Ⅴ.「抽象=創造」とフランスの抽象美術

■「抽象=創造」とフランスの抽象美術・Abstraction−Creation  and Abstract Art in France

 第一次大戦中,ロシアやオランダでキュビスムに内在していたひとつの可能性として抽象表現が導きだされたのに対して,フランスでは大戦後もいぜんとしてキュビスムが現代絵画の基軸として重視されていた.『エスプリ・ヌーヴオー』(新精神)誌を拠点としてピュリスムを主唱したオザンファンとジャンヌレ(ル・コルビュジェ)の共著の題名にあるように,それは<キュビスム以後〉と規定される時代であった.

 このような言廻しにはすでに幾何学的抽象に対する疑念や批判が充分にうかがえる.事実,フランスでは20年代を通してデ・ステイルもロシア構成主義も本格的に評価される機会に恵まれなかった.装飾様式として国際的に広範に流布し,1925年のパリ国際装飾美術展で頂点を迎えたアール・デコの源泉のひとつにキュビスムがあったことも決して偶然ではなかった.

 この時代,テクノロジーに支えられた機械文明に現代性という,イタリア未来派以来の視点から積極的な支持を与えた『エスプリ・ヌーヴオー』の美学を実践したのはオザンファンでありジャンヌレであったが,またレジェも大きく貢献した.第一次大戦という陰惨をきわめた現実から芸術的な啓示を得た稀な画家であったレジェは,大戦後く都会〉など同時代的なテーマに取り組みはじめ,「モダンな古典主義」と呼ばれる成熟した様式を完成させることになった.

 ところが,20年代も後半になるとパリは抽象作家の根拠地となりはじめる.モンドリアンはすでに長年ここに居をすえていたが,そこヘファン・ドゥースブルク,アルプが,ロシアからエクステルやプーニが加わり,やがてガボやカンディンスキーもやってくる.他方,スーフォール,ゴランをはじめモンドリアンに傾倒する若い世代も台頭してくる.

 こうした趨勢を盛りあげる上で重要な役割を演じたのは,1930年スーフォールとトルレス=ガルシアを中心に結成されたグループ「円と正方形(セルクル・エ・カレ)」であった.短命ではあったが,このグループは同名の機関誌を相次いで発行した.創刊号の冒頭にスーフォールは「建築擁護のために」と題する宣言文を載せた.ここでスーフォールのいう「建築」とは「純粋精神」による知的な芸術的創造すべてに通底する構造を意味し,デ・ステイルの理念,なかんずくモンドリアンの思想が明らかに踏まえられていた.

 『円と正方形』誌の寄稿者の顔ぶれがそうであったように,このグループが1930年4月パリのギャルリー23で開いた展覧会の出品者も多士清々で,アルプ,エクステル,カンディンスキー,レジェ,モンドリアン,ルッソロ,シュヴィッタース,さらにポーランド構成主義の旗手スタジェフスキまでもが出品目録に名を連ねていた.

 同じ頃,スープオールの誘いに対して,そのような「広い視野に立つ」時代は過去のものとして拒んだファン・ドゥースブルクは「円と正方形」に対抗する格好で,エリオン,カールスンド,チュタンジャン,ワンツとともにグループ「具体美術(アール・コンクレ)」を結成し,「絶対的な明晰」を探求する新たな運動をおこした.この運動も短命に終ったが,しかし,「具体」という表現はやがてマックス・ビルやアルプによって受け継がれ,抽象表現の美学的概念として掘りさげられることになった.

 「抽象=創造(アブストラクシオン=クレアシオン)」グループは1931年2月,「円と正方形」と「具体美術」が合体するかたちで結成された・会長にはエルバン,副会長にはファントンヘルローが就任し,書記としてエリオンが,また創立会員としてアルプ,クレーズ,クプカ,チュタンジャン,ヴァルミエが参加した.結成時からこのようにふたつのグループの寄合い所帯の感があった「抽象=創造」であるが,綱領にもそのような意見の相異が反映せぎるを得なかった.

「抽象,なぜなら自然の形体をしだいに 抽象化することによって非象形の概念に 到達した画家たちがいるからである.創造,なぜなら純粋に幾何学的な秩序という概念とか,円,平面,棒,線など一般に抽象的と呼ばれる諸要素だけを活用することによって,一気に“非象形”に達した画家たちもまたいるからである.」

 このようにグループの名称自体が妥協の産物ともいえ,やがてより厳格な抽象表現を貫こうとするエルバンやファントンヘルローらに対する反発につながり,ついに1934年にはアルプ,フロイントリッヒ,エリオンらの脱会という事態にたちいたった.

 しかし,10年代,20年代の主要な美術運動が主義(イズム)を高く掲げることによって運動としてのダイナミズムを失っていったのとは対照的に「抽象=創造」は種々の傾向が合流することによって,抽象表現の幅と奥行を拡げたことに大きな功績があった.その点で,上述のような脱退劇があり,また意見交換の場としての年刊誌の発行がほとんど唯一のグループ全体としての活動であったにもかかわらず,その年刊誌が1936年の第5号まで存続したという事実には重い意味がある.

