海野弘【美術評論家]
■グラフィック・デザインの革命
ロシア・アヴァンギャルドは、埋もれていた、モダン・アートの未知の部分である。二十世紀をトランプ・ゲームにたとえれば、それは最後まで伏せられていたカードなのだ。ロシア・アヴァンギャルドが今なお、新鮮なおどろきを私たちに与え、魅力的であるのも、そのせいであるかもしれない。
そのアーティストたちは激しく、またはかなく生きた。そのことが胸をゆさぶる。封印されていた扉が開かれ、それは二十一世紀への贈物として、私たちにさし出されている。
〈ロシア・アヴァンギャルド〉といわれるのは、1910、20年代のロシアの前衛的な芸術運動のことである。もちろんそれは、立体派、未来派、ダダシュルレアリスムといった世界的なモダン・アートの流れに属している。しかしちがっているのは、1917年のロシア革命の大いなる渦にぶつかり、それと運命を共にしたことである。欧米のモダン・アートは変化しつつも、連続的な流れを持ったが、ロシア・アヴァンギャルドは、ぷつりと断絶し、埋もれてしまった。
このように、芸術の革命が、社会的、政治的革命にちょうどぶつかってしまったことは、二十世紀では例を見ない。アーティストはスタジオからいきなり街頭にほうり出されてしまったのである。それは芸術の危機であったが、しかし思いがけない機会でもあった。既成の権威はおびやかされたが、若い、失うもののないアーティストには、新しい可能性が開かれたのである。社会革命は、旧体制の重圧をあっさりと吹きとばしてしまった。ロシア・アヴァンギャルドは革命を歓迎した。
ロシア・アヴァンギャルドの遺産で、私たちが最も楽しめるのは、グラフィック・デザインの分野である。そのことも、以上のような状況と関係がある。第1次世界大戦の中で傾きつつあったロシア帝国は、革命によってあっけなく倒れた。しかし内乱はつづいたから、生産は停止し、物資は欠乏し、人々は飢えた。そのような悲惨の中でアーティストも活動しなければならなかった。建築や工芸のデザインの多くも、プランの段階に終わり、多くは実現しなかった。ロトチエンコのデザインした家具なども、実用化には、なかなか至らなかった。
一方、個人的な絵画や彫刻などの作品も、ブルジョアのコレクターがいなくなったので、制作が衰えた。その結果、費用や材料があまりかからず、また社会的にも必要とされたポスターやパンフレットなどのグラフィック・デザインが大きな分野となった。演劇やパフォーマンスも盛んであったが、残念なことに、私たちに残されていない。
もちろん、グラフィック・デザインが花咲いたのは、物理的条件だけが理由ではない。一部の人だけでなく、すべての大衆ヘアートを、という、ハイ・アートとロウ・アートの区別を壊そうとする考え、また、アートを、現実を動かす表現とし、ことばとイメージの境界をとりはらう考えが〈デザイン〉と結びついていた。アートはすべての人々に呼びかけ、世界を変えていく、とロシア・アヴァンギャルドは思ったのである。
ロシア・アヴァンギャルドは、ロシア革命によって世界が変えられることを知った。彼らは世界を変える夢を見た。その夢が〈デザイン〉なのである。〈デザイン〉は夢の、ユートピアの設計図であった。アーティストはもはや、世界を写すのではなく、構成していくのだ。〈構成主義〉がロシア・アヴァンギャルドのキーワードとなる。〈構成〉は芸術世界から現実世界へと洗出し、〈建設〉となっていくのである。
ロシア・アヴァンギャルドは、1925年のパリ装飾博覧会(いわゆるアール・デコ博)ではじめて本格的に紹介され、世界に大きなおどろきを与える。かつて1909年、ロシアは、ディアギレフのバレエ・リエス(ロシア・バレエ団)によってパリを驚嘆させたが、再びロシアは脚光を浴びたのである。
しかし皮肉なことに、ちょうどその時、ロシア・アヴァンギャルドヘの反動が強くなってくる。批判はその新しい〈デザイン〉に向けられる。その〈デザイン〉は、世界を変えようという夢であったはずだが、非現実的であり、形式にすぎない、とされるのである。
