魔術の美学1917-1927
■魔術の美学1917年−1927年
1916年から1919年までの数年は、若きデペロの変貌の時期にあたる。デイアギレフとの出会い(1916)、Fナイチンゲールの歌』の舞台装置と衣装の仕事、そして短期間ではあったが意義深かった『バラード』の衣装でのピカソとの共同制作、ジルベール・クラヴェルとの親交(1916)、カプリ島滞在と「造形バレエ」の実現(1917−18)、ローマ未来派との頻繁な交流。これらは彼の芸術の未来派的性格を決定する重要なエピソードとなった。
実際、こうした交流や親交により文化的に刺激されたデペロは、1916年末から翌17年の最初の数カ月に、抽象芸術を追求する方向をきっぱりと諦め、絵画でも、また演劇の仕事でも、きわめて独創的な新しい図像を求めるようになった。それらは魔術的一機械的一寓話的な要素や調子によって特徴づけることができる(*1)。とはいえ、彼がそれまで手掛けていたアナロジー的抽象による造形的総合の実験と、1917年から1926年までの問に顕著になる幻想的な登場人物や空想的な風景の寓話一形而上学的な変貌とは、一本の糸でしっかりと結ばれているのである。
抽象的表現から魔術的美学に属する新しい図像表現への転換は、1917年から18年の最初の数カ月に描かれた一群の作品に表れている。一連の(ジルベール・クラヴェルのポートレート》や小説『自殺協会』のための挿絵、(ショー・ウインドーの中の女》(cat.no.019)と題された水彩画や《マリネッティのダブル・ポートレート》(cat.no.017)がそうであり、これらに見られる構成原理はまだ立体一未来派のそれであるとはいえ、驚異と幻想の探検という性格をすでに含んでいる。
これらの作品は、いまだ立体一未来派的な造形的解体に影響されているとはいえ、遠近法的な構成には強い二次元性が与えられているために、前景がはっきりした平面としてこちらに迫ってくる。それは色彩による精神状況の表現に対するデペロの興味を物語るものである。
今やデペロは人物を構成するのに円錐、立方体、円筒形といった基本的な幾何学的形態を用いるようになった。それらから成る集合体では、遠近法的な奥行きではなく、むしろ互いに接近させ、重ね合わせることに重点が置かれている。以前の抽象的作品の中で追求されてきた運動は、もはや形態の静止状態を妨げる役割しか持たず、かつてのように空間の中で加速や爆発を引き起こすことはなくなった。それは生命のように絶え間なく続く鼓動を内部に与えてはいるが、絵画空間におけるヴォリュームの安定性は少しも損なわれていないのである。そして未来派の掲げた形態のダイナミックな解体と「視覚の同時性」がこ現実の時間を越えた形而上的な空間66を作りだす重要な道具となった。
その最も代表的な例が一連の《ジルベール・クラヴェルのポートレート》である。1917年から翌18年にかけて制作されたこれらの作品は、構図の点でも、また色彩の点でも抜群の効果を上げている。これらのポートレートにおいて、遠近法的表現はユーグ」ツド幾何学の尺度によってではなく、精神の諸状態によって決定される。この精神の諸状態こそが、現実空間の模倣的再現という古典的遠近法の持つ象徴的意味を、まさしく超現実的で形而上的な方向へと変換することができるのである。
画面に表された構築物は、擬似現実の場を提供し、錯綜した遠近法による空間の遊戯によって、四次元への戸口が開かれる。それは二重の空間だといってよいだろう。構築物の作るあり得ない遠近法やそれに起因する疎外感、理解不能な影は、これらの作品において初めて登場するのであり、デペロのこの形而上学的な時期の特徴をよく示している。
