レオナルド・ダ・ビンチと科学

00000010002■レオナルドダビンチと現代 

オラツィオ・クルチ(イタリア国立レオナルドダピンチ科学技術博物館技術部長

 ルネサンスの生んだ偉人レオナルドダビンチはもっばら芸術家として高く評価され、尊敬されてきた。しかし、それはレオナルドの一面でしかをかった。別の一面、つまり偉大を科学技術者としてのレオナルドの真価は、科学・技術の時代といわれる500年たった今日・・・になって、はじめて理解されるようにをった。科学・技術者としての彼の偉大さを再認識したとき、レオナルドの考え方は、今日のわたしたちの心の中によみがえった。

 彼が生をうけたルネサンスは、人類史上もっとも輝かしい時代の1つであった。その時代の自由の空気を吸つた人びとは、目で見、耳で聞き、手でふれてたしかめられるものであり、理論的に証明されるもののみを真理とした。そして、その真理の探求に情熱をかたむけた。レオナルドはそのひとりであり、そのなかでの偉材である。

 レオナルドはまず第1に注意深い観察者であった。日常身の回りにあることのすべてが、彼にとって研究の対象であった。ほかの人がをに気をく見すごしていたものの中から彼は新しいものを発見し、観察・と研究の手をさしのべた。

 彼は幼いころからすでに天才だった。自分をとりまく自然現象のどんな小さをことにも謙虚に注目し、それらのことがらを順序よく整理し、これを論理的知識にまで高めていった。1つのことがらから他の多くのことがらへ彼は目を広げていった。そして広い分野にわたって経験と知識を蓄積していった。

 このようにして彼は、事物の観察にはじまって、正確に記録し、それを論理的に展開し、さらに実験から発明へと飛躍していった。彼の天才的を頭脳には毎日、毎日新しいアイディアがつぎつぎと浮び、それらのひとつひとつについて検討を重ねた。彼はこれらのアイディアや検討のあとを詳細に記録し、後に整理して著作にまとめるつもりであった。しかし、残念をことに、これはまとめられないまま、彼は世を去った。科学技術面におけるレオナルドの活動の場面は2つに分けることができる。しかし、これはともに彼の高い芸術的精神から生れ出たものであった。

 第1は機械の発明家、設計家としての仕事で、ここでは彼の想像力がはとばしり出た。

 ▼第2は、すぐれた科学者としての仕事で、多くの法則を発見した。これらの法則はまた、機械の細部や本体の設計の際、技術的を解決に役立った。

 彼は、この持って生まれた機械的技術的を才能を縦横に駆使して、新しい機械を研究し、発明した。機械の研究・発明の際、基本にをったものは、自動化と伝動化の考え方であった。自動化によって、人の労力を減らすと同時に手作りによる失敗ををくし、均一で完全をものをいくつも連続的に造ることができるということは、安い製品をより早く、より多量に造ることができることにほかならない。機械が単に人の働きをまねるということでなしに、本当の意味での機械となったのである。レオナルドによって、機械は技術の進歩の中核として、人類文明の歴史を担ったのである。レオナルドは、科学・技術を記述する場合、その記述は自分以外の人びとにも同じように理解されるものでなければならないし、またその内容は他の人びとが同じ実験をくり返えした場合に、同一の結果が出るようをものでをければならないと思っていた。このことは近代科学のトビラを聞く力ギであった。レオナルドにとって、科学と技術は根本的において芸術と一体になっていた。真理を探求することは、科学・技術の基本的態度であるばかりでなく、芸術の基本でもあった。

 彼はすでに科学における数学の重要性を指摘して「人のいかなる実験も数学的を証明がなければ、科学とすることはできない」といっている。

 技術と科学の歴史の上で大きを変換のきぎしをみせたこの時代に、レオナルドはすでに来るべき技術・科学の正しい意義を予見している。そして、この予見こそレオナルドの天才を物語っている。彼がひとりで発明し、発見した大量の機械や法則を、のちに多くの人びとが長い年月と努力をかけて、もう一度発明し、発見し直したのである。

レオナルドと現代

 巨人レオナルドはその長く苦労の多い歩みを続けた。その一生は時代からはみ出た孤独のファンタジーともいえる。だが、彼がいだき続けた科学・技術の思考は、いま、現代社会の文化と芸術の全分野の基礎となっている。

