ピカソ天才の秘密

■ 初期ピカソの足跡

ローラン・ル・ボン(パリ国立ピカソ美術館館長)

ステファニー・モラン(パリ国立ピカソ美術館館長補佐)

 パリ国立ピカソ美術館館長補佐1973年、パブロ・ピカソが亡くなってから2か月後、アヴィニョン教皇庁で行われた彼の作品展は激しい非難を巻き起こした。そこに展示された絵画は「支離滅裂な落書き」であり、完全に才能が衰えた芸術家の姿を示すものだとも酷評された。ピカソが亡くなる前年に描いた《若い画家》は一種の自画像であるが、絵筆を大雑把になぞった感じのその画風は、最初期のデッサンとして知られる《ヘラクレス》(下図)とは全く違っていた。当時まだ9歳だったマラガ出身のピカソ少年は、描く対象の解剖学的実体がどんなものであるかを手探りしていたのだった。(1881年生まれ)

 要するに、「晩年のピカソ」に対する手厳しい評価は、彼の伝記作者や近親者たちによって広く流布された「早熟の天才」というイメージとは対照的であった

 初期の言式作から晩年の絵画に至るまで、全部でう万点以上もの作品を残したピカソは、20世紀最大の多産な芸術家であったと言える。彼の少年時代からの芸術生活を考慮するなら、ピカソがこれほど大量に作品を生んできた理由が理解できよう。多種多様なミディアムを駆使した彼の作品群は、いかなる分類にも当てはまらないほど複維であった。そしてそこには、絶え間ないフォルム探求と力業とが早くも見て取れる。また、ピカソが過去や同時代の大家たちに関心を持ち、種々のテクニックに好奇心を抱いていた事実は彼の後の作品の創造プロセスを読み解く際の手掛かりになる。

 ピカソは思春期以降、自分自身のイメージの重要性を意識するようになったらしく、とりわけ自画像などで自分を演出して楽しんだ。ジャウマ・サバルテス・上図などの友人たちや美術評論家らはピカソが「神童」だと喧伝した。その才能を見抜いた美術評論家らは彼の作品を世に知らしめるために一肌脱いだ。ピカソは1892年11歳にラ・コルーニヤの美術学校に入学し、次いでバルセロナの美術学校に移り、さらには短期間ながらマドリードの美術アカデミーにも籍を置いた。1899年18歳以降になると個性的なスタイルを開花させ1906年25歳には一旦絵画を描くのを止めて《アヴィニョンの娘たち》を準備する習作に専念した。すなわち、1892年から1906年までが、ピカソにとって美術修行の時期であったと考えられる。

 

 ピカソの美術的素質は早くから芽生えていたようである。母親の話によると、彼は言葉を話し出す前から絵を描いていて、最初に発した単語は、スぺイン語の「鉛筆(ラピス)」を意味する幼児語「ビス、ビス」であったという。現在知られる初期のデッサンとしては、8歳ごろに描いた《ピカドール》のような闘牛シーンや鳩を表現したものが中心だった。それから数十年後、ピカソは自分の早熟ぶりをおどけ半分に強調し、上述の《ヘラクレス》 (1890年)を例に挙げながら、「わたしは子供らしいデッサンを描いたことが、まったくない」と公言している」。ピカソは当初、父親のホセ・ルイス・ブラスコ・上図右から美術の手ほどきを受けた。ブラスコはマラガ派の伝統に則って描く風俗画家であったが、その学校では中心的な存在になることは一度もなかった。

 1891年10歳、この父親がラ・コルーニヤのダ・グアルダ美術学校で新たなポストを提示されたため、家族そろって当地に転居せざるを得なくなった。ピカソは同美術学校に入学し、デッサン、妄飾、人物素描、古代石膏像の模写などの授業を3年間受けた。この学校に通ったことによって、ピカソは初めてデッサンを学ぶここができた。ピカソにとってデッサンは、何を制作する場合ても役立つ実験手段として重要な役割を果たすようになる。

