コラージュの作家たち

■作家名・略歴

▶赤瀬川原平(あかせがわ・げんペい)

 1937年(昭和12年・1937年3月27日 – 2014年10月26日)、神奈川県横浜市生まれ。本名・克彦。小説家としては尾辻克彦の名を用いる。日本の前衛美術家、随筆家、作家。本名、赤瀬川克彦。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある[1]。神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。兄は直木賞作家の赤瀬川隼。姉の赤瀬川晴子は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人。2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。

 1956年から読売アンデパンダン展に出品。1957年、1960年、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加。1963年、高松次郎、中西夏之と「ハイレッド・センター」を結成。1965年、千円札の表を原寸大に印刷した作品が「通貨模造」の容疑で起訴され、1970年有罪確定。同年、『オブジェを持った無産者』を刊行。1978年、最初の小説『レンズの下の聖徳太子』を発表。1979年、『肌ざわり』が中央公論新人賞を受賞。1981年、『父が消えた』で第糾回芥川賞を受賞。1986年、藤森照信らと「路上観察学会」を結成。1995年、名古屋市美術館で「赤瀬川原平一脳内リゾート開発大作戦」を開催。

 

▶荒川修作(あらかわ・しゅうさく)

 1936年(昭和11年)、愛知県生まれ。1954年、武蔵野美術学校中退。1958年から読売アンデパンダン展に出品。1900年、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」結成。同年、個展「もう一つの墓場」を開催。1961年、国立近代美術館の「現代美術の実験」展に出品。この年からニューヨーク在住。19糾年、ロサンゼルス・ドワン画廊で個展「ダイヤグラム」を開催。1968年、第8回現代日本美術展で最優秀賞を受賞。1971年、西ドイツで『意味のメカニズム』を刊行。1979年、西武美術館で個展開催。同年。国立国際美術館で「荒川修作の世界・意味のメカニズム」展を開催。1992年、東京国立近代美術館で個展開催。

 

▶飯田善国(いいだ・よしくに)

 1923年(大正12)、栃木県足利市生まれ。1949年、慶応大学卒業。同年、東京芸術大学油画科に入学。1953年、同校卒業。1955年、河原温らと制作者懇談会を結成。同年、渡欧。イタリアで彫刻家ファツチーニに師事、彫刻に転じる。1958年、ウィーンで銅版画を学ぶ。1961年、ウィーン市美術奨励賞を受賞。同年から66年まで、ベルリン在住。1967年、ベルリン市主催彫刻指名コンペで1等賞を受賞。1968年、帰国。同年、「ミラー・オン・ザ・コンストラクション」で第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展の大賞受賞。著書に『みえない彫刻』など。

▶池田満寿夫(いけだ・ますお)

 1934年(昭和9)、中国生まれ。1952年、長野北高校卒業。銀座で似顔絵描きをしながら、版画を学ぶ。1955年、真鍋博らとグループ「実在者」を結成。1956年、油彩による最初の個展開催。同年、瑛九の助言で、色彩銅版画を始める。1960年、東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞。1鮪5年、ニューヨーク近代美術館で個展開催。1966年、第㍊回ベネッイア・ビエンナーレ展で版画大賞を受賞。1967年、銅版画集『夏の夢』などで芸術選奨文部大臣賞を受賞。1976年、小説『エーゲ海に捧ぐ』で野生時代新人文学賞を受賞、続いて翌年上半期芥川賞受賞。1983年、「池田満寿夫の知られざる世界展」開催。1985年から、陶芸制作を開始。1986年、国会図書館ロビーを飾る大タペストリーを完成。著書に『私の調書』(1968年)、『模倣と創造』(1969年)など多数。

▶今井滋(いまい・しげる)

 1910年(明治狙)、長崎生まれ。1930年協会研究所、新洋画研究所、独立美術研究所等で学ぶ。独立美術研究所の四人の画家とともにNINI展を結成。のち新造型美術協会を結成。美術文化協会の創立に参加する等、戦前の前衛美術運動に積極的に献身した。また造型写真研究会等で前衛写真の制作にも着手した。戦時中は美術雑誌「アトリエ」の特派員として中国に渡る。戦後は美術界では目立った活動はしていない。練馬区に在住したが、1991年(平成3)、死亡。

