コラージュ

■「コラージュについての覚書」■

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横山勝彦

■はじめに

 画面上に絵具以外のものを貼り付けるコラージュ(collage)という技法は、多彩な表現力に満ちている。それは、今世紀初頭の前衛美術運動のなかで見出され、その姿を変えながらも、作画の重要な手法のひとつとして、連綿と現代の美術にも受け継がれている。小・中学校の教科書にも登場するほどに普及している状況を見れば明らかなように、前衛的、実験的というコラージュの発生時の特徴は消え、現代ではむしろコラージュという技法を明確に自覚することがないほどに定着していると言えるかも知れない。

 今回の「現代美術の手法(1)−コラージュ」展は、我が国におけるコラージュという技法の展開を振り返ることを目的としている。大正期の前衛運動の最中に導入されたコラージュが、時代の変転とともに、現代までどのような展開を見せたかを実作品によってたどることが第一の目標である。しかし、コラージュという技法の特色は、むしろ多様なコラージュを生み出すことにあると言えるほどに自由な表現力に満ちている。当然のことながら今回の展覧会でも、多彩なコラージュの様相を概観することが第2の目標となった。今回の展覧会は、画面に絵具以外の事物を貼り付ける手法として、コラージュの意味を広く捕らえて我が国の近代以降の美術の動向を概観することとした。

■コラージュとは

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 絵画作品の制作において絵具以外のものを画面上に貼り込むことは、1910年代初頭の時期、ブラック(1882〜1963)やピカソ(1881〜1973)によるキュビスムの実験の中から生まれた。現在の観点からみれば、画面に貼り込まれるものは多様である。紙、楽譜、新聞紙、ボール紙、切符、写真、布、糸、毛髪等からはじまり、画面に貼ることのできる物はすべてコラージュの素材となるのである。しかし、当初は、ブラックが木目に似せた壁紙を制作中の静物画に貼り込んだ(1913年)ように、特定の事物を描く替わりに、その事物そのものを使用することから始まった。新聞や楽譜を描く替わりに、新聞紙や楽譜そのものを画面上に貼り込むのである。このような錯覚に基づく「だまし絵(トロンプルイユ)」の手法は17世紀以来の伝統的表現手法であったが、初期のピカソやブラックは、実物を画面に貼ることで物質の感覚を取り戻そうとしたのである。このような「貼り付け絵」(パピエ・コレ)は、新しい絵画空間を形成するためとはいえ、対象を分解し、画面上に再構成するまさに実験を繰り返した結果、線が錯綜して、何が描いてあるか全く分からなくなってしまった(分析的キュヒスム)この時期のブラックやピカソが、具体的な事物のイメージを再び画面に導入するための方策であった。それは色面構成という総合的な段階へとキュビズムを進展させるが、彩具以外の事物の画面への導入は、単なる「だまし絵」のレベル以上の大きな問題を孕(はら)んでいたといえるだろう。画面上に貼られた事物は、絵画の要素であると同時にそれ自身の素材感・物質感をもっていたからである。それは、一種の絵具として画面全体の構成要素であるとともに、異物としてそれ白兵の素材感を主張する。画面上に貼られた絵具以外の事物。それは、二重の意味をもたざるをえないのである。ここにコラージュの多彩な可能性の原点があると考えることができるだろう。一種の絵具として画面全体に統合されながら独自の物質としての存在感を主張するこのような二重性は、それらのバランスあるいは強調の仕方によって、広大な表現の世界を開く可能性があると言えるだろう。

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 さて、コラージュという手法を完成させた作家としてエルンストとシュヴィッタースのことを忘れることはできないエルンスト(1891〜1976)は、百科事典やカタログの図版を自由に組み合わせ、独自の不可思議な世界を表現する。通常イメージを切断され、画面上で唐突に組み合わされたイメージは、さまざまな連想を誘い、比喩的、象徴的とも言われる不思議な物語を語る。既成の図版を、作家の想像力によって、再構成、再組織した画面は、常識的な日常の感覚を揺さぶり、新しいもうひとつの現実への通路を開いてくれるようだ。『百頭女』(1929)、『慈善週間』(1934)といったコラージュは、エルンストの代表作であるばかりでなく、日常性を根底から攻撃したシュルレアリスムの成果として記憶されなけわばならないだろう。彼は、常識的な物事のイメージを切断し、独自の特異なイメージに変化させ、斬新で驚きに満ちた祝賀的世界を創造するというコラージュの一面を代表する作家てある。

