ソビエト現代美術

■余計者の芸術

アンドレイ・エラフェーエフ

 ロシアは20世紀美術発祥の地のひとつであった。あらゆる形の近代芸術文化を、そして本の挿絵から都市計画、矩形の合理主義的な冷たさと純粋色彩の暗示的な開放性と自在さをひとつにした幾何学的な「書きもの」にいたるイメージや実際の物など、創造的作品をめぐる普遍的言語を初めて創出し、実際に制作した人々の一翼を、ロシアの芸術家たちは担っていたのである。

 モダニズムが初めて国家の庇護を受けたのはソビエトロシアにおいてであった。1920年、それは自らのアカデミーや研究機関、そして実験的美術館をいくつか持ち、公認芸術とでもいうべきものとして制度化された。ポルシェヴイズムとアヴァンギャルドの親密な結びつきは、これら左翼急進主義における二つの流れ同士の内輪の関係をめぐって、多くの憶測を西側の極右グループの間に巻き起こしたが、この親密な関係は短命に終わった。ソビエト連邦は、いくつかの新しい全体主義的体制が1930年代における近代文化のさまざまな価値観に対して仕掛けていた戦いの先頭に立っていたのだ。社会主義リアリズムを公認の芸術様式として確立するための激しく、毅然とした運動のさなか、ソビエト政府は、ドイツ・アカデミズムとフランス音楽喜劇、そして共産主義の宣伝を混ぜ合わせたこの異種混合、即ち、モダニズム的美学の表現のうち、何らかの意義を持つものはすべて非難するか、打ち棄てるかしたのである。前衛絵画、工業デザイン、本、そしてさまざまな宣言は美術館の閉鎖されたままの収蔵庫や図書館の特別書庫に封印されたのだ。各都市における都市彫刻や屋内装飾、建築そして都市改造など隠すことのできないものは、壊されるか復元不可能なまでに変造されるかした。アヴァンギャルド芸術の精神が培ってきた伝統は永久に破られるか壊されるかしたのである。というのは、集団的技術の例に洩れず、こうした伝統は、主として師弟間の個人的接触を通して世々代々にわたって受け継がれていくものであったからだ。

 ロシアのアヴァンギャルド芸術家たちは反抗者に対する文化史上前例を見ないような仕打ちの犠牲になった。それは、アヴァンギャルドがほんの短い間、革命ロシアの支配的様式の地位を占めていた間に自らもしばしば利用したことのあるやり方であった。たしかに、このニヒリズムはヨーロッパ中いたるところに同じ根を有していた。今世紀の初め、ロシアの美術の改革者たちは、西洋の仲間たちとちょうど同じように、自分たちの作品を変わりつつあった生活の現実に符合させようとした。それは単に市街電車や電話、電灯を始めとする新しい技術を表現するというだけの問題ではなかった。芸術を新しい「感性」に適応させるという一層広い閉塞があったのである。カンディンスキーが言っているように、「それぞれの時代の文化は反復不可能なそれぞれの芸術を創造した。過去の芸術原理に生命を吹きこもうとする努力によって産み出されるものは、どんなによくても死産児に似た芸術作品でしかない。我々は古代のギリシャ人が感じたようには感じられないし、彼らの内面的生活を体験することもできない」のである。

 ロシア・アヴァンギャルドは、象徴主義の時代をそれに先だつ数世紀間に比べれば格段に落ちるものと見なしていた。それは、彼らにとっては大文化の衰退を意味していたのだ。今世紀の最初の10年間の新世代の芸術家たちは、時代の偉大な成果と発見とがもたらした幸福感に首まで漬っていたより広汎な「大衆」の時代観とは全く正反対の時代観を持っていた。新しい感性は過去と現在の間に一線を画し、何世紀もの歴史を持つ人生の営みの在り方を非難し、存在の基本的な土台を見直そうとする無名の勇気ある人々の創造的情熱のうちに表現されたのである。文化にあっては、この感性は伝統的な美術館芸術に対する敬度さを完全に喪失することによってはっきりと示された。新しい創造は異なる土台の上に築かれ、そして、オルテガ・イ・ガゼットが言ったように、「それはほとんど、古い芸術に対する全き非難だけからなっていた」のだ。アヴァンギャルド・ユートピアの核心をなす信念は、古い文化の廃墟の上に、今までとは違う、より「正しい」、合理的な生活、過去によって足を引っ張られることのないような生活、を始めることが可能だし、またそうすることが不可欠であるというものであったようだ。

 このユートビアは、美学的に見た時世界はどうあるべきかというヴィジョンと、社会の仕組みと機能において芸術という要素が占める場とが肥大することで膨んでいった。「我々の現在の関心は、人生は芸術の主題にはならないということを自覚することである」とK.マレーヴイチは書き、さらにこう続けた。「人生は芸術の下でこそ美しいのだから、芸術こそが人生の主題になるべきなのだということを自覚することなのだ」アヴァンギャルドの芸術家たちは、物質の審美的な形態を、それが持つ途方もない潜在的な機能、意味、感情もろとも、単に人生を深く理解するのに役立つ鍵としか見なしていなかった。

 加えて、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちは自らを単なる美学的な運動として見なしていたのではなかった。彼らは、欠くことのできない(マレーヴイチの言ったような)「世界建設のシステム」、つまり「芸術だけではない」、ブルジョワ的都市文明や伝統的な村の教会を中心とする古老たちの生活に取って代わるべき新しい形の生活を創り出すことが自分たちの使命であると考えていた。そうした考え方が、地方の伝統に対して抱いていた反感はヨーロッパの考え方には全く前例を見ない、受け容れ難いものであった。

 西洋の抽象芸術家たちは伝統文化のコンテクストの中で新しいイメージ、あるいは何世紀にもわたる歴史の試練を経てきたものを追いかけていたが、ロシア・アヴァンギャルドの作家たちは、この文化を内側から再構築しようとし、その形だけでなく意味や名称も変えたのである。たとえば、都市計画に対する彼らの天上界的な方法は、ロシアの町や村によく見られた一階建てもしくは二階建ての家屋をほとんど完全に消し去ることになったし、結果的に、人間存在に関する古くからの、地方文化に特有の基準を破壊したのだ。

 社会主義リアリズムは、ニヒリズムと、今や不興を買っていた聖蹟を物理的に破壊しようとする情熱との二つを余すところなくこうした動きから受け継いでいた。それは、成熟したソビエト社会の芸術の新しい擬古典的理念を打ち立てて、シュプレマティストや構成主義者たちがしたよりもはるかに熱狂的、また大規模に、教会を破壊し、古い町を消し去った。そしてもし何かがロシア文化のモニュメントをほとんど完全な絶滅から救うとしたら(世界的に有名なユニークな創造物だけが破壊されるべきもののリストから外された)、それはこの国の相対的な貧しさであり、野蛮な行動をとるための手段がなかったことであり、逆説めくがドイツと戦争したことである。