▶今井俊満(いまい・としみつ)

 1928年(昭和3)、京都市生まれ。19胡年、武蔵高校文科卒業。1951年、第15回新制作展で新作家賃を受賞。1952年、白木屋で初個展。同年、渡仏。1955年、評論家ミシェル・タピエと出会い、またアンフォルメルの作家たちを知る。1957年、パリ・スタドラー画廊で個展。同年秋、一時帰国。マチウらと展覧会開催。1959年、パリ青年ビエンナーレ展に出品。1960年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に出品。1962年、第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞。1963年、第7回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1977年、インド・トリエンナーレに出品。1981年、原美術館で個展開催。1982年から「花鳥風月」シリーズの制作を開始。19糾年、フランス政府より文化勲章オフィシェを受章。

▶瑛九(えいきゅう)

 1911年(明治44)、宮崎県生まれ。本名・杉田秀夫。1925年、上京。1926年、日本美術学校洋画科中退。1927年から「みづゑ」「アトリエ」等に美術評論を執筆。1930年、オリエンタル写真学校に入学、写真の研究を始める。また1933年まで「フォトタイムス」にフォトグラムや批評を発表。1934年から翌年にかけて油彩画に専心。1936年、新時代洋画展同人となる。以来、瑛九と名乗る。同年、フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。1937年、自由美術家協会の結成に参加。戦後にかけて油彩画、フォト・デッサンの制作を続ける。1950年、エッチングの制作を開始。1951年、自由美術協会を退会。デモタラート美術家協会を組織。『真昼の夢』刊行。1952年、タケミヤ画lllO廊でフォト・デッサン展。同年、創造美育協会創立に参加。1956年、リトグラフの制作に専心。1958年、点描の油絵制作に専心。1900年、兜屋画廊で油絵展開催。1960年(昭和35)、東京で死去。

▶大野傲罵(おおの・ひでたか)

 1922年(大正11)、京都市生まれ。本名・秀隆。1943年、京都市立絵画専門学校日本画科卒業。1947年、第3回京展に「城南の春」を出品、京展賞を受賞。同年、第3回日展に「海」が初入選。19媚年、下村良之助、三上誠らと「パンリアル美術協会」を結成。1958年、同会を退会。同年、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「群集」を出品。1959年、中南米巡回日本現代絵画展に「二つのフォルム」を出品。1961年、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「黄の三つの形」などを出品。1971年、抽象的表現から伝統的日本画の表現に復帰。1973年、京都市立芸術大学教授。同年、京都市文化功労者に選ばれる。

 ▶川俣 正(かわまた・ただし)

 1953年(昭和28)、北海道生まれ。1982年、第40回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展に出品。1983年、福岡市美術館の「素材と空間」展に出品。1984年、ヒルサイト・テラスで「工事中」展開催。1985年、ニューヨークで「P.S.1」プロジェクト。1987年、「ドクメンタ8」に出品。同年、第19回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。1鰍)年、水戸芸術館の「作法の遊戯」展に出品。1鮒1年、「プライマル・スピリット」展に出品。同年、第8回JAPAN牛窓国際芸術祭第4回ビエンナーレ展に出品。1992年、世田谷美術館の「都市と現代美術」展に出品。同年「ドクメンタ9」に出品。同年、ニューヨークでプロジェクト・オン・ルーズヴュルトアイランド。1鮒4年、伊丹市立美術館で「工事現場からの提案▼アーカイヴ1984−1鮒4」展開催。1995年、東京都現代美術館の「日本の現代美術1985−1995」展に出品。

▶菊畑茂久馬(きくはた・もくま)

