大正期新興美術運動と構成主義

■大正期新興美術運動と構成主義

浅野 徹

 大正期の新興美術の動きを追おうとするときにどうしても見落せないのは,二人のロシア人,自ら「ロシア未来派の父」と称したダヴィットブルリューク(David Burljuk,1882−1967)と来日以来長く版画家としても活躍したワルワーラ・ブブノワ(Varvara Bubnova,1886−1983)のことである.

 ブルリュークは,同行のパリモフ(V.Parimof)と1920年(大正9)10月1日に日本に着いた.そしてそれから間もない10月14日から持参した油絵27点と水彩と素描472点による「日本に於ける最初のロシア画展覧会」を東京の南伝馬町の星製薬会社3階で開いた.妻と二人の子を伴っていたブルリュークは,日本の各地を写生して回り,また何度か展覧会を開いた後,1922年の秋日本を離れアメリカに渡っているフブノワは1922年(大正11)6月に来日し,その年の雑誌『思想』10月号に「現代に於けるロシア絵画の 帰趨に就いて」1909年にイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティによる「未来主義創立宣言」がその発端と言われています。よりセンセーショナルにするため前世紀の有名な …画の帰趨に就て」を,続いて『中央公論』‖月号に「美術の末路に就て」を発表して,日本に初めて構成主義を紹介している.(両論文ではヴ工・ブブノーヴァと表記されているが,ここでは一般的に使われているブブノワを用いた.)

 まず,ダヴィットブルリュークについてであるが,彼の経歴を大略追っておくと,彼は,ウクライナ地方のカルコフに生まれ,弟のウラジーミルとともに初めオデッサの美術学校で,次いで1903年以降3年ほどミュンヘンとパリで絵を学んだ.モスクワに出たのは1907年で,以後ミハイール・ラリオーノフやナターリア・ゴンチャローヴァらロシア前衛美術家たちと接触し,また1910年にはカンディンスキーと知りプラウエ・ライター合い,1911年にミュンヘンで創立された「青騎士」に弟とともに参加している.こうした経歴が示すように,彼はヨーロッパの清瀬な美術動向の渦中に身を置いていたのであり,またロシア国内においても1913年から14年にかけて詩人のマヤコフスキーやカメンスキーとともに未来派思想の啓蒙宣伝のために17の都市を巡ったというから,日本で「ロシア未来派の父」と称したのもあながち誇張とはいえない.

 ブルリュークの1908年頃の画風は,図版で見る限りだが,奔放で力強い表現主義的性格の勝ったもので,光線主義以前のラリオーノフとゴンチャローヴァのプリミティヴイズムに共通する性格のものである.こうした画風の上に彼は未来派のダイナミックな表現や同時表現を取り入れたようだ.抽象的な表現を試みてもいるが,しかし結局再現的な形象から離れず,描写的な要素を棄てなかった.また,日本で木下秀一郎との共著として出版した『未来派とは?答える』(中央美術社,1923年)からもわかるように,彼は主観的表現を主張して芸術至上主義の立場にとどまり,構成主義者のように美術と産業とを結びつけ,またそれをプロレタリア革命の結果生じた新しい社会の様式とみなす思想とも無縁であった.

 先に触れた「日本に於ける最初のロシア画展覧会」の目鋸にブルリュークとパリモフが連名で書いている挨拶文によると,1917年のロシア10月革命の勃発後,彼らは飢饉にさらされたモスクワを離れ,「一族(未来派)のパン代を得るために」シベリアの各都市で展覧会を開いていたが,1918年の5月末に在ロシアのチェコ軍団のソビエト政権に対する反乱が起こり,モスクワとシベリアの交通が断たれたため,しばらくシベリアに滞在した後ウラジオストックから海を渡って日本にやって来た,ということである.