 「雪どけ」とも呼ばれたニキータ・フルシチョフ政権時代の初期にあたる60年代初頭のほんの短かった非スターリン化時代に新たに生まれた芸術的ボヘミアンののどかなイメージを伝えている写真を一目見てみれば、新しいソビエト・アヴァンギャルドの未来の創造者たちの考え方の大枠がどんなものであったかは明らかであろう。彼らはその父や祖父たちと同じように、自分たちの国の現在も過去も、苦しみも貧しさも、独裁も専制も無視したし、また、先立つ時代の芸術的遺産を拒否して、明るい未来を熱狂的に夢みたのである。彼らは、こうした過去を忘却し、またそれを単なる誤りではなく、何か存在しなかったかのように思われるものと見なすことで、またさらにスターリンの国家と芸術を、亡霊、悪夢、惰眠を貪っていた理性がもたらした幻影として表現することで、すべては本来の場所に再び落ち着き、そうしてロシアは同時代のヨーロッパ文明の胸元に収まるだろうと信じていた。

 スターリン主義的過去への告発は、目に見えてアメリカ化され、今やエルヴイスやマリリンに似てきた衣服や髪型の変化などよりも本質的な点で明らかになった。まず第一に、儀式破壊の新たなる高まりの中に表れた。彫像は再び台座から引きずり降ろされ、擬古典的装飾は建築から根こそぎはぎ取られた。古い家具は部屋から投げ棄てられ、その他の地に堕ちた芸術品は美術館の展覧会から撤去され普段使われない倉庫へと送られた。この国民環境の更新の第三波はそれまでの二つに比べると随分おだやかで選択的なものであった。がしかし、それは行われた破壊行為の数の問題ではなかった。もっと重要なことは、それを行おうとする意図があったという事実であり、この意図は、新政府が文化の解放により慎重になり、そして一貫性を欠くようになった時、さらに強くなっていったのである。

  1985年ペレストロイカの出現とともに、ソビエトの歴史は四度目の急旋回を遂げた。この変化が、すでに一種の伝統になってしまっていた欺瞞的偶像の廃棄や祭壇の破壊を伴っていたことは容易に推測される。少し遅れてではあったが、ついに、開かれた社会の理念が芸術に反映されたのだ。とはいえ、これはそれ以前の改革とは違っていて、新しい芸術的信念を打ち立てることが従来の信念を破棄することを含んではいなかった。この現代文化は永遠なるものにだけ顔を向けようとしていたのではなかった。むしろ、国家の手によらない、地下に潜っていた芸術品を芸術生活の表面へと引っ張り出し、それを国家的伝統としたのである。そして当局に敵対し、時には社会の芸術的好みに敵対する芸術が支持され、全世界から孤立してきた苦悩の帝国の文化的真空の中で30年間にわたり粘り強く戦ってきた芸術が支持されたのだ。

 それぞれが同じような文化的歩みを示してきたヨーロッパの国々と比べれば、ロシアはモダン・アートの歴史が最も短く、その歴史からはほとんど何も学んでいない。その歴史も依然口承伝統的な性格が強く、子細にわたって紙に書かれたものではなかった。西欧の人たちは、どんなものであれ本物の記録がそのまま残されてさえいれば、歴史をめぐる解釈を、いや歴史の歪曲でさえをも、受け容れるのだが、ロシア的精神性はしばしば過去を価値論的に要約することで満足してまうのである。ジョージ・オーウェルは彼の反ユートピア小説「1984年」の中で、歴史的証拠を隠滅することは人間に対するこれ以上ない恐しい弾圧だと書いている。がしかし、ロシア国民にとってはそのようなことは何か身近であたりまえのことになっていたのだ。党官僚や秘密警察は我々の両親に自分たちの家族の遺体を焼かせ、自分たちのファースト・ネームとセカンド・ネームを変えさせ、体制が容認していなかった著名人の略歴が載っている百科事典のページを黒く塗り潰させた。また古い記録を廃棄し、墓を跡方もなく取り払った。これらすべては、生活や職を失うことへの絶えざる恐怖に疲れ切っていた国民の従順な無関心に助けられて行われたのである。だが、芸術家もその一部であった我が国のインテリゲンチャの歴史的ニヒリズムは、概してその精神的な拠り所を異にしていた。それは、インテリゲンチャが自分たちの考え方や行動の主要な動機と見なしていたロシアの歴史と文化を選択的、かつ優先的に用いるという土台の上に生み出されたものであった。彼らが認めなかった時代や遺物は国家の精神的方向性とは無縁のものだと宣言されたのである。わが国の歴史と近代の現実は共に正反対のイデオロギーを持つ党派の手中に入っていた。そうした現実は誰からもあからさまな嫌悪感をもって語られ、その重みを失っていたように見えた。包括的な社会文化的プログラムを遂行することで効果的かつ迅速に生活を立て直すことができるということを信じるというのはインテリゲンチャの一般的な特徴になってしまっていた。したがつて、ある限られた時代の歴史を過度に理想化すること及び国家の過去と現在におけるそれ以外の時代をすべて否定することに加えて、ロシア文化の精神性にとって三番目に重要な構成要素となったのは、あらゆる精神的また実際的活動の目的かつ意味としてのユートビアであった。

 19世紀までは、ロシア社会、国民の生活様式、そして人間存在その、ものを再建するという大仰なプロジェクトに、わが国のインテリゲンチャは頭を悩ませていた。そして今世紀を経て、まさしくこれらの夢は実際に目ざましい形で実現されたのである。ユートピア主義者たちの行動はしばしば理性や責任ある行動の限界を超えて、パラノイア的妄執にまで足を踏み入れたのである。彼らの能力と、職業の基本的特性と最終目標が、その意味を異常に膨張させる中で、彼らの適切な自己評価能力はしだいに失われていった。ユートピア的発想によって「啓蒙」された芸術家たちは自らを、現実を改革するための能力のみならず、道徳的権利、いやあまつさえ義務をすら持つデミウルゴス(訳註:創造主)であると思いこんでいたのである

 芸術の地平をはるかに超えてしまったこの「指導者気質」は、マレーヴィッチやロドチエンコ、タトリン、あるいはカンディンスキーといったロシア・アヴァンギャルドの指導者たちの精神性に非常に顕著なものであった。師の素晴らしい考え方を支持する者たちや崇拝する者たちの党派がその周りに形成された。ユートピア社会内でのそのような役割の分担は、芸術の場にあっては自己犠牲的な隷属状態を事とする特異な立場を生み出したのである。この立場が、来たるべき何年間もロシアの芸術家によって守られる文化的な規範になったのだ。その主たる特徴は、個人的立場を自ら進んで、いやむしろ書々として弾劾した こと、つまり在野のオープンなものの考え方を集団のイデオロ ギーへの奉仕と服従とに置き換えたことであった。そのもう一つの特徴は、芸術作品の持つ具体的なディテールと、専門的な問題に対する厳しい態度、即ちこれらの芸術家たちが社会の目的をどう考えていたのかということに基づくひとつの態度であった。この二つを混ぜあわせた上に、さらに自主的な行動を取ろうとすると必ず待ち受けていた結果に対してあらゆるソビエト人が抱いていた日常的恐怖を加えてみよ。そうすれば、社会主義リアリズムの意気揚々たる様式を生み出した高揚せる事大主義者の精神的に奇型化された人格がどんなものであったかを知ることができるだろう。