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 シュヴィッタース(1887〜1948)は、多様な素材を画面上に貼り込んだことにおいて、造形的表現の可能性を一挙に拡大した。彼は、新聞紙の切れ端、切符、王冠、金網等の、いわゆる都会生活のなかで廃棄されたものを集め、画面上に再構成した。それは、絵画とはこういうものであるという固定観念を打破したものであったが、人間の文化的活動のすべてを白紙還元しようとするダダイズムの精神の明白な表明であった。そして、絵具を使用せずに絵画作品を制作しようとする試みは、特定の色彩と形態をもつ現実の事物の表現力を引き出す方向を開拓したのである。役割を終えたコンサートの半券は、日常的意味ではゴミであるか、あるいは記念品であるに過ぎない。しかし、表現のための素材として見ることもできるのである。シュヴイツタースは、このような通常の表現手段とは異なる素材を駆使して、質感に満ちた「美しい」作品を制作した(作者自身は自分の作品を「メルツ」と命名した)が、そのような「メルツ」は、平面的なものから三次元的構造物までに拡張し、建築物の大きさにまで肥大したのである。

 コラージュを考えるとき、新しいイメージの形成の面でエルンストの仕事が、現実的事物の導入の面でシュヴィッタースの仕事が、それぞれの局面を代表しているだろう。

■コラージュの導入

 我が国に新しい技法としてコラージュが導入されたのは、大正時代である。五十殿(おむか)利治氏の研究(大正期新興美術運動の研究』スカイドア、1995年)によれば、最初期の例として1920年に結成された未来派美術協会の第1回展(同年9月)に出品された鈴木頴児の「日没に於ける大都市の感覚的光の分解」という作品がある。五十殿氏は、その典拠として次ぎのような読売新聞の展評(1920年9月20日)を挙げている。

 鈴木頴児君の「日没に於ける大都会の感覚的光の分解」は赤と黄と育の三色を主とした色紙を貼り交ぜて変わった表現 を図ってゐるが単なる色紙細工ではない。

現在のところ、この作品を制作した作者自身についても不詳で、また作品も特定されないが、当時この作品が影響力を持った形跡はない。むしろ、コラージュを考えるうえでも重要なのは、翌年に来日したダヴイッド・ブリュルークとヴィクトル・パリモフという二人のロシア人作家による「日本における最初のロシア画展覧会」において出品された同時代のロシア人面家たちの作品であった。それは、まさに本場の先端的動向が紹介されたからにほかならない。今回出品することのできたパリモフの「踊る女」では、レース、黒い布、褐色の布等が貼り込んであったのである。

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 すでに石井相亭は「絵具では到底出せないような特殊の色から来る美感がある」とコラージュの特性を見抜いていた(中央美術 6巻11号)。前衛美術を貪欲に導入しようとした大正期において、このような海外から直接に日本に持ち込まれた前衛的作品の衝撃は、現在の私たちが想像する以上に大きかったのではないだろうか。

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 大正期の前衛的美術導入の時期に村山知義(1901〜1977)は、決定的とも言える重要な役割を果たした。1923年(大正12)初頭、一年弱のベルリン留学から帰国した村山は、まさに新興美術の旗手として美術界の最先端に登場する。実作者として、啓蒙者として村山は大きな影響力をもつこととなったが、今回ベルリン時代に制作したコラージュ作品を出品することができた(上図左右)。これらの作品は、連続して開催された「意識的構成主義的小品展覧会」等で発表されたと考えることができる。大正の前衛的作品の多くが現存しない現状で、これらの作品は非常に貴重である。また村山の著書『現在の芸術と未来の芸術』(1924年)に掲載された彼の作品写真は、当時の前衛的作品の様相を明確に示しているだろう。コラージュという観点でみても、単に画面上に事物を貼り付けたというだけにとどまらず、さまざまな事物を組み合わせ、三次元的な構成物、今日言うところのアッサンブラージュ的な作品が同居していることは注目しなければならない。いわばエルンスト的コラージュよりも、シュヴィッタース的コラージュの様相を示す作品が、新興美術として前衛的実験が積極的に展開された大正期においては優勢であったと考えられるからである。