▶女性頭部石膏像のデッサン  1891年、ピカソの父ホセ・ルイス・ブラスコはスペイン北西部の大西洋に面した港湾都市ラ・コルーニヤのダ・グアルダ美術学校に職を得て、10月に地中海に面したマラガを一家で離れる。翌1892年9月にピカソは当地の美術学校に入学し、素描と装飾クラス、人体素描と古代彫刻の石膏模造素描のクラスで、画家になるための基礎的な技術を杓う年にわたって学んだ。1895年には父親がバルセロナの美術学校(通称ラ・リョツジャ)の教員になったために、再び一家で転之占居し、ピカソはこの年の9月にラ・リョッジャに入学した。

 ピカソの場合、一般的にいう石膏デッサンの類は30点ほどしか残されていない。《女性頭部石膏像のデッサン》と《男性頭部石膏像のデッサン》は、ラ・コルーニヤ時代の末からバルセロナ時代の初めにかけて、13歳から14歳の時期の作品である。前者では女性の顔を4分のう正面になる角度から描いており、この角度がピカソにとってこの像がもっとも魅力的に見えたのであろう。石膏像の形を正確かつ緻密に再現していることはもちろんのこと、背景は明暗をほとんどつけてはいないが石膏像が置かれている空間も十分感じられる。あごの下から左耳にかけての部分に典型的に見られるような、影の中の明るい部分も正確に再現されている。このデッサンに特徴的なのは、現実には存在しない輪郭線をかなりはっきりと引いていることである。また、頭髪や瞼、鼻頭には白のハイライトを加えている。

 当時、裸体写生や石膏模写を中心にして彼が残した数多くの習作は、その後のピカソの芸術において、人間の姿こそが中心的な位置を占めていくことを予知するものであった。その中の<石膏トルソの習作》を見ると、光と影の作用を巧みに利用した演出効果とその力強さに圧倒される。.また、少年時代のとカソが家族のために作成した絵入り新聞『ラ・コルーニヤエ′7ト′り′′テ′~』や『育と白カニ7′/1ノムん7〝r〃』は、彼が早くからユーモアと風言二のセンスを持っていたことをよく示している。

 1895年、ピカソの妹コンチータ(コンセプション)が亡くなった。このことはピカソの心に長く傷を残すことになる。彼女の死後まもなくして、父親ドン・ホセがバルセロナの美術学校に転勤になった。そのため、一家は大西洋沿岸の街ラ・コルーニヤからバルセロナに移住したが、夏の間はマラガで過ごした。

 ピカソは、彼の最初の「パトロン」である叔父サルバドールから与えられたアトリエで、伝統的な技法を駆使して複数の肖像画を描いた。そのうちの《裸足の少女》(1895年)や《ベレー帽の男》(同年)は、モデルの本質的な特徴を把握するピカソの能力を如実に示すものだ。イギリスの美術史家ジョン・リチャードソンはこの2作を、ピカソの最初の本格的な傑作であると評しているラ・コルーニヤのレアル通りのショーウインドーに展示されたこれらの絵を見た地元の新聞記者は、作品の成熟ぶりを力説して次のように述べた。

 

 「その仕上がり具合にはまことに思い切りのよさが現れている。まるで経験豊富なアーティストが絵筆をふるったかのようで、とても駆出し者の手になるものとは思えない」。

 バルセロナでは、美術学校ラ・リョッジャの入学試験に見事な成績で合格した。ピカソはほとんどの生徒より年が若かったがすぐにクラスに馴染み、カタルーニヤ人マヌエル・バリヤーレスと親しくなった。バリヤーレスは後に美術評論家ピエール・カバンヌのインタビューに答えて、若きアンダルシア人ピカソの「強い個性」を追想している。なるほど、1896年にピカソが描いた3つの自画像には本人の確固たる個性がにじみ出ている。彼はそれらの自画像の中で自分にさまざまな役どころを割り振り、しかつめらしい顔つきをしたり、かつらを被ったり、ばさばさの髪をしたりしている若者を表現した。