 スターリン時代の新しい公認芸術は奴隷たちの慄える手、もしくは無関心な手によって生み出されたと思いこむのは誤りであっただろう。社会主義リアリズムの芸術家たちの作品は、彼らに困難だが責任ある社会的使命を保証した当局との感動的かつ親密な関係によって奨励されたのである。ひとつには、スターリン主義芸術は未来の共産主義社会の物質的環境の在り方を考案し、具体化した。すなわち、それは、当局の想像力においてのみ見ることのできるような社会的現象のための造形的な殻を創出したのである。同時に、建設のための試案にすぎないこの奇想天外な物質的環境を彼らの幻惑的な主題絵画」に押しこんで、そしてそこに未来の幸福な生活を彩る個々の人々や一つひとつのディテールを描いた際、社会主義リアリズムの画家たちは、体制のユートビア的社会計画がすぐに実現され、また魅力にあふれるものであるということを予言し、証言する役割を果たしたのだ。また彼らの絵は、当局が歴史を偽造する時に用いる偽の記録という、もうひとつの、負けず劣らず重要な役割をも担っていたのである。その他のあらゆる形の言説においては、共産主義の神話は単なる言葉でしかなかった。絵画や立体の作品においては、それらは生活の環境やもろもろの出来事という現実の構成因子に変形されては具体的かつ実際的な目に見えるイメージへと翻案されたのである

 社会主義リアリズムは、「本当の」現実の過去、現在、未来を見るための秘密の大切な鍵穴を提供した。それはまた、イデオロギーの教科書を実証し、ユートピア的精神性と日常の可視的経験との間の避けることのできない、危険な不協和音を取り除くための鍵穴であり、人に神話を信じこませる鍵穴でもあったこのトリックは、当局にとってはまことに重要なものだったので、当局は芸術のためにお金を費やそうと考えることは二度となく、同時に、あらゆる芸術作品をこまごまと分析することには努力を惜しまなかったのである。

 当局はまた、政府御用の「巨匠」芸術家を使ってはしばしばかつ無遠慮に個人に対して干渉を加えた。しかも、党機構の内部に、全国の芸術を管理することを本務とする文化部門の特殊なシステムがあった。このシステムの役人たちは、芸術作品のテーマ性、方法論、言語、そして理論を統一することに多大な労力を注ぎこんだ。彼らはまた、あらゆる作品をほとんど同じようなものにしてしまう様式検閲という効果的な手段を作り出した。役人とその指示に従う芸術家たちが力を合わせた労作は、イデオロギー宣伝のための名もない、しかし極めて効果的な道具を生み出したそれは、ソビエトの民衆の心を見事に操作したのだ。

 不運にもこのシステムの実際的機能はその審美的、芸術的価値とは反比例していた。社会主義リアリズムは、芸術史の最高の成果を総合したものであると主張した。そして、これらの成果は、そのイデオロギーを信奉する人々にとっては、文化が最後の頂点に達した時に当然現れるものだったのである。言い換えると、新しい形態を生み出すという生き生きとした創造は、選択と引用に変わってしまったのだ。アヴァンギャルドは個々の現実認識を適切に表現することができるようなオリジナルの造形言語を倦む(やむ・同じ状態が長く続いて、いやになる。あきる)ことなく捜し求めたが、この種の努力は入念な折衷主義と過去の様々な様式や流派から常套的手法を借用することに席を譲った。たとえば、集会や英雄への壮行、群衆に演説をする指導者、そして軍隊の凱旋などといった多くの人物が描かれた情景の堅固な構図と構想が古典主義とアカデミズムから盗用されたのである。つまり、有力者や様々なタイプの人たちの民族誌的な特徴を精確に表現するための法則がリアリズムから抽出され、本物と見まがうようなディテールが自然主義から引き出され、思いがけない枠取りと遠近描写に関する手法が印象主義から借用されたのだ。同じような様式の組み合わせは応用芸術」や建築にも見られ、そこでは民芸や古代、ルネッサンス、バロックのモチーフやソビエトの国家章が見せかけ上組み合わされている。

 社会主義リアリズムは、観衆を魅了するための巨大な怪物や芸術的引用の山を築くためにだけ折衷主義に転じたのではなかった。最も差し迫った目的は、作品の人工的な性質を克服し、芸術上のしきたりと生活の諸現実とを画する一線を消して、人工物を生活の中のひとつの現象に変形することであった。

 この目的は、様々な芸術上のジャンルの境界を克服することで達成されることになった。建築はしだいに演劇の小道具に入りこんでいって、パノラマ絵画として提示された。絵画は写真と融合し、映画やオペラの演技として紹介された。種類の異なる芸術の間での共感覚と複製はごく普通のこととなり、社会主義リアリズムにあっては生活と芸術の領域を混ぜ合わせ、あいまいにするという特異な熱意があったとさえ言い得たのである。原作の芸術的構造の具体性を破壊した複製の技術はこれらの変形において特に重要な役割を果たしていた。社会主義リアリズムは、意図的に大規模複製を目ざした最初の芸術の流派のひとつであった。広く流通していた写真複製のもと、絵画は記録写真的な、また既に建設された町であるかのように見える建設プロジェクトや想像図のような性格を帯びた。

 社会主義リアリズムに開放的かつはっきりとした引用源を供給した過去の芸術運動が、専門的に統御され、調和のとれた言説の様式−その完全な形態は芸術上のしきたりを示すと同時に芸術的な喜びを生み出す−を創り出すように目論まれていた一方で、社会主義リアリズムでは、観衆に形態を凝視させ、そして英雄的な過去と明るい未来のヴィジョンを提示するべく、描かれた主題に観衆の注意を引き付けるために、様式は一貫して寄せ集めによっていた。この折衷的な芸術言語は、しだいにこれらの要求に応えるようになってきて、それが掻き集めた常套手段と定型のコレクションは、描かれているものが疑いもなく本物であるとごく普通のソビエトの観衆に思わせる効果を生み出した。アカデミックな精神で制作された舞台装置がその効果を妨げることはなかった。というのは、民衆は、多くの宣伝ショーや政治集会でそれらを見慣れていたからであった。そうしたショーや集会では、演説者は古典主義的なお涙頂戴を積極的に用いていたのである。折衷主義的総合の他のすべての構成要素は、入念な日常的、客観的描写により提示された表現がそれぞれにもっともな根拠を持っていることを示していた。それらの構成要素は、観衆に、どこかで誰かが見た現実の出来事を、今自分は見ているのだと思いこませた

 かくして、1930年代から1940年代にかけてのロシアの芸術家たちは、造形を通して人間の環境と心理を効果的に操作する道具を創り出すために、過去の一つひとつの伝統だけではなく、フォルム芸術の全領域も、その持つ自律的な価値や知覚上の形態ともども犠牲にしたのである。

