蔡国強

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■帰去来

逢坂恵理子

 蔡國強−「さいこっきょう」という名前をしばしば耳にするようになったのは1988年頃であろうか。彼の作品を最初に観たのは、1990年、福岡の街中を使った「ミュージアム・シティ・天神‘90」であったように思うが、その翌年、東京、四谷のart and environmentで開催された個展「原初火球一Project for Projects」の展示は忘れがたい。照明を落としたギャラリーに、まるで爆発後の中心から放射されるエネルギーの拡散を暗示するかのごとく、7枚の屏風仕立ての火薬ドローイングが、放射状に配置されている。スポットライトに照らしだされた火薬ドローイングは、ギャラリーの空間に漂う気を凝縮させ、かつ弛緩させる。宇宙の始まりのビッグ・バンを意味する中国語「原初火球」が示すように、火薬の爆発痕により表現された宇宙の生成と人間生命の胎動を暗示させる作品群は圧倒的であった。

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 蔡の生まれ故郷、福建省の古都、泉州は、彼が小学校の頃、海峡を隔てて大陸と台湾の戦闘の前線となつていた。「私たちの町では、通学の途中や授業中でさえたびたび警報が鳴り響き、その音がすると物影に身を隠したものです。空には大陸と台湾の戦闘機が飛び交い、それに地上からの砲撃が加わって、天上では白煙の筋が何本も入り乱れていました。まもなく文化大革命が起き、私は人間と文明、人間と人間との関係において残酷な専制時代のなかで成長しました。このことは、人間から人類、美術から文明にいたる私の基本的な認識における布石になったと思います」。中国四大発明の一つである火薬は、戦闘の武器や破壊に用いられてきたが、蔡は火薬の破壊力と暴力に宇宙的な視点から創造と美を加え、美術作品へと昇華させたのである。ng.011(原初火球−TheProJeCtforProjeCtS〉P3 art and environmentでの展示風景、1991年7枚の屏風は、外星人のためのプロジェクトよりNo.6《大脚印-ビッグ・フット》120、No.7《ベルリンの壁を再現する》(p.121,fig.31)、No.8《蜂火台を再燃する》(p.122,丘g.33)、No.9《胎動Ⅱ》の4点、人類のためのプロジェクトよりNo.2《ある一つの月蝕》、No3《月球・負ピラミッド》の2点、そして《時空模糊プロジェクト》の1点で構成されていた。

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 宇宙では爆発によって惑星や恒星が生まれ死んでゆく。爆発は生成でもあり消滅でもある。私たちの想像をはるかに超える壮大で混沌とした大宇宙と、人間という小宇宙との関係性を、可視、不可視の視点から探るこれらの火薬ドローイングは、展覧会のサブタイトループロジェクトのためのプロジェクトーが示しているように、各々が、蔡が今後展開しようとしているプロジェクトの構想図でもあった。「日本は“明治維新”後ずっと西洋化を追い続けてきました。彼らは西洋からどのように見られているかをとても気にしていました。私が当時日本で『外星人のためのプロジェクト』を始めた目的は、西洋、東洋にこだわるのではなく、宇宙や宇宙人の角度から人類を見たかったのです」。

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 蔡國強が紅虹夫人とともに来日したのは1986年12月であった。来日後、約9年を過ごした日本での日々は、蔡にとって、異文化の中で思索し、創作の構想を検証し実現・発展させた大いなる醸成期と言っても過言ではないだろう。当然のことながらその創作へのゆるぎない意志と実行力は、アーティスト本人に帰するが、蔡の稀有な作品とその思想に刺激を受けた日本人は少なくなかった。

 容易には慣れることができない異国にあって、日本語がおぼつかない初期から、蔡の人々を巻き込むコミュニケーション力と、真摯で柔軟な人柄にも魅了され、同世代を中心に多くの美術関係者や市民が、彼の滞在と創作を支援した。斬新な美術への支援が常にそうであるように、蔡の場合も公的支援よりも私的、草の根的な支援が先行した。そして、その支援の輪は、まるで導火線への着火後、瞬時に爆発する火薬のように、短期間で公立美術館での展覧会へと導いたのであった。

 蔡は来日前から火薬を使用した作品を創作している。しかし、来日直後は、中国と異なり規制の厳しい日本で火薬を入手する手掛かりを見いだせず、おもちやの花火を解体して得た少量の火薬で、制作を試みていたという。日本で火薬によるドローイングやプロジェクトを発展させることができたのは、1987年に出会った美術評論家の故・鷹見明彦と日本の花火師の理解と協力が大きかった。その成果は、前述したP3 art and environmentでの個展に結実し、1993年には芹沢高志を中心としたP3が推進役となり、屋外での壮大な計画《外星人のためのプロジェクトNo.10:万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト》を中国、嘉峪関(かよくかん)(ジァユイグァン)で実現している。

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 1994年から1995年は、彼の次なる転換期と言えるだろう。資生堂ギャラリー、京都市役所、いわき市立美術館、水戸芸術館、世田谷美術館、広島市現代美術館、東京都現代美術館、ワタリウム美術館のほか国内の画廊や海外で、展覧会やプロジェクトが相次いだ。1987年の東京での初めての個展以降、東京、いわき、取手に滞在しながら1995年に渡米するまで、展覧会やプロジェクトを推進する察のギアは加速を続け、彼は10年足らずで、その存在を日本の現代美術界はもとより、海外にも刻印することができたのである。