一方〈踊り手たちの力学》(cat.no.028)、《バレリーナとオウムの回転》(cat.no.018)などの作品は、彼の「魔術の美学」の時代の幕開けを告げている。これらの作品では、空間と人物が少しずつ離れて行き、個々に重要な要素となるのに対し、形態の解体という立体一夫来派的な興味はしだいに弱まり、それらは背景における面の集合体という装飾的要素に押しとどめられることとなった。直前まで模索されていた現実と精神状態のアナロジーとしての抽象的形態は、ここでは幻想的な機械人形の姿を取り、それが自然の中に見られるいかなるものとも似ていないだけに、いっそう反現実的なものとして自己主張するのである。
上記2作品と関連するものとして、《大きな人形の行進》(cat.no.054)、《空想的な騎士の行進》《セッラーダ》(cat.no.053)がある。これら「布地の絵画」には、造形演劇におけるデペロの経験や、民衆世界の豊かな空想的イメージと東洋のフォークロアから得たイメージをヒントに生み出された、新しいテーマの発見が生かされている。ちなみに東洋のフォークロアについては、ロシア・バレエ上演のためにデイアギレフとともに活動していたロシアの芸術家たちとの、ローマでの交流が一役買っている。
このような点で、1916年から1917年にかけてデイアギレフと出会った経験は重要な意味を持つ。デペロは『ナイチンゲールの歌』の舞台背景と衣装を準備するために寓話とその魔術的諸要素の分析に取り組んだが、実際そこから地中海的な色彩とユーモアによって描かれた空想的登場人物からなる彼の完全に独創的な様式が生まれ、1917年から1926年の間に制作された絵画を織り上げて行くのである(*2)。
このデイアギレフとの出会いから、Fナイチンゲールの歌』のための舞台裏置と35点の可動式造形衣装の制作の話が持ち上がった。よく知られたアンデルセンの童話をもとに、ストラヴィンスキーが音楽を付けたこのバレエは、1917年の春から夏にかけてパリで上演されることになっていたのである。 テーマの興行的な性格、童話を繰り広げる場について考えめぐらすうちに、彼は純粋な空想へと発展する、異国趣味的な雰囲気に満ちた展開を思いついた。
デペロはここで、「あらゆる感性、あらゆる世代、あらゆる文化、動物を含むあらゆる民族のための、多様な表現、発見と驚きと魔術的絵画、造形的な音声に満ちあふれた」世界という、「新しい、終わりなき」演劇の偉大なる夢を実現しようとしたかに見える。
しかし『ナイチンゲールの歌』は、「未来派による宇宙の再構築宣言」の理論を具体的に適用するだけの機会ではなかった。1916年のローマで東洋のフォークロアと童話の魔術的世界を深く知る蔑会を得た彼は、しだいにデイアギレフ、マシーンをはじめとするロシア・バレエ団の主役たちや、また彼らのために舞台装置や衣装を企画、デザインした芸術家たちと一体化するようになった。
この時期のデペロ芸術の方向を理解するには、レオン・バクスト、ブノワ、ラリオーノフ、そしてゴンチャローヴァらの名前を上げれば十分だろう。実際、舞台芸術の全面的な革新をめざし、まさにこの点で前衛絵画にも影誉を及ぼしたデイアギレフと彼の共同制作者たちとの出会いが、デペロの個人的な美学理論に命を与える機会となったことには疑いの余地がない。セメノフやデイアギレフ、きわめて気難しかったノル工・ダンサーのマシーンからも称賛された彼は、ローマにおけるロシア・バレエの演劇的な活動の頂点に押し上げられたばかりか、ことにバッラ、プランポリーニらのローマ未来派の友人たちによって同時期になされた、舞台造形の諸発明をも越えることになったのである。
「ナイチンゲールの歌』の主人公であるバレリーナたちが着用する鎧一衣装と、皇帝の庭園の背景に作られることになっていた巨大な魔法の花は、デペロが民話とその豊かな図像的レパートリーに対して全面的な情熱を傾けて取り組んだことを示す、第一の重要な証拠である。
デペロの造形的追求の中で、東洋のフォークロアの偉大なる伝統が彼本来の北方文化と融合したことは興味深い。というのも、後者は形態の様式化という性格を持ち、何よりもドイツ全体を流れている神秘主義的で象徴的な民族的血統を代表するものだからである。
