芦原義信

■建築家芦原義信

松葉一清(武蔵野美術大学造形文化・美学美術史教授)

 1952年、建築家芦原義信は、米フルブライトの留学生選考試験に合格して渡米し、ボストンの「ハーバード大学大学院」に留学した。このハーバード留学こそが、芦原の日本での地歩を固める礎となるとともにドイツ起源で米国に移植されたバウハウスの建築思想が日本に入ってくるきっかけとなった。当時のハーバード大の状況を踏まえて、芦原義信の「建築家の懐胎期」をまずは読み解いていこう。

 

 留学を決意した時期、1918年生まれの芦原は、すでに30代の前半に差しかかっていた。1954年留学34歳・というには、薹(とう・盛りが過ぎる。年ごろが過ぎる)の立った年齢で、実際、芦原は、北代豊一郎〔のちに日本建築協会長)の主宰する「現代建築研究所」に席を置く社会人だった。留学の決意には、太平洋戦争に翻弄された青春を取り戻そうとする気持ちが込められていた。太平洋戦争の戦況が不利に傾いたミッドウェー海戦三カ月後の1942年9月、戦時下のため芦原は東大を繰り上げ卒業し、技術将校としてニューギニアに赴いた。苦労して造った軍用飛行場は使われることもなく、日本軍は敗退を重ね、やっとの思いで帰国した。実家は空襲で焼失、戦時中に結婚した妻、初子の実家に身を寄せた時期もあった。

 芦原は海外への関心の強い環境で育った。父、信之はドイツ留学で医学を修めた軍医で、日清、日露の戦役に従軍した。母方の叔父が画家の藤田嗣治で、その藤田がパリから帰国しているとき、東大の卒業設計の仕上げを手伝ってもらった。上図・それもあって敗戦で日本に平和が戻ると、民主主義の宗主国(そうしゅこく・従属国に対して宗主権をもっている国家)米国に行ってみたいとの思いを強く抱くようになった。

 30歳を過ぎて米国留学を決意し、1950年にフルブライト奨学金の前身にあたる米国が設けた占領地域の学生を支援するガリオア・プログラムに応募した。それは不合格だったが、翌年、ガリオアを引き継いだ第1回フルブライト留学生試験に受かり、家族を東京に残して「ハーバード大学大学院」に進んだ。のちに日本から多くの建築学生が目指すことになる同大学への、いわば記念すべき留学生第1号となった。

 わたしは、生前の芦原からハーバード留学時代の思い出を何度か聞く機会があった。印象に残っているのは「超高層ビル」の話だった。300mを超える高さの摩天楼の場合、水圧が下層階ではいかに高く、その制御にどんな技術が必要なのか、日本の建築教育では、考えもしなかったのでとても驚いたという。

 芦原の東大の卒業論文は「塑性領域におけるラーメンの研究」。つまり構造力学が対象だった。指導役の武藤清(下写真)は、のちに日本の超高層ビルの構造力学の草分けで、日本最初の超高層ビル「霞が関ビル」の構造解析を手がけたことで知られる。芦原は自身の論文を「超高層建築の理論につながる」ものだったとしているが、それなのに水圧については認識がなかったということになる。

 1964年の東京オリンピックに際して、芦原を「駒沢公園体育館・管制塔」(下写真 )の設計者に指名するなど、戦後の東大建築学科を牛耳った岸田日出刀は、1920年代にニューヨークのロックフェラー財団を訪ねるなどしており、米国の摩天楼を実見していたはずだ。しかし、1931年完成のエンパイア・ステート・ビルが高さう81mに達していたのに対し、戦前の日本は、関東大震災後の高さ規制で軒高を31mに抑制しており、彼我の技術的な落差は覆いがたかった。米国に憧れて留学した芦原は、まず技術面での進化の落差にひれ伏さざるを得なかった。それゆえ、彼が米国の建築に心酔していったのは自然な成り行きだった。

■銀の王子さまの「移植されたバウハウス」で

 第2次世界大戦の前後の時期、米国の建築界は特異な状態にあり、なかでも「ハーバード大学」は象徴的な存在だった。芦原は、その熱気のただなかに飛び込んだ日本人建築家の栄えある「第1号」でもあった。