 アメリカ人写真家デイヴイッド・ダグラス・ダンカンは、ピカソのカンヌの別荘ラ・カリフオルニーで、顔に仮面を付けた本人の写真を複数撮っている。それらの写真が裏付けているように、ピカソの変装趣味は生涯続いた。そして、彼と親しく交際した人たちの誰もが印象付けられたピカソの強い視線は、既に初期の肖像写真にもはっきり見て取れる。

 

 その同じ年、ピカソは父親に勧められて、最初のアカデミズム絵画の大作《初聖体拝領》上図右を制作した。この絵はいささか型にはまった場面描写にもかかわらず、登場人物に対する作者の優れた観察眼が認められる。ピカソはその後もアカデミズム絵画の道を進んで、翌1897年に《科学と慈愛》(下図)を描いた0この《科学と慈愛3〉はマドリードの官展で選外佳作を受賞し、マラガの県展では金賞を獲得している。

 1897年9月16歳、ピカソはマドリードの王立サン・フエルナンド美術アカデミーに入学してこの街に居を定めた。しかしピカソは、上記のように自分の作品が好評価を得たにもかかわらず、これまで受けてきたアカデミックな美術教育から脱却して、流行のモダニズムの様式に適合して行きたいと考え始めた。彼はマドリード留学中にそうした思いを強め、ほどなくして学校の授業に出席しなくなった。この点に関して、ピカソは数年後、「芸術においては、父親殺しをしなければならないのですから」とジョン・リチャードソンに吐露している。 

 このように、ピカソは自分の過去の知識や実績をあらためて問い直すことができる能力を示した。だがその一方で、ピカソは美術の巨匠たちの作品研究を非常に重視し続けた。この点は、ピカソがプラド美術館やトレドに足繁く通った事実が証明している。彼はプラド美術館でベラスケスやゴヤを初めて鑑賞し、トレドではエル・グレコの絵画作品に感銘を受けたのだった。

 1898年17歳、ピカソは友人マヌエル・パリヤーレスの生まれ故郷オルタ・デ・エブロに滞在して自由な時間を過ごすなかで、美術学校から完全に離れる決心をした。実際、1899年18歳・三月にバルセロナに帰ってからは学生生活に終止符を打ち、「プロの画家としての生活」のスタートを切った。そして、居酒屋〈四匹の猫〉を溜り場にしていたカタルーニヤの「モデルニズム」のグループと付き合い始めた。この〈四匹の猫〉は、モンマルトルのキャバレー〈黒猫〉に着想を得たものである。

 地方趣味の興隆、米西戦争(1898年)17歳におけるスペインの敗北、社会的騒乱等のさまざまな動きが生じるなかで、ピカソは哲学者ニーチェ、作家ワイルド、詩人ヴュルレーヌ、作曲家ワーグナーなど、新たな芸術傾向や思想の混交に触れるようになった。当時の友人としては、複数の前衛雑誌に寄稿していた肖像画家ラモン・カザス、テネブリスム(明暗対比画法)的な気質で絵を描いていた画家サンティアゴ・ルシニョール、エル・グレコの再評価に尽力していた文筆家ミケル・ウトリーリョ、さらには、社会問題を告発する意味合いの強い作品を描いていた画家イジドラ・ヌネイなどがいた。

 こうした友人たちと交流するうちに、ピカソはアカデミックなイリュージョニズムを捨てて、曲がりくねった黒の太い輪郭のデッサンを描くようになった。そこには、自分が受けたさまざまな影響を自家薬籠中の物にしてしまうピカソの能力が既に現れている。その頃描かれた《臨終》などの諸作品は、スタンラン、トウールーズ=ロートレック、及びムンクを同時に彷彿とさせるだけでなく、引き伸ばすようなタッチからエル・グレコの影響も暗示している。

