玄侑宗久
■禅師、かくの如く自愛せり
玄侑宗久
▶『夜船閑話』に学ぶ禅的養生法
白隠禅師が若い頃に難病を患った体験から生み出した、独特の健康法に「内観の秘法」と「軟酥(なんそ)の法」がある。この二つは養心養生を示した長寿法として今日まで伝えられ、多くの人々を救ってきた。それこそ、言葉と映像的イメージングによる白隠流自愛法である。
▶その一・内観の秘法
宝暦七年(一七五七)73歳、白隠禅師は古稀を過ぎ、自伝的養生書『夜船閑話(やせんかんな)』(巻之上)を書いた。端的にいえば、自分が若い頃、坐禅修行のしすぎで躍った「禅病」をいかに克服し、なにゆえ今も斯くの如く元気なのか、それを物語的に解説したものと言えるだろう。
禅病といってもピンと来ないかもしれない。本文では「観理度(かんりど)に過ぎ、進修節(しんしゅうせつ)を失して、終に此の重症を発す」とあるが、要は公案(禅問答の問題)を拈提(ねんてい・古人が書いた著作などを主題として、後代の者が自らの意見を示すこと)しすぎ、根をつめて修行しすぎた結果、「心火逆上(頭に血が昇った状態で、のぼせの 状態)」したというのである。今ならさしずめ運動もせずにパソコン仕事をしすぎ、異様なほど交感神経が緊張した状態といえるかもしれない。若き白隠はこれによって両脚が冷たくなり、耳鳴りにも悩み、それどころか気持ちもおどおどして、悪夢にも悩まされていたようである。
そこで白隠は、京都の白河山中に住んでいる白幽先生を訪ねる。歳は百八十歳とも二百四十歳ともいわれているようだから、これはもう仙人と思ったほうがいい。そういえば「至人(しじん)」「真人(しんじん)」などの表現が本文に出てくるが、これは『荘子(そうじ)』の言葉である。自分の姿が道士(道教の修行者)に似ているからといって、道術だと思ってはいけない、これもまた禅だと、わざわざ白幽先生に言わせているが、誰もがそう思ってしまうほど、ここで説かれるのは道教的なべースに乗った処方である。もっとも、禅は中国で道教的な基礎の上に発展したものだから、その辺りはもっと学ぶべきだと、白隠は考えていたのだろう。この本には『荘子』『易経』まかしかん そもん『摩詞止観(まかしかん)』『素問(そもん・中国最古の医書。「霊枢(れいすう)」とともに「黄帝内経(こうていないきよう)」を構成する。「霊枢」よりも成立は古いとされ,自然哲学的な医学論が中心)』などからの引用が出てくるが、これも白隠自身が親しんでいた思想と考えるべきだろう。
さて早速その処方を聞きたいところだが、白幽先生はご丁寧にも陰陽五行による生命観から説き起こす。その上で、肺の「火」を丹田(たんでん)におろし、腎(じん)の「水」を上へ上げて「交わる」ようにせよと言う。「交」こそが「生」の象だというのである。
通常、我々のからだは、下半身が温かく、上半身が涼しいのが理想とされる。じょうきょかじつ漢方では 「上虚下実(じょうきょかじつ・首から上ばかりにエネルギーが集中すると、下半身の力は抜けてきます)」というが、白隠の場合、これが逆になっているわけだから、気血を下のほうへおろさなくてはならない。その最良の方法が、「観の力」、内観の秘法だというのである。
じっは内観といっても、言葉、音、映像による方法と、さまざまあるのだが、ここでは私が実際に行っていた言葉による誘導法をご紹介しょう。これは『遠羅天釜(おらてがま)』巻の上に善かれている言葉を、唱えやすく修正したものである。
吾ガ気海丹田、腰脚足心、絶二足 越州ノ無字、無字何ノ道理力在る
(わがきかいたんでん、ようきゃくそくしん、そうにこれじょうしゅうのむじ、むじなんの どうりかある)
この調子で 「気海丹田、腰脚足心」と五度ほど繰り返し、是れ即ち「本来の面目」 「唯心の浄土」「己身(こしん)の弥陀」「本分の家郷(かきょう)」などと唱えていくうちに「気海丹田、腰脚足心」に意識がどんどん集まっていく。まるでそこが無限の可能性を秘めた場所のような気がしてきて、自然に下半身全体が温まっていくのである。
ちなみに 「足心」というのは土踏まずのことで、荘子は「真人」の呼吸は踵(かかと)でするのだと書いている。
