■子供たち
コーネルは結婚せず,子供もいなかった。にもかかわらず,彼のボックスやコラージュには,過去の美術品から借用した子供たちのイメージが至るところに出現する。それらの典拠となった作品は,イタリア,フランス,ドイツ,スペイン,初期アメリカの各絵画,フランスの装飾彫刻,草創期および同時代の写真など,きわめて広範囲に及んでいる。コーネルは,自らの想像力が育んだ新しい環境に子供たちを置くことで,彼らをわが子となすことができたのである。ある時など彼は,従兄弟が持っていたフランス製の可愛らしい素焼の人形を「誘拐」したことさえあった。「マリーちゃん(bebe Marie)」の愛称で知られるこの「家宝」は,今ではニューヨーク近代美術館所蔵のコーネルの美しい箱に収まっている。彼は,また子供たちに向けた展覧会を生涯に3度までも催している。さらに,大人が相手では滅多に自作を論じようとしなかった彼が,子供からの質問には喜んで答えたものだった。妹のベティは語っている。「彼は理想のなかの子供たちを愛していました。子供たちは,彼を生涯で最も幸福だった時代へ連れ帰ってくれました・…‥。彼が本当に幸せでいられた最後の時代へと」。
従来,コーネルにとって弟のロバートの存在がいわば息子代わりであり,ボックス作品それ自体の発想源もそこにあるといわれてきたのだが,これは誤解である。確かにコーネルはロバートに献身的だった。ロバートの勇気に深く心を動かされ,ときにはその純粋な人生観を制作上の契機にさえしている。彼はロバートと共にクリスチャン・サイエンスを学び,1965年62歳のその死後,このような弟を与え賜うたことを神に感謝している。コーネルはロバートを励まして,デッサンへの興味をかき立てた(彼は妹ベティのコラージュ制作も手助けしている)。兄と弟は自然界の小さなドラマのなかに共通の喜びを見出し,ロバートのデッサンに登場する動物たちに空想的な名前を付けている(例えばウサギの「鼻つまみ王子」,ハツカネズミの「鼠の王様」など)。コーネルは弟の死後,そのスケッチに基づく一連のコラージュ(下左右)を制作し,1966年63歳のロバート追悼のための展覧会に出品している。
しかしながら,ベティの言によれば,「ジョーはロバートのために箱を作ったわけではありません。彼が箱を作ったのは,それがやむにやまれぬ心情の表れだったからです」。ロバートはコーネルにとっていわば目の肥えた観客だった。弟はベティにこう語っている。「ジョー兄さんは僕にロブスター・下図を撫でさせてくれた。僕がとても良い子だったからね」。
コーネルの最も手のこんだ「子供の肖像」は,旅行鞄形式の作品≪クリスタル・ケージ(ベレニスの肖像)》(上図)のうちに見出すことができよう。彼は早くも1934年31歳に,この計画のための材料を入手し始めている。42年39歳,デュシャンのいわゆる『鞄の箱』の数点の制作に際し,彼はその助手を務めた。恐らくこれが契機となって,コーネルは自分のベレニス・プロジェクトもケースに入れることを思いつき,またその複製版の刊行を志すのだが,結局実現には至らなかった。ただし,抜粋された形では43年にシュルレアリスムの雑誌『ヴュー(View)』に掲載されている。
ベレニスは,事実と虚構がないまぜになった「夢の子供」である。コーネルがこの子がどんな少女であるかを絵画や写真,散文によってではなく,鞄(かばん)のなかに収められた物たちの思いもよらぬアッサンブラージュを通して描き出した。絵葉書,新聞の切り抜き,写真,地図,書物の抜粋,鉄道の切符,リボンの切れ端,ベレニスに関する自分のメモや日記の記述,そして手のこんだコラージュによるベレニスの肖像。少女の個性はすぐには見えてこない。じわじわとその姿を私たちの眼前に現すのだ。実は1967年64歳に至るまでの長期にわたり,この作品に手を入れ続けたコーネル自身にとっても同様だった。
コーネルにとって,ベレニスとは永遠の若さの象徴だった。彼は,形而上的な科学者として彼女を描き出した。鞄に収められた彼のメモによれば,彼女の目指していたのは「神とその素晴らしさを見出し・・・あらゆる美の源をよりよく理解すること」だった。彼はその目的から,ベレニスに観測所(鞄の裏蓋に貼られた写真)を設けてやり,そこで種々の実験を行わせたのである。「シャントルーのパゴダ」下図左・と呼ばれるこの塔は,ルイ15世の大臣ショワズール公爵のために1778年に築造された建物である。コーネルは自分でも,鞄に収められた1枚の紙片において,カリグラムの形でパゴダを築き上げた(カリグラムとはフランスの詩人アポリネールが創始した絵画=詩。詩句がその内容にふさわしい形に並べられていた)下図右。