 米国の文化状況を記述するのに長けた作家、トム・ウルフは『バウハウスからマイ・ホームまで』(1981年)のなかで、バウハウスの初代校長で、ナチスの弾圧から逃れて英国経由で米国に移住し、「ハーバード大学」大学院で教鞭をとったヴァルター・グロピウスを「シルバー・プリンス(銀の王子さま)」と呼んでいる。ウルフによると、やはりバウハウスの指導者、画家のパウル・クレーがそう呼んだのが「論拠」なのだそうだが、米国がはからずも〈輸入〉したバウハウスの手放しの礼賛に走った異様さを「王子さま」呼ばわりと椰撤した。

 その「銀の王子さま」が主導した「新大陸のモダン・デザインの殿堂」が、ハーバード大学の大学院(プラデュエイト・スクール・オブ・デザイン)だった。バウハウスの最も若い世代の教員だったハンガリー出身のマルセル・ブロイヤーもグロピウスと運命をともにし、「ハーバード大」の教壇に立った。米国は、ユダヤ系の教員が多かった「バウハウス」をそっくり受け入れた。ちなみに「ハーバード大学」は、グロピウスが退いたあとに、スペインのファシズム、フランコ政権から逃れてきたホセ・ルイ・セルトが指導的な立場を得てあたかも「民主主義的な避難所」の様相を呈した。下写真・左側(ミロ美術館設計担当)右側(ホセ・ルイ・セルト)

 1920年代後半、アスピリン・エイジと呼ばれるほど自由放任の経済が好況をもたらした米国は、建築の表現では「アール・デコ」の坩堝(るつぼ・種々のものが混ざっている状態のたとえ)のなかにあった。ヨーロッパでは、1928年にル・コルビュジェらが「CIAM(近代建築国際会議)」を結成(下写真)、モダニズムは大きな流れになりつつあったが、その動向が米国で明確に認識されるのは、1928年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された「インターナショナル・スタイル展」まで待たざるを得なかった。そこに「本場」から「本物の銀の王子さま」がやって来たわけで、米国は一気呵成に「モダニズムの王国」へと変貌していった。芦原が「ハーバード大学」に登校した1952年は、グロピウスが同大学院を去った翌年だった。ブロイヤーは1946年に独立してニューヨークに事務所を構えていた。

 芦原がハーバード時代に描いたボストンを貫流するチャールズ川沿いの「アート・センター」(下図)を見るとブロイヤーへの憧憬が読み取れる。ヴォリューム感は消滅し、純白の壁のところどころにル・コルビュジェを思わせるブルーや赤の幾何図形が配されている。

 細い線画で構成される造形は、平板な壁体などの「面」を強調しており、そこに表現の熱情は読み取れない。この設計演習の図面には、指導にあたったヒュー・スタビンスのサインが記されている。

 また、1953年のコンペと記載がある「ゲストハウス」の図面(上図)は、チャールズ・イームズの住宅を思わせる表現で、「障子」も,描かれている。「移動展」「審査員賞」という記述があることから、この芦原案は入選案であり、巡回展示されたことをうかがわせる。35歳という年齢での「学生コンペ」への応募だったから、入選も当然の結果だったのかも知れない。

 留学当初、芦原がヨーロッパ流のモダニズムの図面を描いた際、指導にあたる教員から「君はヨーロッパからの留学生ではない。オリジナルであれ、創造的であれ」とはっぱをかけられたという。芦原は「表現にあたって日本を常に意識するようになった」逸話としてこの話を披露しているが、当時のハーバード大学で、いかにヨーロッパ流が幅をきかせていたかを物語る回想と受け取ることも出来るだろう。

 芦原にとって、大学院の修了後、ニューヨークのブロイヤーの事務所で1年たらず働いたことが建築家として長く活躍する支えとなった。芦原は、すでに「ハーバード大」を去っていたブロイヤーを、留学時代の真の恩師と仰いでいる。「銀の王子さま」の舎弟に心酔したというわけだ。芦原の代表作とされる「ソニービル」(1966年上図)などに見られる「スプリット・フロア」、つまり、各階の床をレベルを変えて分割配置する内部空間の構成法の原点を「ブロイヤー自邸1下図〔1939年、米リンカーン)などに求められよう。

  

 その意味でも芦原が「師」と仰ぐのは納得できる。芦原はブロイヤーの事務所での印象深い体験として、ブロイヤー好々爺然(こうこうや・いかにも人が良さそうな笑顔が絶えないおじいさん)としながらも、所員たちの製図台の列を回って丹念に仕事ぶりを確かめていたことをあげている。造形の理念ではなく、建築設計事務所長として、進行している設計案の細部に及ぶ目配りが、ブロイヤーの作品を支えていたと受けとめた。