 1935年(昭和10)、長野県生まれ。1953年、福岡県立中央高校卒業。1957年、初個展。第2回九州派街頭展に参加。1958年、第10回読売アンデパンダン展に「ポロックに捧ぐ」を出品。1961年、国立近代美術館の「現代美術の実験展」に「奴隷系図」を出品。19糾年、南画廊の「ヤング・セブン展」に「ルーレット」を出品。1965年からアメリカ各地を巡回した「日本の新しい絵画と彫刻展」に出品。1970年から、美学校にて講師。1980年、雑誌「機関」を復刊。1981年、東京国立近代美術酷の「1900年代一現代美術の転換期」に出品。19g∋年、東京都美術館の†1粥0年代一多様化への出発」に出品。1985年、オックスフォード近代美術館の「日本の現代前衛美術1945−1965」に出品。1986年、ボンピドゥ・センタニの「前衛芸術の日本19壬0−1970」に出品。1988年、福岡市美術館の「九州派展」に出品。『フジタよ眠れ』(1978年)、『戦後美術の原質』(1982年)など著書多数。

▶北脇昇(きたわき・のぼる)

 1901年(明治誕)、名古屋市生まれ。1917年、同志社中学中退。1919年、鹿子木孟郎の下鴨画塾で学び、また津田育楓に師事した。1932年、二科展に初入選。1933年、独立美術京都研究所の設立に尽力。以後、独立展に出品。1935年、同研究所のメンバーと新日本洋画協会を設立。シュールレアリスムに傾倒し、1937年の独立展に「独活」を出品。翌年、京都市展に出品、市長賞を受賞。また創紀美術協会の結成に参加。1939年、美術文化協会の結成に参加。同年、独立美術協会を退会する。1946年、自宅を事務所に美術文化研究会を設置する。1947年、日本アヴァンギャルド美術家クラブに参加、同クラll12プ主催のモダン・アート展に出品。・1951年(昭和26)、死去。

▶清塚紀子(きよつか・のりこ)

 1940年(昭和15)、旧満州国奉天省に生まれる。1968年、東京芸術大学大学院油絵専攻小磯教室修了。第32回新制作協会展に出品、新作家賞を受賞。1969年、第37回日本版画協会展に入選。1970年、第1回版画グランプリ展で賞候補賞受賞。1971年、第39回日本版画協会展で会友賞を受賞。初個展。1972年、横浜市民ギャラリーの「今日の作家’72」に出品。1975年、栃木県立美術館の「1975日本の版画」展に出品(1900年、1985年も出品)。1976年、第12回現代日本美術展で東京国立近代美術館賞を受賞。 ̄1977年、東京造形大学造形学部美術学科非常勤講師。1984年、第15回日本国際美術展で和歌山県立近代美術館賞を受賞。1985年、第1回和歌山版画ビエンナーレ展で佳作賞を受賞。1987年、渋谷区立松涛美術館の「現代の版画1987」展に出品。1988年、東京国立近代美術館の「日本現代美術−1945年以後」に出品。1992年、板橋区立美術館で「板橋の現況一清塚紀子・米林雄一展」開催。

▶草間彌生(くさま・やよい)

 1929年(昭和4)、長野県松本市生まれ。1949年、京都市美術工芸学校絵画科卒業。1952年、初個展。1957年、渡米。反復によるモノクローム絵画の制作を開始。アメリカでの初個展。1959年頃から増殖する無限の水玉による作品を制作。1961年から、ソフト・スカルプチャー、環境芸術へと展開。1粥0年代後半、徴発的なハプニング、映画、雑誌等の制作と展開。1975年、帰国。1978年以降、小説を発表。1981年、東京国立近代美術館の「1960年代 現代美術の転換」展に出品。1983年、『クリストファー男娼窟』で野性時代新人文学賞を受賞。1986年、フランスのカレー市美術館、ドール市美術館で個展。ジョルジュ・ボンピドー・センターの「前衛芸術の日本1910−1970」に出品。1987年、北九州市立美術館で個展。1989年、ニューヨークの国際芸術センター、イギリスのオックスフォード近代美術館で回顧展開催。1992年、草月美術館、新海市美術館で「草間弥生−はじける宇宙」展開催。1993年、第45回ヴェネツィア・ビエンナ⊥レ国際美術展に日本代表として出品。1994年、長野県信濃美術館で個展開催。著書、個展多数。

▶斎藤寿一(さいとう・じゅいち)