コーネルのカリグラム(上図右)では,パゴダは不思議なことに,逆向きの望遠鏡(レンズを地面に向けた形)へと変容している。これはつまり,「地面に耳を付ける(having an ear totheground)=社会の動きに通じている」という成句の視覚的な語呂あわせなのだ。そこでは元のパゴダの分厚い石積みの壁は消え,代わって19世紀の水晶宮(クリスタル・パレス)を思わせる繊細な格子状の構造が姿を現すもコーネルは,かつて最新の芸術的・科学的成果を展示する目的で欧米各地に建てられたこの種のホールを愛してやまなかった。
■WEB映像
http://www.pem.org/sites/cornell/imagination.html
カリグラムの望遠鏡=水晶の烏龍は,ベレニスがこれから行うであろう発見の数々によって組み上げられている。そしてそれは,コーネル自身の霊感源でもある人類の偉業を列挙したカタログの一種として読むこともできる。例えばダンスの領域で彼が選んだのはフランチェスカ(ファニー)・チェリート,マリー・タリオーニ,かレロツタ・グリージ,ルシル・グラーン,ファニー・エルスラー,アンナ・パヴロヴァ,タマラ・トゥマノヴァ,ルネ(ジジ)・ジャンメール,クレオ・ド・メロードといった顔ぶれである。
音楽では,作曲家のモーツアルト,ウェーバー,オッフェンバック,ヨハン・シュトラウス,歌手のマリア・マリブラン,グィリア・グリージ,ラケル・メレルら。美術の分野でベレニスが「発見」するのは,ゴッツオリ,カルパッチオ,ジョルジョーネ,レオナルド・ダ・ヴインチ,フェルメール,ワトー,アングル,スーラ,J・J・グランヴィルといった顔ぶれ。彼女が読むことになるのはアンデルセン,エドガー・アラン・ポー,ランボー,ボードレール,スウイフトの書物である。科学者としては,アルキメデス,ケプラー,ベンジャミン・フランクリン,フレネル,リンネの名が挙げられている。ベレニスが教室で過ごすことになる時間は,明らかにごくわずかである。彼女はコーネル同様,野外研究に精を出し,地上と天上の驚異を探りあてることになる。それは,道化師と象とバレリーナに等しく敬意を抱く者によって作り上げられた,学問的,美的エリート意識とはまったく無縁な教育課程である。
ベレニスに与えられたコースをたどるだけで,人は指先すら動かすことなく,時空を移動する旅人となることができる。コーネルの外国好きはその作品からも明らかなのだが,それだけに彼がただの一度も国外に出たことがないと知ったなら,いささか驚きであろう。子供時代に何度か遠出した機会とフィリップス・アカデミー在学中を除けば,彼はニューヨーク周辺以外での生活体験をほとんど味わったことがない。彼はいわば「安楽椅子に坐った旅行者」であり,マンハッタンを訪れ,その民族的多様性に触れるだけで,世界周遊の切符を手に入れたも同然だった。彼の外国についての詳細な知識は,間接的な資料・・・書物,新聞,ラジオ,テレビ,レコード,雑誌,映画,写真などから得られたものばかりなのだ。
コーネルのコラージュによるベレニスの肖像(上図)で中心をなすモティーフは,彼の多くの作品と同様,「上昇」である。烏たち,バレリーナ,シャボン玉,風船,綱渡り芸人,彼女の頭上を飛び交う天使たち。至るところで行なわれる天空飛行。天使のひとりがベレニスの頭に載せた巻紙には,ラテン語で”ASCENDET(上昇する)”の文字が記され,彼女が天に昇ることを暗示している。コーネルは実にやすやすと,ベレニスをひとつの世界から別の世界へと移行させる。彼女こそは,メアリー・ベイカー・エディの言うところのクリスチャン・サイエンスの天文学者の理想像にほかならない。ベレニスはもはや星を見上げるのでなく,「星々からさらに遠く宇宙を眺める」のである。
さて,子供たちに捧げられた箱作品のうち最も重要なのは,〈ルネサンス・シリーズ〉であろう。このグループの作品は,イタリア・ルネサンス期の画家たちの手になる肖像画に基づいている。同グループのうち,彼自身「家族」と呼んでいたものに,〈メディチ・シリーズ〉がある。彼がそもそも最初にインスピレーションを受けたのは,雑誌『アート・ニューズ』(1939年10月14日号)に掲載されたソフォニズバ・アングィッソーラ(1539頃-1629)の作品《剣と手袋を持ち,犬を連れた少年の肖像》の複製図版であった。