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 第46回ヴェネチア・ビエンナーレの関連企画「トランスカルチャー展」で、蔡は《マルコ・ポーロの忘れ物》を実現した。それは、多くの文物を西欧にもたらしたマルコ・ポーロが、持ち帰らなかったもの・天と人の秩序を示す東洋の宇宙観や生命観をヴェネチアに届けるというプロジェクトだった。海のシルクロードにおいて、泉州は東方の起点となる交易港として栄えた古い文化都市であり、マルコ・ポーロの『東方見聞録』にもその記述がある。蔡は、泉州から海のシルクロードを辿ってヴェネチアまで、古い木製のジャンク船を航行させ漢方を運びこんだ。展覧会場では心身を浄化させる漢方薬を用いた飲料が調合され、来場者は自分の身体の状態に合った飲料を買うことができる。会場で私はこの飲料を飲みながら、マルコ・ポーロと作家自身が時空を超えて連なるプロジェクトを、驚きをもって味わったのだった。

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 火薬、花火、風水、漢方、陰陽、生命、宇宙、エネルギー、気、摂理、時空の作品は、中国古来の文化や思想を援用しつつ、過去一現在【未来をつなぐ壮大な構想に裏付けられ、今まで私が出会ったいかなる作品とも異なる美と強度を兼ね備えたものであった。

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 ニューヨークを新たな活動拠点に定めた蔡は、この美術界において自身の作品に説得力をもたらすために、作品を生み出す理念、美的造形と構想、視覚的効果、社会的要素を注意深く再考した。「アメリカでは人々は国内外の社会で起こる問題にとても関心を持っています。政府も市民もそうです。それも私に影響を与えました。宇宙と自然の問題以外に、より多く社会と人類の運命の話題に関心を持つようになりました」。競争の激しいニューヨークの美術界において、西洋の文脈という大きなうねりに絡めとられることなく、絶妙な距離を保ちつつ、独創的な作品を提示し続けることは容易ではない。蔡は、西洋と東洋の対比という単純な構造を越え、融通無碍(ゆうずうむげ)ともいえる彼独自の視点を駆使して視覚的で劇的であり、多義的な社会的メッセージを含むインスタレーションへの関心を高めていった

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 2008年は蔡にとって更に大きな一歩を踏み出すビッグ・フットの年となった。大規模な回顧展「I Want to Believe」がグッゲンハイム美術館で開催され、現存作家の個展として、記録的な来場者数を誇ったのである。その後、この回顧展は北京中国美術館にも巡回した。北京オリンピックの開会式では、「大脚印」の構想を実現した蔡の花火《歴史の足跡》が打ち上げられ、全世界の約20億人の耳目を集めている。この《大脚印−ビッグ・フット》の構想は、1991年、前述のP3 art and environmentの個展において発表され、長い年月を経て実現した舞台が北京であったのは、極めて象徴的だ。長年にわたる蔡の活動そのものが、多様な境界を越えて往来するビッグ・フットと重なるからである。蔡は《大脚印−ビッグ・フット》について次のように述べている。「E.T.が国境を無視するように、われわれの内部に棲み、ときとしてその根源の力を現す超人類の意志も、国境線を無視する。地球上どこでも人類が共有する地平線がある。しかしこの地球の地平線を越えた向こうに、さらに人類が共同で目指すべきものがある。それは、われわれが速やかにやってきて、また帰ってゆくところ=すなわち『宇宙の地平線』である。『帰去来今』」。

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 2013年に開催されたオーストラリア、クイーンズランド州立美術館での個展「Falling Back to Earth」の中国語名は「帰去来今」である。展覧会の構想を練る現地調査でオーストラリアの自然に着目した蔡は、オアシスで水を飲む動物を配した大規模なインスタレーション《Heritage》(遺産)を制作し、動植物をめぐる環境破壊の緊急性を提示した。「アートが面白いのは、本物ではないんだけれども、どこかで本質の世界をみているように思えること。ですから想像力が必要です。社会問題などリアリティのあることをテーマにしていても、そこからちょっと距離があるほうが、アートの生き残る余地が出てきますね」

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 1995年に日本を離れてから20年を経た今年、横浜美術館で開催される本展のタイトル「帰去来」は、中国の詩人、陶淵明の代表作『帰去来辞(ききょらいのじ)』から引用されている。官職に就いていた陶淵明が、その職を辞して故郷に帰り田園に生きる静かな決意を謳ったこの詩は、自己の信念に従い、自然の運行に身をゆだねる自由と憂愁を表しており、自らの生き方に対する矜持が示されているといえよう。「蔡國強展:帰去来/Cai Guo−Qiang:There and Back Again」−この個展の和英タイトルは、中国の泉州から日本を経てニューヨークへ渡り、国際的な美術界で不動の地位を築いた蔡が、日本という故郷に再び還るという意味を示していると同時に、人間の自由な精神と良心への希求、そして大いなる自然との融和という本来あるべき人間の姿への原点回帰をも象徴している。かつて外星人の視点で作品を創作してきた蔡は、人類や自然、人間社会への関心を高めつつ、一方では孤独に耐えながら、自らのあるべき姿を模索し続けているようにも見える。

 今回、蔡は、横浜美術館のグランドギャラリーで8日間にわたり、学生や市民とともに、火薬爆発による作品制作に取り組む。「火薬の魅力は、常にコントロールできない部分があること」と語る蔡が、かつて火薬ドローイングを発展させた日本で、改めて挑戦するのは新しい火薬絵画である。帰り、去り、そしてまたやって来る「帰去来」とは、創造の出発点であった画家としての原点を渉猟する、蔡自身のタイムトラベルでもあるのだ

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 世界各地で対立や混迷を深める現代、地球に降り立った察が本展のために差し出すキーワードは、「しなやかさ」だ。人間、植物、動物をモチーフとした作品は、自然と人との調和や循環、輪廻、そして人間性への問いかけが表現され、私たちの想像力を刺激する、今までとは異なる察の世界観が示されるだろう。

(おおさかえりこ横浜美術館館長)