Ⅶ.ヨーロッパの戦後の動向

■ヨーロッパの戦後の動向・Trends in Europe afte 1945

 第二次大戦後,フランスに起ったアンフォルメル,タシスムという自由な形体と色彩による主観的抒情的抽象はたちまちヨーロッパの美術界を席捲し,それに呼応するようにアメリカでは抽象表現主義,アクション・ペインティングとよばれる絵画が盛んになった.これに対し,戦前からの幾何学的構成的抽象は,前者の隆盛の陰にあったものの,着実な展開を見せ,1960年前後,前者がポップ・アートにとってかわられた後も,「絵画的抽象以後の抽象」として,視覚作用や光や運動を探究するオプティカル・キネティツク・アートや色彩と形体を一体化して扱う色面絵画などの新傾向のなかに,あるいはまた,最小基本単位,基本形体,基本構造を問題とするミニマル・アート,プライマリー・ストラクチュアズとよばれる傾向のなかに残った.これら1960年代までの戦後の諸傾向を戦前からの幾何学的構成的美術の継承と新たな展開と見なすことができよう.

 これに関わった美術家の多くは戦前のバウハウス運動や「抽象=創造」に参加した作家たちと彼らに続く世代の作家たちであった.1970年代になると技術革新はいっそう進み,電子工学が発達して,グラフィック・アートに似たシステマテイツクなプランニング・アートやコンピューター・アートが登場し,コンセプチュアル・アートに含まれる作品も現われた.これらの意味内容がかつての幾何学的構成的美術からかけはなれていても,またこれらに携わる作家たちが意識して過去の幾何学的構成的美術を継承していないにしても,視覚的に,あるいは方法論から,これらの新傾向をも非対象美術の範疇に入れることはできよう.そこで,∃一口ッパにおける幾何学的抽象の展開を,戦前の構成主義,新造形主義,バウハウス運動,「抽象=創造」の活動と関係づけながら,スイス,フランス,イギリス,イタリア,ポーランド,西ドイツ,オランダに作例をとって,

1)1940年代から60年における継承と展開,

2)1970年以降の新展開,

を見ることにしたのがこのⅦの部門である。

 ◉スイス・・・第二次大戦中,スイスは戦火を逃れた,あるいは,ナチスに追われた美術家たちの亡命の地であり,また,アメリカその他の国へ移住する際の経由地であった.この結果,構成的美術に限って言えば,戦前の諸傾向はスイスに温存され,戦後,スイスから世界の各地へひろがったと言える.この点で構成的美術の歴史でスイスが果した役割は大きい.このスイスの美術界の中心的存在がマックス・ビルであった.彼はバウハウスや「抽象=創造」に関係しており,ファン・ドゥースブルクが定義した「具体美術」の美学的概念をうけつぎ,「“具体美術”とは人間精神に形を与えること,すなわち人間精神の具体化である」とした.そして還元された基本形体を用いて,数学理論に基づく合理的方法で造形空間の表出を追求した.これに倣ったのがレーヴエンスベルクヴィエイラであった.ローゼも「抽象=創造」の会員であったが,彼やグレーザーは色彩と形体の一体的表現による画面空間上のひろがり,運動,リズム等を追求した.そしてこの二傾向がスイス美術界の主流をなしていたのである.

 ◉フランス・・・1946年サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル(新現実展)が組織された.これは目に見える現実でなく,精神世界をいまひとつの新しい現実として表現することを目論んだ展覧会で,幾何学的抽象の作品が多数展示されたが,一般の反応は冷ややかであった.アンフォルメルの熱狂的受容と対照的に冷遇された幾何学的抽象だが,にもかかわらず,その紹介に熱心に努めたのがパリのドニズ・ルネ画廊で,エルバン,ゴラン,マックス・ビル,ローゼらが出品協力し,デンマークのモルテンセンやパリに移住したハンガリーのヴァザルリら新進作家がこれに加わった.ベルトリングのように斜線によるダイナミックな動きのある色面構成も現われた.ヴァザルリの色彩の対比や色のグラデイションによる視覚効果,すなわち連続する動きや立体構造の錯覚を与える色面構造の作品はオブ・アートとよばれた.1950年代後半,オブ・アートに並行して,視覚効果に光と運動を加えたオプティカル・キネティツク・アートもしくはキネティツク・アートとよばれる立体的造形が盛んになった.モルレやポル・ブリの作品はその例である.1960年モルレソートーらと「視覚芸術探究グループ」を創立し,また1963年には国際的グループ「新傾向」が結成されて,オランダの「ヌル」や西ドイツの「ゼロ」グループなどがこれに参加している.1965年頃がキネティツク・アートの絶頂期で運動を伴う幾何学的構成的立体造形の時代ともいえよう.

