異族の眼・山下菊二の1960年代

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有川幾夫

■山下菊二は1950年代後半から鳥を飼うようになった。

 まだ独身時代の1955年36歳頃、かつて東宝撮影所で先輩だった彫刻家武田謙之助の発案で、カナリヤを飼って殖やし、その収入で制作に専念しようというわけである。そこで、3年計画で500羽に殖やしアメリカに輸出しようと企てて雛を仕入れた。しかし独身の山下は、仕事のときにはアトリエを閉め切って外出するし、独立プロでの撮影用のセット作りの仕事自体も大変で、飼育はなかなか思い通りにならない。やがて寄生虫が発生してカナリヤは次々に死んでしまい、もくろみは結局失敗した。

 しかしそれまで手をかけたカナリヤがいなくなって「なんだか羽毛が抜けたように気ぬけ」していた山下は、今度は利殖とは関係なくカラスを飼う。彼はその頃、鉄道沿線の野立看板や、駅前のパノラマ看板を描くアルバイトをしていた。パノラマ看板というのは、上の方がその地域の都市計画の完了想像図で、下が広告入りの道案内図になったものである。山下は亀戸駅前のパノラマ看板に従事したとき、知り合った区画整理事務所の人に誘われて、千葉県の国府台でカラスの幼鳥を採ってきた。名前は古代ギリシャの平和の神であるというカデュースと付けた。カラスの「カ」で始まる名を辞書で探して「平和のシンボルだし、ちょっとロマンチックな物語にでも出て来そうなので」決めたという。彼はこの幼鳥に1、2時間おきに餌をやって育てていたが、アンデパンダン展へ出品する作品の制作で徹夜した翌日の昼、うっかり眠ってしまい、その間に餌が切れたカデュースは助からなかった。このときの死骸を描いたのが≪幼いカラスの死(カデュースー世)≫(1956年)で、1960年代に数多く描かれた鳥に因(ちな)む作品の先がけになっている

 山下菊二は1958年39歳、友人の高山良策や白波瀬福光の紹介で知り合った小池昌子結婚した。結婚にあたって山下は、「鳥が好きで係累のない人(家族のいない ・ 身内のいない)」がいいと言っていたそうだが、昌子夫人も鳥を愛する人だった。夫妻はその後もオナガ、キジバト、タカ、フクロウ、コミミズクなどを飼った。猛禽類も含むこれらの鳥たちは、家の中で放し飼いにされたので、むしろ飼ったというより、多くの人がしばしば書いているように、鳥たちと共に生活したといってもよいくらいだった。

 ところで山下は1960年41歳には妻を伴い、故郷の徳島県井川町辻に帰省した。このとき山下が辻で撮った多くの写真が残っている。部屋の中に差し込む光で明暗を際立たせた母の姿など、写真の効果を意識したものが見られる中に、家の近くの風景に混ざって、ただの板塀だけを撮った写真がある。カメラは下から構えられていて、塀の上にむかって遠近が誇張され、風化して浮き出た木目は斜めの光によって陰影を強調されている。このような板塀の一部を山下は東京に持ち帰って制作に用いた。自宅に飼う鳥たちが増えるにつれて、一緒に旅行することもままならなかった夫妻がそろって徳島に赴いたのはこの時かぎりであったが、この時の帰省は山下にとって、自分が生まれ育った風土をあらためて意識する機会になったのかもしれない。

 1961年42歳には友人の中山正との2人展を銀座の文芸春秋画廊で開いている。山下はここに油彩画のほかリトグラフを出品した。彼は1959年頃40歳から中山にリトグラフを教わるようになり、リトグラフの機械も買っている。この2人展はふたつの点で興味深い。ひとつは技法上のことで、リトグラフには積極的にフロッタージュ(こすり出し)が試みられている。浮き上がった木目と、風化による細かい亀裂が縦横に入り組んだ摺曲(しゅうきょく・まがりくねったさま)は、郷里から持ち帰った板からこすり出したのかもしれない。ほかにも燻製になった魚の表皮を思わせる縮緬状の皺や、布地の縁のレースをこすり出したものなどが見られる。

 もうひとつの興味深いのはそれらの作品に付けられた題名である。≪祀り人のない墓にもの云いかけるな(たたられる)≫(前図あり)とか、≪女鐘の下にたてば、まがさす≫(前図)《梁の真下で寝ると襲はれる≫(下図)などの題名は『阿波は辻の風土誌』という本から採られた郷里のことわざで、ここにも郷里の風土への関心が現われている。

