■デ・ステイルと新造形主義・DeStijlandNeo−Plasticism
オランダ語で「様式」を意味する『デ・ステイル』がレイデンで創刊されたのは,第一次大戦のさなか,1917年10月のことであった.大戦後の美術界を席捲した美術運動が,前線から遠く離れたロシア(シュプレマティスム,構成主義)や中立国のスイス(チューリヒ・ダダ)でおこったように,同じ中立国のオランダでも最初の煙火があがった.
1932年に未亡人の手で刊行された追悼号を除いて,『デ・ステイル」のすべての号の編集にあたったのはファン・ドゥースブルク(下左)であった.「デ・ステイル」は一度もグループ全体としての展覧会を開催しなかったことにもうかがえるように,参加者同士の紐帯がきわめてゆるい美術運動であったにもかかわらず,10年以上の長きにわたって維誌が刊行され続けたことはひとえにこのファン・ドゥースブルクという強執な,多面体のような個性に負っている.
とはいえ,「デ・ステイル」の美学的な中核となったのはモンドリアンの主唱した新造形主義であった.まさに特定の「様式」を指向する雑誌である筈にもかかわらず,創刊第2号に載せられた宣言書(ファン・ドゥースブルク,ファン・トホフ,モンドリアン,フサール,ファントンヘルロー,ウィルスらが署名)ではかんじんの様式に関する具体的な言及が欠けており,モンドリアンの寄せた諸論文がそれを代弁していたのである.
モンドリアンは,絵の手ほどきを受けた伯父のフリッツが有力な一員として活躍したハーグ派の影響を色濃くにじませたアカデミックな画風で長年,風景画を描いていた.やがて新印象主義を経た後,キュビスムから決定的ともいえる影響を受け,〈樹〉や<海と桟橋〉などの連作を通じて,キュビスムの論理的な帰結としての抽象を徹底的に探究し,ついに自ら「抽象=現実的」と規定した「新造形主義の絵画」に到達する.これは垂直線と水平線が形成する幾何学的な形体と三原色(と無彩色)に造形要素を限定した様式であった.
思想的に神智学や親交のあった「神智学者」スフーンマーケルスが説く神秘思想の影響下にあったモンドリアンによれば,現代人の生はいよいよ自然から遊離し「抽象的」になりつつあり,絵画もまた同じ方向に進んでいる.しかし,いぜんとして自然的なもの,主観性,個別性に束縛され「悲劇的」な状態を脱しきれないでいる.これを克服するには自然に対する抽象,主観性に対する客観性,そして個別性に対する普遍性を,完璧な「純粋関係」を表現し得る「新しい造形(ニューヴ・ベールディング)」によって実現する必要がある,というのである.
このような厳格な姿勢はその徹底性において,数学的な比例関係を画面に導入したファントンヘルローのような共鳴者を見出す一方,フランスなどでは独断的という反発を招いた.また1920年代半ばにはファン・ドゥースブルクによって対角線の構図を布置する「要素主義」が静的な新造形主義の「修正」として叫ばれるにいたり,モンドリアンは「デ・ステイル」グループと絶縁する.
たしかに当初から「デ・ステイル」は一枚岩の組織というには程遠い芸術家の集団で,雑誌創刊時にはやくも,建築家との協同という,ファン・ドゥースブルクがこのグループ結成の大きな眼目としたものについて意見の相異が表面化した.三原色を用いた平面的な表現でモンドリアンに霊感を与えるファン・デル・レックはこれを拒んで「宣言」に署名せず,間もなく脱会した.
モンドリアンもこの点については慎重な態度をとっていた.というのも,なるほど「遠い」未来においては絵画=芸術が消滅し,まさに都市(建築)という次元で「決定的な関係」が実現するとしても,現状においては建築は「もっとも必然的な」表現形式である絵画にはるかに遅れをとっている.むしろ,音楽やダンスの方がジャズやフォックス=トロットなど未来をうかがわせる表現を生みだしている,というのである.
しかし,ファン・ドゥースブルクが理想とした建築家と画家の協同は必ずしも完璧とはいえないまでも,たとえばリートフェルト設計のシュレーダー邸(ユトレヒト)をはじめとして特筆すべき成果を生みだした.
1923年11月にはパリのローザンベールの画廊で「オランダのデ・ステイル派の建築家たち」展が開催され,ファン・ドゥースブルクがファン・エーステレンと共同制作した建築モデルや設計図をはじめ,アウト,フサール,ウィルス,リートフェルト,ルースデン,さらにミース・ファン・デル・ローエの素描やモデルも展示された.また1926年から28年にかけては,ファン・ドゥースブルク,アルプ,トイバー=アルプに,ストラスブールにあるカフェ・オーベットの改装が任せられ,ファン・ドゥースブルクは要素主義のダイナミックなデザインを映画・ダンス用ホール等の内装に活用した.