革命の初期の自由な精神は失われ、保守化、全体主義化がはじまる。スターリンの独裁が確立され、〈社会主義リアリズム〉という公式で唯一のスタイルが強制され、ロシア・アヴァンギャルドは夢を閉じる。次の三十年間、それは封印され、ロシアはモダン・アートとの接触を絶ってしまう。1960年代から少しづつ、ロシア・アヴァンギャルドは私たちの目に触れるようになった。その豊かな芸術がひそかに守りつづけられていたことがとてもうれしい。
そして今、私たちは、ロシア・アヴァンギャルドの宝庫をあける。こんなにもデザイナーが大胆に、楽しげに世界に向かったことがあっただろうか。
■ロシア・アヴァンギャルドの歴史
1917年まで、ロシアは皇帝が専制的な権力を撞っていた封建的な帝国であった。そのため、近代化の進む西ヨーロッパから著しくおくれていた。しかしそれでも近代化の波をまったく遮ることはできず、いくつかの新しい動きがはじまっていた。1892年、パーヴェル・トレチャコフは、長い間にわたって集めてきたロシアの美術のコレクションをモスクワ市に寄附した。公共の美術館の基礎が置かれる。鉄道によって大きな富を築いたサッヴァ・マーモントフは、モスクワ郊外のアブラムツェヴォに芸術家村をつくった。また、テニシェヴァ皇女は、スモレンスクの近くのタラシキノに芸術家村をつくり、ロシアのフォーク・アートの復興を計画した。
この二つの芸術家村はロシアのアーツ・アンド・クラフツ運動ということができる。つまり、かなりおくれていても、やはりロシアでも、モダン・アートヘの胎動がはじまっていたのである。西欧の新しい美術の刺激、ロシアのフォーク・アートの復活という二つの要素が、やがてロシアのモダン・アートを誕生させる。ロシア文化の中心となったのは、モスクワとペテルブルク(ペテルスブルク)という二つの都市であるが、モスクワはロシアのフォーク・アートの極に近く、ペテルブルクは西欧の極に近かった。
ペテルブルクではセルゲイ・ディアギレフが〈芸術世界〉グループを結成し、1898年、雑誌「芸術世界』を創刊した。レオン・バクスト、アレクサンドル・ベヌアなどの画家が、ロシアのアール・ヌーヴオー・スタイルを展開した。
やがてディアギレフは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を組織し、1909年、パリに登場する。ニジンスキーやカルサーヴイナなどのバレエ・ダンサー、バクスト、ベヌアなどの舞台デザインが西欧に衝撃を与えた。それはちょうど生まれつつあったキュビスム、フォーヴィスムなどのモダン・アートと響き合っていたのである。
ロシア帝国はすでに崩壊しつつあった。1904年にはじまった日露戦争でロシアは大敗し、1905年、ペテルブルクで改革を求めるデモ隊を軍隊が発砲して多くの人を殺した。この「血の日曜日」事件をきっかけに、ロシアの帝制は解体してゆく。そして帝国の呪縛から解放され、ロシア・アヴァンギャルドが育ちはじめる。
ロシア・アヴァンギャルドの一つのはじまりは1910年とされている。この年、ペテルブルクでミハイル・マチューシンを中心に「青年同盟」が結成された。世紀末的、アール・ヌーヴォー的、象徴主義的な傾向からの分離を目標としている。
この時期のロシアでは、ネオプリミティヴイズムと未来派の傾向が目立った。モスクワでは、ギレアというクボ・フトゥーリズム(立体未来派)のグループがつくられ、詩人と画家が集まった。ここにはやがて、ヴェリミール・フレーブニコフ、ウラジーミル・マヤコフスキーなどが参加してくる。
1910年12月、ミハイル・ラリオノフは、モスクワで「ダイヤのジャック」展を組織した。クレーズ、メッツァンジェ、ル・フォーコニエというパリの画家、カンディンスキーやヤウレンスキーなどミュンヘンで活動する画家、ロシアで活動する画家(ラリオノフ、ゴンチャロワ、レントウロフ、コンチャロフスキー)が出品した。しかし、ラリオノフ、ゴンチャロワなどのロシア派とコンチャロフスキー、レントウロブなどのフランス派に分裂した。
ラリオノフは1912年、モスクワで「ロバの尻尾」展を開いた。ラリオノフ、ゴンチャロワにマレーヴィチとタトリンが加わっている。ロシア・アヴァンギャルドが勢ぞろいした最初の展覧会といわれている。