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 1962年の6月12日から同22日まで、山下の初めての個展が開かれた。これは新橋画廊の「第7回新鋭作家シリーズ」として開催されたもので、美術批評家針生一郎の企画による。この展覧会には、郷里から持ち帰った板片に描いた≪4人のパイロット≫下図左をはじめ≪羽毛の外≫(下図右)≪光と目≫(下図左)、≪落下する眼球≫≪鳥の中の顔(G)≫(下図右)などが出品され、前年の2人展のリトグラフで見られた風化した板片の木目や亀裂のような形状、眼球状のモチーフが油彩画にも展開された。

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 1963年には羽仁進の映画『彼女と彼』に主演しているこの映画で山下は、盲目の少女と犬と一緒に暮らすバタヤを演じた。この映画の出演にあたって羽仁に山下を紹介したのは、かつて山下が文化工作隊の一員として小河内に行かされたときに一緒になった土本典昭で、彼はこの映画の助監督をつとめた。役者としては全くの素人であったが山下の演技は好評で、翌年のベルリン国際映画祭では主演男優賞の有力候補にあげられている。しかしこの映画の撮影中に、山下は発声や走行に異状をきたしたことがあったという。これはやがて彼を襲う脊髄性進行性筋萎縮症の兆候だった。

羽仁進が監督した­3作目『彼女と彼』
新興マンモス団地(百合丘団地)とそこに隣接する貧民窟との対立を背景に、都会生活の­孤独と行方を失った愛情、砂がさらさらこぼれるような希薄な人間関係の深部を描いた問­題作。前衛画家山下菊二の名演技が光る傑作。(1963年劇場公開)
★ベルリン国際映画祭特別賞受賞 ★キネマ旬報ベストテン7位
脚本は羽仁進と演出家でもある清水邦夫が共同で担当。主演:左幸子、岡田英二、山下菊­二 他

 1964年45歳ころ山下は針生一郎らの「日本画研究会」に参加した。画壇では異端的な日本画家たちと山下はここで交わり、特に中村正義と親しくなった。1924年生まれで山下より5歳年少の中村は、1960年に日展審査員になるなど早くから期待されたが、1961年には日展を脱退し、その封建性を激しく批判する。人人は1970年代には壇的な秩序を否定する仇会の中心的な存在になり、親交は1977年に中村が亡くなるまで続いた。

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 1964年8月、山下には最もよき理解者であった兄の谷口重美が、翌年7月には母サワヱが亡くなった。1966年47歳に制作された<死んだ人が私を産んでくれた≫(上図)はその母を追善する作品で、画面に「貞行院傾徳妙善大姉に捧ぐ昭和41年1月山下菊二」と善かれている。また1969年50歳には「弔い展〈故谷口重美・山下菊二〉」を開いたが、これは長い闘病生活の最後に「展覧会を開きたかった」というの言葉を残した兄への弔いとして企画された。山下はここに、兄が終戦直後に近所の人たちのもとめに応じて制作した花札の版木や、注文によって描いたと思われる兵士らの肖像画を自分(菊二)が改作した《取りに来られなかった肖像画A≫(出品番号No.95)などを出品している。115

■山下菊二の1960年代前半の作品の特徴として、鳥のモチーフが目立つようになったことと、郷土にかかわる風土的ないし土俗的な要素が強まったことをあげることができる

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 鳥に因んだ作品は1950年代にも≪幼いカラスの死(カデュースー世)≫や≪黒いクチバシ≫(1959年・上図)などがあるが、1962年43歳の個展には≪羽毛の外≫、≪4人のパイロット≫のほかグアッシュによる19点の連作≪鳥の中の顔≫が出品された。現在は所在の明らかでない《4人のパイロット≫は、彼が郷里から持ち帰った古い塀の板片に描かれた。上半分は板のまま絵具を塗られずに残され、そこに眼球のような節穴があいている。下の方は板の木目や亀裂、あるいは風化した岩石の摂理のような組成が、節穴と呼応するような眼球を持った鳥たちの横顔となり、一部は人間の横顔のようにも見える。鳥と人間の複合した像はその後もたびたび見られるもので、≪鳥の中の顔≫のシリーズにも著しいが、このグアッシュのシリーズではわざと油の染みた紙を使って、偶然の効果からイメージを生成させていることも注目される。

 鳥に因んだ作品は、作品の中の烏の(あるいは鳥とおぼしき)姿や題名からそうと判るが、風土的な要素のほうは少し複雑である。それはまず『阿波は辻の風土誌』からとられた作品の題名として、1961年の中山正との2人展にあらわれている。《祀り人のない墓にもの云いかけるな(たたられる)≫、≪女鐘の下にたてば、まがさす≫、≪梁の真下で寝ると襲われる≫など土地の習俗や禁忌に根ざした口承は、それらが伝えられてきた共同体の存在を意識させずにはおかない。またその後の作品では祭(≪少年祭に走る〉1964年45歳、《見られぬ祭》1965年46歳・下図)や神社(く守護神がいる》1965年)などもやはり共同体と結びつくものだろう。