■レオナルドの生涯  

 オラツィオ・クルチ

 レオナルドの生涯については、断片的にしかわかっていない。15世紀に、偉大を仕事とすぐれた思考を残した巨人の生涯は、秘密のベールにかくされているかのようだ。

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 レオナルドは、1452年4月15日、フィレンツェのエンポリから12km離れたビンチ村の1部落アンキアーノに生まれた。彼は、ビュトロ・ディ・アントニオ・ダ・ビンチと、カテリーナとの間に、庶子(しょし・本妻以外の女性から生まれた子。旧民法では、父が認知した私生子。)として生まれた。この生い立ちが、レオナルドの生涯を痛ましく孤独をものにしたであろうし、またその孤独感が、彼を終始はげまし続けたであろう。

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 美しい田舎アンキアーノで、平和に自然に親しんだ彼の少・青年の日々のことは、ほとんどわかっていない。しかし、少年レオナルドが絵を描くことに強く心をひかれていたことだけは分っている。バザーリが語った有名をエピソードがある。

 「この天才児が、あるとき木切れに、ヘビ、トカゲ、ヤモリ、コオロギなどの動物が気味悪くからみ合った絵を描き、これを見た父のビュトロがそのすばらしい出来におどろき、家中で相談し合った結果、レオナルドをフィレンツェヘ行かせ絵の勉強をさせることにした」

■〔フィレンツェ その1〕

 1466年、レオナルドはアンドレア・デル・ベッロッキオの所へ弟子入りしたが、そこには、ロレンツオ・デイ・クレデイ、サンドロ・ボッティチェリ、ピエロ・ベルジーノらが師事していた。レオナルドは何年もたたないうちに大きく成長し、絵の仕上げの手助けをするようにをり、さらに有名な「キリストの洗礼』のをかで天使のひとりを描き師のベロッキオを感歎させた。

 この時期に、レオナルドはだんだん家族から離れていった。父親がフィレンツェに移り住んでいたが、その父親との間も温いものではなかった。彼の仕事は、あまり報われなかった。そのころの孤独感を彼はいく度か手記に書きとどめている。やがて彼は、ベロッキオ、ボッティチェリ、ベルジーノのもとを去り、フィレンツェを発ってミラノヘ向った。

 いずれにしても、フィレンツェでのこの時期は、彼の腕をみがいた実りあるものであった。『聖告』や『ジネープロの女』が、このころの彼の作品である。

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■〔ミラノーその1〕

 1482年、レオナルドはイル・モーロと呼ばれたミラノ領主ロドピコ・スフォルツァ公爵に会った。フィレンツェ大公ロレンツェ・デ・メデイチが、レオナルドが作った馬の頭の形をした弦楽器を、ミラノの領主に贈るようにすすめて、彼に持たせたらしい。そのときレオナルドは、ミラノ領主が、軍備に追われており、武器と軍事技師を必要としていたことを知った。そのとき彼が公爵に出した有名を自己推薦状には、自分は建物、橋、機械、その他の装置を造ることができることを述べ、さらに大砲や要塞を多数書きあげた。

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 このミラノの時代に、攻撃用兵器、防衛用兵器、飛行機および船舶、さらにペストによって荒廃したミラノ再興のための建築設計と都市計画をど、今日有名な発明や考案がつぎからつぎに生れ出た。しかし、レオナルドはこのような仕事にあっても、芸術家としての天職を犠牲にすることはなかった。むしろ、ミラノ滞在中に、彼は、あの2つの最高の名画『岩窟の聖母』と『最後の晩饗』を描き上げてた。『岩窟の聖母』の契約署名の日付は、1483年4月25日で、この絵は1484年に完成した。

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 『最後の晩饗』の方は、1495年に描き始められた。1489年、ロドピコ・スフォルツァ公爵は、レオナルドを“公爵家の技師および画家”に任命し、チェテリア・ガッレラーニの肖像画を委託した。これは後に『貂(てん・ムジナに似たけもの)を抱く女』と称されたものである。同時に公爵は、偉大な指導者であった父フランチェスコ・スフォルツァの記念碑を製作するようレオナルドに命じたが、おびただしい習作を作ったにもかかわらず、とうとうこれを完成しなかった。

 1499年7月24日、ルイ12世のフランス軍がミラノ領に侵入した。レオナルドは、領主がミラノを脱出し、勝利軍がミラノに入ったのを見とどけたのち、ミラノを去った。それからしばらくマントバにおり、さらにべネツィアに移った。ベネツィアではフリウリ地区からトルコ軍が国内に侵入するのを防ぐために軍事的を土木工事をまかされた。レオナルドはまずピアベとタリアメントの谷をさかのぼり、イソンゾとビバッコの谷川の図面を作成した。それにもとづき、グラデイスカに堰を設け、危険のとき、ゴリツェア平野を洪水にするという計画を立てた。ところが、この計画の実施に対して承認がなかなか下りなかった。レオナルドは、ベネッイア共和国の決定が遅いのを苦にしをがら、フィレンツェヘ戻った。