タトリンの出品作の多くは衣装デザインで、ロシアのイコン(聖像画)にヒントを待た、遠近法を無視した表現であった。1913年にパリに出かけたタトリンはピカソに会い、キュビスムに目を開かれ、コラージュの手法を学び、平面からレリーフに向かう。
1914年、第1次世界大戦がはじまった。1915年、「五番線」展がベトログラード(ペテルブルク)で開かれた。年末には、「0,10」展があった。これは最後の未来派絵画展といわれた。アヴァンギャルドの中心は、ラリオノフ、ゴンチャロワ、そして、未来派から、マレーヴィチとタトリンヘと移りつつあった。マレーヴィチは形而学上的観念派を、タトリンは唯物派を代表していた。マレーヴィチのシュプレマティスムとタトリンのカウンター・レリーフ(立体的構成)が対立していた。1916年、モスクワで「マガジン」(店)展が開かれた。ここにはロトチエンコが登場している。
1917年、ヤクーロフ、タトリン、ロトチエンコは、カフェ・ピトレスクのインテリアをデザインした。ロシアはドイツに大敗し、帝国は傾き、革命がはじまった。
「1914年から1917年の革命直後までの時期は、まさしくロシアにおけるアヴァンギャルド運動の全盛期である」とステファニー・バロンは書いている(「ロシア・アヴァンギャルドー西側からの一考察」、ステファニー・バロン、モーリス・タックマン編『ロシア・アヴァンギャルド1910−1930』五十殿利治訳、リブロポート、1982)。
大戦のために、西欧にいたロシアのアーティストの多くが帰国し、ロシアにいたアーティストと一緒に活動した。シャガール、プーニ、アリトマン、リシツキー、カンディンスキーなどがもどってきた。ロシアは西欧から切り離され、その密室の中で、大いなる実験が行われた。国内は混乱し、無政府状態にあったから、芸術も既成の砕から解き放たれ、無限の自由を感じていた。
その中でマレーヴィチのシュプレマティスムとタトリンの構成主義が中心となってきた。マレーヴィチは、抽象的、精神的、絶対的な形を求めた。彼のアートは、物質より精神、国家より個人を上に置くもので、本来、実用性を排するはずなのに、面白いことに、ロシア革命が起きた時、まっさきに積極的な活動をするのはマレーヴィチであり、シュプレマティスムのパターンはデザインに応用される。彼は純粋な抽象美術へ向かうが、そのパターンは実用化されるというアイロニカルな関係は、抽象美術とデザインについて再考すべきことを語っている。
タトリンはカウンター・レリーフなどの構成作品で、三次元の、現実的事物による空間構成を行った。その〈構成〉は、〈デザイン〉といいかえてもいいほど現実世界への働きかけを含んでいたから、世界の変革を目指すロシア革命に結びついた。構成主義は革命期のデザインの主流となる。
シュプレマティスムと構成主義は、〈デザイン〉の二つの極と見ていいかもしれない。純粋形態と実用性の間を揺れ動くのである。1914−17年という過度期に、シュプレマティスムと構成主義によって行われた実験が、ロシア革命のデザインを準備したのであった。
アヴァンギャルドは革命を歓迎した。マレーヴィチのような個人的な芸術家でさえ、そうであった。1917年8月、マレーヴィチは、モスクワ市ソヴェトの芸術部の部長に選ばれ、「良き社会」のために闘うと宣言している。まず、最初のモスクワ人民アカデミーが計画される。
1918年、アナトーリ・ルナチャルスキーがナルコンプロス(教育人民委員会)をつくり、その美術部(イゾー)にマレーヴィチやタトリンが入った。モスクワの美術アカデミー(ストロガノフ美術学校)はスヴォマス(国立自由工房)になり、マレーヴイチはここで教えた。マヤコフスキーの革命劇『ミステリア・ブッフ』はメイエルホリドが演出し、マレーヴイチがコスチュームと舞台装置のデザインをして上演された。
1919年、マレーヴィチは、シャガールにヴィテブスクの美術学校に招かれた。ヴィテブスクはスモンスクの少し西である。彼はすぐに若いグループを集め、シャガールを追って校長となった。彼らはウノヴィス(新芸術派)と称した。そこにはリシツキー、チャスニク、スエチン、エルモラーエワらがいた。ウノヴィスのモスクワ支部にはクスタフ・クルツイスがいた。1922年、マレーヴィチはベトログラードにもどり、新しい美術アカデミーの教授となり、ギンフク(国立芸術文化研究所)に入り、1923年から26年まで所長であった。
