「茨城県石岡市」において、17年もの長きの間、雨の日も雪の日も一日も欠かすことなく、離れてしまった飼い主に会いたいがために、「JR常磐線」に「石岡駅」へ通い続けた一匹の雑種犬「タロー」の実話です。
石岡市の石岡駅で昭和40~50年代、はぐれた飼い主との再会を17年間待ち続けた「忠犬タロー」を顕彰するブロンズ像が、同駅西口広場に建立され、大勢 の市民や関係者が祝う中、15日、除幕式が開かれた。動物愛護の象徴にもしようと、約40匹の犬による大行進も行われた。
タローは飼い主の幼稚園児と同駅ではぐれたあと、約2㌔離れた市立東小に迷い込み、そこから毎朝夕、陸橋や踏切を渡るなどして駅まで通い、駅舎で園児との再会を待ち続けたという。同小職員や児童、地域住民にも親しまれ、36年前に死んだ。
ブロンズ像の建立を進めたのは、東小の元校長や保護者を中心にした市民有志らの顕彰会(小貫敬雄会長、会員55人)。犬と人との深い愛情に包まれた実話には、全国から多くの賛同者を得て、目標の2倍となる500万円超の募金が集まった。
除幕式では、東小や、後に飼い主と判明した女性が通っていた石岡善隣幼稚園で、愛唱歌として歌い続けられている「タローは今日も」「ここで君を待ってるよ」を子どもたちが合唱し、ほぼ実物大のブロンズ像がお披露目された。
小貫会長は「タローの優しさ、振る舞いは子どもたちのお手本だった。後世に伝えることができて、皆さんに深く感謝する」とあいさつ。参加した上道唯衣さん (9)は「タローの歌がみんなで歌えて、とても楽しかった」、高栖光樹ちゃん(5)は「タロー像ができて、うれしい」と喜んだ。
物語は昭和39年、「東京オリンピック」の年に「石岡市立東小学校」へ迷い込んできた雑種の「子犬」のことから始まります。
「東京オリンピック」が閉会し、興奮まだ冷めやらぬ昭和39年の暮れ、「石岡市立東小学校」に迷い込んできた子犬を同校の「用務員さん」が見つけました。
寒空の下、茶色い毛並みは薄汚れ、首輪とともに針金が首に食い込み、血と膿が混じりあって、何とも痛々しく腫れ上がっていました。
用務員さんとその娘さんが首輪を緩め、針金を切ってあげてからエサをあげると余程お腹が空いていたのかアッというまにたいらげ、お腹が一杯になると安心したような表情でそのまま土間で眠ってしまいました。
そして、娘さんに「飼いたい・・・」とせがまれたことから、学校の敷地内にあった「用務員住宅」で子犬を飼い始めたのです。
当時の用務員さんは学校内に建てられた敷地内の「用務員住宅」に住むのが通例で、その子犬も学校の中で生活を始めるようになりました。
世の中がまだ寛容だったというか、犬を放し飼いにしても現在のように煩いことも言われず、子犬は広い学校の中を思う存分走り回り、児童たちの人気者にもなって、毎朝、登校時間には校門の前で子供たちを出迎え、1時間目の授業が開始される前は1年生の教室に入り、隅でおとなしく座り、授業の様子を見守っていました。
休み時間には子供たちと駆けっこやボール遊びなどで仲良く遊び、給食の時間が終わると、子供たちはわざと残した給食を持ち寄り、子犬が大好物だった「マーガリン」や「ミルク」、「肉」などを与えては美味しそうに食べるその表情を目を細めて見入りました。
寒い日は「職員室」のストーブの前で座ったり、「教頭先生」の机の下に潜り込んではスヤスヤと寝息を立てて寝ていました。
そんな人気者になった子犬のことを子供たちは「タロー」と名付け、教師、子供たち、学校全体で可愛がるようになったのですが、「タロー」には毎日欠かすことがない不思議な習慣がありました。
それは学校から約2キロほど離れた「石岡駅」へ朝夕の2回、決まった時間になると雨の日も雪の日も欠かすことなく通い、駅舎の待合場でじっと座ったまま、電車から降りてくる乗客一人ひとりの顔を眺めていました。
必ず決まった時間に駅を訪れ、しばらくすると寂しそうな表情を浮かべて寝ぐらにしている小学校へ帰っていく「タロー」のことがいつしか石岡駅の周辺でも話題になり、周辺の商店街の人たちもエサやオヤツなどを与えるようになって、小学校だけではなく街をあげて「タロー」を可愛がるようになったのです。
しかし、「タロー」を可愛がる児童や教師、街の人々にとって「タローは一体だれを待っているんだろう・・・」というのが最大の謎でした。