 1900年19歳2月、〈四匹の猫〉で開かれたピカソの初めての個展では《最期の瞬間》と並び、テレビン油で色付けして描いた仲間たちの肖像画も展示された。これらの肖像画は、ピカソの今後の創作プロセスを構成していく一連の仕事の始まりを告げるものであった。一方、バルセロナのボヘミアンたちとの交流も、ピカソにとっては新しいテクニックや諸活動に目を向けるきっかけになった。この結果、友人の版画家リカルト・カナルスに教わりながら版画制作に挑戦したり、画家イジドラ・ヌネイとともに風変わりな作画方法を実験したりした(擦り切れたような様相をデッサンに与えるため、デッサンをフライパンで揚げる「揚げ絵」の手法など)

ピカソの芸術中、最も評価の高い「青の時代」の最後、1904年23歳に制作された作品。友人の画家リカルド・カナルスから銅版画を学んだピカソは、新品の銅板が高価だったため、彫刻家・画家のジュリオ・ゴンザレスが既に使用した亜鉛板を用いて、本作品を含む18点 の版画を制作した。一連の作品に芸術性を見出した美術商ヴォラールは、1913年、15点の原版を買い取り(内1点は版の状態が悪く破棄)、メッキ加工を施し、『サルタンバンク』シリーズとして出版した。初め和紙で30部弱が刷られた「貧しき食事」は、後に250部限定でヴァン・ゲルダー紙に刷られた。

 ピカソはその傍ら、イラストレーターとしての仕事も進めていた。そのため、雑誌『ぺル・イ・プロマ』に参加したり、〈四匹の猫〉の店のメニューや、各種の広告ポスターを制作したりした。なお、この雑誌はフランス発のモダンアートに傾斜しつつも、カタルーニヤ地方の伝統的な作品も称揚するものであった。

 この頃、ピカソが出会った人々の中で特に注目されるのは、ジャウマ・サバルテスとカルラス・カザジュマスである。サバルテスはピカソの忠実な友となり、カザジュマスはその後2年間、ピカソがほとんど毎日会うほど近しい存在になった。

 万国博覧会のスぺイン館のために《最期の瞬間》が選ばれたことから、ピカソは1900年秋、カザジュマスと一緒にパリに行くことに決めた。光の街パリは、ピカソが「流行や他人の道と決別して」自分のスタイルを最終的に確立する場になっていく。そして、自分が署名する際には母親の姓しか記さないやり方が次第に主流になる。スペイン人画家ピカソは、パリの最新の芸術動向に関する基礎知識を身に付けるため、万国博覧会のフランス芸術館、ルーヴル美術館、リエクサンブール美術館、ラフイツト街の画廊などを見て回った。また、モンマルトルのボヘミアンたちを知り、「うす汚れたアルカディア」、の生活を送るなかで新しい画題のレパートリーを広げた。彼がパリ滞在中に描いたデッサンやパステル画は、コンサートカフェの光景や、路上で抱き合うカップルを描くものが多かった

 ピカソはさらに、ルノワールやトウールーズ=ロートレックが既に扱っていた《ムーラン・ド・ラ・ギャレツト》(上図)にも挑戦し、フランスのモダニズムの伝統において存在感を発揮した。この作品は画商ぺラ・マニヤツクを通じて売却された。マニヤツクは、複数の美術愛好家や画廊経営者ベルト・ヴェイユなどにピカソを紹介した。そしてヴェイユは、ピカソの初期作品の普及のために重要な役割を果たすこととなった。

   

 1901年1月、ピカソはマドリードに帰り、作家アシス・ソレルが主宰する雑誌『アルテ・ホベン(若い芸術)」のためにエネルギーを注いだ。同年翌月、彼はカザジェマスの自殺を知った。一人でパリに戻っていたカザジェマスは、ジェルメーヌとの恋愛関係が破綻したために自ら命を絶ったのだった。ピカソはこの知らせにショックを受けたものの、その影響は当面の数カ月間、彼の画作に現れることはなかった。この時期の彼は、<青い肩かけの女>(1902年)上図右・のような、社交界の人々を題材にした絵画やパステル画などを、点描法を特色とする陽気で色彩豊かなスタイルで描いていた。

