IV.バウハウスとドイツ,東ヨーロッパの動向

■バウハウスとドイツ,東ヨーロッパの動向 TheBauhausandothertrends anyandEasternEurope

 今世紀の10年代前半に非対象的な抽象絵画を生み出した作家たち,カンディンスキー,クプカ,ドローネー,マレーヴイツチ,モンドリアンらに共通するのは,可視的な現象世界を介さずに,個人の内面を通じて世界の全体と直接むすびつこうとする超越的な志向であった.彼らにとって,当の「世界」が産業や科学技術によって刻々と変えられつつあるという現実などさして重要ではなく,また自らが生み出した新しい絵画・・・とくに幾何学的(構成的)なそれ・・・を,そうしたテクノロジーの構成物との類比のもとで捉える視点もまったくなかったであろう.幾何学的な抽象美術の意味や働きを,現実の社会環境やそのあるべき姿との関連で確認する作業は,主に1920年代,デ・ステイルやロシアの構成主義,そしてバウハウス等をめぐる一連の集団的な動きの中で進められたのである.

 

 1918年,第一次大戦に敗れたドイツでは11月ベルリンに革命が起こり,民主的な憲法と議会をもったワイマール共和国が成立した.20年代を通じて構成主義が国際化してゆく過程で,その主要な舞台となったのは,バウハウスの置かれたワイマールやデッサウをはじめとして,さまざまな国籍と主義主張の芸術家たちに自由な交流の場を提供した共和国の諸都市であった.なかでもベルリンは,ロシア革命の難をのがれた芸術家や亡命貴族たちがコロニーを作り,ロシアの前衛美術を西ヨーロッパに伝える窓口の役割をはたした.モスクワから派遣されたリシツキー,デ・ステイルのファン・ドゥースブルク,ハノーヴァーのシュヴイツタースらのほか,ポーランドのベルレウイ,ハンガリーのボルトニクなど多くの東欧作家たちが,この町を拠点にして活動した.ほかにもシュヴィッタース,ブーフハイスターらのいたハノーヴァーは,リシツキーにアトリエと作品展示用の一室を提供したし,1922年にケルンで開かれた「国際進歩的芸術家会議」は,ドイツ,ロシア,オランダ,スイス,フランス等の抽象作家が一堂に会する最初の機会となったのである.1919年,建築家ヴァルター・グロピウスの構想によって,ワイマールに州立バウハウスが創設された

 この年グロピウス,「青騎士」のリオネル・ファイニシガー,表現主義の彫刻家ゲルハルト・マルクス,およびスイス人のヨハネス・イッテンによって最初のマイスター会議が結成され,その後も1920年にパウル・クレー,オスカー・シュレンマー,1922年にワシリー・カンディンスキー,1923年にはラーズロ・モホリ=ナジらがマイスターの一員として迎えられた.

 

 バウハウスの歴史はしばしば,職人的な手仕事の理想化からインダストリアル・デザインヘ,という公式によって要約される。すなわち,1919年のバウハウス宣言−「すべての造形活動の最終日標は建築(Bau)である/かつて建築を装飾することは造形芸術の最高の課題であり,造形芸術は大建築から分けることのできない構成要素であった……」にもみえるように,バウハウス初期のグロピウスには,中世における,建築家を中心としたさまざまな職人たちの共同体的なあり方を理想化する,19世紀後半のアーツ・アンド・クラフツ運動やユーゲント・シュテイル以来の流れが色濃く反映している.

 

  次いで,1921年から22年にかけてワイマールに滞在したファン・ドゥースブルクロシア構成主義の影響,そして光や運動の実験に誰よりも大胆な才能を発揮したモホリ=ナジの参加によって,バウハウス全体はテクノロジーヘの志向を一段と強め,1925年以後のデッサウ時代に,機能主義的なインダストリアル・デザインの思想が形成されたのである.いずれにしてもそれは,美術学校というよりは,応用美術の綜合学校ないしは研究所としての性格が強いであろう.にもかかわらず,バウハウスは次の二つの点で,応用美術の領域をはるかにこえた意義をもっている.