そこではこれが恐らくコジモ1世(トスカーナ大公)の息子ピエロ・デ・メディチの肖像であろうと記されていた。コーネルが〈メディチ家の王子〉の第1作に着手したのは1939年36歳のことである。彼はこれに≪オブジェ(メディチ・スロット・マシーン)》と題名を付け,箱の裏に絵の原作者と上述した主題とを記した紙片を貼り付けた。本展に出品されている2点の〈メディチ家の王子〉のシリーズは,1950年代に作られたそのヴァリアント(「 変化」「変異」)である。
1944年41歳頃,コーネルのこれもスロットマシーンの体裁をとった作品のなかに,2人目のメディチ家の子供が登場する。彼女は画家プロンジーノ(1503-1572)が描いた王女マリア・デ・メディチ(ピエロの姉妹)である。
いくつもの区画に仕切られた≪無題(メディチ家の王女)》(上図右)は,本来のキャビネット型の≪メディチ家の王女≫をもとにした50年代のヴァリアントである。1951年に,コーネルはメディチ家の3人目,ロレンツオ豪華公の絵姿と取り組み始めた。ベノッツォ・ゴッツォリ(1421~1497)の描いた《東方三博士の旅》のなかに描かれた肖像である。この〈メディチ・シリーズ〉は,フェデリーコ・バロツチ(1535-1612)の描く幼児の姿をあしらった,1967年のコラージュ≪ウルビーノ最後の王子≫でもってしめくくられる。
メディチ家の貴族的な世界と好一対をなすかのように,コーネルはより低い身分の2人の若者を仲間入りさせている。まず,1942年彼はピントゥリッキオ(1454-1513)の描いた少年像に基づくシリーズを開始する。≪無題(ピントゥリッキオの少年)》(上図)は,その1950年代のヴァリアントである。歴史家の説によれば,マリア・デ・メディチは宮廷の小姓(こしょう・昔、身分の高い人のそばに仕えた少年)と恋におちてしまい,父公は娘の将来が台無しになったことに立腹し,16歳の彼女を毒殺してしまったという。ピントゥリッキオに基づくもうひとつの箱作品では,コーネルは中央の少年の周囲にマリアの肖像を5つ並べている。このように,コーネルの劇場ではピントゥリッキオの少年がロミオ,マリアがジュリエットという配役で,悲恋劇が演じられている。コーネルはこの種の物語に惚れ込んでいた。ダンテの物語る不幸な恋人たち,パオロとフランチェスカを題材としたシリーズ(pl.5)は,コーネルが自らの形而上的な浄化作用を,文学に対してのみならず,死によって別れ別れになった自分の両親の姿に対しても及ぼそうとしたことを示す,もうひとつの作例となっている。
この作品は,ナイアックの自宅の居間に坐った両親を撮した,いかにも情愛に満ち溢れた家族写真(fig.2)と対をなすものである。一連の〈ルネサンス・ボックス〉の最後を飾るのは,カラヴァッジオ(1571-1610)が描いた〔と考えられた〕少年の肖像である。コーネルはこのイメージを1950年に用い始めたが,今回の出品作≪無題(カラヴァッジオの少年)》(下図)は恐らく1953年頃の作品と思われる。
これらの作品が我々に提示するのは,あまりに早く大人になってしまった,悲しげな顔立ちの若者の姿である。ピエロ・デ・メディチは,嫉妬にかられて妻を殺害したと伝えられる。そのため彼はスペインヘ追放された。マリアはといえば,16歳の若さで実の父に毒殺されたことがほぼ確実である。カラヴァッジオは決闘の末,男を殺害したかどで投獄され,釈放後間もなく39歳で死んだ。一連の箱のなかの子供たちは,コーネルの理想の少女ベレニスの正反対なのである。元になった肖像画の心理描写の強さ,憂鬱な内省的気分は,これらのボックスにほの暗さと複雑な味わいをもたらし,コーネルの造形作品中で異例なものとしている。
もちろん,コーネルは早く大人になりすぎた子供の境遇について知り抜いていた。わずか14歳で経験した父の死により,彼はそうした子供たちの仲間入りをしていたのである。しかしながら,1917年14歳以前の「黄金の子供時代」の記憶は,成人後の信仰心に支えられて,彼に終生変わらぬ力を与えた。コーネルはこれら〈ルネサンス・ボックス〉で,自らの内なる忌まわしい想念と直面している。彼は人生が必ずしも甘くも輝かしくもないことを熟知していた。忘れてならないのは,このシリーズがヨーロッパの子供たちが悲惨な境遇にあった第二次大戦のさなかに開始された事実だろう。