かくして東洋のフォークロアと北方の伝統とは融合して新しい造形言語を形成し、完全に独創的なイメージのレパートリーとしての生命を吹き込まれた0そこでは初歩的幾何学に支配された物や人物が、平滑で濃密な色彩と純粋で鮮やかなその調子によって豊かに彩られている。
芝居がかったものや絵画的イメージによる物語表現に興味をいだいていたデペロは、形を追求する形式主義者への誘惑から自由になったおかげで、物語の持つ魔術的意味を喚起する力を手に入れることができた。そして人をびっくりさせる舞台装置や衣装を発明しては、演劇と絵画を純粋なファンタジーヘと変貌させたのだった。
残念ながら技術的困難さのために、衣装や舞台装置の制作は大幅に遅れ、1917年5月にパリヘと出発するデイアギレフは、この困難な企画を放棄することを決心した0デペロの失望はいかばかりだったろうか。しかし今や彼の心には演劇があった。1916年にデイアギレフを通じて知り合ったスイスの作家で古代エジプト学者であるジルペール・クラヴェルが、彼に新しい展望を開いてくれたのである。
1917年の夏、クラヴェルによる超現実的な小説F自殺協会』の挿絵のために、彼からカプリ島に招待されたデペロは、前よりもいっそう具体的に、「造形演劇」の考えが蘇ってくるのを感じ取る。彼はバレリーナが演じる劇にかわって、人形劇の持つ模倣とアクロバットの能力に注目したのだった(*3)。クラヴェルとの共同作業から、人形によって演じられるメカニックな物語「造形バレエ」が生まれ、それにカゼッラ、マリピエロ、テイルウィット、シ工メノフ(おそらくベラ・バルトークの偽名)の音楽が付けられた。演劇は1918年4月15日に、ローマのピッコリ劇場で上演された。デペロとクラヴェルがこの企画をものにするのに数カ月かかったが、結果は11回もの再演という大成功だった。
光の万華鏡、色彩、人形、自動人形、音声からなるこの複雑な作品を活気づけている精神については、クラヴェル自身が多くを語っている。「造形演劇は、(大衆の理解力に突破口を開くために)素晴らしい上演となるだろう0というのも、それは説明的な身振りではなく模倣的身振りを用い、言葉を超越した、純粋に造形的な再現に行き着くからである。舞台前方と背景との区別は廃止される。もはや舞台背景は単純な装飾手段としてのみとらえられることはなくなり、身振りや台詞と一体化する。感情は造形化され、ダイナミックな連なりとしてはっきりと示されるのだ。(舞台では)もはや行為と再現、内容と形態、人物と背景との区別はない。……こうして作られた演劇の実際的な問題は、いくつかの方法で解決される。我々はまず最初に、手違い人形やマリオネットが表現のための最良の手段を提供してくれることに注意しよう。というのも、人形はそれ自身、関節でかなり自在に動く明確な複合体になっているからだ。たしかにそれらの模倣再現能力は限られてはいるが、しかしいっせいに同じ方向に向けたり、音楽の拍子に合わせて身振りを厳しく ̄コントロールできるという利点はある。……」(*4)。
このクラヴェルの言葉によって、デペロの実験がいかに未来派的な総合演劇の原理と軌を一にしているかが理解できる。この新しい演劇の中で人形劇は、バレリーナの身振りにきわめて特殊な役割「全体のパートのなかのパート」を持ち込んだ。それによって、役者と舞台との関係に刻印されているヒエラルキー的な障壁を、実際に取り去ろうとしたのである。こうした理論的前提に立ち、クラヴェルは次のように書いている。「リズムはあらゆる身振りの魂であり、その抑揚はまずもって音楽的に堅固でなければならない。それは登場人物のメカニックな動き、関節やそれに付随する部分の動きを支配し、イルミネーションを制御し、さらに動きの休止を指示する。そのような表現は、ちょうどすべての色を調和するように置いた一枚の絵がそうであるように、全体から主要な感情を発することができるのである。ただし、違いはある。絵画では枠の障壁があるが、ここでは情景の連続的なダイナミズムによって、それが乗り越えられていることだ」(巧)。
