文化史上の安土城
▶日本建築のルネッサンス
城郭建築は,近世特有の造形である。もとより,城の城たる軍事的機能は,人間の歴史とともに古くから求められている。しかし,ただ戦うこと自体よりも,戦い争うことを未然に防ぐべき政治的・経済的状況を造りだす努力が,時代社会の総力をあげて結集され,いわゆる文明の力を誇示する造形美が,積極的に形成されたのは,少くとも日本において,安土・桃山時代以外にない。
「伊勢」や「出雲」の大社,それに「法隆寺」や「東大寺」の歴史に残る名建築が明白に物語るように,有史以来幾度かの戦乱や政変の経験をへてもなおかつ,古代・中世の建築界の主流は,神と仏のために存在した。ところが,近世とりわけ.安土・桃山時代は,城郭を代表とするいわゆる人間のための建築が主流となったのである。建築においても,まさに「日本のルネサンス」が到来したわけである。
▶豪華・壮麗をきわめる
織田信長が天下統一の雄図(ゆうと・雄大な計画)をかかげて,天正4年(1576)から3年有余の日時を要して構築した安土城天守は,神や仏に代って人間のための建築という近世の特質を,未曽有の規模で造形化した史上最初の建築である。標高約199m,湖面より110mの安土山頂上に,「蛇石(じゃいし)」なる大石を1万余人の人力をもって引き上げ,昼夜山も谷も動くばかりとさえ伝えられる如くに,大土木工事をおこしたのである。外観は建築史上「望楼型」と称する初期天守の様式をもつ五層唐様(からよう)楼閣である。内部は,地階(石蔵)1階,天守台石垣上6階の計7階建で,その高さ,石垣上より32.5m,本丸地表より計ると実に46mにおよび,城下から仰ぎ眺める極彩色の高層建築は,新しい時代の到来を告げるにふさわしく,雄渾華麗であったに違いない。当時この城を訪問したキリスト教宣教師ヴァリニヤノ一行が,「この建築は,ヨーロッパの最も壮麗なる建築と比することができる」と記録している。
さて,内部7階分の線建築面積は,3101㎡余であった。地階の石蔵は,東西九間(ただし一間は七尺=2.1m強),南北九問で,中央に石垣上3階迄すなわち地階より4階分の吹き抜けの大空間を設け,その核心に東向き宝塔を置く。ちなみに宝塔とは,法華経にいう過去多宝如来の舎利をまつる建築に由来する。従来軍事的機能がすべてと考えられていた天守としては,まことに意外なもので,その前に東西一間,南北二間の祈頑所と思われる一室が配されていた。
石垣上の1階は,東西17間,南北17間の不等辺8角形で,複推な機能を有していた模様である。概していえば,近世武家殿舎(例えば二条城二の丸御殿)での遠侍や式台といった登閣御門に直接する内・外臣の控室および政庁といったところである。特筆すべきは,その最上席にあたる「盆山(ぼんさん)の間」に,神格化した信長自身の化身である盆石(御神体の石)がまつられていた点である。
地階宝塔とともに,安土城天守が,単に軍事的機能をもって造られたものでないことをよく物語っている。
次の2階は,広間である。先述した地階よりの吹け抜け空間には,二間四方の舞台が張り出されており,それに,正対する位置に広間上段が設けられ,接客儀礼の諸行事が予定されたどとくである。この空間構成は,さながら今日の議事堂か劇場内部で,日本の伝統建築の手法からすれば,全く異質である。当時導入されたキリスト教会堂の内部空間を模したところのいわゆる南蛮風であったとみられよう。
3階は,信長常住の諸室があり,狩野永徳画の龍虎・鳳凰等の金砦障壁で飾られていた。それらは地階よりの吹き抜け空間に張り出された廻緑によって連絡され,中央に橋が架けられていたのである。そこより下を見おろせば,2階の舞台や地階の宝塔を眺めることが可能で,その奇抜さは,驚嘆に値する。
4階は,外観第3層目の大人母屋屋根の中にあり,主として納戸である。
5階は,正八角形の平面で,仏教的テーマでデザインされていた。すなわち天井には天人影向の図があり,柱には昇り龍・降り龍が描かれていた。そして室内は金碧極彩色をもって,釈門十大弟子の群像の中で釈尊が説く仏法の理想郷を顕現していた。
