白隠と仙厓

000■概 説 

▶永青文庫の概要 

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 財団法人永青(えいせい)文庫は、故細川護立(もりたつ)侯により、熊本の旧藩主であった細川家伝釆の美術工芸品や古文書類を保存・研究する目的で、昭和二十五年、<一九五〇〉に設立されました。細川氏の始祖と仰がれる頼有(一二三三二~三九一)ゆかりの建仁寺塔頭永源庵から「永」を、近世細川家の祖といえる幽斎(一五三四~一六一〇)の居城であった青竜寺(しょうりゅうじ)城から「青」をとり、命名されたものです。現在、総数十万点を越すといわれる所蔵品については、絵画・刀剣・陶磁器などの美術工芸品が東京都文京区目白台に所在する同文庫に収蔵され、その一部は熊本県立美術館にも寄託されています。また、古文書類は熊本大学に収められています。

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 当館では、昭和五十一年(一九七六)の開館以来、同文庫の協力を得てその所蔵品を紹介する〝永青文庫展″ を開催してまいりましたが、十七回目となる本展は、江戸時代の禅僧、白隠と仙崖の書画にスポットを当てます。サブタイトルにもあるように、白隠と仙厘の書画は、永青文庫の設立者であり、屈指の近代日本画コレクターとして著名な細川護立候の、収集の原点に位置する存在といえるものです。

白隠と仙厓

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 白隠は、貞享二年(一六八五)、駿河国(静岡)原というところに、長沢家の末子として誕生しました。幼名は岩次郎。父は、のちに白隠が住職となる原の松蔭寺の中興、大瑞和尚の甥でした。十五歳の時松蔭寺単嶺祖伝(たんれいそでん~一七〇一)このもとで剃髪得度(ていはつとくど)し、慧鶴(えかく)と名付けられます。沼津大聖寺に入り息道和尚(そくどうわしょう~一七一二)に師事した後、清水神叢寺を経て、美濃国(岐阜)大垣瑞雲寺馬翁宗竹(ばおうそうちく・一六二九~一七二)に参じました。若狭国(福井)常高寺、松山〈愛媛〉正宗寺、備後(広島)福山天祥寺と、長らく諸国を行脚して、二十三歳で松蔭寺に戻りました。翌年越後(新潟)高田英厳寺の性徹(生鉄・しょうてつ)和尚(~一七二八)に参じて悟りますが、信濃(長野)へ趣き飯山の正受老人道鏡慧端(しょうじょうろうにんどうきょうえたん・一六四二~一七二一)から、その悟境の浅さを看破され「穴蔵禅」と一喝されて奮起、八ケ月の修行の末に大悟しました。享保二年(一七一七)三十三歳の時に松蔭寺の住持となり、翌年京都妙心寺の第一座となって、これより白隠と号すようになりました。以後は、自ら研鑽を重ねながら、当時荒廃していた松蔭寺の復興と、一般への教化のためにも力を尽くし、明和五年(一七六八)八十四歳で遷化しました。翌年、後桜町天皇より「神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)」と勅諡(ちょくし・生前の事績への評価に基づく名のことである)されています。

 白隠は諸方の招きに応じては精力的に講演を行うとともに、数多くの著書や書画を遺しています。著書については、難解な漢文体のものと、仮名交じりの平易なものとに大別することができます。漢文体の著書は、白隠が経典や祖録について批評や説明を加えて講したものをまとめた『息耕録開廷普説(そっこうろくかいえんふせつ)』や『槐安国語(かいあんこくご)』などがあり、白隠の禅僧としての徹底ぶりが窺えます。

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  また、『お婆々粉引歌(おばばこなひきうた)』(上図右下)『鬼薊(あざみ)』(上図左上)、『辺鄙以知吾(へびいちご)』(上図右上)夜船閑話(やせんかんな)』(下段・YOU TUBE) などは後者に属するもので、忠孝の大切さや健康の秘訣、治国の要道などを一般にもわかりやすく説いています

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 書画は年記のあるものは多くありませんが、多くは七十歳代以降になったもののようです。画題は、釈迦や達磨、臨済義玄、虚空智愚、そしてまた大応国師や大燈国師関山慧玄(かんざんえげん)といった白隠の属する大応派の名匠など、祖師の像や、彼らにまつわる政事、公案に基づくものが主とはなっていますが、題材は多岐にわたり、なかには、例えば『秋葉三尺坊図(あきばさんじゃくぼうず)』(上図左)のように、同時代の庶民信仰を映し出したものもあります。作風の特色としては、『錘馗図(しょうきず)』(上図右)、『達磨図』(下図左)の、力のこもった巨大な目を持つ面貌表現や、『一鏃(ぞく)破三関』(下図右)『無字』(下図左)、画面一杯に力強くあらわされた書に代表されるように、いずれも墨色豊かで迫力に満ちていることがあげられます。