 ブルリュークとパリモフが開いた日本で最初のロシア絵画展は,プルリュークの作品が一番多かったし(ブルリューク150点,パリモフ63点),また観衆の注目を惹いたのも彼の作品であったようだ.石井柏亭は,ブルリュークの絵について,未来派のような純粋に抽象的なものがあるかと思えば,夢幻的,象徴的な作品もあり,また点描ふうの美しい写生画もあり,さらにそれらの要素が一枚の絵のなかに混在している場合もあったと述べていて(「日本に於ける最初の霹国画展覧会」F中央美術』1920年11月号),彼の作風の多様性をうかがわせる・

 ダヴィット・ブルリューク 〈離魂〉1910年萬鉄五郎くもたれて立つ人〉1917年

 ブルリュークが来日した頃の日本の画家たちのキュビスム(立体派)や未来派などの∃一口ッパの新しい傾向の美術に対する関心はどのようなものだったろうか.すでに明治40年代から大正の初期にかけて,その当時の滞欧画家の見聞や所感を通して,あるいは新聞,美術雑誌,文芸誌によって,印象派以後のゴッホ,ゴーガン,セザンヌ,マチス,さらにはキュビスムや未来派や「青騎士」の運動までもが日本に紹介された.こうした海外の新しい動向はその頃「非自然主義的傾向」と呼ばれたが,そうした傾向に強い関心を示したのは,まだ美術学校を出る力咄ないかの若い画家たち一アカデミックな教育や当時の洋画壇を支配していた外光派の描写絵画に不満を持ち,時代の思潮にうながされて主観的な表現を求めていた青年たちであった.彼らのなかからいわゆる「非自然主義的傾向」への反応が現われてきた・その一例が,木版の小品ながら日本での最初の抽象画といえる恩地孝四郎の1914−15年頃のくあかるい時〉である.また,1916年の第3回二科展には東郷育児のキュビスムと未来派の混清様式ともいえるくパラソルさせる女〉が出品され,翌年の第4回二科展には寓鉄五郎の初期キュビスム様式の,女性の裸体を無機的な力学的構造としてとらえたくもたれて立つ人〉が発表されている.この1917年の二科展には,その他東郷育児や詩人で未来派やキュビスムの研究に熱中していた神原泰や後に未来派美術協会を作った普門暁が出品しており,反官展を標精して創立されたこの二科展にその後キュビスムや未来派など新傾向の美術に影響を受けた作品が目立ってくる.

 っまり,ダヴィットブルリュークが来日した1920年頃には,すでにキュビスム,未来派,表現派についての知識はある程度広まっており,一方それぞれの様式上の違いにはおかまいなしにひとしなみに新興芸術もしくは未来派とみなして,それから触発されて新しい表現に向った画家たちが,そう多くなかったにしろ登場してきていたのである.実際ブルリュークとパリモフが1920年の10月に「日本に於ける最初のロシア画展覧会」を開いたちょうど一カ月たらず前の9月16日に普門暁を中心として結成された未来派美術協会の第1同展が銀座の玉木額縁店で開かれている.この展覧会は同人3人と公募に応じて出品してきた18人の38点という小規模なもので,同人以外はほとんど素人に近く,また「通覧するに,多くは未来派の形の模倣乃至踏襲で,真実の自己の表現は殆んどないと言ってよい.」といった批評からうかがえるように,そう目立った成果を挙げたものではなかったが,新傾向の美術を目指す作家たちの発表の場が二科展とは別にできたということは,その後の新興美術運動のために有益だった・翌年の第2回展は,普門暁に代わって第1回展に一般出品した木下秀一郎が開催に奔走したものであるが,そこにはブルリュークやパリモフが会員として出品しており,また尾形亀之助,柳瀬正夢(穴明共三の名で出品),大浦周蔵,渋谷修などが出品してきている・

 木下秀一郎は普門暁と彼らの展覧会の翌月開かれたブルリュークらのロシア絵画展を見に行き,それから彼らとの交際が始まり,木下をはじめ未来派美術協会の面々は直接間接にブルリュークの感化を受け ることになった.その一例として,渋谷修が1922年12月号の『中央美術』 に書いている「三科展の未来派」のなかで,同年10月の未来派美術協会 主催三科インデペンデント展に際して木下秀一郎が発表した言葉だと 断っている次の一文を挙げてみる.