デペロの熟練した手は理論に生命を与え、魔法の動物たちや幻想的な花の建築に囲まれて踊ったり、動き回るマリオネットの立派な一座を作りだした。造形バレエの新しい木製の役者たちは、構造的に見れば糸によって動く古いマリオネットを想起させる。しかし造形的、構成的な観点からすれば、それらは彼の絵画に登場する空想的な人物そのものである(*6)。
このデペロのマリオネットー自動人形(*7)は、ヨーロッパ前衛芸術の文脈の中でレジェ、オスカー・シュレンマー、そしてもちろんロシア構成主義者たちのメカニックな諸像と比べることができるだろう。
この魔術と幻想の合言葉の下に、画家としてのデペロの第二の大きな時代が展開する。この時期は一方で、変幻自在のパレードのために訓練された、彼の手違い人形やマリオネットの一座がまさにそうであるように、しばしば子供じみた、素朴で、巧妙な構成に見られる遊び心に満ちた無邪気さによって性格づけられる。他方、1918年から1926年に制作された彼の絵68画作品が示すように、超現実的、形而上学的ヴィジョンの「ナンセンス」、パラドックス、皮肉といった特徴的側面も持っている。
彼の図像学的選択があらたに魔術的方向へと向かう最初の絵画の一つ《タランテツラの国》から、絵画の持つ時間一空間的な説明能力によってなされた、存荏の裏面を扱う形而上学へのオマージュ《影によって機械化された都市》、そして《本当に馬鹿馬鹿しい自動小人たちと、変貌自在に人を驚かせる体育教師たち》のパレードのための寓話的な情景《弾性ゴムの花、魔法の動物、悪魔〉にいたるまで、デペロは形態の初歩的で、幾何学的な素朴さへの追求へと向かう。構成の面からすれば、それはほとんど過剰といってよいが、ここに働く一種の「空間恐怖」によって、彼の絵画空間は形態と色彩の輝かしい「連続」へと変貌しているのである。
この芸術家としての重要な時期に、「東洋と西洋、古代と近代の、かつてのすべての偉大な芸術と融合して、真の葺術作品に立ち返るために、精神の諸気候、諸地域、多くの朝と夜から生み出された世界全体を物質化する」ぐ8)必要性から、デペロは新しい物語展開の次元へとさらに歩みを進めた。「魔術的演劇」の理論的前提にそって、1919年から1926年の間に、彼の絵画はこの新しい美学により見直された叙事詩的価値を歌い上げる役割を果たす。その様式的、造形的な表現の中には、子供の持つ素朴で原初的な想像力に触発された、知られざる神話が典拠としてあり、さらに国境を越えた民衆レベルの想像力から引き出された様々な示唆がその原型となっている。
1924年に描かれた《太陽から生まれでる列車》は多くの点で、この民衆の豊かな想像力の内面世界を旅した彼の、景も遠方までの行程の一つだといってよいだろう。新しい「魔術の美学」の理論にしたがって考案されたこの作品は、背景の遠近法的処理にきわめて興味深い変化が見られる。それはもはや多重の遠近法や平面の相互浸透によって構成されているのではなく、むしろ堅固な色彩を放射する光から成る構築体として表現されているのである。色彩、音声、運動は、形態と感情を目に見える構築体として固体化する過程に参加し、それは20年代半ば以降から30年代全体を通して彼の絵画の、いわば定数となってゆく。
次の段階では、機械と鋼鉄様式の美学に対する多大なる興味が堰を切って表面化する。それは続く数年後に制作された《喧嘩》、《堅固な遍歴騎士たち》、《夜明けと夕暮れ》(cat.no.052)に見て取れる。
デペロは1927年にボルト本でこう宣言する。「我々未来派は、発電所、鉄道の駅、戦艦、巨大な大西洋横断定期船、複葉式飛行機、流線型の機同車を礼賛する。これらの驚異物を真似て、我々は宇宙を再構築しよう。牛−オートバイ、鋼鉄の馬一自転車、人工の太陽、鉛白と鉄筋コンクリートの塗られた樹木、機械仕掛けの驚異の花、正確な制御装置によって動く広告雲、劇・・…・」。
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