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■〔フィレンツェ その2〕

 フィレンツェではまず1501年の春には、『聖アンナと聖母子』の下絵を描き上げているが、そのあとしばらく科学の実験と研究に没頭した。

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 1502年8月18日、チユーザレ・ボルジアは、新しい日の基礎を築き、レオナルドを招いて建築家および軍事壬師に任命した。バレンティーノと呼ばれたこのボルジアのもとで、彼は、ピオンビーノ周辺の沼地改良のために測量と水利調査を行をった。またチェセナティコの運河と港の構築を監督した。

 ところが、1503年バレンティーノがローマへ帰るとボルジア家が没落し、レオナルドはフィレンツェヘ帰り1506年まで滞在した。

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 この最後のフィレンツェ滞在中に、いまは失をわれてしまった「アンギアーリの戦闘』と、有名を『ジョンダ』(『モナリザ』ともいう)が描かれているこの時期はまた彼が、科学的思索と技術研究に情熱をかたむけた時期でもあった。彼の研究は水理学、気象学、天文学、植物学、解剖学に及び、さらに特殊をプ法で鳥の飛び方を研究して、それにもとづいて人の力で飛べる機械を設計した。

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 1504年、彼の父が死んだ。これは、彼のけわしく国事を生涯にさらに苦しみを加えたことであった。

■〔ミラノ その2〕

 1506年6月、フィレンツェ共和国に3カ月の休暇を願い出て、フランスの騎士団長であるカルロ・ダンボワーズ元帥の招きに応じ、再びミラノに行った。ダンボワーズはミラノ公爵領の支配者でレオナルドに、トリブルツィオ将軍記念騎馬像と、大きな公園の建造を依頼したのである。

 その後、1507年の秋に一時フィレンツェヘ帰り、父親の遺産相続をどをしたが、翌1508年、またミラノにもどり、そのままミラノにとどまった。この第2回目のミラノの時期は彼にとって、もっとも安らかを日々であった。

Leda_and_the_Swan_1505-1510 レオナルド・ダ・ヴィンチ作『洗礼者聖ヨハネ』

 静かな心境のうちに『レダ』「バッコ』『聖ヨハネ』を描いた。しかし、1513年軍事的政変が起こり、ロドピコ・イル・モーロの子のマッシミリアーノは、フランス人をスイス地方から駆逐して、ミラノ公爵領の領主となった。レオナルドはこのようを不穏を空気を好まず、ローマヘ向った。おそらく、のちにレオ10世となったジョバンニ枢機卿の弟、ジュリアーノ・デ・メデイチにすすめられてのことであろう。

解剖-1 解剖-2

 このころ、レオナルドは医学の研究に没頭した。正確を解剖図が数多く残されている。この時期に「聖母子』を描いたが、その後また医学の研究にもどった。またジュリアーノ・デ・メディチ公の命によって、教皇庁の城塞とボンティーネの沼沢地を調査した。この沼沢地については、干拓問題を解決するためにすぐれた計画を立てた。

〔フランスヘ〕

 そのころフランスでは、フランソワ1世が即位していた。レオナルドのすぐれた才能のことが彼の耳に入ると、彼は自分の宮廷にレオナルドが来るように熱心に招いた。レオナルドがフランス宮廷に行くことを決心した本当の理由は、正確にはわからない。おそらく、ジュリアーノ・デ・メデイチが1516年に死んで、教皇庁の空気が彼に好意的でなくなったためであったろう。彼はその年のうちにローマを出発し、しばらくミラノに立寄り、そして、フランスヘ向った。

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 フランソワ1世はアンボワーズの王宮に近い、サン・クルーに、彼のために美しい住いを用意した。緑に囲まれたこの新しい家は、レオナルドにとってビンチ村の家を思い出させる理想の住いであった。ここで、彼は再び平和をとり戻し、研究に没頭した。「絵画についての論文」や「声」の論考を完成し、建造物や都市の設計にもすぐれた考案を残した。さらに数多くの神秘的を寓意画をも描いた。