 「今までの様に,未来派の絵は,単なる自然の形や色の説明‥・再現…ではありません.説明や再現の絵(過去派)は単なる客観にすぎません.皮相な「酷似」にすぎません./吾々の未来派の絵は主観であります・ ァブソルートの即ち絶対主観に迄強調されて…延長されてゐます・その表現です./(中略)未来派や立体派や表現派の絵は,アインドリック(印象)をそのまゝに描くのではなく画家のアウスドリック(表意)であります./立体派までの絵画は空間芸術でありましたが,未来派運動によって時間芸術に迄延長されました./時間一之が今日の実生活や思想界迄も浸蝕してゐるのは事実です.それを絵で主張し表現したものが未来派一表現派の絵画です./(中略)未来派には何物をも貫く熟そのもの,精神がある./物すべて流るり†ンクレイン州此の生命の旋渦…流転のつねに模し常に「あるもの」を求めつゝある自分達はそれら一切の既成画壇と没交渉に而かも其の中央に爆発的に新興芸術の独立運動を完全に遂行いたしました.」

 これは,ブルリュークと木下秀一郎との共著『未来派とは?答える』を読めば明らかなように,ブルリュークの思想を反映したものである.ブルリュークの影響は,1921年の未来派美術協会第2国展の作品にすでに現われていたと想像されるが,確認できない.1922年の三科インデペンデント展の場合は,幸い先に挙げた渋合修の「三科の未来派」に尾形亀之助のくコンダクター〉,大浦周蔵の〈泡立つコップと肉の香り〉,渋谷の〈女〉が挿図に載っており,それらはキュビスム的な要素の強いもの,表現主義的な性格の濃いものといった違いはあるものの,いずれもブルリュークの感化を受けての制作と考えられるものである.この展覧会に出品された柳瀬正夢の〈仮睡〉は現存しており,これは完全な抽象画で,錯綜する直線とその直線が作り出す幾何学的な色面とによって複雑な空間を生み出しており,その空間は激しい運動状態が一時に凍結したような不思議な印象を与える絵である.これがブルリュークの影響によるものということはできないとしても,少なくとも未来派美術協会の環境のなかから生まれてきたものだということはできよう.

 ところで,ブルリュークらが将来したロシア絵画の中に「スプレマチスト」としてワシリー・カメンスキー3点,マレーヴィッチ1点とタトリンの作品2点が含まれていた.木下秀一郎は当時を回顧して「小さな白紙を台紙とし,それに色々の色紙を□・・○・△・円筒・円錐体・長方形などに裁断したものを,簡単に組み合わせ,配列して貼った作品が何枚かあった.特殊な構成美と不思議な力強い未知の美しさ,安定感を示していたのが日にとまった.それがクットリンの作品で,今後の造型美術の一つの大きな新しい分野の方向を示すFコンストルクチオン』だと説明された.私が所謂構成派の作品に接した最初のものであり,日本において始めて展観された構成派の作品群でもあった.」(「未来派美術協会の頃(その二)」東京国立近代美術館ニュースF現代の眼』186号,1970年5月)と書いている.木下はここで「構成派」といっているが,作品の造形法として「コンストルクチオン」という言葉はすでに使われていただろうが,革命直後にモスクワを離れたブルリュークがいわゆる構成主義をどの程度知っていたかは疑問のあるところだ.F未来派とは?答えるよでは,マレーヴィッチのシュプレマティスムには言及していても構成主義については触れられていない. 構成主義の理念がそれまでのロシア前衛絵画の帰結として体系だって日本に紹介されたのは,最初のところで触れたワルワーラ・ブブノワの二つの論文によってである.