 一つは,半年間の予備課程(その基礎はイッテンによって築かれ,モホリ=ナジ,ジョーゼフ・アルバースヘと受けつがれた)と,3年間の工房課程(金工,織物,壁画等の各工房は理論面の形体マイスターと実技面の工作マイスターによって指導される)からなる独創的な教育課程にある.その目標は,紙,ガラス,鉄などさまざまな素材に関する正確な知識,感覚,技術と,すべての造形活動の基礎となる色彩と形体に関する一般理論を身につけ,さらには自らの造形活動の意味を,現実の生活環境・・・テクノロジーの所産に囲まれた・・・との関連のもとで綜合的に判断しうるような人間を育てることにあった

 そうした遠大なヴィジョンのもとで・・・第二の重要な点として・・・,クレー,カンディンスキー,シュレンマーらの形体マイスターたちは,バウハウスにあって,必ずしも応用的見地にとらわれることなく,自らが解放した色と形の性質や機能を自由に研究し,その成果を学生たちに伝えることができたのである.バウハウス叢書の1冊として刊行されたクレーの『教育的スケッチブック』(1925年)やカンディンスキーの『点・線・面』(1926年)等は,そうした創作と教育の一体的な活動の成果であり,それらは,より直観的な彼らの1910年代の仕事に体系的,理論的な基礎を与えるものであった.バウハウスは,従来からの職人に対する芸術家,応用美術(工芸)に対する自由な美術という対立的な図式を解消し,産業社会における芸術家の役割を,工業製品やテクノロジーの所産の美的な統御者,つまり,機能と美の調停作業の基礎にたずさわる者として位置づけたのである.

 

■バウハウスの作家たちの作品群

▶︎ヨハネス・イッテン

1888年スイス,ズユーデルン=リンデン(ベルン)生れ・1967年スイス,チューリヒ没.Johannes ITTEN

1913年から16年にシュトウツトガルトの美術学校でヘルツェルに学び,その間15年に最初の抽象画を描いている.1916年から19年ウィーンに彼の学校を開き,形体と色彩対比および織物の教育を行なった.1919年バウハウスに教師として招かれ,そこでも色彩理論の研究を続けた,後年,ベルリン,クレフェルト,チューリヒで美術や工芸の教育活動を続けた。

▶︎オスカー・シュレンマー

1888年ドイツ.シュトウノトガルト生れ.1943年西ドイツ,バーテン=バーテン没.0skar SCHLEMMER

1905年シュトウツトガルトの工芸学校に学び,1906年の初めから数年間シュトウットガルト美術学校でアドルフ・ヘルツェルに師事した.1910年ベルリンに住み,そこで前衛活動を知り,またセザンヌの作品に接した.彼は本来画家で舞台美術家であったが,生涯を通じて数多くの彫刻を制作しており,その第一作は1919年に作られている.同年バウハウスの教師陣に迎えられ,初めは壁画と彫刻(工房の,23年から29年までは舞台美術の工王の指導に当り,またバレーの振付けも行な・た.次いでブレスラウの美術学校でも教えたが,1933年ナチスによって解雇された.彼(絵画は,壁面レリーフと同様,自然の形体を抽象化し,さらに基本的な幾何学的形体に還元するものであり,人物が彼の中心テーマになったが,それは幾何学的な基準にしたがって理想化され抽象化され,かつ想像上の抽象化された空間の中に置かれた人物像である.


▶︎ワシリー・カンディンスキー

1866年ロシア.モスクワ生れ.1944年フランス,バリ没.Wassily KANDINSKY

1892年モスクワ大学から法学士の学位を受けながら,画家になるため1896年ミュンヘンに移った.まもなくミュンヘンの美術界で活躍するようになり,1901年に前衛的なグループ「ファランクス」を,1909年には「新美術家協会」を組織,そして11年に「青騎士」を結成した.1909年ミュンヘン近郊のムルナウに住み,ここで考えられた思想が究極的に彼を純粋抽象へと向かわせた.色彩は,強さを増しまた事物を描写する機能から独立し,非再現的なフォルムとともに彼の絵画の中心主題となった,1912年『芸術における精神的なもの」を出版.1917年ロシアに戻り.革命政府のもとで教育と美術行政の仕事に携わったが,21年には再びロシアを離れ,翌22年バウハウスに招かれ,33年までそこで教えた.ロシア時代に受けたシュプレマティスムと構成主義の影響で,彼の表現主義的な抽象表現は幾何学的抽象への傾向を強めた.1933年パリヘ移り,「抽象=創造」グループの一員となり,パリ時代の後期にはシュルレアリスムの影響を受けて画面には生命体的なフォルムが現われ,幾何学的な構築性が後退しているのが認められる.

▶︎ラヨシュ・カッシャーク

1887年ハンカリー.エルセクィヴァー生れ.1967年ハンガリー.ブダペスト没Lajos KASSAK

1899年以来ハンガリーで工芸家として仕事をしていたが,1907年パリヘ出てアポリネール,プレーズ・サンドラール,ピカソと知り合った。キュビスムに興味を抱き,そこから彼独自の非対象絵画の様式を引き出した.1916年ハンガリーの構成主義者たちの拠り所となった雑誌『MA(今日)』を創刊,1922年にはモホリ=ナジと協同で『新芸術家読本』を出版した.