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 また、中原実の油彩画「ヴィナスの誕生」(1924年)(上図)は、エルンスト的コラージュの発想による作品である。実際には画面上に絵具以外のものは存在しないが、断片的イメージを組み合わせたその作風は、中原がコラージュについて熟知していたことを示している。いずれにしても、海外からの刺激によって、大正期後半には、我が国にコラージュは導入され、現存する例が少ないとはいえ、先鋭的な作品が、多数生み出されていたと考えられるのである。

■コラージュの定着

 昭和初期はコラージュが表現手法として定着した時期として記憶される。1931年(昭和6)、第1回独立美術協会展が開催される。福沢一郎は滞欧作37点を出品し、シュルレアリスムの代表者として注目を浴びる。エルンストのコラージュの影響が顕著なその作品は、油絵であるが、唐突なイメージを組み合わせ、独特の乾いた情感を表現している。

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 1937年(昭和12)、多くの前衛的美術グループを結集して自由美術家協会が結成される。その創立宣言書には、「A油絵、B水彩、C版画、D素描、E コラージュ、F オブジェ(立体作品)、G フォトグラム」と出品種目が規定されているのである。その第1回展に出品された長谷川三郎、瑛九、そして今回は出品できなかったが山口薫の「花の像」などの作品は、荒削りな大正期とは異なり、成熟した個性を感じさせる。後に日本の抽象芸術の推進者となる長谷川三郎、絵画、写真、版画の各分野で際立った作品を残した瑛九の生涯の仕事の中でコラージュが果たした役割には非常に大きなものがあったに違いないだろう

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 自由美術家協会が結成された昭和10年代は、さまざまな美術の主張によるグループが結成され、活発に造形活動が展開された時期として記憶されるが、西欧的前衛が我が国に定着し、独自の日本的モダニズムが形成されるこの時期のコラージュの特徴として、すでに大正末期から流行しはじめていた写真の問題を考えなければならないだろう。残念ながら、今回の展覧会では写真の分野におけるコラージュ=フォトモンタージュについては、その存在を指摘することに止めざるをえなかったが、エルンストの例を引くまでもなく、イメージの統合という観点からすれば、写真という映像生産技術は、コラージュ的作業には適しており、現に大正から昭和前期に多数の斬新な前衛的写真が生み出されたいるのである。我が国にコラージュが登場して十数年を経た時点で、コラージュはすっかり新しい造形の方法として定着したことを確認しておくことが必要だろう。昭和のごく初期において、戦後の美術やデザインの展開の原型が、未熟な形であれ、全て出そろっているのである。

■コラージュの諸相

1)画面に絵具以外のものを貼り込むコラージュは、多彩なイメージ、斬新なイメージを形成する方法であるに留まらず、統一した絵画空間の中に異物を持ち込むことでもあるだろう。それは、コラージュ的油絵の場合でも明らかである。遠近法や解剖学といった手段によって固定した視点からの統一したイメージを再現するという伝統的絵画の表現の規制を、コラージュやコラージュ的発想は、軽がると打ち破ってしまうのだ。画面上のほんの小さな部分に貼られた布の切れ端だけで、絵画空間の統一性は破られてしまうのである。もうひとつの次元が導入されることとなるのである。シュヴィッタースや村山知義の例を振り返るまでもなく、一度絵画空間の中に絵具以外のものが導入された後は、コラージュから3次元的、立体的な造形への展開は容易である。コラージュから、オブジェ、またアッサンブラージュへの展開は必然的とも言える。芸術そのものの基盤を問い直した1900年代以降のさまざまな実験の過程で、コラージュが再発見されたことは不思議ではない。ネオ・ダダの作家たちをはじめ、いわゆる観念的に芸術の本質を問い詰めるコンセプチュアル・アーティストのなかでコラージュは、伝統的絵画空間の虚構性を暴露したことにおいて現代性をもっていたのである。