1919年から、マレーヴィチは絵画を離れ、デザインや建築などの領域に向かっている。あくまで宇宙的なリズムを求めるといった神秘主義的な世界観を貫きながら、生産主義が強かった20年代を生きたことは見事である。1927年、マレーヴィチはベルリンに行き、バウハウスを訪れる。彼の思想はバウハウス叢書『非対象世界』にまとめられる。
20年代未、彼は再び絵画にもどる。その軌跡は、20年代のロシア・アヴァンギャルドが、マレーヴィチのような純粋美術を志向する人をも〈デザイン〉の世界に引き込んだことを示している。おそらく、短い間ではあるが、装飾と物質、幻想と現実、現在と未来の境界がなくなり、夢見ることと現実化がつながっているように感じられたのだろう。
1917年の革命以後、ロシア・アヴァンギャルドは文化の最前線に立ち、現実の変革(デザイン)に参加していくが、その流れはいくつかの時代に区分される。それをここで示しておこう。まず1917年から20年までで、革命直後の混乱期である。革命はモスクワやぺトログラードでは成功したが、地方ではまだ内乱がつづいている。新しいものを建設する段階どころではない。生産は復活していない。なによりも必要なのは、革命のニュースを全国の人々に伝えることだ。プロパガンダのためのポスター、チラシ、宣伝のために全国をまわる列車や船が必要である。強いアピールを原色や大文字で示すビラがおびただしく描かれる。
突然ロシアは、宣伝アートの巨大な実験場となった。紙のポスターだけでなく、街中の壁や建物、乗物など、いたるところにスローガンが書きなぐられ、色を塗りたくられた。アートはストリートヘと流出したのであった。
それらのストリート・アーティストたちのほとんどは無名で、アマチュアであったろう。アートはギャラリーやアカデミーから解放されたのであった。材料や場所は、手当たりしだい、ありあわせですませた。手法も、ロシアの民衆版画から、キュビスム、未来派の表現までが使われた。
あらゆるスタイルが混在した、デザインの無政府状態ともいえる革命直後のアートは、ほとんど失われてしまった。ごく断片的な資料しか残っていない。作品の質などが問題にされる時期ではなかった。動く革命宣伝塔として、横腹にスローガンを描かれたアギート(宣伝)列車やアギート船のぼんやりした写真があるだけだ。
新しいロシアが、自らの文化の方向をさぐる余裕を持つのは、1919年ごろからである。1919年8月27日、レーニンは映画産業を国有化した。ソ連映画が誕生する。それまで、映画館主は、革命にサボタージュを行い、プロデューサーたちは西欧に亡命して、映画産業はほとんど中断していた。
1919年には国立出版所(ゴシズダート)が設立された。映画、出版などのマス・メディアをソ連政府がようやく把握しはじめていたのである。イゾー(教育人民委員会美術部)は、タトリンに第三インター記念塔のデザインを依頼した。革命が成功し、永続的なものになったことを記念するゆとりが出てきた。
〈構成主義〉のことばが出てくるのもこの年であり、リシツキーは「プロウン」シリーズをはじめる。1920年にはモスクワにインフク(芸術文化研究所)が設立され、カンディンスキーが所長となった。しかしすぐに意見の衝突があり、彼はインフクを去った。スヴォマス(国立自由工房)はヴフテマス(国立高等芸術技術研究所)となり、多くの新しいデザイナーがここで育った。ソ連のバウハウスといえるだろう。
このように、1919、1920年に、ロシアは混乱期を脱し、新しい文化のための組織をつくりはじめていた。詩人マヤコフスキーは1919年、ロスタ通信社のために「ロスタの窓」をつくりはじめる。ロシア・アヴァンギャルドのグラフィック・デザインの一つの出発点である。
1921年まで「ロスタの窓」はつづけられた。1921年からソヴェト・ロシアは新しい時代に入る。それは、1928年までつづく、アヴァンギャルド・デザインのピークの時代といえる。1921年から28年までは、細かくいえば、1925年で二つに分けられる。この年にパリ装飾博覧会が開かれ、ロシア・アヴァンギャルドははじめて本格的に国際舞台に出て、人々をおどろかせる。