 晩年、彼は中風(ちゅうふうは、現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉)にかかり、右手が利かなくなった。しかし、彼は最後の力をかたむけて彼のもっとも有名な自画像を描いた。彼は遺言を書いた。そのをかで、彼に従ってフランスに釆ていた弟子のフランチェスコ・メルツィには、彼の本を全部与えた。20年以上も彼と生活を共にした弟子であり友人でもあるサライには、ミラノのぶどう園を与え、親類には金貨400スクーディ以上をのこし、忠実な家僕や貧困者たちのことも忘れをかった。1519年5月2日、彼は、フランチェスコ・メルツィの言葉によれば、‘‘母なる教会の定めをすべておえて、わが主のみ前に善き覚悟をもって“静かに息を引きとった。これは、その長い天才の生涯のをかで、もっとも人間らしさのあふれた瞬間を示すにふさわしい言葉であった。

フランチェスコ・メルツィ

■レオナルドの手記  

 オラツイオ・クルチ

 レオナルドの著作やメモは、彼の死後いく年もの間、人びとに知られず、数奇を運命をたどった。今日「手記」と呼ばれるものは、レオナルドがそのつど手近を紙片に書きつづったもので、大部分はノンブル(印刷物のページごとに欄外に打った、順序をあらわす数字。)がつけられている。左ききの彼は、裏がえしの字、いわゆる“鏡文字’’で右から左に書いているのが特徴である。

 これまでに、大小さまぎまな大きさの紙片にかかれたスケッチ、図形の習作、風景および絵のディテール、各種の観察や記述をどが集められている。レオナルドは彼がフランスヘ行くとき手記をフランスヘたずさえていった。彼の死後遺言状によって、その一部はフランスまで彼に従った彼の最も誠実を友人、フランチェスコ・メルツィに受け継がれた。メルツイはこれをイタリアに持ち帰り、パブリオ・グッダの別荘にしまった手記のあるものは、グリエルモ・デッラ・ポルタの所有とをった。また、散逸してしまったものもかなりあったろうと考えられる。

 1570年にフランチェスコ・メルツィが死ぬと、その子どもたちは、その価値を知らぬままに、それを屋根部屋にほおりこんだ。そのうち何年かのあいだに、メルツイ家と交際のあった者たちが少しずつ持出して、収集家やこっとう屋に手渡してしまった。収集家の1人アルコナーティ伯爵は、12冊の手記を入手したが、1637年この貴重を宝をアンプロジオ図書館に寄贈した。

 レオナルドの作品の熱心を収集家アルンデル卿もいくつかの手記を人手したが、その他のものはいろいろを人の手に渡り、また国王たちや名士たちに贈られた。このうちのある人たちは、それを図書館などに納めた。

手記-1

 1796年に、ミラノがナポレオン軍の手に落ちたとき、レオナルドの手記はふたたびパリに運ばれたが、1851年に一部分がオーストリア政府に返還された上でミラノヘもどされた。しかし、そのとき、そのうちのいくらかはパリで私蔵されたことをフランスの役人の「手記のいくつかが行方不明になっている」との証言から知られる。

 このころから、レオナルドの手記についての組織立った研究が行をわれはじめ、すぐれた学者たちが散らばつた手記を統合するため調査とリスト作りをはじめた。現在までに確認されたレオナルドの手記とその保管場所は次の通りである。

■パリ

 フランス学士院:A手記63枚。8手記 主に軍事論。C手記「光と影」が主題。D手記 光学。E手記 幾何学と小鳥の飛翔。F手記 主に水理論。G、H,㈵,K,L,M手記 各種の論題および文書。アッシュバーナム手記,主に絵画論。

■トリノ

 王立図書館:鳥の飛軌こ関する稿本。

■ミラノ

 アンプロジオ図書館:コーデイチェ・アトランティコと称されるもっとも有名を手記、機械、仕掛け装置その他について

■ミラノ

 スフォルツァ城:トリプルツイオ稿本。

■レスター 

 ホーカム・ホール・レスター伯爵図書館:レスタ 一手記。自然、液体の重さと動きが主題。 

■ロンドン 

 ビクトリア・アンド・アルバート博物館:フォルスター手記㈵,㈼,㈽。主をものは物質の変化における質量の不変性を扱っており、その他は各種のメモ。 

■ロンドン 

 大英博物館:アランデル手記。各種のメモ。 

■ウインザー 

 王室図書館:解剖学図。

手記-2

 以上のほか、スケッチや手稿が世界各都市に散っている:ハンブルグ、アムステルダム、ブタペスト、ケルン、フィレンツェ、ニューヨーク、ローマ、ウイン。