「毎日誰かを待ち続ける忠犬・・・」として「新聞」や「テレビ」にも取り上げられ、昭和52年には「日本動物愛護協会」から「タロー」を飼っている小学校が「表彰」もされました。
雨の日も風の日も・・・・・・一日も休むことなく「石岡駅」へ通い続けた「タロー」でしたが、やがて歳月は過ぎ、昭和56年7月に可愛がってくれた「用務員さん」のもとで静かに息を引き取りました。
昭和39年から亡くなるまでの17年間、死の前日まで「石岡駅」へ足を運び「誰か・・・・」を待っていた「タロー」でしたが、その願いは叶わず「タロー」は天国へ旅立ちました。
享年18才・・・・人間の年に換算すれば「90才」以上にもなる「大往生」でした。ところが「タロー」のそんな純粋で一途な思いが通じたのか「奇跡」が起きたのです。
「常磐線の紹介・・・」を特集する内容で「タロー」のことを掲載した「朝日新聞」の記事を読んだという一人の女性から、「もしかするとその犬は、昭和39年に石岡駅ではぐれてしまった自分の飼い犬かもしれない・・・・」と連絡が朝日新聞社に入りました。
その人は「行方市玉造町」に在住している女性で、当時4才だった彼女は「石岡市」の「石岡善隣幼稚園」まで「鹿島鉄道(既に廃線)」に乗って通園していて、「コロ」と名付けていた子犬が朝は駅で見送ってくれ、幼稚園から帰ってくる時間になると必ず駅まで迎えに来てくれていたそうです。
毎朝、必ず一旦車内に入って頭を撫でてやると降りて自宅へ戻っていった「コロ」だったのですが、ある日のこと、頭を撫で忘れたのか、「コロ」を乗せたまま列車が動き出してしまい、とうとう「石岡駅」まで「コロ」は一緒に来てしまいました。
駅を降りると駅員から厳しい表情で「これお嬢ちゃんの犬?」と尋ねられ、高圧的な物言いの駅員が怖くて彼女は思わず「違う・・・・」と答えてしまいました。
すると駅員は「この野良犬!出ていけ」と「コロ」を追い出し、「コロ」は一目散に姿を消してしまい、それが彼女にとって「コロ」との永遠の別れになってしまいました。
「コロ」と離れてしまったあまりのショックに彼女は熱を出し、心配した家族は何日も「石岡駅」周辺で「コロ」を探し歩いたのですが、とうとう「コロ」を見つけることは出来なかったのです。
それ以来、「あのとき嘘さえつかなかったら・・・」と「自責の念」にさいなまれながら歳月が過ぎたある日のこと、新聞を読んでいた彼女の父親が「忠犬タロー」を紹介する記事を読んで、「ひょっとするとコロのことかも知れないぞ・・・昭和39年に迷い込んだとある・・・」と言ったのをキッカケに、早速、彼女は新聞社へ問い合わせを行い、さらには「タロー」が飼われていた当時の「東小学校」の校長先生宅を訪ね、残された写真や映像を見せてもらい、毛の色や耳の特徴などからまぎれもなく「タロー」は昔「石岡駅」で離れ離れになった「コロ」だということを確信しました。
実に駅員に蹴散らされ逃げていく「コロ」の最後の後姿を見てから45年・・・・「コロ」が死んでから28年の歳月が経過していました。
一昨年、そんな「タロー」のことをネットで知り、「タロー」の生涯を紹介した一冊の本を購入しました。
著者は「今泉文彦さん」という方で、「コロ」の飼い主だった彼女が通っていた「石岡善隣幼稚園」の「園長先生」を経て、現在は「石岡市」の市長さんです。時が経ち、薄れゆく記憶の中で「忠犬タロー」のことを風化させてはいけないという思いから、長きの取材を経て書き上げられた一冊です。
この本を読み終え、昔、亡くなった母が枕元で読んでくれた「フランダースの犬」で感じたように、熱いものが込み上げ、久しぶりに感動した一冊でした。
先日、2日間にわたり、「茨城県」の「鉾田市」と「土浦市」での仕事があり、どちらも早めに終わったことから、「忠犬タロー」の「ゆかりの地」を訪ねてみることにしました。
最初は「玉造駅跡」です。コロ」は幼稚園児だった飼い主の幼い女の子とここから列車に乗ってしまいました。ここを通っていた「鹿島鉄道」は数年前に廃線となり、「駅舎」も残っていません。
駅舎が建っていた場所は住宅地に変わり、新築の家が建っています。