 ブブノワの来日までの経歴について簡単に触れておくと,彼女はペテルブルク(現在のレニングラード)で貴族の家に生まれ,当地の帝室芸術院の絵画部を卒業後,フレスコ画を描いたり考古学を学んだりし,革命後はモスクワに移り,歴史博物館のロシア古文書部の研究員となり,また若い仲間たちと展覧会を開いたりしていた.彼女は三人姉妹のまん中で,他の二人は音楽家となった.妹のヴァイオリンをやっていたアンナはペテルブルク大学に留学中の小野條−と結婚し,1918年に来日しており,そのアンナに招かれて彼女は母親と一緒に1922年の3月モスクワをたち,ロンドン経由で6月に横浜に着いた.当初比較的短い滞在のつもりであったようだが,故国に内戦が起ったため日本に長く住むようになった(『毎日新聞』1977年10月12日付記事と田中かな子「ブブノワさんと日本」『図書』406号,1983年6月による).

柳瀬正夢 く作品−イ反睡〉1922年

 カミラ・グレイ(Cam‖a Gray:丁什e Ru55佃∩亡ズper加enf/〃ArJT863一丁922,ThamesandHudson,London,1962)によると,革命後のロシア美術家の諭吉義の的となったのは,新しい共産主義社会における美術家と美術の役割であり,この論議の中心となったのがモスクワの芸術文化研究所(州KHUK)であったが,その過程のなかから,美術は本質的に精神的な活動だとするマレーヴイツチ,カンディンスキー,ペヴスネル兄弟らと,「芸術を生活へ」と唱え,美術家は技術者とならなければならないとするタトリン,ロトチエンコらの二派の対立がはっきりとしてき,結局後者のグループの主張が大勢を占めることになり,1921年の夏から秋にかけての間に構成主義が芸術文化研究所のイデオロギーとなった,とし,また同年の9月モスクワで開かれたロトチエンコ,ステパーノヴァ,ヴェスニン,ポポーヴァ,エクステルによる「5×5=25」展は,このグループの過去数年間の「実験室の美術‥aboratoryart)」の決算であり,絵画の終焉を表明したものだ,としている.

 ブブノワの「現代に於けるロシヤ絵画の帰趨に就て」を読むと,彼女は革命後のロシア前衛美術家の動きをかなりよ〈知っていたらしいことが推測されるし,また彼女自身が少なくともこの当時は構成主義(論文の訳者は「建設主義」と訳している)の立場に立っていたことがわかる.実際この論文に付けられた図版のうち10枚の作品写真は,ロシアを出るとき煩雑な手続きの後に携帯を許された全部で,原作者から贈られたものだと注記しているが,それらはステパーノヴァ2点,ポポーヴァ2点,ロトチエンコ6点であり,すべてが「5×5=25」展の出品者のものであることも彼 ̄女の立場を裏書きしているように思われる.

 「現代に於けるロシヤ絵画の帰趨に就て」でブブノワが跡付けようとしているのは,「観賞から積極行為に,さうして絵画から現実的F機物」に,而してまた所謂『芸術』からF建 設∴ 即ち他の言葉を以てすれば『工業』にまで,移り行く所の道程が果して如何なるものであるか」である.彼女はその経路を次の三期に大別している.すなわち,第一期は純粋な描写のみの時代から,その描写を離れ,材料としての絵具および形をそれ自身として研究するようになった時代まで,第二期は絵具および形の研究からさらに進んで現実的静力学および動力学的状態にあるあらゆる材料の研究,ならびにそれらの材料を用いて空間内に作り出された物体のコンストラクションの研究時代,そして最後の第三期は,現実にわれわれが利用することのできるF機物』をつくり出す時代であり,現代は産業の発達した晴代であるから,自然それらの『機物』は機械工業的な製品となる,としている.