 ここで、社会主義リアリズムは主として美学外の、ものであるということを強調しておくことは大切である。結果として、それはキッチュや19世紀美術の類似形態への回帰といった、モダニズムへの保守的な反動であるとは見なされないのである。芸術はここではその目的ではなく、手段なのである。本質的に価値のある芸術活動はどれもスターリン時代には生存権を奪われていた。なぜなら、完全に神話化されたユートピア的心性の視点からすれば、それは、狭い家族の集まりの中だけで許された一種の異議であり、気晴らしだったからである。戦後、ソビエト連邦がしだいに自らがユートピア社会であるという自覚を失い、そしてロシア帝国との全般的な関係を強調することに積極的、率直になってくると、人々は自分の家で私的に絵を描き、音楽を作り、詩や小説を書き始めた。それはお国へご奉公・・・かつてあれほど熱気を帯びていた社会主義リアリズムの実践もしだいに人々の目にはそう映り始めていた・・・したあとの一種の息抜きであった。ユートピア建設は決まりきった退屈な仕事と化し、しかもスターリンの死後は、それは国家の契約を履行するという大勢順応型の官僚主義的な手続きへと衰微していったのである。このことは社会主義リアリズムが活動的であることを止めたということではない。逆に、地下鉄の駅や首都の中心部を取り巻くように建つ壮麗な摩天楼、軍隊の栄光を讃える記念碑といった主だった記念建造物の多くはフルシチョフやブレジネフが権力の座にあった時代に造られたものなのである。それらの中には今なお完成への途上にあるものもある。だが、スターリンの圧政が終わるとともに、社会主義リアリズムによる芸術的権威の独占は崩れ、社会主義リアリズムがすべてのソビエト芸術を代表するものであると主張することはできなくなった。もはやそれは、初期の使命への理解と民衆の意識への影響力を急速に失ってしまった公認のアカデミックな流れだけを代表していたのである。

 新しい、近代的な、ポスト・スターリン主義芸術はアカデミーの壁の外側で生まれた。それは、美術家同盟のモスクワ支部とやがてその同盟に加わろうとしていた作家たちとの双方に突然現れた創造的な団体、グループ、会合の中から生まれた。大まかにいって、これら1960年代のソビエトの芸術家たちのグループの消長には二つの流れがある。それらのうち第一の流れはスターリン主義的様式がより人間的、美的になって、漸進的かつ穏やかに変化したものである第二の流れはスターリン主義と訣別し、そして1930年代と1940年代の芸術的遺産を一掃した流れである。初めのうち、この二つの流れは平和裡に共存していたが、1962年までには、(前者の)近代化されたスターリン主義という妥協的な考え方の方が大御所たちの力強い支援を受けていた。美術家同盟モスクワ支部のメンバーにとって、この同盟に留まるためには、第一の流れに追随しなくてはならないというのは不文律になっていた。そして当時、同盟のメンバーであることは芸術家と呼ばれるための権利が与えられることを意味していたのである。同盟のメンバーでない者は皆凡庸で才能がないと思われており、他の仕事に就かなければならなかったのである。そしてこれこそは、第二の発展形態に属する者たちのために取っておかれた立場だった。同盟内部のこの手の芸術家は同盟から脱退し、同盟の外部にいた者たちは参加を許されなかった。物理的なものではなく行政的な抑圧が非公認芸術家のサークルを作ったのである。

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 「ロシアの詩人は単なる詩人ではない」「雪どけ」期の最も人気のあった詩人のひとりエフゲニー・エフトウシエンコが書いたこの詩句は、フルシチョフが明らかにしたスターリン主義的ユートピア国家の暴虐をもってしても、当時の知識人たちにユートピア的な考え方を非難するよう説得することはできなかったという事実をはっきりと示している。そしてまた、今や三たび、我々の芸術家と文学者たちは、彼らの芸術作品と著名人の役割とを結びつけようと努力したのだ。再び彼らは崇拝者や弟子たちに囲まれて群衆の先頭に立ち、そして過去に立ち向かい、ロシアの理想的な未来図を提示したいと願ったのである。しかし今回は、多年にわたる見せかけの同志的連帯のあとに別の社会団体が幸運にも初めて自ら独立を達成した。そして彼らの文化及び政治のヴェクトルは「進歩的」と名付けられた共通の神聖な地点では出会わなかったのである。「雪どけ」は特定のグループや職業に特有の、互いに相容れないユートピア観をいくつか生み出したが、それらのうちのどれひとつとして普遍的な大衆の支持を得ることはできなかった。そのことに加えて、これらのすべては、二義的な性格を有し、また明らかに過去を志向していた。それらは遠い昔の考え方へと帰っては、それを丸ごと、もしくは少なくとも部分的に反復した。こうした理由から、作品も、それを制作した作家も、過去のものをまあまあ旨い具合に様式化したものしか提供しえなかったのである。ユートピアをめぐる様々な考え方は、一方の端では何らかの宇宙文明へと踏みこむことから、対する極では伝統文化という源泉を蘇生させることへと帰っていくことにまで及んでいた。

 科学と電子技術の万能性に対する信仰は産業知識人たちの間に広く見られた。が1970年代になって、それは、普通の人は言うに及ばず、人文科学を専攻した人たちの幅広いサークルを摂(と)りこんで、実用的な技術的思考には決して見られなかった宗教的、神秘的信仰の色合いを獲得したのである。民衆の目からは隠された軍事機器を別とすれば、洗練された技術産品はどれも海外の珍しいものであった。

 ソビエト国民は、外国技術博覧会の波に乗って我々の元へと届けられた西側のありふれたデザインの品物を見て、まるで南太平洋の島々の原住民のように驚いた。これらの品物は奇蹟だと思われ、人々はそれをじっと見つめ、そしてその器用にデザインされた形が持つ美的味わいを楽しんだ。技術的な機械の情緒的、審美的な魅力は、擬似科学記号や手法を操る、夢幻的でロマンティックな技術観を表す芸術へとつながった。1957年から1958年にかけて制作されたウラジーミル・スレピャンの「記号的」絵画や、彼の弟子ユーリー・ズロトニコフの線と色彩を強調した抽象グラフィックは、この美学の最も明白かつ初期の例として挙げることができるだろう。

 彼らの作品は、ソ連の抽象芸術を蘇らせようとする初めての企てであった。抽象は、1910年代にロシアの芸術家によって考案されたのだが、スターリン時代からずっと禁じられてきたのだ。「雪どけ」の公認イデオロギーは依然としてそれを、許すべからざるものの象徴であり、文化、健全な道徳、政治的忠誠の対極にあるものと見なしていた。たとえば、フルシチョフは、抽象を同性愛と同義であると考えていた。したがって、一般的には、抽象的な作品は、当局へのあからさまな政治的挑戦であり、反対意見を公然と宣言することであり、同時に、非公認芸術家の会盟に忠誠を誓うことでもあると見なされていた。かつての地下芸術家のどのアトリエでも、60年代初期か中期に描かれた古い、埃りだらけの抽象作品を必ず発見するのは偶然ではないのである。

 同時に「雪どけ」時代の若い芸術家たちは抽象と本当のモダン・アートのイメージを同一視していた。「モダン」という言葉それ自身は概念としては50年代後半になってやっと発見され、当時のコンテクストの中では、それは専ら西側を意味していた。換言すると、全くあいまいな現象、しかしソビエトのものでないことだけは確かな現象を意味していたのである。ロシアではモダン・アートはまだ発明されていなかったのである。そして、モダニズムに新しく宗旨替え(しゅうしがえ・それまでの主義・主張・趣味などをかえて、他の方面に転じること)した者は皆、まるで組織だった競争ででもあるかのように自分自身のモダニズム的プロジェクトを発表した。各作家は、自らの心理的傾向や知識、情報の水準に応じて、自分のプロジェクトのための基準としてあまたある西側の抽象絵画の中からひとつを選んだレフ・タロピヴニッキー抽象表現主義を採り上げ、ウラジーミル・ネムーヒン(上図)は叙情的抽象を発表し、ウラジーミル・ヤンキレフスキー(下図)はコブタラフイチイラ・グループのなぐり書きを用い、ニコライ・ヴュチトモフはアルプのビオモルフィズム(生命形態主義)を好んだ。これらの芸術家たちはまるで外国の伝統とつながりを持てば直ちに世界の前衛に踊り出せるとでも思っていたかのようであった。

