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教養としての戦争と医療と法 #9 普仏戦争(1870-1871年) (リターン)

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イベント詳細

昨年の年末に開催予定でしたが、講師体調不良につき延期になった振替開催となります。『教養としての戦争と法と医療』は毎月最終火曜の19時より開催している会です。今回は臨時開催で、金曜となっています。毎月恒例の勉強会「教養としての戦争と法と医療」。今回のテーマは、アジアから欧州に舞台を変えまして、ヨーロッパ近代史の転換点の一つである「普仏戦争(1870年~1871年)」です。この戦争は、ドイツ統一とフランスの第三共和政の成立を促し、ヨーロッパの政治・軍事バランスを大きく変えました。戦争の背景から戦後の国際秩序、さらに医療や法制度の変化まで、多角的に考察し、皆様と共に学びを深めていきたいと思います。

 

【テーマ】 普仏戦争:ドイツ統一とフランス変革、そしてヨーロッパ秩序の再編成

【勉強会内容】

☆普仏戦争に至るまでのフランスとプロイセンの状況
19世紀後半、プロイセンはビスマルク首相の主導で、ドイツ諸邦の統一を進めていました。プロイセンはすでに1866年の普墺戦争に勝利し、オーストリアの影響力を排除することでドイツ北部を掌握していました。一方、フランスのナポレオン3世は国内の不満や政治的課題を抱えており、プロイセンの台頭を脅威と見ていました。この背景には、フランスがヨーロッパの主導権を保つためにドイツ統一を阻止しようとする思惑と、ビスマルクの巧妙な外交戦略がありました。

☆スペイン王位継承問題とエムス電報事件:開戦の引き金
普仏戦争の引き金となったのは、スペイン王位継承問題でした。スペイン王位候補にプロイセン王族のホーエンツォレルン家のレオポルト王子が推されると、フランスはプロイセンによるヨーロッパでの影響力強化を懸念しました。ナポレオン3世は王子の辞退を求めますが、これを機にビスマルクはエムス電報事件を利用してフランスを挑発し、戦争へと導きました。外交とメディア操作が戦争を引き起こす一因となった経緯について考察します。

☆普仏戦争の経緯とドイツ統一への道
普仏戦争は、プロイセン軍の優れた戦略とフランス軍の予想外の敗北により、短期間で決着がつきました。ビスマルクのもとで軍事的優位を保ったプロイセンは、フランスの重要拠点であるセダンで決定的勝利を収め、ナポレオン3世が捕虜となったことでフランス第二帝政が崩壊します。戦争終結後、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言され、ドイツは統一国家として新たな時代を迎えました。

☆フランスの政体変化:第三共和政と国民の意識変革
ナポレオン3世の捕虜と帝政の崩壊により、フランスは共和政に移行しました。これにより「第三共和政」が成立し、国家の主権と民主主義を柱とする新たな政体が確立されます。フランス国内では、戦争による敗北が国家意識の再編や社会的改革を促し、近代フランスの政治的基盤が形成されました。普仏戦争がフランスの政治や国民意識にどのような変革をもたらしたかについて掘り下げます。

 

【法律に関する重要なトピックス】

☆ドイツ帝国憲法の制定:新国家体制の法的基盤の整備
普仏戦争後、ドイツ帝国の成立に伴い、プロイセン主導で帝国憲法が制定されました。この憲法により、ドイツは連邦国家としての体制を整え、各邦がある程度の自治権を持つ一方、プロイセンが圧倒的な影響力を有する構造が確立されました。また、ビスマルクは強力な中央集権体制を築き、皇帝と首相が主導権を握る統治体制を確立。
この憲法はドイツの政治体制の基礎となり、国家主権と中央集権化の新たなモデルをヨーロッパに提示しました。
日本帝国憲法の見本にもなっています。

☆フランスの第三共和政と共和制憲法の形成
普仏戦争での敗北とナポレオン3世の捕虜によって、フランスは帝政から共和制へ移行し、第三共和政が樹立されました。新しい共和制憲法は、フランス国民の意志を反映し、議会制民主主義を重視する政治制度を基盤としました。共和制憲法の制定により、フランスは国家主権のあり方を再定義し、立法府と行政府の役割分担を明確化しました。
これは後のフランス政治の安定と、民主主義の発展に大きく寄与しました。

☆ドイツにおける軍事法の整備と治安維持体制の強化
ドイツ帝国成立後、ビスマルク政権は軍事法を整備し、強固な軍事国家の基盤を築きました。戦争中に発揮したプロイセン軍の組織力を維持・発展させるため、徴兵制を含む軍事関連の法体系が整備され、軍隊の統制がさらに強化されました。この軍事法の体系は、戦争と平時の治安維持において軍が重要な役割を果たす体制を確立させ、国家の治安と防衛の法的枠組みを強化するものとなりました。