最上階の6階は,三間四方の正方形平面で,四方に勾欄付きの廻緑があった。これまた金碧の室内意匠には,東に孔子および孔門十哲,南に中国創世紀上の伝説的帝王=黄帝・伏義・神皇,西に老子,北に太公望・周公旦を画く。儒教的テーマをもって治世の提要を示しているわけで,天下布武の信長の理想をよく現わしていた。
▶「天道恩恵」の顕現
かように判明した安土城の内容は,現存する城(例えば姫路城)からは想像を絶する極彩色の別世界であるが,幸いその片鱗を伝える遺構がある。近江都久夫須麻神社本殿で,燦然たる金具で飾られた黒漆仕上げの建築に,狩野光信が金碧障壁画を描いている。光信は,父永徳と共に安土城の作事に活躍しているから,今日,幻の安土城のデザインにもっとも近い遺構といえ,その密教的極彩色の空間に,今更のどとく剖目せぎるを得ない。
ところで中世末期のいわゆる下剋上の社会において,旧来の様々な伝統,そして法や道徳迄もが公然と破られる際に,そうした無法の行動を程度の差こそあれ,何等かの形で意義あらしめる倫理意識に「天道思想」があった。それは,人間の運命をもって冥慮とする場合から,仏典に由来して「天堂」すなわち天上界を意味する場合,儒教道徳を反映して天道の名において当為が求められる場合,神道のいう天地万物の規範的道理を象徴して人倫の道に説かれる場合が一般で,室町時代特有の「儒仏不二」「神仏唯一」「三教一致」の視座より「天道」が説かれていたのである。
とりわけ日々死闘に明け暮れた戦国武将は,この天道思想によって実力主義を鼓吹もって運命打開の契機とする神秘性と,支配権力を理念づけひいては秩序の安定を希求する倫理性の二面をもっていた。加えてキリスト教のデウスが「天道」に擬せられていたことさえもある。結局天道思想は,儒教・道教・仏教・神道それにキリスト教迄も包含した重層的性格をもっており,思想界に統一原理的地歩を囲めていたのである。
そこで改めて,「国中の都郷を総見する」ために安土城内に「(總)見寺」の殿堂が建立された件を注目されたい。ルイス・フロイスは,これに関して次の如く記録している。
安土山の寺院には神体なく,信長は己自らが神体であり,生きたる神仏である。世界に他の主なく,彼の上に万物の創造主もないといい,地上において崇拝されんことを望んだ。その具体的方策として,「ボンサン(盆山)」と称する石をもって信長の神体となし,しかも信長の誕生日に男女貴賎を集めて拝ませていたというのである。事実,総見寺には,十一面観音や弁財天,大日如来や不動・昆沙門,それに熱田社が勧請されていたし,天守一階にその石をまつる「盆山の間」が設けられていたことは,すでに述べたところである。
要するに天下統一を実現するにあたって,政治(王法)や宗教(仏法)をこえた「天道思想」をもって、統一絶対神たる信長の専制権力を理論武装したようである。この壮大な演出あってこそ,天守の観たるゆえんがあり、またそれ故に,後世安土城をもって天守の城とするわけであろう。
▶名実ともに近代文化の姶源
しかしながら,安土城の歴史的な役割は,如上にとどまらない。この大工事に関与した技術者・芸術家は,そのほとんどすべてが近世斯界に各門の名をほしいままにしている事実はわけても注目に値しよう。御大工棟梁の岡部又右衛門父子は本能寺の変で信長と命運を共にしているが,それを助けた奈良,堺,近江の大工は,やがて大坂・衆楽・伏見・二条・名古屋・江戸の冬城や内裏および日光東照宮等,近世を代表する名建築の普請に活躍しているし,画師の狩野永徳・光信父子およびその一門にしても同様である。この他,金工の後藤・鉢阿蒲家,畳刺の伊阿蒲家等,まさに枚挙にいとまがない。したがって,近世の文化は,名実共に安土に始源するといっても過言ではなく,それだけに遠くヨーロッパの果て迄もその名建築たるの令名が伝えられたのであろう。
(名古屋工業大学教授)
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