 1931年(昭和6)、神奈川県生まれ。1949年、県立川崎高校卒業。1951年、目黒洋画研究所に学ぶ。1955~盟年、加山四郎に油彩画を師事、春陽会に出品。1958年、パリに留学。同地でヘイターのアトリエ17、浜口陽三に銅版画を学ぶ。1959年、第1回パリ青年画家ビエンナーレ展に出品。同年、帰国。1900年、初個展。同年、第4回シェル美術賞展で版画賞を受賞。19腿年、第5回リュプリアナ国際版画ビエンナーレに出品。1975年、川崎市文化賞を受賞。1976年から和光大学教授。1900年、「現代美術の一断面」(東京都美術館)に出品。版画のみならず、壁画、レリーフなどの分野でも活躍した。著書に『スライドによる銅版画の技法』(1966年)がある。1992年(平成3)12月、死去。

▶斎藤義重(さいとう・よししげ)

 1904年(明治37)、東京都生まれ。日本中学卒業。1920年、東京星製薬で開催されたプルリューク展に衝撃を受ける。1929年頃から構成主義的、抽象的な試作を始める。19㍊年、駿台アヴァンギャルド洋画研究所に学び、古賀春江、東郷育児に師事。1936年、「出立」「アヴァンギャルド」で第23回二科展初入選。1938年、絶対象派協会、二科会九室会の結成に参加。同年から「トロウッド」シリーズの制作を開始。1939年、美術文化協会を結成。1952年、合板によるレリーフ制作を再開。1957年、日本国際美衝展で「鬼」がK氏賞を受賞。1959年、日本の洋画家で初めての国際美術評論家連盟賞を受賞。1960年、「作品R」が現代日本美術展最優秀賞を受賞、またグッゲンハイム貴国際展の国内・国際両賞を受賞。1978年、東京国立近代美術館で個展開催。1984年、東京都美術館等で個展。1985年、朝日賞受賞。1993年、横浜美術館で個展。

▶五月女幸雄(さおとめ・ゆきお)

 1937年(昭和12)、栃木県生まれ。現代日本美術展、安井賞展等に出=13品。EXPO沖縄現代絵画展で優秀賞を受賞。インド・トリエンナーレ国際美術展に出品。パリに在住。

▶佐野繁次郎(さの・しげじろう)

 1900年(明治3)、大阪市生まれ、1924年、信濃橋洋画研究所創立とともに入所、小出楢重に師事。1929年、第16回二科展に初入選。1930年、同人誌『作品』創刊に際し、表紙やカットを担当。1931年、第18回二科展で「休日」に樗牛賞を受賞。横光利一『機械』の装丁を担当。1935年、東京府美術館10周年記念現代綜合美術展覧会に出品。1937~1939年、渡仏。1943年、中川紀元と二人展開催。1947年、第1回第二紀会に出品。1951~1953年、再渡仏。1952年、パリのアンリ・トロンシュ画廊で個展開催。1953年、第2回目本国際美術展に「ピエロ」を出品。1954年、個展開催。1955年、『銀座百点』の表紙を担当(1969年まで)。1957年、現代美術の傑作展に出品。1958年、グッゲンハイム国際美術展に出品。1959年、サンパウロ・ビエンナーレに出品。1987年(昭和62)、死亡。1鮒3年、神奈川県立近代美術遺作展開催。

篠原有司男(しのはら・うしお)

 1933年(昭和8)、東京都生まれ。本名・牛男。1957年、東京芸術大学中退。1958年から読売アンデパンダン展に出品。19詔年、個展「ロカビリー画家」。1960年、グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成。1963年、第7回シェル賞展に出品、佳作葺受賞。1964年、個展「日本衛生草紙」。1965年、個展「ハリボテ・ボクシング」。・1966年、国立近代美術館の「現代美術の新世代J展に出品。個展「女の祭」。19舶年、自伝『前衛への道』を刊行。-1鮒年、ロックフェラー3世奨学金で渡米、以後ニューヨークに在住。1野3年、京都国立近代美術館の「アメリカの日本作家」展に出品。19乃年、僻「ニューヨークの産物 篠原有司男のオートバイ作品展上1繋1年、東京国立近代美術館の「1960年代一現代美術の転換期」展に出品。1985年、画文集『ニューヨークは今日も大変だj瓶】1淵年、旬最「ネオ野獣派宣言」。1991年、個展「モーターサイクル棚引。l!粉2年、広島市美術館等で個展開催。