 マドリードでの活動が期待外れに終わったため、美術商アンプロワーズ・ヴオラールの画廊で作品展を開くことになった折に、ピカソはパリに戻ることにした。その前に一旦バルセロナに立ち写って個展の準備に集中的に取り組み、一日に3作も制作してのけた。この努力が奏功して、同年6月、ヴオラールの画廊に60点もの作品を展示した。なお、ピカソの作品群の傍らには、バスク出身の画家フランシスコ・イトゥリーノの諸作品も展示された。

 この展覧会は批評家の受けが良かっただけでなく、展示作品の半分近くが売れるという商業的な成功も収めた。美術評論家ギュスターヴ・コキオは展覧会カタログの序文の中で、ピカソは、ボードレール風な「現代生活の画家」であると称揚した。また、批評家フェリシアン・ファギュは、若きアンダルシア人ピカソの力量と将来の可能性を見抜いた。ファギュは、ピカソが受けたさまざまな影響を分析するなかで、当人が依然として自分を探し続けていることを感じ取って次のように記した。

 「なるほど、ピカソは熱狂状態にあったために自分なりのスタイルを確立する余裕をなかなか持てなかった。彼の個性は今、若さゆえの抑えがたい自然発火とでも言うべき熱狂に包まれているのだ」

 このモダニズムの時期において、多岐にわたる影響を同化、消化、統合することを通じて、ピカソは芸術家としてのアイデンティティーを模索したのであった。

 パリに戻ったピカソはカザジェマスの元アトリエに落ち着いたが、この親友の死のテーマが現れ出たことで、1901年20歳8月に制作した絵画には変化が生じたフォルムや色彩の処理が一変したのだ。パリ国立ピカソ美術館所蔵の油彩画はその一例である。そこには、フアン・ゴッホから得た新たなインスピレーションが現れている。ピカソはそれを拠り所にして、ヴォラールの画廊展の人気作品で使っていた点描的タッチから脱却した。自らのあり方を問い直すことのできるピカソの能力があらためて示されたと言える。

 彼の作品は構成やテクニックを深く熟慮したアプローチを取ることによって、以前よりも内省的になっていった。《カザジェマスの埋葬(招魂)》(1901年)下図への初期の取り組みには大型構成への回帰が認められる。また、同じ年に制作した《自画像》上図左は、あたかも何かの宣言書(マニフェスト)の価値を持っているかのようだ。そこではピカソは、青一色の殺風景な背景の中で、わざと年寄じみた姿にした自分をボヘミアンの仲間として描いている。

 

 この青色は、〈詩人サバルテス〉や《湯桶(青い部屋)》上図右など秋に制作された他の諸作品でも広く使われている。すなわち、ピカソの作品全体を潤しながら創作そのものへの省察をうながす作画テーマが、ここに初めて登場してきたわけである。同じ時期、ピカソはサン・ラザールの女子刑務所を訪れている。そして、1902年21歳1月にバルセロナに帰ってからも、この刑務所で得たモデルやモチーフを引き続き活用した。《青い肩かけの女》はその成果の一つである。

 ピカソは、こうした作風転換が友人カザジュマスの死と関係していると認め、ピエール・デクスに対して、「僕はカザジェマスの死のことを考えながら青色で描き出したんだ」と説明している。しかしながら、美術評論家ギュスターヴ・コキオが初めてそう名付けたいわゆる「青の時代」は、ピカソの個人的な人生経験だけに起因するものではなかった。それは、ピカソがそれまでに受けてきた種々の美術的影響の新たな組み合わせと、絶え間のないスタイル上の変異の産物でもあった。とりわけエル・グレコ、ロダン、ゴーギャン、カタルーニヤの古代・中世美術の影響を受けたピカソは、バルセロナの美術宮殿で1902年秋に行われた展覧会で、それぞれに対するオマージュを捧げている。

