ釘の〈スタンプィング〉が祖型となった考えられる。

■「五月の朝と朝飯前の私」にみられるく五月の朝〉とは

 では「五月の朝と朝飯前の私」に描かれている内容は、従来論じられているように未来派風の都市のスピード感溢れる動的イメージを抽象化したものなのだろうか。確かに「ダイナミックなエネルギーと喧騒に満ちた都市での生活感寛が、」註9)作品の土台となっているとも受け取れる。矩形のビルディングにマークされたネジ釘や安全ピンを、窓としてイメージすることは可能である。では波線や櫛の歯の〈スクラッチ〉は、何をイメージすることができるだろうか。また作品の中で、唯一ともいえる具体的形態を暗示する、「3」や「弧形」は、都市生活の何がイメージ元となっているのだろうか。そして何よりも作品題名である「五月の朝」や「朝飯前の私」と、これら画面の構成要素との繋がりは、「動的な都市」イメージ説では、関連が明らかにはされない。

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 試説もイメージの域をでるものではないが、同時期の柳瀬正夢の置かれた社会的状況から、赤・緑・黄土・鉄色の矩形イメージを、メーデーの折りの延旗や組合旗のイメージではないかと思っている。そして図一8の「3」や「弧形」は、図一9のはためく教会旗の動きに見えはしないだろうか。そのように考えると「3」や「弧形」の一方の端から伸びる一条の線を、旗竿とイメージすることも可能となる。同年5月2日のメーデーを『時事』の夕刊は次のように伝える。「午前九時、早くも芝浦労働組合の一隊が集会場たる芝公園に繰り出し、各団体これに続いてその数二十七組合、紆一万人と証された。赤、黄、異などの組合旗が数十本、物凄く風に翻える。」またメーデーの終章を『中外商業』は次のように記載する。「一段高く労働歌を合唱し、赤、白、黒、色とりどりの旗が盛んにひらめく。やがてメーデーが大警戒裡に終わりを告げたのは午後四時三十分であった。」新聞紙面が伝えるメーデーの様子は、「五月の朝と朝飯前の私」のキャンバス上の熱気と重複しないだろうか。そしてネジ釘や安全ピンは旗の文字であり、波線技監旗の質感がイメージできる。矩形の原イメージを蓬旗や組合tと考えると、矩形の〈回転運動〉にみられるアナーキーなエネルギー力と合致してくる。「五月の朝」が「メーデーの朝」だとしたら、「朝飯前の私」とはどの様な意味が考えられるのだろうか。惟蒔く人』誌上で呼びかけているロシア飢声援助に合わせて、「朝飯前の私」という言語フレーズが選択されたのだろうか。しかし文字通り意味を取ると、「メーデーの朝」の前段階の私と考えるのが素直だろう。ここでは「労働運動」への直接行動を目前にして、佇む柳瀬正夢の心情吐露力洞えるような気がする。柳瀬正夢が日本共産党に入党するのは、「五月の朝と朝飯前の私」を描いた9年後の1931年である。ただこの間の柳瀬正夢には別動隊としてサイドから支える任務があつたとも推測できる。今後の資料発掘の待たれる部分である。

 1923年、同年のメーデーに柳瀬正夢自身が参加したかどうかは不明である。マヴォ結成期直前の柳瀬正夢の4月〜5月は(表−2)のように、『種蒔く人』の関わりは極端に軽減していた。その代わり「出版従業員組合設立総会」への参加や、秋田雨雀や佐々木孝丸たちに結成された先駆座にも参加していた。麹町の相馬愛  蔵の土蔵劇場でストリンドベリーの「火遊び」、秋田雨雀の「手相弾」などの舞台装置を担当していた。この時期、柳瀬正夢は大衆啓蒙的「静」状態から、先鋭的「動」状態に入ろうとしていた時である。ついに何事の変革ももたらさぬ未来派美術運動に見切りをつけ、新しい運動隊の温床を模索していた柳瀬正夢や尾形亀之助、大浦周蔵らにとって、村山知義のダダイスム的要素の匂いを残す「意識的構造主義」はスリリングな出会いであったともいえる。村山知義との出会いのなかでマヴォが誕生しなかったならば、柳瀬正夢の運動は、より思想的には急進的になっていたかもしれない。

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 以上のような状況証拠にすぎないが、柳瀬正夢の「五月の朝と朝飯前の私」は、柳瀬の「社会化する絵画」意識を表現の上でも色濃く繁栄させた作品で、「プロレタリア美術」として先行する一群ではないかと私は考える。(おざき まさと/板橋区立美術館学芸員)