 1937年,バーゼルで開催された「構成主義者」展に,クレーやピカソまでが展示されたことに象徴されるように,およそ異質な作家同士の出会いというものがこの時代にはもはや珍しいことではなくなった.展覧会場で,本や雑誌のなかで,個々の作家の独自の表現が相互に対立し,衝突し,交通する.このことは1910年代に成立した抽象が造形言語としてようやく成熟を遂げたことを物語っている。

■「抽象=創造」とフランスの抽象美術作家たちの作品群

レオン・チュタンジャン

1905年アルメニア.アマシア生れ.1968年フランス,パリ没.Leon TUTUNDJIAN

1923年パリに移住.1926年シュルレアリスム画廊の展覧会に出品したが,29年に幾何学的抽象に転じた.1930年,ファン・ドゥースブルク,カールスンド,ヘリオンらと「具体美術」を結成し,さらに1931年には「抽象=創造」の創立会員となった.1932年頃から,そののち50年代まで取り組むことになる,再現的な超現実主義的テーマに回帰し,新しいタイプの抒情的抽象の探究に精力をそそいだ.

▶︎フエルナン・レジェ

1881年フランス,アルジャントン生れ.1955年フランス,クリフ=シュール=イヴェット没 Fernand LEGER

初めカーンの建築家の徒弟として働いていたが,1902年パリに出て美術学校とアカデミー・ジュリアンでしばらく勉強した.キュビスムの影響を受け,彼は対象物をキュービックな量感を強調する形体に還元し,これによって画面を構成するようになった.第一次大戦中工兵として従軍し,その際機械の形体的視覚的な特質に心を奪われ,いわゆる「機械の時代」に入った.そこでは物体も人物も管状の幾何学的形体に還元され,それらの対象の彫亥り的な特質が強調されている.1920年代初期にはル・コルビュジェ,オザンファンのビュリスム(純粋主義)運動に加わった.1923年映画「バレー・メカニック」を共同制作.第二次大戦中は何度か米国を訪れ,ニューヨークに住んだ.その間,彼の作品は初期の量感を強・調するものから,はっきりした輪郭線で区切られた鮮やかな色彩の平面的パターンによる作品に変わった.

 

▶︎オットー・フロイントリッヒ

1878年ドイツ.シュトルプ生れ.1943年ポーラント.マイクネク強制収容所没.0tto FREUNDLICH

1909年ピカソ,エルバンとともにパリの「バトー・ラヴォワール」(洗濯船)に住む.1919年最初の非具象のコンポジションを制作,以後ヨーロッパの各地で精力的な発表活動を続けた.1930年「円と正方形」に,翌31年には「抽象=創造」の結成に参加した.

▶︎ャン・ゴラン

1899年フランス,ロワール地方サン・テミリオン・ド・ブラン生れ.Jean GORIN

1916年から17年にかけてパリのアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールに学んだ.モンドリアン,ファントンヘルローと親交を結び1927年頃には新造形主義の美学への傾倒をみせている.「円と正方形」及び「抽象=創造」に参加した.最初の多彩色レリーフが制作されたのは1930年頃であった.1946年には「新現実展」の創設に参画,現在パリ在住.

 

▶︎ゾフィー・トイバー=アルプ

1889年スイス.ダウオス生れ.1943年スイス.チューリヒ没.Sophie TAEUBER−ARP

トイバー=アルプは主として工芸美術学校で専門的な教育を受けた,はじめに,1908年から10年までサンクト=ガレンの工芸学校の織物科で,さらに1911年,13年には,ミュンヘンのデブシッツの工房で,さらに1912年にはハンブルクの美術工芸学校で学んだ.1916年から29年まで,チューリヒの美術工芸学校で教鞭をとった.1915年にジャン・アルプに出会い,やがて結婚する.二人はともに,チューリヒのダダ運動に関与し,抽象的なコラージュや絵画を共同制作した.また彼女は縦横の色彩の帯を織り込んだ織物を制作した.1926年パリ近郊のムードンに転居した.「抽象=創造」に参加し,チューリヒのグループ「アリアンツ」の一員となった.1937年から39年まで美術雑誌「プラスティーク』を編集した.30年代はじめには,基本的な形体としての円をはじめとする厳格な幾何学的抽象の様式を,絵画のほか,レリーフにおいても展開した.

▶︎ソニア・ドローネー

1885年ウクライナ,グラシスト生れ.1979年フランス,パリ没 Sonia DELAUNAY

70年以上にも及ぶ制作活動を通して絵画,デザイン,装飾美術といったさまざまな分野に重要な役割を果した.1903年から1904年にかけてカールスルーエ,ついで後にパリのアカデミー・ド・ラ・パレットで学んだ.1910年ロベール・ドローネーと結婚.彼とともに光や色彩をプリズム的に分解し,リズミカルな抽象的形体に再構成する様式「オルフィスム」を探究した.1912年にはじめて本の挿画を辛がけ,また,名高いドレスのデザインもその年発表された.10年代20年代には絵画や素描を制作するかたわら演劇の衣裳や生地をデザインして舞台美術にも大いに貢献した.1941年にロベールが世を去った後,「グループ・ド・グラス」に加わってアルプ,トイバー=アルプ,マネリらとともに歩んだ.第二次大戦後パリに戻り同地に没した.彼女のデザイナーとしての活動は印刷美術,絨鍛,ステンドグラス,果ては自動車の内装にまで及んでいる.

▶︎オーギュスト・エルバン

1882年フランス,アラス,キエウィ・ア・ラ・モット生れ.1960年フランス,パリ没 Auguste HERBIN

初期の作品は印象派とフォーヴィスムの様式によるもので1909年以降キュビスムの様式となった.1922年から25年にかけて一度具象的作品に戻ったあと,幾何学的形体と,後に彼が「造形のアルファベット」と呼んだ純粋な色彩の関係に立脚する抽象的な造形言語を練りあげた.1931年パリでの「抽象=創造」グループの設立に参画.1949年には『非具象・非対象美術』を出版している.