 ◉イギリス・・・戦後のイギリスの幾何学的抽象美術の代表作家はベン・ニコルソンである.彼は1933年,ムーア,ナッシュ,ヘプワースらと非対象美術家の集団「ユニット・ワン」を結成し,1931年パリの「抽象=創造」の創立に参加し,モンドリアンとも親しかった.マーロー・モスはモンドリアンの弟子で,「抽象=創造」の会員ともなり,ニコルソン同様,イギリスの構成的美術の発展に貢献した.イギリスの構成的美術はニコルソンらによって戦前から戦後へと伝えられ,抽象表現主義とそれにつづくポップ・アートの流行の時期はその陰にかくれていたが,1960年代に新たな展開をとげた.すなわちリチャード・スミスのシェイプト・カンヴァス,フィリップ・キングの彩色彫刻,これにつづくプライマリー・ストラクチュアズなど新傾向が現われた.たとえば,パスモアの作品はレリーフ彫刻の一種で,彩色した板をレリーフ状に並べて,透明な空間の表出を試みたものである.

 ◉イタリア・・・戦前,「抽象=創造」に参加したヴェロネージを中心に構成的美術のグループ「ミラノ派」があったが,戦後,1948年以降はミラノの「マック(MAC)」(具体美術運動)グループなど小グループが多数できては離合集散をくり返してきた.幾何学的抽象は本来,合理的な美術であるのだが,イタリアのそれは抒情的な点に特色がある.例えばカルデラーラの“具体絵画”は色彩の発光と震え,要素への還元がテーマであった.しかし,画面の幾何学的構成の追求よりも主観的感情的色彩表現が主な関心事になってしまい,作者の個人的感情が強く表出した分だけ,本来,幾何学的抽象にある無名性が薄れている.フォンタナは「抽象=創造」に参加した戦前からの幾何学的抽象の作家である,1947年「白色宣言」を出し,全的人間を表現する新しい美術の創造を宣言した.翌1948年以降は絵画的空間であって同時に現実的空間でもある表現(「空間主義」)をめぎし,カンヴァスに穴をあけたり,カンヴァスを切り裂いたりした.この様式は注目され,一時期,フォンタナはイタリアの抽象美術を代表するひとつの顔ともなった.

 ◉ポーランド・・・東ヨーロッパ諸国の中でポーランドの美術界は絶えず西側の美術界と交流を保ってきた.また,ロシア構成主義の美術が早くから国民の生活と結びつき,弾圧も受けずに正統美術として戦後へ継承された東ヨーロッパでは珍しい国である.この橋渡しをしたのがスタジェフスキである.彼は戦前,構成主義,シュプレマティスムを学び,「円と正方形」,「抽象=創造」に参加しており,戦後は若い作家の育成に努めた.彼は数学的合理的な制作方法をとるが,創作で重要なのは法則よりも直観であると言う.この言葉はポーランドの構成的美術を見る上で参考になるであろう.

