多くの収穫があったグレーからパリに戻り、留学の最後の年になった1893(明治26)年27歳に、黒田は等身大の裸体画の制作をはじめた。それが、惜しくも先の大戦で焼失してしまった《朝放》(上図)である。この作品は、黒田自身「卒業試験の様な心持にて」(養父宛書簡、同年4月29日附)描きはじめたもので、同時に日本に持ち帰って、日本人の裸体画に対する偏見を打破しようとする意図もあったとされている。完成した作品は、1890年に創設されたSociet占National des Beaux−Artsという公募の展覧会に見事に入選し、これを確認したうえで黒田は、アメリカ経由で帰国したのだった。