 現代ロシア絵画の主要な傾向として挙げられているのは,「原始派(Prim州Vism)」と「立体派(Cubism)」と「形而上派(Bezpredmetnostj)」である.「原始派」は,実体,すなわち実体の認識を分解しあるいは変形することによって「形と材料の結合続一」と「描写」との間に平衡を求めようとするもの,「立体派」は,実体を分解して「形と材料との結合統一」と実体に対する新しい認識の記鋸に努めるもの,と説明している.「形而上派」については,前二派が西ヨーロッパにも発生したものであるのに対し,これは純粋にロシア芸術界のみの産物であり,目下のところ絵画芸術の発達の最後の時期を画するものと述べ,この名称の下に現存のいくつかの流派を総括したが,この名称がそれらの一般的傾向を表わすに足りると考えたからだと断っている.論文の訳者は,ロシア語のBezpredmetnostjを「形而上派」と訳出しているが,現在では「非対象性」と訳される言葉で,マレーヴイツチのシュプレマティスムも当然この系統のなかに含まれる.この「形而上派」についてはかなり詳しく触れている.その日的とするところは「F形と材料との結合統一』の完全にして絶対的なる発達に対する憧情」である.色彩に関しては材料としての色彩の絶対的な組織化であり,形の問題については,立体派がなお「描写」を残していて,形の組み立てのために実体を分解して得た各種の要素的図形を利用しているのに対し,実体の分析分解にはよらず面とか緑の全然抽象的な要素的図形によって形と材料の結合統一を計るものである.また「形而上派」は,木,ガラス,金属など固有の色彩を持つ造形物質を絵具に代えて画面に付着させることもあるが,さらに進んで,実体的材料を用いて三次元の真の空間を構成するようになると,「形而上派」の究極の段β削こいたる.ここにいたって「形而上派」は絵画芸術から離れる.しかし,その日的は「只事ら.形,材料及び空間に就ての研究によつて得られる我々人間の眼の訓練発達といふことであり,さうしてまた或る種の智的の生産物を創造することにのみ在る」.ここから一歩を進めて,「空間を物質で構成する」という目的と「実生活に利用し得可き工業的の『機物』を造り出す」という目的が結びついたとき,「建設主義」(構成主義)なる新しい造形的行為となる.

 以上が「現代に於けるロシヤ絵画の帰趨に就て」の要旨である.続いて『中央公論』に発表された「美術の末路に就て」は,最初「芸術より工業へ」という題が予定されていたもので,革命後の社会における新しい「機物」の意味が,それ以前の鑑賞的「芸術」と対比されて,もう少し広い視野から論じられている.

 ところで,問題は,このブブノワによって紹介された構成主義の埋け念が,大正期の新興美術運動にどのような意味をもったか,もしくは影響をおよぽしたかである.晴代の状況からいえば,当時は社会主義思想がかなり広まってきており(日本共産党が秘密裡に結成されたのは1922年7月),日本画家のなかでも,1922年に結成された第一作家同盟のように.既成画壇を支配階級つまり有産階級の保護と支持に頼るものとみなし,それに対して自分たちは無産階級の芸術を創造するものだと主張する団体さえあらわれてきた時代であるから,ロシア革命によってはじめて誕生した社会主義国家の芸術に対する知識人や進歩的な美術家の関′いま決して小さなものではなかったろう.したがって,ブブノワの論文はかなり注目されたものではなかったかと考えられるのである.

 ブブノワは,また画家としても直接大正期の新興美術運動とかかわった.来日した年(1922年)の第9圃二科展に 〈肖像〉 と 〈グラフイカ〉 を出品し,新聞にカンディンスキー一派に属す露囲の閏秀画家と紹介され,続いて同年10月の未来派美術協会主催三科インデペンデント展にくSUN−URB〉という作品を出品しており,これは渋谷修によって「立派な形而学派の主張に立った,いゝ作品だと思った.」と評されている.1924年には未来派美術協会,アクション,マヴォ,第一作家同盟など大正期の新興美術家のグループの大同団結として三科が結成されているが,この三科にも会員として加わっている.したがって,こうした作家たちの間に彼女を通して構成主義の考え方は当然ながら伝わっていったであろう.その具体的な例が村山知義の論文の中に見出せる.