▶︎ラーズロ・モホリ=ナジ

1895年ハンカリー,バクスバルソッド生れ1946年米国,イリノイ州シカゴ没.Laszlo MOHOLY-NAGY

ブダペストで法律を学んだが,前衛的な文学と音楽のサークルと関わるようになり,1917年「MA(今日)」グループの結成に助力した.リシツキーとマレーヴィッチの影響こそ,絵画,彫刻ばかりでなく,グラフィック・デザイン,舞台美術,写真それに光とフイルムを用いた実験的作品までをも含む彼固有の構成主義的造形言語を培ううえでの基盤であった。1920年ベルリンヘ移り,さらに23年バウハウスの教師陣に参加,彼の広い知識は純粋美術と応用美術とを一つにするという理念の形成に役立った.1928年バウハウスを辞してベルリンに戻り舞台美術の仕事に携わった.さらにアムステルダム,ロンドンを経て1937年シカゴに渡りニュー・バウハウスの校長となり,その後彼自身のデザイン・スクールを開設した.

 

▶︎アレクサンデル(シヤーンドル)・ボルトニク

1893年ハンガリー,マルスヴァサレリー生れ.1976年同地没.Alexander(Sandor)BORTNYK

ブダペストの美術学校に学び,モホリ=ナジとカッシヤークを中心としたハンガリー構成主義グループに属した.1922年ベルリンのシュトゥルム画廊に初めて出品,22年から25年までワイマールに過ごし,バウハウスの教育の影響を受けた.1928年に「ブダペストのバウハウス」として知られるグラフィック・デザインの学校を開き,第二次大戦後はブダペスト美術工芸学校で教鞭をとるかたわら1956年まで同地の美術学校の校長をつとめた.

▶︎ヴァルター・デクセル

1890年トイツ,ミュンヘン生れ.1973年西ドイツ.ブラウンシュヴァイク没Walter DEXEL

1910年から14年までミュンヘンでハインリヒ・ヴエルフリンのもとで美術史を学びながら絵を描きはじめた.のちにイエナ芸術協会の会長をつとめた.バウハウスとも親密な関係を持ち1920年ドイツでの構成主義美術の擁立にも手を貸している.彼自身の作品は構成主義および新造形主義の原理を踏襲したものであったが,1933年ナチスによって堕落した芸術と断ぜられるにいたって制作活動を放棄し,美術とデザイン理論の教育に専念したが,1961年絵画制作を再開した.

▶︎ヴィリ・バウマイスター

1889年ドイツ,シュトウツトガルト生れ・1955年同地没.Willi BAUMEISTER

1910年シュトウソトガルトの美術学校で著名な色彩理論家アドルフ・ヘルツェルに学んだあと,1913年ベルリンのシュトゥルム画廊で開かれた「第1回ドイツ秋期美術展」に参加・1919年以降印刷デザイナー,舞台美術家として仕事をする一方彼の最初期の抽象作品を描いた.構成主義と新造形主義の理論に非常な興味を抱き,1924年にはル・コルビュジェ.オザンファン,レジェを知った.1930年に「円と正方形」グループ,また翌年には「抽象=創造」グループに参加.1933年ナチ政府によってフランクフルト市立美術学校の教職を追われた.1937年頃バウマイスターは作品の中に表意文字や生命的形体をとり入れるようになった.1947年には著書『芸術における未知なるもの』(Das Unbekanntein de「Kunst)が出版され,その前年から死にいたるまでシュトウツトガルトの美術学校で教鞭をとった.

 

▶︎クルト・シュヴィッタース

1887年ドイツ.ハノーヴァ一生れ.1948年イギリス,アンフルサイト没.Kurt SCHWITTERS

1909年から14年までドレステンとベルリンの美術学校で学び,アカデミックな画家として出発した,1918年頃抽象の試みとその後彼の最大の関心事となるコラージュ技法の使用が開始された.1919年「メルツ絵画」,すなわちさまざまな紙片と木片廃材による一種のコラージュとアサンブラージュの合体ともいうべき作品を作り始めた.メルツ絵画の原理を彼は他の分野にも応用しており,その最も著名なメルツバウ(メルツ建築)は彼の構成主義の理論とダダヘの関心を裏付ける立体的構築物である.1920年から37年の間に組み立てられたこの構築物は,結局彼のハノーヴァーの家の二つのフロアーを埋めることになった.彼は音響詩,タイポグラフィー,広告にも手を染め,さらに1923年から33年まで雑誌アメルツ』を出版した.彼は新造形主義にも関心を持ち,このことが1923年以降のコラージュに,より厳格な幾何学的構成を与えることになった.1937年から40年までノルウェーに,41年以降はイギリスに住んだが,この両国においてもメルツバウをそれぞれ作り続けた.