 ◉西ドイツ・・・ナチズム,戦争,東西両ドイツの分裂と続くドイツでは,この間,フランス,アメリカその他の国へ移住ないし亡命する美術家もいて,西ドイツの戦後美術の出発は他の国に比べて立ち遅れた.美術界が活動を始めるのはフランス,アメリカの抽象表現主義に刺戟をうけた1950年以降である.アクション・ペインティングの隆盛はカンディンスキーら過去の作家を再評価する機会となり,さらに彼らが関係したバウハウス運動の再認識へ向かわせた.戦後の復興期の都市計画,建築,日用品のデザインの面でもバウハウス運動は再評価されはじめた.かつてバウハウスに参加していたイッテンの帰国,グロピウスアルバースのアメリカからの助言があり,スイスのマックス・ビルは戦前から計画した造形学校を1950年アメリカの援助でウルムに開設した.この学校の教科は合理的構成的美術と密接に結びついていたので,この学校から構成的美術の作家が多数輩出した.その後,経済好況の波にのって西ドイツの美術界は活況を呈した.1955年よりカッセルでドクメンタ展が開催され,1968年のドクメンタでは「ポップ・アートと絵画的抽象以後の抽象の対決」もあり,西ドイツの構成的美術を他の国々のそれと比較できる機会が与えられた.また,この展覧会にはじめて環境芸術やコンセプチュアル・アートが紹介されて,この事も西ドイツの若い作家に大きな刺戟となった.これより先,オプティカル・キネティツク・アートプライマリー・ストラクチュアズなどの諸傾向は西ドイツにも見られた.ベームはリュミノ・キネティツク・アートの代表的作家であり,ユッカーはピーネやマックと1960年にすべての美術の“要素への還元”を意味する「ゼロ」グループを結成した作家である.

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 ◉オランダ・・・デ・ステイルのデザインは戦後の復興期の都市計画,住宅,工業設備等の中に継承された.他方,新造形主義を主体とする幾何学的構成的美術は,抽象表現主義が盛んな1950年頃にあっても維持された.これには当時のアムステルダム市立美術館長サンドベルクが構成的美術を支援した事も大きく与(あずか)っている.当時,彼は構成主義のバイオニア展やスイスの「具体美術」展,包括的なデ・ステイル展を矢つぎばやに開催して,若い構成的美術の作家を刺戟した.バリュウは新造形主義の影響をうけ,幾何学的色面構成面と色彩と空間の関係を追求し,1958−64年雑誌『構造』を発刊した.彼の構造への関心は若い作家たちにひきつがれ,「“構造”とは全体の中で要素の関係を規定するもの」とされ,これを追求することを「構造主義」と称した.しかしすでにあるものの構造の探究と異なる,芸術創造上の構造主義とは何であろうか.そこに予期できない要素の介入はないか.この探究を極限にまですすめたのがホーンホーヴェンで,モノクロームのレリーフにあてられた光がつくる影は照射の角度によって現われたり消えたりする虚の像である.触知できる現実のものに対する触知できない非現実のものの追求であるデッケルスの場合は,形体のない線に独立した価値をみようとするもので,線の抽象的概念の・・・解釈とうけとることができる.

 この実体と幻像との関係はポーランドのウィニアルスキーシステマティックな配列による構造のレリーフにも見られる.この作品は形体を要素に還元して、システマテイツクに順列構造をつくる過程で,この機械的方法の規則性に故意に不規則性を介入させたものである.作者は不規則な順列構造により,より明らかとなる幻の空間一視覚上の錯覚がつくる幻の空間を問題とするのである.オランダのストライケン,西ドイツのベームやモールの作品にも,これに類似した合理的システマテイツク(「体系的な」「組織的な)な方法によりながら,合理性を超えた,予測できないままの,結果としての表現が見られる.もしも,それが作品の芸術性を意味するとしたら,現代美術とは何であろうか.幾何学的構成的抽象美術の展開を今日まで追ってくると,混沌とした多様な諸相に出会うのみで,いまだその決定的評価は得られないのが実状である.

 ■ヨーロッパの戦後作家たちの作品群

▶︎マックス・ビル

1908年スイス.ヴインタートウア生れ・Max BILL

建築象画家,彫刻家,工業デザイナーとての制作活動を通して,諸芸術の統合といバウハウスの理念を追求し,成果をおさめた。1924年から27年までチューリヒで銀細工師して修業をつんだ後.1927年から29年まデッサウのバウハウスで制作し,アルバーとモホリ=ナシの多大な影響を受けた。1929年にチューリヒに戻った.1930年代以降は空間の連続と数学あるいは位相数学の原理応用による彫刻作品を制作,1932年には「象=創造」に参加し,さらに1944年バーゼル開かれた最初の国際具体美術展を組織した1951年にはウルムの造形学校の創設に力をし,その建物のデザインを担当した。