 「運動(ドヴィジェニエ)」グループはこの問題の最も適切な解決法を見い出した。1962年に結成され、レフ・メスベルクにより率いられたこの芸術家の集まりは、ロシア・アヴァンギャルドの歴史にその類似依存を見い出すことのできるような海外の流派、即ちキネティック・アートに加わろうとしたのである。こうした海外のキネティック・アートの特質である光と色彩と動きの融合がロシア・アヴァンギャルド芸術が構想した永久建築のための巨大プロジェクトと結びついたのである。そしてこれは、近代デザインへの熱狂的な信仰とも相まって、ロシア芸術にとって最後の包括的なユートピア構想を生み出した。今回は、力点は人類の改革にも演劇的なマジックにも置かれてはいなかった。その狙いはもっと控え目であった。このプロジェクトは第一義的な機能をすべて奪われた技術的な形態の美しさと完全性を表現することに全力を集中しており、そしてこれらの形態を、宇宙に漂う実験室のレトルトさながらに螺旋状の輪に抱かれた初期のフランシスコ・インフアンテの作品に描かれているように、都市環境、自然、人々の衣服、そして地球全体へと拡げていこうとしたのである。

 

 しかしこの計画は、完全にも、そして部分的にも実現するには至らなかった。「運動(ドヴィジェニエ)」グループの考案者たちは自分たちのモデルの大量生産を始めることはできなかったし、全員が別個にデザイナーとして働くことを強要され、工業製品の没個性的な外観を手仕事でコピーすることに努めたのである。必要な技術的基本を欠いていたことだけが彼らの仕事に障害となったのではなかった。このプロジェクトは非芸術的な環境のために意図されたもので、幾何学的および構成主義的形態、あるいは純粋な光、電子音楽で満たすことで、日常生活の空間を彩ろうとしていたのである。が不幸にも、ソビエト社会はキネティズムのみならず構成主義自体も受け容れるようには準備されておらず、後者のノスタルジックな響きのせいで「運動(ドヴィジェニエ)」グループの作品はあまりに美しく見えたのである。当局はまだマレーヴイチの作品を美術館の倉庫に際しており(このあと20年間もまるでペストのようにそれらを避けようとした)、印象派でさえもほとんど認められなかったのである。

 これらのかつがれやすい空想家たちは一種の国際美術展を提案した。それは、西側の消費者の幅広い好みに適うもので、都市の広場や公共建築の内部装飾のための芸術の社会的様式を示そうとするものであった。需要と供給、期待と結果の間の不一致が衝突へと発展しただけでしかなかったことは容易に理解される。「運動(ドヴィジェニエ)」グループの芸術家たちの幻想は青年フェスティバル症候群とでも呼ぶことができるかもしれない。1957年の夏モスクワで最高当局の後援の下に華やかに行われたこの行事は、全世界の芸術作品の驚くべきパノラマ(52ヶ国からの約4,500点)をソ連で初めて展観した。それは、この国が世界文化のプロセスへと統合されていく様子を、党機関も世論も、好意的に見守っているという誤った印象をもたらしたのである。

 技巧的芸術(テクニカル・アート)のユートピアは歴史的なアヴァンギャルドや社会主義リアリズムのイデオロギーとは異っていた。なぜなら、それは、人々の心を変えようとはしなかったからである。こうした立場は、変化というものが既に起こったとする誤った命題に、そしてあらゆるソビエトのシステムはガガーリンを追って宇宙へと飛び出して宇宙的視点〜若いアヴァンギャルドの作家たちが自ら表現していると信じていた視点である・・・を既に獲得したのだという誤った命題に基づいていた。世界芸術に関わる具体的様式に基づいたはっきりした美学を再構築しようとする。これ以外の試みはいずれも、やがて沙汰やみになった「運動」グループと同じ運命をたどった。

 概して、在野のソビエト芸術をモダニズム風に見せようとか、新生ロシアと西側の間に基本的な文化的類縁性を確認しようとかする孤独で、絶望的な企てには未来はなかった。「ヌーボー・レアリスム」の精神により制作されたボリス・トゥレツキー(上図)アッサンブラージュアメリカのミニマリズムに触発されて描いたアレクサンドル・ユリコフの幾何学的絵画は、これらの企てがそれ以上いかなる発展をも見い出しえなかったことを示している。世界の創造の中心からは遠く隔てられ、コミュニケーションの回路からは切り捨てられ、考え方や情報を交換することは全く出来ず、我が西欧派たちは、80年代の初めまでは田舎芸術家の悲哀をかこっており、壁の向こう側を羨ましげに見つめ、耳をそばだててはほとんど理解できない「自由世界」の声を聞くことで自分たちの作品に活力を注入するしかなかったのである。

 どのような芸術上の図像や様式を選ぶかを決定した1960年代の第二の大きなユートピアは「文化」の概念に関わるものであった。当時、この魔力を持った言葉はしばしば使われ、それが持つ意味の領域はとてつもなく拡がっていた。それは、美術館からアヴァンギャルド芸術、古代文明、自然の形態、そして骨董までをも包含していた。しかし、個人的、もしくは社会的な救済や改革の手段として文化に訴えた人は皆、この概念をスターリン主義ロシア、あるいは現代ロシアの精神的、物質的現実に当てはめることを拒んだのは言うまでもないことであった。それらの時代には文化は存在することを止めてしまったのだ。結果として、歴史上のこの時期にこの国土に生きたすべての人々は、その職業が何であれ、人類の精神的な発展と経験から取り残されたのである。もし、日常生活の局面から文化の局面へと入りこんで行きたかったら、時間を旅して自分なりに文化だと信じるものの中心点に自分の「分身」を見つけなければならなかったのだ。歴史上の亡霊とのこうした対話は、しばしば創造行為をめぐる言語、行動、方法の変化を、また時には外観の変化さえをも伴ったのである。したがって、1960年代のモスクワには、イコンを描く修道僧、また、映画「モンパルナス」でおなじみのパリのボヘミアン風芸術家たち、頭を剃りあげ、コルビジュ風のべっ甲縁の眼鏡をした構成主義者たち、18世紀の美辞靂句で議論する詩人たちが現われた。

 こうしてうわべのスタイルに装いをこらしたことについては、言うまでもなく専門的な教育が不十分であったことや芸術分野での自由な方向づけに必要な幅の広い視野が欠落していたことといったありきたりのことによって説明される。「アヴァンギャルド」の一員だと名のる多くの作家たちの作品において初めて行われた抽象の実験のあとに突然、「普通」のモダニズムの論理を背景にした昔ながらの具象芸術への回帰がやって来たことは驚くべきことではない。「美術館」の標本は彼らに、複雑な基本的専門知識(空間、平面、構造など)が如何なるものであるかを明らかにし、そしてこの複雑な知識は借りものの様式による言語で熱心に展開された。芸術家たちはひとつの時代から別の時代へと放り投げられたのである。美術史の領域を押し広げようとするこの貧しい営為は一種の自己再建であり、傷だらけの地方主義を癒すことでもあった。