家の横の草が生えているあたりに「線路」があったと思われます。自分が10代だったころ、鉄道好きの友達に誘われ、一度だけ「鹿島鉄道」に乗ったことがありましたが、のんびりと走る列車の車窓から、のどかな田園風景と広大な「霞ヶ浦」の景色が広がっていたことを記憶しています。そんな「鹿島鉄道」も廃線となり、その名残はほとんど残っていません。
そして「鹿島鉄道」に乗って「コロ」が着いたのが、「JR(当時は国鉄)常磐線」の「石岡駅」です。「タロー」は雨の日も風の日も一日も休むことなく、死ぬ前日まで17年間この駅に通い続けました。昨年頃までは「コロ」が飼い主の少女を待ち続けていた古い「駅舎」が残っていましたが、今回訪ねてみると「駅舎」は新しく建て替えられていました。
駅の反対側も開発が進んでいて、「コロ」が通っていた頃の名残はほとんど残っていないのですが、新しい駅舎に入ってみると、「タロー(コロ)」の写真が飾られていました。
写っているのは「本」と同じ写真ですが、生前の「タロー」は写真を撮られることが嫌いだったようで、なかなかカメラを向けさせなかったそうですが、「タロー」をことのほか可愛がっていた、当時の「東小学校」の教諭で「U先生」だけには心を許したのか、カメラに収まった唯一の写真です。「タロー」を知る誰もが「ひかえめ」で「おとなしく」、決して吠えない利口な犬だったと回想するように、オットリとした感じの可愛い犬ですね。
場所は移り、「タロー」が長年住んだ「石岡市立東小学校」です。「東京オリンピック」が開催された「昭和39年」に飼い主と離れてしまった「タロー」はこの小学校に迷い込み、以来、「先生」や「用務員さん」、そして全校の子供たちに可愛がられ幸せに過ごしました。
「タロー」が天国へ旅立ってから35年が経ち、街の景観もすっかり変わってしまいましたが、小学校の横に建つこの古い家は当時のままのようです。「石岡駅」に通うにはこの家の前の道路を通っていくので、「タロー」は毎日この家も横目で見ていったはずです。
「石岡駅」まで行くために「タロー」が渡った「水戸街道」に架かる「歩道橋」・・・・・・見た感じが新しかったことから、後年架け替えられたものと思ったのですが、近くまで行って見つけた「プレート」には「1967年3月建造」と記載されていました。間違いなく「タロー」は毎日この歩道橋を渡って「石岡駅」へ通いました。
17年間も休まずに飼い主だった少女の姿を求め、「石岡駅」通いを続けた「タロー」でしたが、願いが叶うことなく「昭和56年7月20日」にひっそりと息を引き取りました。「タロー」を知る誰もがその死を惜しみつつ、「タロー」が長年暮らした「東小学校」では「先生方」をはじめ、全校生徒で「追悼式」を催して最後にタローを見送りました。
当時、「石岡市」には動物を埋葬する「霊園」がなかったことから、20数キロ離れた「土浦市」にある動物の墓地に最後まで可愛がってくれた第二の飼い主「用務員さん」の手により埋葬されました。小学校や駅とは違って、この墓地を探し出すのは大変でしたが、昔、この墓地を管理していた「お寺」の「住職さん」に場所を教えていただき、何とかたどり着くことが出来たのです。
住職さんによれば墓地の所有者が土浦市になったため、お寺での管理はやむなく諦め、その結果、現在は荒れ果ててしまったそうですが、「タロー」は今でもここで静かに眠っているそうです。
お墓の敷地内に建つ「仏像」の横には「愛」と刻まれた真新しい小さな「石碑」建てられていました。この石碑は誰が建てたのでしょうか・・・・・もしかすると「玉造」に住む最初の飼い主だった「R子さん」さんかもしれません。どちらにしても「仏像」と共に「タロー」の「御霊」を慰めているのは間違いありません。飼い主だった少女と会いたいという「一途な想い」で一日たりとも休むことなく「石岡駅」へ通い続けた「忠犬タロー」・・・・・
その死後、28年という時を経て叶った奇跡の再会・・・・人間と動物のあまりにも純粋で揺るぎない「絆」が再び二人を結びつけたと思っています。最後になりますが「2009年8月」に紹介された朝日新聞の記事と、「国民的歌手」だった「坂本九さん」のお嬢さん「大島花子さん」が「タロー」のために作詞作曲し、「石岡善隣幼稚園」の園児たちに寄贈した「歌」を紹介して今日のブログを結ぶことにします。
■新聞記事より
「45年越しの待ち人 タローは駅に通い続けた」
(2009年6月19日・・朝日新聞デジタル記事)