 

▶︎リヒヤルト・ローゼ

1902年スイス.チューリヒ生れ.Richard LOHSE 1902 

1920年から24年までチューリヒの工芸美術学校に学ぶ.彼の絵画の様式は,キュビスムの段階を経て,数学的精密さをもった縦横に並ぶ均等長方形の格子縞模様に発展した.色彩はそれら模様の全体にわたる重要な要素となっている.ローゼは大半の作品をシリーズで制作している.

▶︎カミーユ・グレーザー

1892年スイス,カルージュ生れ.Camille GRAESER

1913年から15年までシュトウットガルトの工芸美術学校に学んだ後,同市の建築設計事務所で働いた.ミース・ファン・デル・ローエが設計したシュトウツトガルトの「ヴァイセンホーフ・セツルメント」の建設に参加した.1933年帰国した後は構成主義美術に熱中し主要な国際展にも出品した.現在スイスに在住,制作活動を続けている.

▶︎ゴットフリート・ホネガー

1917年スイス,チューリヒ生れ.Gottfried HONEGGER

1931年から32年までチューリヒの美術学校に学んだ後,デザイン工房で働いた.構造と幾何学への興味から1950年代半ばよりもっぱら作品に正方形と円を導入するようになった.作品はある形に切り取った厚紙をカンヴァスに貼りつけその上から塗料を施しているのだが,そうしたレリーフはまず,あらかじめ定められた数学的なもくろみがあり,それに従ってなされている.その後の作品においても彼は雌型から取り出したポリエステルをグラスファイバーで補強してレリーフを制作した.それらは常にモノクロームであるが,表面はアクリル系テンペラで彩色されている.

▶︎ヴイクトル・ヴァサルリ

1908年ハンガリー.ぺ−チュ生れ.Victor VASARELY

ブダペスト大学で医学を勉強するが.1929年退学してブダペスト・バウハウスに参加した.バウハウスでは応用美術の理論や技術とともに抽象美術の理論も身につけた.1930年パリに移り,広告や商業美術の仕事に携わった.1947年,自然の形体を単純な幾何学的記号におきかえた絵画をはじめた.遠近法に対する興味から,画面空間を平面的存在としてよりも,むしろ立体的存在として研究したのである.その結果,トロンプルイユ(だまし絵)や目の錯覚を扱った作品が実験的に描かれた.1955年にキネティツク・アートに関する論文『黄色宣言』を出版した.

マーロウ・モス

1890年イギリス.サリー,リッチモンド生れ.1958年イギリス.コーンウォール.ベンザンス没.Marlow MOSS

視覚芸術と関わる以前は,音楽とバレーを学んでいたが,1927年パリでモンドリアンと出会い新造形主義(ネオ・プラスティシズム)の理論を教えられた.同時にオザンファン,レジェとも研究を共にした彼女は1929年新造形主義的なコンポジションの作品を発表している.1932年,「抽象=創造」の創立会員になった.1940年以降は金属や木のレリーフの制作に興味を示した.

▶︎ベン・ニコルソン

1894年イギリス,テンハム生れ.1982年イギリス,ハンブステッド没.Ben NICHOLSON

1910−11年の短期間スレイド・スクールに学んだ後,長い旅に出て一人で研究を続けた.初期の作品には父ウィリアム・ニコルソンのデリケートな静物画をはじめセザンヌ,キュビスムそしてルソーの影響が見られる.1924年から「7アンド5・ソサエティー」のメンバーとなり.また1933年には「ユニット・ワン」,「抽象=創造」に参加した.20年代.近代美術のさまざまな様式を駆使した試みは,特にモンドリアンの影響を受けながらやがて,彼の絵画や有名な白い彫刻レリーフに現われているように幾何学的抽象の高度に簡素化された芸術にたどりついた.1939年コーンウォールに移ると再びキュビスム的な静物画に立ち戻ったが,1950年代には華麗な抽象的静物画や風景画へと変貌した.50年代後半は彩色した彫刻レリーフが彼の最大の関心事として復活した.1958年スイスのティツイーノに居を構えたが,71年に帰国,ハンブステッドに住み,同地で没した.