 

 50年代中期から、ボリス・スヴュシニコフ(上図)ドミトリー・クラスノペフツェフは、フランドルの画家たちや古いドイツ版画、古典的なフランスの素描の様式を用いては監獄や軍隊の日常生活を描いた構図を完成させ、美しく飾り立てた。のちにこの手法をヴャチェスラフ・カリーニンが修得した。モスクワやザゴールスタの街角や広場で見たものを基に措かれた彼の大通りの風景は「豪著」な手法で描かれており、「巨匠たち」の絵をいやというほど暗示している。20世紀初頭の美術から採られた素材を使って同じように折衷主義的に混合したものは、オレグ・ツェルコフ個有の言語でも描かれている。彼はフォーヴィスムの実験と、レジェやマレーヴィチの光と空間、そしてイタリア未来主義のダイナミックな形態表現を組み合わせたのだ。彼らの視点からすれぼ、芸術家は相互に補完的な二つの目的を追求した。つまり彼らは過去の芸術的手法を修得し、一方で自分たちの環境について何かを発言するためにそれを使ったのである。

 

 しかしやがて、彼らの個人的、社会的、実存的経験は「美術館」芸術の上品で複雑なしきたりにはほとんど合わないことが彼らには明らかになった。オスカル・ラービンウラジーミル・ピヤトニツキー(下図左)ウラジーミル・ヤコヴレフ(下図右)たちにとっては、様式化は青臭い自然主義から、鋭く、そして悲劇的な彼らの世界認識を具体化した告白的かつ表現的な絵画へと彼らを導く単なるステップでしかなかったからである。彼らは、ありのままの人間生活、愛、信仰、そして死といった、人生の現実をめぐる個人的な告白において率直かつオープンでありたいと強く願っていた。

 

 こうした理由で彼らは「洗練された」規範を多大な情熱をもって破ったり壊したりしたのである。しかしながらここにはひとつの不幸な歴史のパラドックスがあった。というのは、社会主義リアリズムの砂糖のように甘いメロドラマに慣れ切っていた観衆に多大な効果をもたらしたこれらの芸術家たちの気障で乱暴な言説のあり方は、国際的な芸術のコンテクストにおいては冷たい幾何学的手法であると同時に自信過剰の芸術手法が用いる既成の常套手段でもあったからだ。

 1960年代における、その他の非公認芸術家の大半は、たとえいかに高度な告白的、教訓的目的があろうとも、芸術的形態の明噺性を破壊しようとする企てからきっぱりと緑を切った。彼らの「美術館」への回帰が、モスクワでは日常生活の粗雑な言語に歩み寄ることを狙った「文化」の反逆であると見られたアメリカのポップ・アートとヨーロッパにおけるその類似物の出現と符合しているのは偶然ではない。文化の基本的な価値というものに異議を唱えるアヴァンギャルドの原理はモスクワ・アヴァンギャルドの精神的苦闘とは全く相反するものであった。後者は、そうした価値を修得し、起らせることが、また人々の心の中でそれを深めていこうとする粘り強い仕事を続けることが、自分たちの使命であると考えていたのである。西側のモダニズムは永遠の美学的、倫理的課題と戦っていたが、モスクワの非公認芸術の作家たちは、保守主義の最もよい伝統に息づく精神、真実、美を夢見ていたのである。文化への崇拝、そして伝統の復活と保存への関心がここでは道徳的義務にまで高められたのである。

 こうした理由により、1960年代後期における芸術の発展の主たる流れを最もよく物語っていたのは、稚拙な世界観で魂に訴えた半ば盲目のヤコヴレフの「叫び」ではなく、エドゥアルド・シティンベルグの乾いた、鹿爪らしい美学であった。シティンベルグは様式化への努力を最も一貫して行った人物であったと見なすことができるかもしれない。はじめ彼は、誰もがしたように、自分の絵を自然の牢獄から解放しようとした。彼が借用した構成主義の幾何学的美学は風景を図式化するための便利な道具として役立った。しかしのちにこの美学はすべてを抑圧し、描写の主人公の座を奪い取ってしまったのだ。それ以来この画家の絵はしだいに様式的なものになり、ロシア・アヴァンギャルドの構成とその正反対のものであるブルジョワ「的」絵画を交配したのである。

 幾何学主義の明らかな美術館化は国民的伝統における聖なるものの規準として象徴的な機能を果たした。この規準は20世紀のマレーヴィチの美学と同じものであった。

 シティンベルグが「文化」の記号を複製した一方で、ドミトリー・プラヴィンスキー(上図)は見覚えのある構成を発表した。ロシアでは文化という概念はとうの昔に具体的、客観的な意味を既に獲得しており、それはいくつかの地理上の地域と関係していた。1960年代の大衆心理にあって、「文化」の多鳥海は新たに二つの歴史的地域をその領海に加えていた。中央アジアと北方ロシアである。プラヴィンスキーの作品はこれらについて地誌、考古学、本物の記録、そのコピーからなる彪大な情報をもたらしたが、この画家は科学的に叙述するということに関心があったのではなかった。彼は「文化」財の典型的な形態により大きな興味を持ち、これらの形を学ぶために、こうした文明の自然の流れの中で半ば破壊され、形を失ったものを利用したのである。死に絶え、忘れ去られた人間生活が封じこめられた建物、日常の品々、手書きの書物などの、時間の経過の中で傷ついた表面を丹念に彼は再現した。プラヴィンスキーにとって「文化」とは死を超克したものというのと同じであった。不滅であることのメタファーは、砂とワックスのザラザラした殻の下に幾重にも塗られた輝きを留める彼の作品の構図そのものの中に開示されているのだ。

 精神性は1960年における「文化」の三番目に重要な特質である。ウラジーミル・ヴュイスベルグドミトリー・クラスノペフツェフ(上図左・右)の絵にはそれが一目瞭然である。彼の絵は、石や水差しなどといった簡単なもののセットを前にした冥想の状態を表現している。しかも、それらのものはソビエトの日常生活を示すような民族誌的な意味を担ってはいないのだ。特殊な空間環境(それは、ヴェイスベルグの作品では無色であたかも、もやがかかっているようで、クラスノペフツェフの作品では地味で真空状態に置かれたように描かれている)に置かれているので、これらのものは自然物の実体を奪われたスペクトルのような外観を呈するにいたった。自然を非客観化するということは19世紀の宗教的アカデミズムの舞台装置としてしばしば登場する。ここでは、この手続きが、近代における画家の技量のひとつの規準であるセザンヌ風の静物に用いられている。したがって、メタフィジカル1960年代の紋切り型の美学は、現実世界を超えた「形而上学的」な理念性を獲得したのだ。

 「文化」のユートピアの本質は、既成の、承認された過去からの遺産を、生活を完全に理解するための仕組みを再び建設するために使うことが可能であるという信念にあった。もちろん、ここでの仕組みは、多彩な創造活動にとって頼れる避難所となるものでなくてはならなかった。西側に存在し、ロシアにもかって存在したことのある多元的な文化のための計画に基づいて行われたこの建設は、作家を当局のイデオロギー的重圧から解放し、時代に相応しい芸術のガイドラインを提供しようとした。しかし、「文化」の建設は完全な失敗に終わった。蓋を開けてみると、創造的アプローチの多様性は再び、劇的なまでに限定されたものとなっていた。