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 仙は、その前半生には不明な点が多いのですが、寛延三年(一七五〇)、一説によると、美濃国(岐阜)武儀郡の貧農、井藤甚八の子として誕生したといいます。宝暦十年(一七六〇)十一才で同国清泰寺(上図右)の空印円虚(くういんえんきょ・一七〇三~一七八七)のもとで剃髪得度しました。明和五年(一七六八)、武州永田(横浜)の東輝庵に至り、「東の白隠、西の古月」と、白隠と並び称された日向(宮崎)大光寺の名僧古月禅材(こげつぜんざい・一六六七~一七五一)(下図左)の法嗣である月船禅慧(げっせんぜんね・一七〇二~一七八一)に参じて、月船が亡くなるまで東輝庵で師事しました。一旦清泰寺へ戻り、天明七年(一七八七)京都に在った時、博多太宰府戒壇院の太室玄昭(たいしつげんしょう・一七二五~一七九六、月船門下)と聖福寺(下図右)第百二十二世盤谷紹適(ばんこくじょうてき・一七一三~一七九二)の招きをうけ、翌年博多へ赴き、寛政元年(一七八九)、盤谷の跡を継いで聖福寺第百二十三世住持となりました。

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 仙もまた、白隠が松蔭寺を復興したのと同様に、荒廃していた聖福寺の復興に力を注ぎ、享和二年(一八〇二)には聖福寺僧堂の再興の業を成し遂げました。本山京都妙心寺からの紫衣(禅宗で最高位の衣)の勧めを数度にわたって受けましたがこれを拒み、六十二歳で弟子の湛元(たんげん)に住持職を誘って、一時聖福寺仙崖堂に隠栖し、のち同寺の塔頭幻住庵内(たっちゅうげんじゅうあん)にある虚白院に隠居しました。後年再び同寺の住持を務めますが、天保八年(一八三七)、八十八歳でこの世を去りました。没後、仁孝天皇より「普門円通禅師(ふもんえんつうぜんじ)」の記号を賜っています。

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 仙も白隠に勝るとも劣らず多くの書画を遺していますが、それらのほとんどは虚白院へ隠居してからのものとされます。仙の書画は、白隠の重厚な作品と比べると極めて軽妙な筆致で描かれており、飄然(ひょうぜん・居所を定めず、ふらりと去来するさま。世事を気にせず、のんきでいるさま)とした趣きと親しみやすい雰囲気を漂わせる作品は、当時から多くの人々を魅了し、彼の書画を求める人々で門前は大層賑わっていたといいます。出品される作品の内容についてみると、『蜆子和尚図(けんすおしょうず) 』(下図左)や『竹林七賢図」(上図右)などのような道釈(神仙や仏教の羅漢・観音などを画題とする)人物や、『朧月(おぼろづき)』(上図左)、『花見図』(下図右)や『野雪隠(やせっちん)図』(下図)など日常の出来事を画題としながら、ひねりの効いた禅的機知に富むものも多く、その画面からは〝厓画無法″と自称していたように、とらわれない仙の自由な境地が窺えます。

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▶白隠・仙と護立侯

 細川護立侯は明治十六年(一八八三)、東京小石川区高田老松町に、細川護久侯爵(一八三九~一八九三)の四男として生まれました。細川幽斎から数えて十六代目にあたります。明治三十九年(一九〇六)学習院高等科を卒業、大正三年(一九一四)に侯爵を襲爵しました。国宝保存会会長、国立博物館顧問、日本美術刀剣保存協会顧問、財団法人東洋文庫理事長など、文化に関わる数多の役職を歴任し、昭和四十五年(一九七〇)、八十七歳で亡くなりました護立侯はその立場上のつとめとしてだけでなく、私財を投じて文化の振興に寄与したことでもしられ、また、自ら一個の美術愛好家として収集された作品は、特に近代日本画の分野で高く評価されています。

 護立侯は十代の少年期、肋膜炎を患い病床に伏していたところ、当時国民新聞社の副社長を務めていた安倍無仏(あべむぶつ)という人物の薦めで、白隠の『夜船閑話』を手にし、感銘を受けたといわれます。『夜船閑話(やせんかんな)』は、白隠がかつて病に罹(かか)った時、白幽子という仙人に健康法を授かり、回復したという内容のものです。護立侯はこれを「実に面白く感じ」、「それから何となく良くなりかかつた」と回顧しています。それは護立侯十八歳の時のことでした。これを機縁として白隠に親しむようになり、白隠ゆかりの寺を訪ねてはその書画を求めたといいます。その後、鈴木子順(すずきしじゅん)という人物に作品の収集を薦められ、東京渋谷の寺で人形売り図(下図左〉を譲り受けたことをきっかけにして、仙作品も収集するようになったといいます。護立侯のコレクションはこのようにして、禅画、また刀剣の鑑賞からはじまったといわれ、やがて横山大観や菱田春草を筆頭とした近代日本画、さらには中国・明清時代の文房具など、多岐にわたり充実を深めていくこととなったのです。

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 護立侯(邸宅・上図右)は晩年、自宅で白隠と仙の書画を掛け替えては眺めるのを日課にしていたといいます。二人の書画は、たとえ画題が何であれ、その成立が彼らの深まる悟境を反映するものであったことは確かです。護立侯は、そのような書画がはなつ奥深い魅力に鋭敏に感応し、終生愛好していたのでしょう。この点で、白隠と仙圧の存在は、護立コレクションの原点であると同時に、以後もその根幹に流れ続けるものであったともいえるのではないでしょうか。

(村田栄子)