これらの作品は,コーネルの仕事の原罪的な側面を端的に表している。その構造的形態はルネサンス建築の床面のプランを模倣しており,しばしば箱の内側にはその子供が実際に生活した場所にちなんだベデカー旅行案内の地図が貼られている。一方,動かせる部品類・・・ぜんまい,ボール,ビー玉,ジャックス〔骨の形をしたお手玉の一種〕,積み木など・・・は,スロットマシンを暗示するものである。このシリーズや,60年代のコラージュ連作〈ペニー・アーケイド〉(下作品)に見られるスロットマシンのモティーフはコーネルの幼年期への幸福な連想を誘う。
彼は1914年に保養地アズベリー・パーク(ニュー・ジャージー州)の仮設遊歩道で,また母に連れられて訪れたこユーヨークのタイムズ・スクェアで,スロット・マシンに小銭を投げ入れた楽しい思い出をもっていたのである。
コーネルは大人になってからも,このペニー・アーケイドのわくわくするような喜びを忘れずに保ち続け,単純な行為に熱中した。
あちらからこちらへと動き回り,映画芸術からの借り物である光と音の機械魔術のシンフォニーとともに・・・子供時代へ・・・幻想へ・・・ニューヨークの街路を駆け抜けて・・・南国の空を通って・・・そして・・・景品を手に入れて,玉はようやく受け皿にとどまる……。
彼が〈ルネサンス・ボックス〉の子供たちの周囲に配したのは,「命の糧になる」景品の数々一方位磁石,ビー玉,よき母の像(ボッティチェッリから借用),恋人(カラヴァッジオの絵),パルナッソスの情景(マンテーニヤから借用)などである。彼はその運命を変えてやることで,家に背いたこの若きプレイヤーたち〔箱のなかの子供たちのこと〕に味方してやっているのだ。
コーネルは箱の前面のガラスに,キリスト教の象徴であり,クリスチャン・サイエンスの全刊行物にも印されている縦長のラテン十字を描き込んだ。箱のなかにはさらに,ビー玉,射的のターゲット,ゴムボールなど,丸い形が存在する。球形はコーネルの視覚語法のなかに頻出する形であり,地球,月,大洋,真鍮の輪,〈サンド・ボックス〉やその他の作品では刻まれた円形として登場する。球形はまた,メアリー・ベイカー・エディが神による原罪を語る際に用いた象徴でもある。「球形。始まりも終わりもない永遠不滅のひとつのあり方。」。
コーネルは若者に手を差し延べたいという強い願望を終生抱いていた。そうした思いが最も痛切な形で現れたのが,ジョイス・ハンターという10代の少女との関係である。彼が1962年59歳にこの少女に初めて出会ったとき,彼女はマンハッタンのカフェテリアでウェイトレスをしていた。2人の付き合いは,彼女がジューク・ボックスにコインを入れて,コーネルのために一曲聴かせたことで始まった。女優を目指して苦労しているジョイスを助けようと,コーネルは彼女を助手として雇った。ところが64年9月,彼女はコーネルの箱9点を盗み出し,それを売ろうとしたところを逮捕されたのだ。彼は大きなショックを受けたが,ジョイスを訴えることはせず,保釈してやった。この年の12月,少女はニューヨーク市内で殺害されてしまう。コーネルはひどく取り乱しながらも,埋葬の手続きを行なった。彼はジョイスをすさんだ環境の犠牲者・殉教者と見なしていた。死んでしまって,彼女は彼のミューズ(ギリシア神話で、知的活動をつかさどる九人の女神)になった。コーネルは,彼がついに彼女自身のなかから救い出せなかったひとりの少女に「ティナ」という愛称を付け,このティナに一連のコラージュ作品と一本の映画を捧げている。翌年,弟のロバートが世を去ったとき,コーネルは天国にいる2人を結び付けて考えていた。「空の上の黄金蜂ホテルで,君とロバートとは,それぞれ雲の両端を持って,何世紀もの間,引っ張りあっているのだろうか?」
■バレエ