 1962年の12月、美術家同盟のモスクワ支部結成30周年を記念する展覧会が行われた。この大展覧会で、新しい芸術と「雪どけ」の政治指導者たちとの不幸な出会いがあった。この出会いは禁止と訴追の新しい波を生むことになった。そして、芸術家たちは、「裏切者」であるとしてフルシチョフに容赦なく、また手荒に叱責されたあとで、にもかかわらず生き永らえることだけでなく、秘かに作品を制作して売ることまでも許されたのだが、社会生活の面では、これら在野の若い芸術家たちは再び閉ざされたのである。

 こうして、これらの芸術家たちの20年間にも及ぶ「地下」生活が始まった。この間、彼らは全くといっていいほど私的な、ほとんど家族のようなサークルの中に隔離されたのである。自由主義インテリゲンチャの裏切りはおそらく当局の抑圧よりもずっと耐え難いものであった。この裏切りは、国家がブレジネフの「停滞」の中に落ちこんでいくにつれて、しだいに苛酷なものになっていった。あまりにも多くの同僚やかつての仲間たちが非公認芸術に背を向け、自分たちの生活からそれを抹消したのである。「文化的」ユートピアの土台が、彼らの心の中に築かれていたにもかかわらず、彼らを恥ずべき事大主義から守ることはできなかった。そして、この事大主義(自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方)は欺瞞に満ちた新しいソビエト美術史を書いた人たちには道しるべとなったのである。こうした状況のもと、モタニズムを復活させようといういかなる情熱ももう「雪ビけ」にはなかったし、残されたものは、社会主義リアリズムの退屈で愚かしい延長のように見えた。在野の芸術家たちは、自分たちの立場が当局と社会の双方を手こずらせていた「余計者」であることをはっきり認識していた。このようにして、「文化」のユートピアの社会的側面は失われたのである。

 「文化」のユートピアの芸術上の基本原理も時代の試練に耐えることはできなかった。借りものの様式を事とする人たちにとっては、一般的な真実や引用、暗示などの作用で人類を揺り動かすことのできる傑作や珍しい作品が重要であった。しかし、この露骨に「文化漬けにされた」芸術は実際には不満発な二流品で、しばしば細部は重苦しく描かれ、また過度に感傷的であった。破壊された伝統を蘇生しようとする不可思議な行為も、1910年代から20年代にかけてのアヴァンギャルドが有していた革新へのエネルギーを「文化」の追随者たちに与えようとはしなかった。

 色々な違いはあったが、「雪どけ」の芸術的アプローチは、技術的美学を志向すると伝統的アプローチを志向するとを問わず、ソビエトの日常生活のみすぼらしい風景を越えてただちに高く舞い上がろうとする衝動を共通して持ち、また、彼らが分け入ろうとしていた現実の社会的、芸術的コンテクストに対する倣慢で無頓着な態度を共通して持っていた。

 地方の特殊な状況とソビエト式生活に伴うさまざまな現象は、1970年代初めにはすでに在野の芸術家たちの間に完全に姿を現わしていた新しい、ポスト・ユートピア的芸術家たちの基本的な関心事であった。「雪どけ」の完敗を経験していた在野の芸術家たちの第二世代は前の世代とは違っていた。彼らはイデオロギーを持たず、普遍的な観念に対する基本的な不信感を持っていた。教条主義や深刻さを放棄して、親しみ深いときもあるがしかし冷笑的であることの方が多い、絶えず存在する忍び笑い、彼らの制作した作品のすべてに生気を与えているあの忍び笑いの中に自分たちの態度を表明したのである。この世代は独特のタイプの芸術家を生み出した。彼らは文化の建設という地方のインテリゲンチャに典型的な使命を忘れてこっけいで遊戯的な、そして嫌味な自己観照に耽っていた。こうした作家はフョードル・ドストエフスキーの「地下室の手記」の有名な人物、この「品のない、いやもっと正確には、正反対の嘲るような顔をした紳士」を体現しているように見えた。 

 新しい芸術は同じように「形而上学的(メタフィジカル)」に何かを暗示することには冷淡で、芸術家の感情表現を強調した。それは初めから記録の公正さと造形上の中立性を有していた。ミハイル・ロギンスキーの絵(上図左右)はその格好の例である。日常生活を専ら描いたそれらは、内戦時代の軍隊の兵舎の生活からそのまま生き延びたような我々の共同住宅の台所設備を表現していた。ロギンスキーは、美的な味わいを乾(ほ)しめ、不愉快な連想を喚びさますこうしたティーポットや石油ストーブを、この国の文明の重要な目印、特異な記念物であると見なして描いたのだ。そこではどんな様式で描くかが大事なのであった。公認芸術の若い人たちの間で大いに流行っていたのはありふれた、微温的な「後期印象主義」であった。そして、結局は、ロギンスキーの選んだ主題は必ずしもありふれたものではなかった。その中には警告のための視覚的な記号と一緒に赤い警告字句や燃えるマッチも含まれていたが、それらは、ロギンスキーが消防署のポスター風の絵をコピーしているという事実をはっきりと示していた。のちに彼は駅のスタンドに貼る鉄道用ポスターで同じことを演じた(彼は互いに矛盾するオブジェと言葉を、ひとつの幻影空間の中で結びつけ、それらに人為的な役割を与えるために絵画様式に関心を持つことを再度呼びかけたのだ。

 これらの行為は全く「非文化的」なものであった。というのは、それらは既存のしきたりを破壊したからである。ロギンスキーは、新しいアヴァンギャルドの芸術家の専門的な役割における重要な進展を身をもって示したのだ。それは、造形作品の作り手の能動的立場からその芸術的状況をみつめる第三者の視点への転換であった。

 ソビエト文化は、公認芸術と非公認芸術という対立する二つの陣営に属する多くの流れや党派にちりぢりに分かれていた。そしてそこには党派的立場を超えた統括的な批評家や審判のための場はなかったのである。これらいくつかのグループは、互いにひとつの枠組、同じ文化の中で顔を合わせていたので、お互いを敵だと見なそうとはしなかった。彼らは芸術全般をコントロールする権利と、芸術家と見なされる排他的な特権を独占しようとした。彼らは政治的、社会的に敵対する者たちを一方においては敵対者であり、他方においては「事大主義者」であると考えた。したがって、どちらの側でも、敵対する双方の意見を交換し、両者の見解や制作手法を比較できるような超越的な場を思い描くことはなかったのである。こうした場は、地方文化という体の上に押しつけられた「余計な」細胞であるとされた。が、新しいソビエトのアヴァンギャルドの特異性を決定したのはこの細胞であった。この視点に立つ時、三つの重要なことがあり、それらは地方の芸術的状況を広範囲かつ完全に分析した経験を具体化したものである。その三つとは、どんな主題を選んで描くかということ、いかなる絵画言語を用いるかということ、そして自分で語るという自己叙述の原則であった。