 村山知義は約一年間ベルリンに滞在し,その間にヨーロッパの前衛的な美術に接して1923年1月帰国して以来,次々と個展を開き,未来派美術協会の柳瀬正夢,尾形亀之助,大浦周蔵,門脇晋郎らとグループ「マヴオ」を結成するなど,当時の新興美術家の中で最も尖鋭で清濁な作家として活動する一方,滞欧中に思いついた「意識的構成主義」なる考えを理論づけるために(それは結局まとまったものにはならなかったが)「過ぎゆく表現派一意識的構成主義への序論的導入」(『中央美術』1923年4月号),「機械的要素の芸術への導入」(『みづゑ』1924年1月号),「構成派批判−ソヴエー卜露西亜に生まれた形成芸術の紹介と批判w(上・下)」(『みづゑゴ1924年7月・9月号)と次々と発表している.この三つの論文のうち,前二者でも構成派(主義)に触れているが,かなり粗雑であるのに対して最後のものになると格段に筋道の通ったものになっており,ブブノワを通して彼はロシアの構成主義をより正確に把握するにいたったことが明らかで,彼の「構成派批判」における構成派紹介の骨子そのものがほとんどブブノワの『思想』の論文から借用されたものなのである.

 また,1925年5月の三科会員展に,平面的な作品であっても絵具以外の実際の素材が画面に使われていたり,さまぎまな素榔こよって三次元的に構成される造形が,特に未来派美術協会系やマヴオ系統の作家に多くなったこと,さらに9月の三科公募展でも,村山知義が出品作品を「1.平面に絵具を塗っただけのもの.2.平面的な構成物.3.立体的な構成物.4.実用的なるもの.5.舞台装置.6.建築模型.」の6種に分枝しているように,ますますいわゆる絵画作品から離れた造形物や実用的な作品が多くなったことは,ブブノワの「形而上派」や「建設主義」の紹介と決して無禄ではなかったことを思わせる.

 こうした傾向をうながした一つの大きな要因は,大正期の新興美術運動に加わった作家たちの構成主義への強い関心であったと考えてよいと思うが,しかし同時にこの傾向のなかにアナーキーなダダ的性格が入り込んでいたことも見落すことはできない.この性格を持ち込んだのは,明らかに自ら構成主義に強い関心を持ち,しかもその紹介に一役買った村山知義であった.

 村山知義はその「意識的構成主義」について晩年に書いた「マヴォの思い出(その−)」(東京国立近代美術館ニュースF現代の眼』189号,1970年8月)の中でこう説明している.当時美の価値(あるいは芸術上の価値)の問題に悩まされていた彼は,「普遍妥当的な美の規準はない」という結論に達し,次のような考えを導き出した.「美醜の観念について,客観的普遍妥当な規準が存在しないとすれば,古美術家は自分の主観的な規準にたよるより仕方がない.しかしそこに安居していることのできぬ美術家は,自分の主観的な規準に自分で意識的に矛盾を掻き立てて,その相剋によって更に高い統一を求めなければならない.それを押し詰めれば,理論的には,最短晴間のうちに,自分の主観的な美と醜の対践点の間をペンデュラムのように揺れ動くのでなければならない.しかしこれは非常に苦しいことなので,自分の意志を,努力によって構成する以外に道がない 【.」

 これは彼のいうとおり,構成主義とはまったく別物である.普遍的で合理的な秩序を求めようとした構成主義に対して,村山は自分の内部のカオスに目を向けており,その考え方はきわめて主観的で非合理的な色彩が強い.一方,実際の造形方法として,「構成主義者はガラス,鉄,木,紙などを使っている.こういう材料を作画に使えば,具体的な連想を喚起すると共に触覚的効果を画面上に生むことができる.さらに一歩進んで,これらの材料でできた既製品,たとえば床屋の青,赤,白の「あめん棒」,各種の歯車,文字,鋳型の木型,婦人靴,紙幣,写真,女の髪の毛は,一層具体的な連想作用を起す.」と述べている.この造形方法は,タグのコラージュの発展といえるクルト・シュヴィックースの「メルツ」絵画を想い起こさせ,滞独中に彼はシュヴィッタースの作品に接していたのではないかということを推測させる.それはともかくとして,彼は作品を基本的には幾何学的な構成原理に従って組み立て,そこに現実の混沌たる多様性への関心を反映する非絵画的な材料や既製品を持ち込んだ結果,作品はアンビヴアレントな高い緊張感をはらむことになった.