タローは石岡駅で誰を待っていたのだろう。朝夕2回決まって現れた。待合室に座り、改札口を通る乗降客をじっと見ていた。待ちくたびれると、同じ道をまた引き返していった。
茨城県石岡市立東小学校で飼われていた雑種犬。
1964年(昭和39年)に、迷い込んできた。しばらくして駅通いが始まった。駅までは約2キロ。学校の正門を出て歩道橋を駆け上がり、車の多い国道6号を西へ向かう。横断歩道を渡って坂を下り、交差点を右折、常磐線の踏切を渡ると駅が見えてくる。赤と青を見分け、ちゃんと信号を守った。 先生や児童たちみんなに愛されていた。たいていは職員室の教頭の机の下にいた。
登校時間になると、1年生の教室を順番に回る。自分で戸を開けて入り、教室の隅で児童を見守った。昼休みは校庭で「給食」。好物のマーガリンと飲み残しの牛乳を子どもたちにもらった。
寄り道をして帰ることもあった。駅前の定食屋とそば屋はなじみの店だ。よく立ち寄ってはごちそうになった。そんなときは帰りが夜7時を回った。いまだったら、たちまち捕獲されて処分されるに違いない。当時は高度成長期を迎え、人々が豊かになり始めた時代。社会は寛容さを備えていた。
72年に校長として赴任した橋本千代寿さん(88)は、タローとの8年間の思い出を大切にしている。
夏休みのある日、「店の玄関にお宅の犬がいる」と駅前のスーパーから電話があった。迎えに行くと、店内から流れてくる冷房の効いた風を受けて、ちゃっかり涼んでいた。「犬はつないでおいて下さい」と保健所に2度、注意された。「黙認してほしい」と嘆願した。保健所長は黙っていた。
主人を思って駅へ通っていたというのが地元の見方だ。「そう思うと不憫(ふびん)でね。そんな犬を鎖でつないでおけますか。」橋本さんは保健所の指導に背いたことをいまも後悔していない。
橋本さんが退職した翌81年の夏、タローは死んだ。20歳近いとみられる。全校生で追悼式をして土浦市内の寺に葬った。晩年のタローは一日中、職員室で寝ていた。しかし、時間になると起き上がり、学校を出て行った。駅通いは動けなくなるまで続いたというから、最後まで「主人」が現れることはなかったのだろう。
「その犬は多分、45年前に迷子になった愛犬コロです。」 行方市で住宅設備会社を営む「N.R子さん(50)」から連絡があった。コロは63年に生後4カ月で家にやってきた。当時「Nさん」は5歳。自宅から200メートルの鹿島鉄道(07年に廃線)玉造町駅で電車に乗り、幼稚園のある11駅目の石岡駅へ通っていた。
玉造町駅への送迎は、家業の陶磁器店で忙しい両親に代わって、コロがしてくれた。毎朝、一緒に電車に乗り込んできた。「Nさん」が座席に着いて、頭をなでてやると、電車を降りて引き返していった。帰りは駅の待合で待っていた。
翌64年のある朝、頭をなで忘れたのか、コロは電車を降りずに、石岡駅まで付いてきてしまう。「お嬢ちゃんの犬?」と改札口で駅員に聞かれた。犬を乗せたことを怒られると思って首を振った。コロは追い払われた。それが最後になった。
ショックで熱を出し、10日間寝込んだ。父親の「Yさん(85)」は石岡駅周辺へ6回も探しに行った。コロは教室をのぞきに3度、幼稚園に現れた。だが、園が捕獲しそこでねてしまい、その後の消息はつかめずにいた。
その年、1匹の犬が石岡東小に迷い込む。しばらくして、朝夕の石岡駅通いを始めた。一方、「Nさん」は翌年に卒園すると、石岡駅を使うこともなくなり、その犬を見ていない。茶色いオスの雑種。垂れた耳、剛毛。それに同小創立50周年記念誌に載った犬の写真。「タロー」と呼ばれたその犬こそ、コロに間違いないと、「Nさん」と両親は確信している。
コロは81年の夏に死ぬまで石岡駅に通い続けた。ずっと自分を探していたと思うと、胸が痛む。「あの時、駅員にウソさえつかなければ」。45年間抱き続けてきた自責の念にさいなまれる。もっと捜せばよかったと、改めて思う。「でも、コロがみんなに愛されていたことがわかり、救われる思いがします」
12年前の誕生日に、三つ上の姉から贈られた手作り絵本を宝物にしている。題名は「コロ」。傷心の妹を慰めるためだった。絵本を開くたびに涙が出る。最後のページに、こう書かれているからだ。
「ゆめでもあいたいと、コロは今日も駅にいます」 (O.S)
♪ここで君を待ってるよ♪
作詞・作曲 大島花子