 

 美術史家ジョン・リチャードソンは、ピカソの青の絵画群の中に彫刻表現の原初形態を見出している。それは《酒場の二人の女>(1902年)の背中に感じ取れるのであるが、実際、ピカソはこの同じ時期に彫刻作品をつくり始めた。他方、聖母マリアのエリザベト訪問を題材にした主作品《二人の姉妹》(1902年)は、宗教的含意のテーマに対するピカソの関心が復活したことを示している。ピカソは、自分が受けてきた美術教育の中に糧を求めることを厭わず構成や色彩に関する独自の研究に依拠しながら、その美術教育を新たに捉え直したのであった。彼の画業においては、異なるスタイル間でこうした往復が繰り返されることとなる

 1902年10月、ベルトヴュイユ画廊で開く展覧会のためにピカソはパリに戻った。そこに出品した最新の絵画作品は売れ行きこそ悪かったものの、ヴュルレーヌ、マラルメ、ゴーギャンと親しい批評家シャルル・モリスの関心を引くことができた。モリスはピカソを、デミウルゴス(造化の神)のような芸術家であると持ち上げて、次のように述べている。

「読み書きを習う前から絵を描いていたピカソは、自分の絵筆を使って森羅万象を表現する使命を受けたらしい。彼はまるで、世界を作り替えたいと望む若き神のようだ。だが、それは陰気な神なのだ」。

 ピカソは、前のパリ滞在中に知り合った詩人マックス・ジャコブと同居し始めたが、二人は貧乏生活を余儀なくされた。ジャコブは若きスぺイン人ピカソにフランス文化を伝える役割を果たすとともに、彼のフランス語を向上させる手伝いをした。また、ジャコブは神秘主義、手相占いタロットカードに関心があり、それがピカソの着想の糧ともなった。他方、ピカソはパンテオンを訪れ、フランス人画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの壁画に感銘を受けた。シャヴァンヌのスタイル・下図に典型的な冷たい色調とフリーズ構成は、ピカソの《海辺の母子像》や《スープ>(下図左右)などの諸作品にも見出せる。

 ピカソはバルセロナに帰ってから《人生》(1903年)の制作に没頭した。これは、彼がこれまで自らに取り込み変容させてきた芸術的影響を集大成する絵画であった。カザジュマスジェルメーヌとおぼしき人物が登場しているこのミステリアスな作品は、これまで色々な解釈の余地を与えてきた。強烈な演劇性を土台にしている同作に対して、ピカソは形而上学的な課題を際立たせるために自ら《人生》というタイトルを選んだ(ピカソが自作にタイトルを付けるのは珍しい)。それはあたかも、ヴォラールの画廊で目にしたゴーギャンの絵画《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか〉に対する一つの回答のようであった

 なお、この《人生》は、1900年に制作した《最期の瞬間》の上に描かれている。このことば、彼がしばしば同じキャンバスを再利用していた事実を示すとともに、その芸術的ビジョンが絶え間なく進化してきたことも物語っている。

 

 ピカソはこの作品を完成させた後、カタルーニヤ地方の社会的・経済的な緊迫状況を踏まえて、社会から排除された人々の絵を何枚も描いた。例えば《苦行者》や《年老いたギター弾き》では、衰えゆく肉体をマニエリスム的な手法で表現している。それらの諸作品においては青一色の色使いが極限まで追求されたが、ピカソは後に次第にそのやり方から離れていく。

 1904年23歳4月、ピカソは最終的にパリに留まることを決め、〈洗濯船〉と呼ばれたモンマルトルのアパートに居を定めた。同年、詩人アポリネールと知り合い密接な関係を築く。また、詩人アンドレ・サルモンやマックス・ジャコブと一緒に、メドラノ・サーカスに頻繁に通った。このメドラノ・サーカスの面白みを発見したり、街中を移動して回る芸術家たちに出会ったりしたことで、ピカソの絵には旅芸人やアルルカン(道化)など、これまでとは違った人々の姿が盛んに登場するようになる。