 こうして村山知義が大正期新興美術運動に導入したのは,絵具とカンヴァスを使うタブロー絵画の否定,あるいは否定とまでいかなくとも絵具とカンヴァスという制約をこえた造形材料の無制限なまでの拡大と,ダダ的な攻撃的批判精神である.この村山の導入したものとブブノワによって紹介された構成主義への関心とがからみ合って働き,これが1925年の三科会員展と三科公募展に目立った非絵画的な造形物の増大という現象を生ぜしめたと見てよいだろう. だが,構成主義への大正期新興美術家の反応は実質的には1925年の三科公募展で終った.大正期の新興美術家が結集した三科は,もともと多様な傾向のグループの寄合世帯であったために,当初からいくつかの矛盾をはらんでいたが,三科公募展の会期中参加者の利害関係の対立から,あっけなく解散されてしまい,前衛的な作品を発表する場がなくなってしまったこともあるが,構成主義的な美術の発展を阻害したのは,むしろこの傾向に混入していたダダ的な性格にあり,この性格が色彩をはじめとするさまざまな材料や形体の合理的で地道な研究をうながすのとは逆に,構成主義的な傾向の美術そのものを突き崩す方向に働いたのである.

 構成主義の拒否をはっきり表明したのも,次第に社会主義的な階級闘争の意識を尖鋭にしてきた村山知義であった.彼は「構成派に関する一考察一形成芸術の範囲に於ける−」(Fアトリヱ』1925年8月号)の中で「構成派に於ける普遍妥当性への意志,客観的真理への願望は社会的な集団的な権力意志である.従って構成派は同じく普遍妥当性への意欲,客観的真理への願望であるところのコムミュニズムと血縁の兄弟なのである.」とし,構成派は社会主義芸術,建設の芸術であるが,破壊や闘争の芸術,つまり革命芸術ではない.しかるに現在の日本は破壊の時代,階級闘争の時代にある.今の資本主義の日本では芸術の産業化を叫んだところで何になる.

村山知義 〈コンストルクチオン〉1925年

 したがって構成派は一刻もはやくすぎさらなければならない.現在の日本に必要なのは,次の時代の構成派を用意するためのネオ・ダダイズムである.これが彼の主張の要約である.ここに示されているのは,芸術を社会あるいは政治に結びつけようとするあまりに性急で短絡的な態度である.と同時に,ロシア革命後の新しい社会の美術形体としてブブノワによって紹介された構成主義への一つの回答がここで出されたともいえるだろう.

 大正期の新興美術運動のうち構成主義的な美術に最も近づいたのは,マヴオのグループであったが,その指導者的存在であった村山知義が構成主義を拒否したことは,日本における構成的な美術,ひいては抽象美術の以降の展開に歯止めをかけてしまったことを意味する.1925年三科解散以後,村山知義は演劇活動を通しての社会主義運動に移り,柳瀬正夢はこの年12月に結成された日本プロレタリア文芸連盟の美術部に属し,諷刺漫画やポスターの制作など政治運動のための煽動宣伝活動に従うようになった.また木下秀一郎のように美術運動から離れた者も少なくない.アクション系の画家たちは,タブロー絵画に新たな可能性を求めて,まもなく「造型」を結成したが,1927年ソ連から送られてきたコンテャロフスキー,マシコフ,クラバリ,クズネッオフらのリアリズム系統の絵画を中心とする「新ロシア美術展覧会」が東京と大阪で聞かれたのをきっかけとして,描写的な絵画に復帰していった.