▶島田章三(しまだ・しょうぞう)

 1933年(昭和8)、神奈川県横須賀市生まれ。1㈱年、東京芸術大字油画専攻科修了。在学中の1957年、第乱回国商会展瀾会革を受賞。1961年、_国画会会員となる。事脱年、初個展開催。1鰯年、新設の愛知県立芸術大学に赴任。1粥7年、「母と子のスぺナス」で第11回安井賞を受賞。1968年、ヨーロッパ留学、キューブスムに大きな影響を受ける。1973年、「島田章三の20年展」開催。1974年から愛知県立芸術大学教授。1976年、中日文化賞を受賞。1979年、明日経の具象展結成に参加。1980年、「炎」により第3回東郷育児美術館大賞を受賞。同年、第3回愛知県芸術文化選奨を受賞。1983年、池田加世紀美術館で「島田章三の世界」を開催。1900年、「烏からの啓示」により第8回宮本三郎記念賞を受賞。

▶清水晃(しみず・あきら)

 1936年(昭和11)、富山県生まれ。1957年、金沢美術工芸大学卒業。同年、上京。1962年、村松画廊で初個展開催。1963年、第15回読売アンデパンダン展に「リクリエーション」を出品。同年、第7回シェル美術賞展に「色盲検査表」を出品、第一席賞受賞。1964年、実物大の郵便ポストの制作を開始。また「オフ・ミュージアム展」に出品。1966年、国立近代美術館の「現代美術の新世代」展に「ブラック・ライト」を出品。1∈桁7年、「照明と環境展」に殺菌灯による作品を出品。1968年、神戸・そごうの「現代の空間’68一光と環境」に出品。1970年、「炎によるタブロー」を出品。1980年、デッサンとオブジェによる「漆黒から」のシリーズを制作開始する。

▶下郷羊雄(しもぎと・よしお)

 1907年(明治胡)、愛知県鳴海生まれ。1929年、京都の津田青楓洋画塾に入塾。1930年、全関西展に出品。1932年、第19回二科展に初入選。津田塾名古屋研究所を開設し、北脇昇らと管理運営。1934年、第4回独立美術協会展に初入選。1935年、初個展。新造型美術協会に参加、山中散生、瀧口修造と親交をもつ。会員となる。1937年、ナゴヤ・アヴァンギャルド・クラブを結成。この頃から写真に熱中。1939年。ナゴヤ・フォト・アヴァンギャルドを結成。第3回自由美術家協会展に「放射する設計」等を出品。1940年、戦前の代表的な超現実主義写真集『メセム属』を刊行。戦後は、独特の「不条理芸術」を制作。美術文化協会会員として活躍。1963年、愛知県美術館で回顧展開催。1976年、個展開催準備中、火災により主要作品の多くを焼失。1981年(昭和56)、死去。

   

▶杉全直(すぎまた・ただし)

 1914年(大正3)、東京都生まれ。1938年、東京美術学校油画料卒業。在学中の1936年に「蓮池」が第23回二科展に初入選。1939年、美術文化協会創立とともに同人となる。1940年、応召。1951年、初個展。1953年、美術文化協会を退会。1958年、第3回現代日本美術展にll14「窪んだ空間A・B」を出品、優秀賞を受賞。1959年、日本国際美術展で「湧く」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。1961年、第6回目本国際美術展に「きっこう」を出品、ブリヂストン美術館賞を受賞。同年、第6回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1962年、第31回ヴュニッイア・ビエンナーレ展に出品。1981年、前年の「1938−1975杉全直展」などにより芸術選奨文部大臣賞を受賞。1987年、回顧展開催。1968〜73年、多摩美術大学教授。1977〜81年、東京芸術大学教授。1994年(平成6)1月、死去。

▶タイガー立石(たいが・たていし)