 サルタンバンク(旅回りのサーカス芸人)たちは世間からのけ者扱いされ、各地を彷復するが、それはある意味で当時のピカソにも当てはまった。このように、ピカソが自分に近いと感じられる画題を選択した事実は、本人の初期作品には自伝的な要素が強く現れていたことをあらためて示している。要するに、自分が住む地域社会や自分自身がその創作活動の中心に据えられたのだった。

 

 サルタンバンクの家族(上図左)を代表作とする諸作品は詩的なスタイルを特色としており、以前に比べて暖色を豊富に使うようになる。美術史家リチャードソンが指摘しているように、「バラ色の時代」は「アポリネールの時代」でもあった。詩集「アルコール」(1913年)の著者アポリネールは、ランボーのような新詩人たちをピカソに紹介しており、この頃のピカソの作品は文学との結び付きが顕著に認められる。例えば、軽業師や音楽師の各種素描はアポリネールの「雲の幻影」の詩句を想起さて,<パイプを持つ少年》(1905年)上図右は、ヴェルレーヌのある詩と相通ずるものがあった。「画家の中の詩人、詩人の中の画家」というサバルテスのフレーズは、文学の力の源泉に対するピカソの強い関心を簡潔に表現している。

 1905年24歳の特記事項としては、ピカソを取り巻く芸術サークルの輪が広がったことである。彼は、モンパルナスのカフェ〈クロズリー・デ・リラ〉で催された雑誌「詩と散文」のパーティーで、美術評論家モーリス・レイナル、画商アンリ=ピエール・ロシュ、小説家アルフレツド・ジャリ、及びアメリカ人美術収集家スタイン兄妹(レオとガートルード)などに会った。ピカソは自分をマティスに引き合わせ、作品も買い始めてくれたスタイン兄妹との関係を強めた。

 1905年25歳夏のオランダ滞在はピカソの絵に変化をもたらした。彼はジャーナリストのトム・シルペルートに誘われてスコールルを訪れた。そこで会った女性モデルたちがみな大柄だったことから、ピカソは《美しいオランダ娘》に見られるように堂々たる体形の女性像を描いた。パリに帰ってから制作した《扇子を持つ女》(下図)などの作品には、オランダ旅行中にスケッチした厳かな人物像の雰囲気が依然として残っている。

 

 同年秋に制作した絵画に《アルルカンの死》というタイトルが付けられたことは示唆に富んでいる。というもの、ピカソはこの作品をもって、サルタンバンクの描写を数カ月間休止し、叙情的な絵を描くことをストップしたからである。

 「野獣たちの檻」が物議を醸したその年のサロン・ドートンヌは、若きスペイン人画家ピカソにとっては一つの啓示であった。彼はそこでアングル回顧展を鑑賞し、《トルコ風呂》(1863年)の作者アングルから、輪郭を注意深く描く手法を学んだ。その成果は、《水飼い場》のようなアルカディアをテーマとする絵画作品の中にうかがえる。1906年25歳夏、ゴゾル滞在中に制作した諸作品は、ピカソが受けた新たな芸術的影響を活かすきっかけこなった。この結果、三次元的に捉えられた人間の姿が単純化又はデフォルメされ、特に静物画では空間に対する考察が重要視されることとなる。

 

 ピレネー山脈にある小村ゴゾルでは、三年近く前からの恋人フエルナンド・オリヴィェと一緒に数カ月間バカンスを過ごした。この時から、ピカソの人生の伴侶となる女性は、彼にとって芸術上のミューズの役割を持ち始めるフェルナンドがギリシア彫刻のような美貌を持っていたためピカソは新たな肉体の描き方を試みた。〈赤い背景の裸婦〉や《手を組む裸婦》はその典型例である。ピカソはこうして、古典主義的な作風からアルカイスム的スタイルへと移っていく。