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 それはまた祭祀とかかわり≪まつられる≫(1964年)、<祀られる戦士〉(1967年・下図左)のような作品につながっている。もちろんそのことは死者や霊魂とも関係があり、代表的な作品として<死霊とともに≫(1962年・下図右)や<死んだ人がわたしを産んでくれた(1966年・前図)をあげることができる。

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沼の入口》1963年

 山下と風土の関係でもうひとつ注目したいのは沼のモチーフである。『山下菊二画集』で題名に「沼」のつく最初の作品は、1963年の3人展(池田龍雄・中村宏・山下菊二)に出品した≪沼の入口≫(挿図)である。この作品について山下は「封建的な社会の因習を一つの風景に形象化した。〈沼〉は子供にとっておどろしいものであった」といっている。また作品集『くずれる沼・画家山下菊二の世界』の中で山下はこう書いている。(言うことを聞かずに家を追い出されると)「ふだんは薄気味悪くてあまり寄りつかない川向うの馬ん渕に不思議と足が向かっていくのでした。その沼には、動くたびに一日七回も水の色を変える主が住んでいるといわれていました。その沼の一角にそそり立っている大きな岩のうえに腰をおろして、こわごわ水面を覗きこんでいると、怖ろしい主が現われて、わたしを水の中に引っばりこんでゆくのではないかと居たたまれないほど恐怖心にかられましたが、もうどこにも行くあてはないのだと心を決めると、もう不安というよりは、これから繰りひろげられるだろう沼の主たちとの不思議な世界の住人になっているのでした」≪沼の入口≫も《くずれる沼≫も今は残っていないのが残念だが、沼にまつわる作品(《沼の語らい≫1964年)を、母を偲ぶ作品(≪死んだ人がわたしを産んでくれた≫前図)に改作したことも「沼」が山下にとって特別なモチーフだったことをうかがわせる。

 もちろん1960年代の作品が1950年代の作品と必ずしも断絶しているわけではない。≪あけぼの村物語≫を特徴づけていた土俗性は、郷里の口承や祭祀にかかわる作品や「沼」の作品に、また動物への仮託は烏を描いた作品へと連続しているといってもよいかもしれない。しかし、1950年代の作品が、前衛運動との関係や、寓意性によってある意味ではわかりやすいというか位置付けしやすいのに対して、1960年代前半の作品は、主題においても様式においても抽象性を増し、より個人的で内面的になった。

 たとえば≪あけぼの村物語≫と≪死霊とともに≫を比べてみよう。≪あけぼの村物語≫ではイメージがモンタージュされ、物語の全容は直ちにはつかみにくいが、個々のモチーフが特にわかりにくいわけではない。空間の繋がりはありのままではないし、子供が犬の姿をしているのも現実のことではないが、それにもかかわらず個々の描写は「赤犬の姿をした子ども」とか「血の池」とかの言葉にできるような具体性がある。画家はそこに縄が必要なら絶の形を描くし、着物には着物の色や柄を描く。同じように物語もまたすでに存在する具体的な社会事件から出発している。

 いっぽう≪死霊とともに≫では、たしかに左の方に人像らしいものが立っている。そのそばには鳥が見える。上のほうから顔を出すのは妖怪か何かのようだ。ここには先に触れた死者や霊魂にまつわる風土性、そして鳥のモチーフがある。しかしそれらは具体的に描かれた各部分の集積として描かれているわけではない。画面の一部を取りだしてみてもそれが何であるかは判りにくいだろう。作品全体も具体的な物語を構成しているとは思われない。≪あけぼの村物語≫がすでに存在する事物と事件を、いいかえると外部にあるものを手がかりにしているのに対して、≪死霊とともに≫では絵具による襲や渦巻や斑点から形が姿をあらわし、さらにそれらが物語めいた空間を出現させているのだが、実際には≪あけぽの村物語≫のような具体的なエピソードの集積にはなってはいない。画家は物語から出発するのではなくて、描くことの混沌から出発して、物語の内部へと錘(おもり)を下ろしているかのようだ。