 1941年(昭和16)、福岡県生まれ。本名・立石紘一。1962年、第17回行動展に木彫作品が入選。1963年、武蔵野美術短期大学芸能デザイン科卒業。第15回読売アンデパンダン展に「共同社会」を出品。1964年、「ヤング・セブン展」に出品。ケ初個展「立石紘一 積算文明展」。また中村宏と「観光芸術研究所」を創設、観光用ポスターのイメージを逆用した「観光絵画」を制作。1966年頃から漫画を描き始める。1968年、漫画集『TIGARTATEISHI』を刊行。1969年、渡伊。絵画制作に集中する。1971〜74年、オリベッテ社のE・ソットサス工業デザイン研究所に所属。1980年、第16回ミラノ・トリエンナーレ展に出品。1982年、帰国。「視覚サーカス」展に出品。漫画集『虎の巻』を刊行。「タイガー立石のおかしな世界」展。1983年、東京都美術館の「1960年代一多様化への出発」に出品。1987年、個展「月海観光」。1989〜92年、村松画廊で回顧展。1994年、田川市美術館で個展開催。近年、立石大河亜の名前を使用する。

▶高井貞二(たかい・ていじ)

 1911年(明治期)、大阪市生まれ。1930年、上京。同年、第17回二科展に「文明」が初入選。同年、東郷育児らの「新造型工房」に参加。

▶村上善男(むらかみ・よしお)

1933年(昭和8)、岩手県盛岡生まれ。1953〜1鋸1年、二科展に絵画、彫刻を出品。1955年、初個展開催。後個展多数。1957年、第1回国際青年美術展に出品。1900年、第4回シェル美術賞展に出品、佳作賞受賞。1962〜1粥3年、集団α展に出品。1963年、国立近代美術館京都分館の「現代美術の動向」展に出品。朝日秀作美術展に出品。1964年、横浜市民ギャラリーの「今日の作家,糾」展に出品。19(近年、京都国立近代美術館の「現代美術の動向」展に出品。1971年、横浜市民ギャラリーの現代日本版画展に出品。1976年、横浜市民ギャラリーの「今日の空間展」に出品。1980年、栃木県立美術館の「,80日本の版画」展に出品。1981年、東京美術センターの「戦後美術35年の歩み展」に出品。1988年、東京都美術館の「1960年代一現代美術の動向」展に出品。1985年、オックスフォード近代美術館の「日本前衛美術の展開」展に出品。1991年、宮城県美術館の「昭和の絵画」展に出品。

▶村山知義(むらやま・ともよし)

 1901年(明治朗)、東京生まれ。.開成中学、一高に学び、東大哲学科を中退。1922年1月から翌年1月まで、ドイツに留学。ベルリンやデュッセツドルフで作品を発表。帰国後、意識的構成主義を唱える。1923年マヴォ結成に参加。関東大震災後、マヴォの中心的人物として、展覧会活動、美術評論、パフォーマンス、小説、批評等で活躍。1924年、三科の結成に参加。同年、築地小劇場公演のカイザー作「朝から一夜中まで」の舞台装置を担当、注目される。1925年、河原崎長一郎らと心座を結成。1928年、左翼劇場を結成、プロレタリア演劇運動の推進者となる。著書に『演劇的自叙伝』(1970〜74年)、『村山知義戯曲集(上下)』(1971年)等がある。1977年(昭和52)、死去。

▶杢田たけを(もくた・たけを)

 1910年(明治43)、兵庫県豊岡市生まれ。日本画家の小泉勝爾に師事、日本美術学院で学ぶ。1930年、洋画に転向し、須田国太郎に師事。1935年、第5回独立美術協会展に「鉄屑のある風景」が初入選。1947年、独立賞受賞。1949年、独立美術協会会員となる。1953年、上京。現代日本美術展、朝日秀作美術展、日本国際美術展に出品。戦後は、廃材、金属、布、紙などを画面に貼り付けたレリーフ状の作品を制作。1984年、亀谷美術館で個展。1987年(昭和62)、死去。1988年、練馬区立美術館で追悼展開催。1992年、ストライプハウス美術館で回顧展開催。

▶森村泰昌(もりむら・やすまさ)