奇想天外に聞こえるかもしれないが、『夜船閑話』 にも「唯心所現(ゆうしんしょげん)」とある。心に強くイメージした象に、からだは素直に従ってくれるのである。
むろん、心中で 「気海丹田」 とか 「腰脚足心」と唱えた途端、すぐに現実の自分の下腹部や腰・脚・土踏まずまで、意識を持って行かなくてはならない。意識が行った場所に気血(精気や血液)が運ばれ、ほどなくそこが温かくなってくるから不思議である。できれば息を深く長く吐きながらイメージを拡げてほしい。誰にでもできる言葉とイメージングによる身心調整法である。
▶その二 軟酥(なんそ)の法
言葉のイメージ喚起力を利用した身心調整法が 「内観の秘法」だとすれば、「軟酢の法」は純粋に映像的イマジネーションを用いる内観法といえるだろうか。いや、視覚だけでなく、熟練してくると味覚や喚覚も関係してくる。一生かかっても「用い尽くせない」方法だというのだから、相当奥深いのだろう。これも「内観の法」 の一つには違いないのだが、通常は単独で扱われることが多い。
軟酢とは、バターのようなものと思えばいい。ただしその色や香りが清浄だと感じることが大切だから、「私、バターは嫌いなの」という方は、たとえばラベンダーの香りの香油の塊とか、何でも好きなものを想定すればいい。とにかく鴨の卵ほどの大きさの軟酥が頭頂に載っており、それが融けてひたひた頭蓋に染み込み、首、肩、胸から全身が潤っていくイメージをもつ、というのだから、好きじゃなければ耐えられないだろう。
幸い私はバターが好きだし、先日も肩が痛かったため、軟醗の法を試みた。
まず大切なことは、坐禅のときと同じく、「目を収めて」坐ることである。短い時間しかない場合は、いっそ目は閉じたほうが効果的かもしれない(坐るのは椅子でもいい)。
そのうえで息を長く深く滑らかに吐きながら、頭上のバターが融けていく様子をなるべく精密に思い描くのである。
意識というのはその本性として一点に集まりやすい。するとすぐに思考が始まってしまい、映像的な動きが止まってしまう。だからいっそ刷毛で撫でるように面として思い浮かべたほうがいいかもしれない。息を吸うたびに頭上で融けたバターを想像し直し、それが吐きだす息と共に皮膚表面も内部も潤しっつ下へ下へとおりてゆくのである。
そうすると、不思議なことに、痛みのあった部分にも痛みを感じなくなっていく。それだけでなく、肺肝腸胃、あるいは横隔膜にも染み透ってゆくから、その辺りも調っていく。これはもう、喜びに満ちた最高のイメージングである。
しかもその際、皮膚や臓器ばかりか、これまでに積み重なってきた悪念なども下へ下へ流れ出ていくと想うのである。
呼吸のたびに上からイメージし直すが、一度通った場所は確認程度で済むし、まだ違和感がある場所には念入りに染み込ませればいい。そうしてどんどん下のほうに温かい液体が溜まり、しまいにはそういう香油のお風呂に下半身を浸したような気分になってくる。
一応、足心(土踏まず)からバターが融け出てくるようになったら終了、ということではあるが、もっと余韻に浸り、バターの風呂にも入っていたい、という場合は、どうぞ勝手に続けてください。
誰もが長年馴れ親しんでいるかに思えるそれぞれのからだではあるが、使いこなせるまでにはけっこう修練が要る。修練というより、それこそ「養生」というものだろう。よく「ご自愛ください」などというが、最近は自愛の仕方を知らない人が多い。一生使える自愛法として、軟酥の法は如何だろうか。鼻先に付けた毛さえ揺れないほど静かに息を吐きながら、全身の毛穴から息と一緒にバターが次第に皮膚や臓器ばかりか、横み主なっていた暴食なども下へ下へと流れ出ていく。それは人知れぬイメージングによる究極の自愛法である。
この方法に習熟した白幽先生は、山中で食料の蓄えがなくなり、数カ月の間食べずに過ごしたらしいが、凍えもせず、飢え死にすることもなかったという。
むろん、そんなことは真似しないでいただきたい。白幽先生はすでに百八十歳か二百四十歳か判らないほどの年齢なのだから、どうしても真似したければ百五十歳を超えてからにしてください。
(げんゆう・そうきゆう 臨済宗妙心寺派福聚寺 住職・作家)
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