環境という点では実はモンドリアン自身のアトリエもゴラン,デル・マルル,モスなどそこを訪れた作家に感銘を与えた.パリではむろんのこと,戦乱を避けてロンドンヘ,さらにニューヨークに渡ったときも,モンドリアンはアトリエの壁面を厚紙などを用いて分節化し,新造形主義のうたった未来の環境の原型を形象化していた.
「デ・ステイル」の影響はまずモンドリアンの新造形主義の絵画によって,1930年代にパリで結成されたグループ「円と正方形」や「抽象=創造」に,さらに彼がニューヨークに渡ったことによってアメリカにまで波及する.また『デ・ステイル』誌はファン・ドゥースブルクの活動と同じく,多面的な性格を帯び,「デ・ステイル」の理念を単に広めるものから,国際フォーラム的な前衛美術のための広場に変わった.1921年にはドイツに派遣されたリシツキーの「二つの正方形の物語」がさっそく訳載され,ダダイストやシュルレアリストの文章,加えて1927年には日本インターナショナル建築会の石本喜久治らによる宣言も掲載されることになった.
■デ・ステイルと新造形主義作家たちの作品群
フリードリッヒ・ヴオルデンベルゲ=ギルデヴアルト
1899年ドイツ.オスナフリュノク生れ.1962年西ドイツ.ウルム没.Friedrich VORDEMBERGE−GILDEWART
1919年ハノーヴァーの装飾美術学校と工科大学で学び.1922年から24年まで;建設事業にともなう彫刻の制作のためにフィーアトハーラー教授のもとで働いた.1924年ハンス・ニチュケとともにハノーヴァーで.「グループK」を結成,またこの年からテ・ステイルの運動に参加し,27年にはシュヴィックース.ニチュケ,ブーフハイスターとともに「ハノーヴァ一抽象作家」グループを結成した.パリに旅し.1930年から32年にかけて「円と正方形」や「抽象=創造」に参加した.1937年スイスに,1938年から54年までアムステルダムに,そして1954年からはウルムに居をすえた.ウルムでは造形学校教授として教壇に立った.最初の抽象的レリーフは1919年に制作され.1920年代には,一貫して.彼独自の構成主義的表現を展開した.その表現は.絵画においてはレリーフの要素の多用によって.また.自由で流動的な線と三角形の構成単位によって特徴づけられている.
▶パルトファン・デル・レック
1876年オランダ,ユトレヒト生れ.1958年オランダ,ブラリクムン没 Bart van der LECK
アムステルダムの国立装飾美術学校およびアカデミーに学び,画家,イラストレーター,デザイナー,室内装飾家として活躍した.1912年ベルラーヘに,また16年にはモンドリアンとファン・ドゥースブルクに出会った.デ・ステイルの会員となって1917年に最初の抽象的なコンポジションを制作しているが,19年までに再び具象に転じた.1928年以降テキスタイル・デザインに興味を示し,1939年にはとくにインテリア・デザインにおける色彩の用法に意を注ぐようになった.また1935先に陶芸にも手を染めている.
▶Christiaan Hendrik Beekman ( 1887年 5月28日 – Blaricum 、 1964年 1月13日 )
オランダの画家と草案家でした。クリスは、ハーグのPlateelbakkerij Rozenburgで13歳になって1909年まで滞在しました。1913年から1916年頃にパリに戻り、 オットー・グアイ ( Eemnes )に定住しました。 ここでBeekmanはDe Stijlの原則に従って動作します。1930年頃、ビークマンはアムステルダムに住み、 共産主義と政治が彼の仕事でますます目に見えるようになった。Beekmanは、アーティスト組織「 De Onafhankelijken 」のボードメンバーと、その後「オランダのビジュアルアーティスト連盟」のメンバーとして、ビジュアルアーティストを担当しました。
▶ テオ・ファン・ドゥースブルク
1883年オランク,ユトレヒト生れ.1931年スイス.タワオス没.Theo van DOESBURG
1899年絵を描きはじめたが,美術評論家としても活躍した.1917年,建築家アウトとヤン・ウィルス,それにモンドリアンらとともにデ・ステイル運動の理念の体系化に努めた.20年代には精力的に各国を訪れて国際的なダダイズムの発展に重要な役割を果し,シュヴィックース,アルプ,ツァラ,ハウスマンらの協力を得て「メカノ』誌を出版した.1925年「エレメンタリスム(要素主義)」の理論を展開し,翌26年から28年にかけてアルプ夫妻とともにストラスブールのカフェ・オーベットの改装のデザインにたずさわった.1930年に雑誌「アール・コンクレ(具体美術)』を発刊,さらに32年には「抽象=創造」の創立会員となっている.
▶