 新しいアヴァンギャルドの作品は斧でたたき割られたかのように荒々しく、フェンスを塗るエナメルで稚拙に描かれ、また出来栄えはあまりにおそまつで、故意に非芸術的であり、さらに悪いことには、それらは、公認と地下、双方の審美眼のある人々から恥ずべきものとして避けられていた「低級」な日常の現実を表現していたのである。一般的に、ごく普通の日常的な品々はそれまでのソビエトの芸術家たちのユートピア計画にあっては無視されていた。国内向けの、取るに足らない、純粋に機能的な消費財については特にそのことは当たっていた。かくして、それらが未踏の大陸として立ち現れたのである。しかもフォルムそれらはそろって地方生活の中から生まれた本物の形態であり、さまざまなイデオロギーの外皮をまとってはいなかったのである。それらはまた、自在な経験美学の領域を含んでおり、ロシア的、ソビエト的形態感覚についての独得のメッセージを放っていたこの領域は在野の芸術家たちの第二世代の芸術概念を形成するための素地となったのである

 ロギンスキーのあと、どんな簡単なものであれ、ソビエトの物質文化をほんの少しでも表現しているものを複製する作業はボリス・トウレツキー(上図左)アレクサンドル・コソラボフ(上図右)イリヤ・カバコフ(上図下3点)らによって受け継がれた。これらの人たちの作品は、日用品が芸術の分野に吸収されるのと併行して、伝統的、芸術的、かつ包括的な構造が解体した時、その頂点に達したのである。つまり、造形行為は、日常会話で無駄使いされている言葉 アウラの霊気に包まれた環境の中からものや破片を拾い集めることへと溶融していったのだ。1980年代にはこの行き方はウラジーミル・ソローキン(下図)によって踏襲された。彼は、オブジェとインスタレーションの連作において、社会や個人の無意識をオブジェのイメージを通して表現したユーリー・レイデルマンの作品の例もあるように、既製の拾い集めたオブジェを使うソビエトのインスタレーションは、お墨つきの広く認められた様式を風 レディ・メイドしようとする西側の既製品の使い方とは違っている。

 これらの作品は、公認の高級芸術の民族誌的な情景とは一線を画した自律的なものであった。つまり、これらは、人間性のいやな一面を伝える「生活の断片」の記録を伝えていたのである。こうした一面を描くことは、ピューリタン的なソビエトの民衆の心性にあっては頑なにタブーとされていたことであった。

 何年もの間、現代美術作品を取り巻く環境は、画廊や美術館から日常のコンテクストに替わっていた。生ける芸術は日常性の中に入りこんでいったのである。それらの作品は手近なところにあった長持ちしない素材で組み立てられ、しだいに国内の手工芸産品や家族内の手すさみの「素朴な」作品と結びついていった。こうした制約は第二世代の人々には一種の美学的な規範となった。それは、リマとワレリー・ゲルロヴインの積み木、機械仕掛け、そして家族行動の中に、またカバコフとヴイクトル・ピヴォヴァロフ(上図左右)のアルバムの中に、そして≪ムホモール(ペニテシグダケ)》グループの“ルーム’’パフォーマンスの中に見られる。後者の作品にあっては、非公認芸術の芸術生活に強心)られたアパートに因(ちな)むアパート的性格が、国内のさまざまな形 やタイプのイヴェント・・・それは人前で公演することを常とする・・・全般に反映されていた。彼らの「アプト・アート」(アパート芸術)が根本的に新しい点は、「場所」に合うように制作されたという点にあり、日常の環境から分離不可能なものであるという事実にあった。家具、もの、芸術品が単に並置されていたのみならず、互いに機能を交換し、お互いを増幅してさえいた。地方の芸術状況が反映されたもうひとつの在り方は、マッチや紙、粘土でできていたヴィクトル・スケルシュスワジム・ザハロフ(下図左右)のポケットサイズのごく小さなインスタレーションに見ることができる。それはヤミ芸術ならではの見本であった。1990年代イーゴリ・マカレーヴィチ(下図)エレーナ・エラーギナ(下図)は自分たちのアトリエに、ずっと以前に歴史になってしまっていた「アパート・モダニズム」への賛歌を郷愁をこめて造り上げた。彼らの作品は、西側芸術のさまざまな流れをゲームのようにパロディ化したものであり、在野のソビエトの芸術家の労働条件と運命によって動機付けられていた。

 「草の根」の日常的状況と非イデオロギー化された常識という視点からみれば、西側のアヴァンギャルドを形式的に洗練したものだけではなく、社会主義リアリズムの美文調の運動、そしてシュプレマティスムの宇宙的精神性を表す図形も含めて、どれもが馬鹿馬鹿しい、異質なものに思えたことであろう。ソビエトというコンテクストにあっては、それらはすべて客観的な現実からは遊離した一種の地層として存在していたのだ。それらは叙事詩的な言語コードの中で実体のない「理念的な」生活を送っていたのだ。新しいアヴァンギャルドの作家たちはそれらを日々のコミュニケーションの言語として飼いならし、それらをオブジェとして具体化し、そして組み合わせたのである。社会主義リアリズムの高度な様式がヴィタリー・コマル(下図左・右)とアレクサンドル・メラミードが考え出したソッツ・アート(ソッツ=Sots;ロシア語の「社会主義」の短縮形)の流れの中で意識的に悪意をもって破壊されたと思いこむならばそれは間違いであろう。この芸術は、当時の世界の芸術のすべての流れの似たような、パロディ化されかつ実際的な複製品を生み出した。

 ソッツ・アートはこれらの流れをかき回し、そして日常的な心理というフィルターを用いてはそれらを沈渡させたのである。宣伝芸術様式の図像と常套句は、ドミトリー・プリゴフの詩では叙情的で告白的な調子を帯び、レオニード・ソーコフ(下図左・右)ボリス・オルロフ(下段の下図)の作品では奇妙なイデオロギー的、日常的なオブジェに姿を変え、卑近な経験を述べたてることへと発展していった。 ソッツ・アートの本質は、高級な「言語」と低級な「言語」を組み合わせ、また比較し、我々自身の根源を忘れるというニヒリスティックなパターンを避けながらソビエト文化全体の総合カタログ、そして辞書を初めて創り出すことにあった。

  

 「我々は社会主義リアリズムの子どもであり、アヴァンギャルドの孫である」コマルとメラミードはそう言った。地方の芸術信条のそのような小さなモデルはカバコフのスタンド、ロスチスラフ・レベジェフの箱、エリク・プラトフの絵を含む地下アヴァンギャルドのすべての作品の中に実際に見ることができる。

 これまでに引用したどの流派にも属することなく、彼らは、アヴァンギャルドの伝統からスターリン主義様式、そしてミニマリズム的、フォト・リアリズム的、あるいはコンセプチエアル的なものをも含めた西側のモダニズムに至るまで、あらゆる重要な芸術上の潮流に同時に言及することで、現代美術における自らの居場所をはっきりと言明しているのだ。したがって、それらの作品は何らかの古い、あるいは現存する伝統に参入することを示すのではなく、いかなる時定の芸術上の流派からも遠く離れていることを象徴しているのである。かくして、それらはその作家たちの本当の居場所を正確に我々に知らせているのである。彼らは、芸術の進展を観察しているスパイ、いかなる社会的に有益な労働にも携っていないスパイ、のようであり、結果として、文字通り社会からは望まれていない余計な芸術家になったのである。

川口幸也訳)