 大阪生まれ。京都市立芸術大学卒業。1986年、個展「すみれ色のモノムール、その他」開催。1987年、栃木県立美術館の「現代美術になった写真」展に出品。1988年、第43回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展(アペルド88)に出品。同年、個展「マタに手」を開催。1989年、ゲント市立現代美術館の「ユーロパリア,89ジャパン」に出品。「アゲインストネーチャー」展に出品。同年、個展「批評とその愛人」開催。1990年、個展「美術史の娘」開催。同年、京都国立近代美術館の「移行するイメージ19幼年代の映像表現」展に出品。1991年、東高現代美術館の「ゾーンズ・オブ・ラブ」展に出品。1994年、個展「サイコボーグ」開催。同年、原美術館で「森村泰昌 レンブラントの部屋」を開催。同年、横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」に出品。1995年、東京都現代美術館の「日本の現代美術1985−1995」展に出品。

▶柳瀬正夢(やなせ・まさむ)

 1900年(明治3)、愛媛県松山生まれ。本名、正六。門司で洋画を独習。1914年、上京し、日本水彩画研究所、日本美術院研究所に学ぶ。1915年、15歳で油彩「河と降る光と」が第2回院展に初入選。1916年、北九州で小倉分離派洋画協会などで活動。1920年、読売新聞社に入社。1921年、第二次『種蒔く人』同人となる。また第2回未来派美術協会展に、穴明共三の名で出品。1923年、村山知義らと「マヴォ」を結成。1924年、「三科」の結成に参加。1925年、『無産者新聞』の専属画家となる一方、日本プロレタリア文芸連盟の創立に参加。1926年、日本漫画家連盟を創立。1929年、『無産階級の画家ゲオルゲ・グロツス』刊行。1932年、治安維持法違反で検挙。1945年(昭和20)、新宿駅西口の空襲で死亡。1978年、愛媛県立美術館で、1鮒0年、武蔵野美術大学美術資料図書館で、1915年、町立久万美術館で回顧展開催。

▶山下菊二(やました・きくじ)

 1919年(大正8)、徳島県生まれ。1937年、香川県立工芸学校金属工芸科卒業。1938年、上京し、福沢一郎絵画研究所に学ぶ。1939〜墟年、台湾・中国で兵役。1940年、美術文化協会第1回展に入選。1945年、再召集。1946年、日本美術会の結成に参加。1947年、前衛美術会の結成に参加。1951年から、日本アンデパンダン展に出品。1953年、「あけぼの村物語」を第1回ニッポン展に出品。「絵画におけるルポルタージュの問題」に取り組む。1954年、「新ニッポン物語」を第2回平和美術展に出品。1962年、初個展を東京・新橋画廊で開催。1974年、仇人展などに出品。1975年、第1回東京展に出品。1985年、オックスフォード近代美術館の「再構成・日本の前衛美術1945−1965」に出品。1986年11月、死去 没後パリ・ボンピドゥ・センターの「前衛美術の日本・1910〜1970展」に出品01986年(昭和61)、死去。

▶山本悍右(やまもと・かんすけ)

 1914年(大正3)、名古屋市生まれ0実家は写真材料を扱う山本五郎商店。1929年、名古屋商業高等学校卒業後、東京のアテネフランセでフランス語を学ぶ。1937年、北園克衛の前衛詩人グループ「VOU」クラブの同人となり、1978年の解散まで活躍01938年、山中散生とシュルレアリスム詩誌「夜の噴水」を刊行01939年、「ナゴヤ・フォト・アヴアンガルド」に参加01947年、高田皆義らと写真家集団「㈸㈵㈸㈵社」を結成01950年、第10回美術文化協会展に出品01952年、美術文化協会写真部会員二よる「造型写真作家展」に出品01956年、実験グループ四SPACE」を結成0195絆、前衛詩人協会の結成に参加。年刊アンソロジー『鋭角・黒・ボタン』に詩、写真を発表01987年(昭和62)、死去。

▶山脇道子(やまわき・みちこ)