 

 1906年25歳夏の終わりにパリに戻ったピカソは、前年冬に描き始めていた〈ガートルード・スタインの肖像上図左を完成させた。ガートルードの顔をのっぺりとした仮面のように描いたピカソは、現実をイリュージョニスティックに再現するよりも、見かけを超えた絵画を制作するほうを重要視したのだった。この点、ガートルード自身は、「それは常に〈私〉であり続けるような、〈私〉の唯一の複製なのです」と肯定的に述べている。

 アンダルシア地方のオスーナやセロ・デ・ロス・サントスで発見された彫刻が、1906年初頭、ルーヴル美術館で展示された。ピカソにとっては、そこで見たイベリア彫刻がプリミティヴイズムの様式を発展させる最初の拠り所になる。かくのごとき美学上の衝撃を受けたピカソは塑像制作を再開し、ゴーギャンの作品を所有している。

ピカソは自分が進み始めた新たな道に自信を持っていた。その点は、《パレットを持つ自画像》上図右(1906年)に表れている。ピカソはこの絵の中で、自分自身をもはやボヘミアンの仲間としてではなく、自己の仕事と苦闘している者として描いて、芸術的成熟を証明してみせたのであった。

 果たして、ピカソは自分の若き日の創作をどう思っていたのだろうか。ピカソがそのうちのどの作品を生涯手元に置き続けたのかを見れば、当時の作画に対する彼の考え方が分かるはずである。

 バルセロナのピカソ美術館は青春時代の作品の所蔵総数では群を抜いている。一方、パリ国立ピカソ美術館のコレクションはいわば「ピカソの中のピカソ」の作品を集めている。このコレクションは、1979年ピカソの遺族がフランス国家に寄贈した作品がベースとなっている。こちらのほうを調べてみて分かったのは、ピカソ本人としては、自分の創作全体の発展にとって有意義な作品を選んで保存することが多かったということである。

     

 すなわち《ベレー帽の男(1895年)、《裸足の少女》(同年)、《カザジェマスの死》(1901年)、《自画像》(同年)、《狂人》(1905年)、ゴゾルの森》、《男の肖像(1902-1903年)、《裸の少年》(1906年)の諸作品は、ピカソの目には単なる思い出を超えて、自身の画業の展開にとって枢要な地位を占めていたと思われる。なお、《男の肖像》と《裸の少年》の三点は、今回の展覧会「ピカソ、天才の秘密」に出品されている

 ピカソの「青の時代」は、後に「感傷以外の何ものでもない」と考えられるようになる。パリ国立ピカソ美術館では、この「青の時代」の作品をほとんど所蔵していない代わりに、《アヴィニョンの娘たち》26歳(1907年)の制作準備のための素描やノート類のほとんど全部を保管している。それらは、「モダンアートの最初の絵画」である《アヴィニョンの娘たち〉の端緒としての価値を持っているのだ。この点を自ら十分意識していたピカソは、当該の素描とノート頸を注意深く取りまとめていたのであった。

 さて、我がパリ国立ピカソ美術館としては、《男の肖像》と《裸の少年》の2点を貸し出すことにより、この度の展覧会「ピカソ、天才の秘密」に参加できることを喜ばしく思う次第である。愛知県美術館とあべのノ、ルカス美術館で開催される当展は、過去に行われた次の二つの海外展覧会の趣旨を受け継ぐものである。

 日本においては1964年、東京国立近代美術館や愛知県文化会館美術館(現在の愛知県美術館)などで、大規模な回顧展が開催された。これは、ニューヨーク近代美術館初代館長アルブレッド・H・バー・ジュニアと、美術評論家ダニエル=アンリ・カーンワイラーの企画によるものであった。あれから半世紀の時を経た今回の展覧会は、1996年以来日本で7回実施されてきたパリ国立ピカソ美術館の館外展を踏まえて、ピカソの諸作品を日本の人々により一層知っていただくことを目指している。