▶︎リジット・ライリー

1931年イギリス、ロンドン生れ.Bridget RILEY

1949年から52年までゴールドスミス大学美術学校に,1952年から55年まで王立美術学校に学んだ.スーラの作品の画面にみられるダイナミックな力にインスピレーションを得て,さまぎまな色の相互作用やその視覚的効果に興味を抱くようになった.当初はひたすら白と黒の組み合わせを扱っていたが,後の絵画ではさらに微妙な色の多様な組み合わせの関係を追求するようになった.60年代のオプ・アート運動における最も重要な人物の一人である.

 

▶︎ナイジェル・ホール

1943年イギリス,ブリストル生れ.Nigel HALL

1960年から64年までブリストルのウエスト・オブ・イングランド美術学校に,1964年から67年までロンドン王立美術学校に学んだ.1972年から74年までロンドン王立美術学校の教師となり,その後はチェルシー美術学校で教えている.60年代から彼は,空間に吊るされたドローイングとでも言える金属棒をつなぎ合わせた左右非対称の幾何学的構造をもつ,優雅で高度に仕上げられた彫刻作品に専念している.

▶︎ルチオ・フォンタナ

1899年イタリア.ロサリオ・テ・サンタフェ生れ.1968年イタリア.ヴァレーゼ,コマビオ没.Lucio FONTANA

1905年ミラノに移り,後に石工となった.しかし1927年から29年までプレラ・アカデミーで美術を学び,1934年「抽象=創造」に参加した.1946年,彼のいわゆる「マニフェストフランコ(白色宣言)」を世に問い,新しい空間と質感の表現を提唱した.その考えは,彼の作品に見られる,空間の曖昧性を作り出すための画面上の浅い突起や,切りさいた線,あるいは穿った穴といった試みに反映された.さらに彼の制作活動は平面作品を越えて,彫刻,環境芸術にまで及んでいる.

 

▶︎ヘンリック・スタジェフスキ

1894年ポーランド.ワルシャワ生れ.Henryk STAZEWSKl

ワルシャワの美術学校で勉強し,1924年に前衛美術グループ「ブロック」の創立メンバーとなり,構成主義やシュプレマティスムの理論をひろめた「ブロック」誌の編集長になった.ポーランドにおける構成主義の主唱者であり,初期の絵画はほとんど黒と白で描かれた.後に,一連の白あるいは単色のレリーフで空間や運動の問題を扱っている.最近年は,大きなレリーフの構図の中で,色のグラデーションが幾何学的形体の連続で表現されている作品を制作している.グループ「円と正方形」に参加し,1932年には「抽象=創造」に参加した.

▶︎ギュンター・ユツカー

1930年ドイツ,ヴエンドルフ生れ.Gulnther UECKER

デュッセルドルフに本拠をおくグループ「ゼロ」の創立会員であり,1958年以来,主に,芸術における光と運動の効果について強い関心を寄せてきた.立体作品やレリーフでは表面がいつも釘で覆われていて.色は白のみを使っている,それは彼にとって.白色は心ゆくまで,光と影のコントラストを探究させてくれるものだからである.さらにユッカーは.見る者が直持参加することによって.思いがけない動的な効果を生み出すような環境を作り出す試みをしてきている.

▶︎ヤン・J・スホーンホーヴェン

1914年オランダ.テルフト生れ.Jan J. SCHOONHOVEN

1936年にハーグの王立美術学校で学位を取る.1940年代,50年代はクレーの影響をかなり受けて,主としてクワッシュを用いて描いていたが,それ以後の制作では,絵画でも白のレリーフでも,線あるいは幾何学的な図形の反復に基づく,複雑であるがかなり整理された形体に関心が払われていた.張り子に似たパピ工=マシ工(PaPjeトmaC帖)によるレリーフの制作は1957年からである.1958年オランダのアンフォルメル・グループの結成に.1960年「ヌル」の結成に参加した.デルフト在住