 ≪死霊とともに≫は1962年2月の第15回日本アンデパンダン展に出品された。前年5月には中山正との2人展が、1962年6月には最初の個展が開かれている。だからこの作品は、前後する2人展や個展に見られたフロッタージュの効果、グアッシュやリトグラフで試みられさらに油彩画にも展開された木目や亀裂のような摺曲や縮緬状の敏に直接繋がっている。また山下は鳥との生活からも表現への契機を引き出したかもしれない。彼は、家の中で放し飼いにしている鷹のレディ・マクベスが糞をするときには「お尻を斜め上方に向けて、水鉄砲でも撃つようにビュッと飛ばしかけるものですから、襖や絵などにかかって垂れさがる、その線の美しいこと消しがたい思いしばしばでした。絵の中のそこここに今も残っています」と書いている。≪死霊とともに≫がそれにあたるというのではないが、画面右上や左下のような斑状の絵具のムラと似た効果は、山下のアトリエの写真の中や、あるいは実際に動物園で見つけることができる。しかし山下は決して偶然性や物質性のみに長く依存したのではなかった。

■1967年の第2回「戦争展」

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(日本画廊)に出品された≪祀られる戦士≫(上図)≪死霊とともに≫と比べると、モチーフはずいぶん明瞭になって再び物語が像を結びかけているように思われる。石化したよ

うな異形の顔貌が割れた(?)鉄兜を被り、その下には鳥がいて、さらに下の方には腹腔のようなものや乳房状のもの、歯の並んだ口腔などが見える。銃口を突き付けられた盛装の軍人は、馬上にいるのだろうか。その帽子の中や銃の下には眼球が描かれている。しかしこれを再び≪あけぼの村物語≫と比べると、画面の左右のトンボと蝶(註8)以外は細部の具体性が希薄で、暗示される物語が具体的なエピソードで構成されているとは思えない点でなお《死霊とともに≫に近い。

 しかし《死霊とともに≫との違いも明らかである。多分たいていの人はここに戦争のイメージを感じるに違いない。山下は戦争を外部のエピソードとして物語るのではなく、つまり戦地のできごとや戦闘場面を描くのでなしに、自分の内なるイメージとして示すために、1960年代前半の作品を経なければならなかった。さまざまな習俗や禁忌の充満する共同体から、霊魂や妖怪の気配にみちた沼地から、そして、襞や皺や渦巻や亀裂で充填された描くことの混沌から彼の戦争のイメージは立ち上がってきたのである。

 ところで、山下の1960年代前半の特徴として先にあげた、烏のモチーフと、風土的な要素はどのような関係があるのだろうか。山下と鳥の関係はすでに触れたように、ペットと飼い主という図式を超えていた。たとえどれほど愛玩していようと、人間でないものと人間との間には曖昧ではあっても境界となる一線がある。われわれの日常生活では、室内を烏が飛び交い、そこここに鳥の糞が落ちているような空間は通常は排除されるか、または徹底的に管理されなければならないものだ。そしてこのような排除や管理はとりわけ戦後の都市空間において著しく進められたちょうど山下が主演した映画『彼女と彼』で、バタヤの集落と緊張をはらんで隣接していた新しい団地のように。

 人間とそうでないものの曖昧な境は、生者と死者の境にも似ている。柳田国男の「先祖の話」などによると、「古来日本人の死後観はかくのごとく、千数百年の仏教の薫染にもかかわらず、死ねば魂は山に登って行くという感じ方が意識の底に潜まっているらしい」という。死者と生者は別の世界にいるけれども、死者の霊魂は近しい自然にとどまって盆などには生者の生活する場所に戻ってくる。柳田のいう霊魂の行くえは山であるが、山下の描いた沼地にも霊魂の気配は濃厚である。すでに触れたように≪死んだ人が私を産んでくれた≫は≪沼の語らい≫に描き重ねられたものである。また、彼の作品にはしばしば経文の一部が転用されているが、1963年に池田龍雄、中村宏と開いた3人展に出品された≪沼の入口≫は≪またぐ≫や≪顔の中の顔≫とともにその早い例である。特に今は所在のわからない≪沼の入口≫からも、彼が沼地を共同体的な死後観とともに意識していたことがうかがわれる。

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 烏も死者たちも私たちの日常生活と境を接した異界の住人である。山下菊二は鳥たちと住まい、幼年の時のように沼地に立っている。彼は私たちの生活世界の境界をまたぎ、異界に住まう異族の眼で戦争と戦後を見つめた希有の画家である山下が獲得した異族の眼とは、土俗的な共同体に深く根差しながら、戦場での体験によって刻みこまれた共同体との異和を意識化することでありそれは1970年代にはコラージュの手法を多用しながら、天皇制や差別の問題を捉えていくことになる。(宮城県美術館学芸員)