1921年、ソ連は経済再建のために、ネップ(新経済政策)を採用する。すべてを国有化、共有化しようとする共産主義からすると、一時的妥協、後退ともいえるが、一部の私有、私企業を認めるものであった。市場経済を認めたので、生産は活発化し、経済は回復する。
農民が余剰農産物を市場に出すのを認められたこと、ウクライナ、ラトヴィア、リトアニア、ベラルーシなどの共和国が乱立したことは、新しいロシア文化に多様な要素をもたらした。アヴァンギャルドのアーティストにも地方出身者が目立つようになる。
経済の復興とともに文化活動も盛んになる。デザインは紙上にとどまらず、ようやく実際に製作されるものとなる。モスクワでは「5×5=25」展が開かれた。ロトチエンコ、ステパノワ、ヴェースニン、ポポーワ、エクステルの五人がそれぞれ五点の作品を出した。五人のうち三人の女性アーティストが入っていることが注目される。
この時期、〈構成〉ということばがキーワードとなり、構成主義がアヴァンギャルドの主流となる。〈構成〉については後でまた触れる。ネップ時代に構成主義が盛んだったことは、〈構成〉が現実的な生産や建設との関係で使われることが多かったのを示している。アーティストは、純粋アートの世界に閉じこもるのではなく、社会に出て活動することが求められた。1921−28年のロシア・アヴァンギャルド・デザインは、あまりに多くの分野にわたっていて、のべきれない(海野弘『ロシア・アヴァンギャルドのデザイン』新曜社を参照してほしい)。ここでは、代表的なデザイナーを何人か紹介しておきたい。まず欠かせないのは、アレクサンドル・ロトチエンコである。
ロトチエンコは1891年、ペテルブルクで生まれたが、モスクワの東のカザンで育った。カザンの美術学校で学び、ワルワーラ・ステパノワと一緒で、後に結婚している。1914年、モスクワに出て、アヴァンギャルドのグループに入り、タトリン、ポポーワ、マレーヴィチと出会った。1916年、モスクワの店舗だった建物で開かれた「マガジン」展に、タトリンの誘いで、未来派風のコラージュを出品した。1917年には、タトリン、ヤクーロフと、「カフェ・ピトレスク」のインテリアをデザインした。
ロシア革命1917年がはじまると、タトリンとともにそれを歓迎し、協力した。1918年、イゾー(教育人民委員会美術部)に入り、芸術生産部で、ロザノワらと活動した。この頃は、タトリンのような三次元の構成作品、シュプレマティスム風の「黒の上の黒」といった抽象絵画など、両極にまたがる作品を制作している。 彼はアレクセイ・ガン、ステパノワとともに、1921年、「構成主義者の第一労働グループ」を結成した。〈構成〉を重視し、〈労働〉と結びつけた最初のグループであった。1920年につくらえたヴフテマス(国立高等芸術技術研究所)で「構成基礎コース」を担当し、1930年、ヴフテマスが閉じられるまでつづけた。美術と工芸を結びつけたアート・デザイン・スクールであった。
そして1923年、マヤコフスキーとの協力によるすばらしいグラフィック・デザインが生み出される。その拠点となったのは、オシップ・ブリークとマヤコフスキーが1923年に発刊した雑誌『レフ』(左翼芸術戦線)であった。ここにはアヴァンギャルドのグループが集まった。ロトチエンコ、ステパノワ、アントン・ラヴィンスキー、映像作家ジガ・ヴェルトフ、セルゲイ・エイゼンシュティンなどである。1925年まで発行され、1927、28年には、マヤコフスキーとセルゲイ・トレチャコフによって『ノーヴィ・レフ』が出された。
ロトチエンコは『レフ』の表紙にフォトモンタージュを使い、マヤコフスキーの自伝『プロ・エー卜』の表紙もデザインした。またマヤコフスキーは、1923−24年に、モスクワの百貨店「モッセルプロム」や国立印刷所「モスポリグラフ」、「ゴシズダート」などや、ビスケット、ビール、タバコ、文具などの国営企業のために数百枚のポスターをプロデュースした。彼がコピーを書き、ロトチエンコ、ステパノワ、アントン・ラヴインスキー、A・レヴィンなどのアーティストがデザインした。