☆普仏戦争と国際法の発展:捕虜の取り扱いと戦争責任の概念
普仏戦争では、ナポレオン3世が捕虜となったことが象徴的に、捕虜の取り扱いや戦争責任について国際法の基盤が問われました。戦争を通じて、捕虜の人権保護や戦時中の民間人保護の概念が強調されるようになり、これが後にハーグ条約などに引き継がれていきます。国際法における人道的な規範の確立に向けた礎となり、戦争法(国際人道法)の発展を後押しした重要な出来事です。

 

【医療に関する重要なトピックス】

☆フランスの治安法と公衆衛生法の導入
普仏戦争後、フランスでは、国内の安定と公衆衛生の強化を目指して治安法や公衆衛生法が整備されました。戦争による都市部の疲弊や、兵士や市民の間で蔓延した感染症が公衆衛生の必要性を再認識させ、国家主導で感染症対策や都市衛生の改善が行われました。これにより、フランス国内の衛生環境が向上し、近代的な公共衛生システムの基盤が整いました。

☆戦時における赤十字の活動と人道支援の拡大
普仏戦争は、赤十字社が大規模な人道支援活動を展開した初の戦争となりました。赤十字社の活動は戦場の負傷兵や病人に対して迅速かつ組織的な救護を提供し、国際的な人道支援の重要性が広く認識されるきっかけとなりました。これを契機に、各国で赤十字が組織化され、戦時医療と人道支援の体制が整えられるようになり、現代の国際的な医療支援の基盤が築かれました。

☆看護体制の確立と近代看護の発展
多くの負傷兵が発生した普仏戦争では、看護の重要性が再認識され、看護師の役割が組織的に整えられるようになりました。特にフランスでは、ナイチンゲールの影響を受けた看護体制が導入され、看護師が医療従事者としての地位を確立しました。近代看護の重要性が強調されたこの戦争は、のちの看護制度発展の基礎を築き、医療現場での看護師の役割を確立させました。

☆戦時救急医療の進展と救護システムの構築
普仏戦争では、戦闘で負傷した兵士のために、迅速な救急医療と移送が求められました。戦場での治療を効率的に行うため、救護システムが導入され、負傷兵を後方の病院に運ぶ搬送体制が整えられました。この救護システムは、現代の戦時医療体制や救急医療の基礎となり、のちに多くの国が参考にする体制へと発展しました。

☆伝染病対策と公衆衛生の重要性の再認識
普仏戦争中、戦地や都市部では不衛生な環境からコレラや赤痢などの感染症が広がりました。これを受けて、伝染病の予防や衛生環境の改善が必要不可欠とされ、戦後のフランスでは都市の衛生状況を改善するための公衆衛生法が整備されました。この戦争が公衆衛生の強化に与えた影響は大きく、以後の衛生政策や病院設備の改善につながりました。

☆外科手術技術の向上と戦場での麻酔の導入
普仏戦争中には多くの外科手術が行われ、特に四肢の切断術が戦場での治療法として広く使用されました。
外科手術の技術が向上し、麻酔の導入も進んだことから、負傷兵に対する手術がより安全に行われるようになりました。これにより、戦場での外科手術が一般化し、現代外科医療の発展にも影響を与えました。

【こんな方におすすめ】

ヨーロッパ近代史や国際関係に興味のある方
国家主義やナショナリズムが戦争と法制度に与えた影響に関心がある方
戦時医療の発展や近代看護制度に関心がある方
公衆衛生の歴史的発展について理解を深めたい方

【参加することで得られるメリット】

普仏戦争を通じて、ヨーロッパの国家形成や国際秩序の変遷についての知見を得られます。
戦争が医療や看護制度、公衆衛生の発展に与えた影響を学ぶことで、現代の医療システムや公共衛生の起源について理解が深まります。
法制度や国家主権に関する歴史的な変化を知り、近代国家の枠組み形成について学べます。

【過去開催分の案内】
1)三十年戦争   (1618年~1648年) ウェストファリア条約   勢力均衡その1
6)アメリカ独立戦争(1775年~1783年) 世界で初めての植民地の独立! 人権意識が現実に
2)フランス革命  (1789年~1795年) スペイン継承戦争なども  民主共和制の萌芽
3)ナポレオン戦争 (1796年 – 1815年) ウィーン体制の構築まで  勢力均衡その2
4)イタリア統一戦争(1815年 – 1871年) 赤十字社の発足の直接の原因 民主共和の定着
5)クリミア戦争  (1853年 – 1856年) 現代看護の樹立へ ナイチンゲール無双
7)アメリカ南北戦争(1861年~1865年) 世界に波及したアメリカ最大の内戦 
8)アヘン戦争(1839-1842年、1856-1860年)