 1910年(明治功、東京生まれ0192絆、東京女子高等師範学校付属高等女学校卒業。藤田巌と結婚、藤田は山脇家の養子に入る01930年、夫婦で渡欧。同年9月、デッサウのバウハウスに入学。テキスタイル工房でシュテルツルらの指導を受ける。1932年、帰国0同年、資生堂ギャラリーで「バウハウス織物個展」を開催。1930年、新建築工芸学院織物科を設立。1936年、改組第1回帝国美術院展覧会に入選。同年、日本工芸協会理事に就任。実在工芸展に出品01954年、「グロピウスとバウハウス」展の織物室の展示構成を担当0昭和女子大学被服科、日本大学芸術学部美術学科テキスタイルデザイン科などで後進を指導。1995年、『バウノ→ウスと茶の湯』を刊行

▶山脇巌(やまわき・いわお)

 1898年(明治31)、長崎県対馬生まれ。旧姓・藤田01926年、東京美 術学校建築科卒業。在学中から築地小劇場の舞台装置を手掛ける0 横河工務所建築設計部に勤務01930年、山脇美知子と結婚0同年、 夫婦で渡欧。デッサウのバウハウス建築科に入学、ミース・フアン● デル・ローエらに師事。1932年、帰国01933年、山脇建築事務所を 開設。1934年、『オランダ新建築』を刊行01935年、山脇邸完成。1935年から帝国美術学校で、1939年から日本大学で建築を講じる01949年、日本大学芸術学部美術学科の設立に尽力、同学科の主任教 授となる。1954年、『近代建築家7バウハウスの人々』を刊行01鮪6 〜1971年、「バウハウス訓年」展の日本要員を務める01977年、日本大学名誉教授。1987年(昭和62)、東京で死去0「日本大学芸術学藩校舎」「ニューヨーク万国博覧会国際館日本部」「旧俳優座劇場」等の建築設計に従事した。

 

▶横尾忠則(よこお・ただのり)

 1936年(昭和11)、兵庫県西脇市民生まれ01954年、県立西脇高校卒業。1957年、日量美展奨励賞受賞01965年、第11細目産業デザイン賞受賞。1966年、初個展01969年、版画「責場」で第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリ受賞01972年、ニューヨーク近代美術館で個展開催。1973年、東京ADCで最高賞を受賞0197件、アムステルダム市立美術館で個展開催01975年、第20回毎日デザイン賞を受賞。1978年、講談社出版文化賞装幌部門賞受賞0198弾から、表現主義的色彩の濃い絵画を発表01983年、西宮大谷言捻美術館、パリ広告美術館で個展。1985年、第18回サンパウロ・ビュンナレ展に出品。1986年、パリ・ジョルジュ・ポンピドーセンターの「前衛芸術の日本展1910−1970」に出品01987年、填庫県文化賃受賞。『横尾忠則グラフィック大全』(1988年)等著書多数。

▶吉仲大道(よしなか・たいぞう)

 1928年(昭和3)、京都市生まれ01946年、京都人文学園絵画部(のちの行動美術京都研究所)に入所0同年、第1回行動美術協会展に出品。1952年、上京。1953年、第7回目本アンデパンダン展に出払同年、第8回行動美術協会展に「作品A」等を出品、行動美術賞を受賞。1955年、アートクラブ会員となる0同年、タケミヤ画廊で第1回個展。周年、第40回二科展に「生きものK」等を出品、二科会会友 になる。同年、神奈川県立近代美術館の「今日の新人・1鮎年展」に 出品。19訴年、「世界・今日の美術展」に出品01957年、第9回読売 ァンデパンダン展に出品。1961年、国立近代美術館の「現代美術の実験」展拉出品。同年から無所属01962年、集団アルファを括鼠1975年、「吉仲大道,55ノ75展」開催。1985年(昭和00)7月死去。没 後玉屋画廊で連続して回顧展開催。

▶吉原治良(よしわら・じろう)

 1905年(明治謝、大阪市生まれ01928年、関西学院高等学校商葉芽 卒業後、父の定次郎創立の吉原製油に入札1脚年、大樹旧会鮭 で個展開催。1934年、第21回二科展初入監1悌年、二科会九重会 の結成に参加。1941年、同会会員となる。195弥、植木茂らと現代 美術懇談会設立に参加01捌年、吉原製油社長に就阻同年、具体 美術協会を主宰。1958年、ミシェル・タピエと共同で「アンフォルメルと具体」展を企画。1962年