1934年31歳から40年37歳まで,コーネルはテキスタイル・デザイナーとして,「食べていくのがやっとの給料で」マンハッタンのトラフアーゲン・テキスタイル工房で働いた。そうした彼にとって,1932年から43年にかけて,ジュリアン・レヴィ・ギャラリーと関わりをもった体験は,いわば「第二の人生」とでも呼ぶべきものであり,当時最もソフィスティケイト(教養のある)された芸術との接触をもたらしてくれた。彼はロバート・マザウェル,マッタ,マックス・エルンスト,ドロテア・タニング,マルセル・デュシャン,パーヴュル・チェリチェフらと交遊を結び,『ヴュー』誌と『ダンス・インデックス』誌の寄稿者となった。コーネル自身,そのロマンティック・バレエへの関心は,シュルレアリスムの「より抒情的で優雅な部分」に身を置くことで目覚めた,と記している。レヴィの扱っていた画家にはピカソ,マティス,ブラック,グリス,デ・キリコ,チェリチェフが含まれ,彼らはみな1920年代にセルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ団のための舞台装置および(または)衣装を手がけていたのだった。レヴィはジャン・コクトーの作品も展示していた。コクトーは1912年以来,このバレエ団のためにデザインや台本を提供してきた人物である。1933年30歳はコーネルの作品にダンスが初めて登場する年であるが,それはレヴイがセルジュ・リファールの蒐集したロシア・バレエ団関係のオリジナル資料の展覧会を催した年である。この展覧会には,チェリチェフのデザインになる宝石を散りばめた衣装や舞台幕も出品された。後者は40年代にコーネルがバレエやその他のテーマを取り上げる際に,顕著な影響となって現れてくる(pls.5,7)。
同じこの時期,アメリカではダンス全般が隆盛を見ることになる。1933年30歳にモンテカルロ・ロシア・バレエ団がニューヨークで定期興行を開始し,35年にはジョージ・バランチンのアメリカン・バレエ・カンパニーが旗揚げしている。バレエについての新刊書も相次ぎ,そのなかには舞踊史や過去の大バレリーナの伝記も含まれていた。シリル・W・ポ−モントやアンドレ・レヴィンソンといった人々の著作は,今なお研究者の基本文献とされている。1939年36歳にはニューヨーク近代美術館にダンス関係資料部門が開設され,ほどなくコーネルにとって恰好の利用場所となった。こうした諸々の事情が重なって,コーネルのバレエにちなんだ箱やコラージュの豊富な図像表現が生み出されることになる。
レヴィンソンが著したマリー・タリオーニ(ロマンティック・バレエのプリマ・バレリーナ)の伝記と,テオフィル・ゴーティエによる当時の目撃証言のお陰で,コーネルは自分がこだわりをもつ主題に対して親近感を抱くことができた。ゴーティエを読むことで,彼は偉大なパントマイム芸人ドビュローの存在やジュラール・ド・ネルヴァルの作品を発見した。ボーモントの著書『バレエ集成』は,『オンディーヌ』『ジゼル』『ラ・シルフィード』『眠れる森の美女』を含む古今のバレエのシナリオを詳しく掲載しており,そこで知った物語を下敷きに,コーネルはそれらのテーマに基づいたボックスやコラージュを制作したのである。ボーモントはまた,『同時代の石版画に見るロマンティック・バレエ』(サシヤヴュレル・シットウェルとの共著)を著した。この書物はロマンティック・バレエの記念版画(スーヴェニア・プリント)の複製を収録しており,それらは,コーネルが往年の偉大なプリマ・バレリーナたち・・・タリオーニ,グリージ,チェリート,グラーン,エルスラーに捧げたオマージュで作品中で用いられることになる。
40年代37歳に入ると,コーネルはいくつかの特殊なテーマに専念するようになり,自作を形而上的な創作の舞台として用い始めた。この10年間とそれに続く一時期,バレエは彼の重要な主題となった。1940年,次いで49年に,彼はダンスに関連した作品の展覧会を催している。
1942年39歳,コーネルは〈食料貯蔵室のバレエ〉と題するシリーズ作品を手がけた。これらは第二次大戦の野蛮な出来事に対抗すべく,政治諷刺を用いた点で,彼の仕事のなかでユニークなものとなっている。≪食料貯蔵室のバレエ(ジャック・オッフェンバックに)》(上図)が拠りどころとしたのは,オッフェンバックのオペラ・ブック『人参の王様』(1872年),J.Jプランヴィルの描いた幻想的なカリカチュア≪蟹の踊り≫(1851年),ジョージ・バランテンがチュチュを着けた象のために振り付けたバレエ『サーカス・ポルカ』(1942年),この3つである。
Part Two: Circus Polka, Curupira, Dance of the Knights, and Serenade from OBT-PDX on Vimeo.