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2)シュヴィッタースが貼るということを重視した結果、3次元的なオブジェヘの道筋を用意したとすれば、すでに存在する別の絵画やイメージを変形して、もうひとつ別の斬新なイメージを生成すること。これがエルンストの方法である。いわば既存の絵画を材料にして、新しい絵画の世界を出現させるこの方法は、シュルレアリスムとともに発展したといえるだろう。頑強な日常的視覚の世界に揺さぶりをかけ、想像力を取り戻すこと。このようなシュルレアリスムの方法に、コラージュは適合していた。1938年に出版された『シュルレアリスム辞典』(江原慣訳、書辟ユリイカ、1958年)のコラージュの項に次ぎのようなエルンストの言葉が掲載されている。

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 「羽毛をつくるのは羽根だとしても、コラージュをつくるのは糊(コル)ではな一い」。「それは、視覚像の錬金術のようなものである。視覚像の物理的乃至は解剖学的外形の変更を伴なう、あるいは伴なわない、生物と事物の全的な変貌の奇跡」。

 錬金術としてのコラージュは、作家の想像力に多くを負うだろう。仮に同じイメージを使用するにせよ、作者によっては全く異なる作品を制作することとなるだろう。

 事典の図版や写真を素材にしてコラージュを作成する作家たちの仕事は、いわば蓄積されたイメージの貯蔵庫からその都度のイメージにしたがって写真等を選ぶ。また、ひとつの写真のイメージが、別のイメージを呼び起こす。またそれらが次ぎのイメージを発生させる。作者は、このようにして順次イメージを形成していくこととなる。逆にいえば、全体の構成が決定した後に定まった視覚像を糊で貼ることだけでは本格的なコラージュとは呼べないかもしれないのだ。すでに横尾忠則のように糊を使わないコラージュも登場している。

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3)桂ユキ子はコラージュ作品の多様性を示している。当初は、木の葉やレースを画面に貼っていたが、1950年代後半から画面の効果を増すために和紙を貼り込む作品を制作した。いわば下地つくりのためのコラージュである。細かい皺(しわ)のよった紙の上から絵具が塗られることとなる。さらに、「笑う人」(図103)のように、油絵でありながら、コラージュの下絵を元に描いたような作品がある。これは、だまし絵とも見ることができるが、画面に貼られる新聞紙が変質することを避けたためかもしれないのだ。

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 異質な素材を共存させるコラージュでは、糊の性質の問題をはじめ、作品完成時のままの状態で保存することが難しい場合が多い。あるいは、意識的に保存しなければ、コラージュ作品の保全は困難である。修復の問題だけでなく、コラージュの作品の在り方が、油彩画、水彩画等と比較して、未だ確定されない状況についても考えなけれなならないだろう。各美術館のコラージュ作品の整理の仕方も統一されていないのが現状である。

4)コラージュは、手仕事を積み重ねることによって完成に導かれる度合が、油彩画等と比べて大きいのではないか。優れたコラージュ作品を見ると、作家が、紙などの素材を切りながら、また糊ではりながら、全体の構成を考えている姿を想像することができる。手で考えるという物を作ることの原理を、コラージュは端的に表していると言えるかも知れない。また逆に、何となく作品が出来上がったような気持ちになるからコラージュはやらない、という画家もいるのだ。このような見方は、コラージュという、手作業を基本とする手法の陥りやすい欠陥を突いているだろう。すでに優れた作品を多数生み出したたコラージュではあるが、まさに「コラージュをつくるのは糊(コル)ではない」のである。山下菊ニ-1 山下菊二-2 山下菊二-3 山下菊二-4

 私たちは、さまざまな可能性を秘めたコラージュの問題をさらに精密に考察し、また新しい可能性を見つけ出すためにも、まず眼の前のコラージュ作品を注意深く見つめることからはじめなければならないだろう。コラージュは、現にそこにある事物を作品中に導入する手法であるからにほかならない。

(よこやま・かつひこ、練馬区立美術館学芸員)