 この回顧談は、芦原建築設計研究所の所員だったひとたちの「芦原は自身が図面を描くのではなく、連日、仕上がった図面を詳細に点検し、不満が残るときは的確に描き直しを指示していた」という証言に結びつく。モダニズム以前の装飾的な図案が個々の建築家の美意識に根ざしていたのに対し、抽象形態を論理的に構築するモダン・エイジの設計事務所の運営法の一端がそこに垣間見えよう。ブロイヤーに倣ったアメリカ仕込み」が、芦原建築設計研究所で生かされたことになる。

■「スプリット・フロア」の空間(Split-flore・スキップ・フロア)

 米国留学から帰国後の芦原の空間構成に対する考え方を示す記述が、「新建築」の1956年7月号に掲載されている。建築専門誌は作品名を見出しに掲げるのが常だが、芦原はそれを「流動する空間の構成」という表題に置き換えて、自身の思考に基づく「スプリット・フロア」をプレゼンテーションしている。作品としては、鉄筋コンクリートの「新潟アメリカ文化センター案(下図)と、実現した木造住宅「山崎邸」(下図)を掲載している。

そこで芦原は前者を例にあげて、次のように記している。

「床の高さをくいちがえることによって1階と2階が心理的にも実際にも近くなり容易に導線を上にみちびくことが可能である。そして、この空間の中に流動性と融通性を求めて、我々が体内に持っている日本建築のよさを、全然日本技術にたよることなくつくりだしてみたいと思ったのである。(中略)自然との結びつきは、日本建築のみならずガラス面の大きい近代建築の一つの特徴で、池を図書室の床下までひきいれて、本を読みながら足下から水面を眺められるように考えた」

 そこに、この時点の芦原の思考は凝縮されていよう。ハーバード大学で日本からの留学生に求められた「オリジナルと創造性」への一つの解答が示されているからだ。「スプリット・フロア」は、寝殿造りに示される空間の流動性を立体化したものであるとの主張だ。この「新潟アメリカ文化センター案」には、具象的な日本風は影もない。あるのは芦原の語る理念としての「日本オリジナルの空間」であり、それが米国の文化的な尖兵の建築の形で体現されている。米国を民主主義の恩人と受けとめ、一方で圧倒的な国力の差にコンプレックスを抱く心情も強かった時代に合致した日本オリジナル空間の表明だった。

 ちなみに当時の「新建築」は、川添登ら、建築界に一言を持つと自負する編集者がそろっていたため、時に踏み込みすぎともとれる無署名の一文を掲載することがしばしばだった。この号でも、芦原の寄稿に続いて「ハーバード大学の大学院を卒業した芦原義信がブロイヤーの事務所に入ったときいたとき、彼を知っていたひとびとは、みんな“なるほど”といったような顔をした」とする無署名のコメントが寄せられている。ブロイヤーの「ヒュマーナイズされた作風」を芦原が自分にぴったりと考えたからだろうというのである。

 そして、他の日本の近代建築家(モダニスト)が「“無限定な空間”を求め、プライヴァシーの要求を無視し、あるいは“統一されたデザイン”から人びとの時間と場所による心理的差異を忘れ去ろうとしたとき、(中略)彼はプランに高低の差をもうけ、“流動する空間”を作ることによって、これらの矛盾を解決しようとした。(中略)ここに発表された作品は、彼の帰朝第一作ともいえるものである。私たちは、彼が他の建築家の種々の手法や思想にまどわされず、彼の方音去をさらに追求してゆくことを望んでやまない」と述べている。

 芦原に対する建築界の期待がいかに大きかったかを今日に伝える記述である。そこにヨーロッパ流のモダニズム(ル・コルビュジェに起因する)に対して、米国流の「移植されたバウハウス」への茫洋とした期待を読み取ることも出来るだろう。先端や先鋭をル・コルビュジェが体現したのに対して、「バウハウス」は、グロピウスがそうであったように、ウイリアム・モリスの「万民のためのデザイン」という思考の継承者を自負していた。「新建築」の編集子は、名家の出自でありながら気取らない性格の芦原を「“庶民的”な人物」と記し、段差の空間についても「この方法は、日本庶民の伝統にはなかった手法にかかわらず、極めて“庶民的”な解決の仕方と述べている。【庶民的_の当否はともかく、モリスを源流とするアメリカン・バウハウスへの期待半分の思い込みが存在したことをうかがわせる。

■アメリカニズムの「広告塔」

 ところで関東大震主柱後の1920〜30年代のモダン東京において流行した「アメリカニズム」という言葉は、商業主義と同義語であった。あるいは合目的発想といった即物主義と言い換えてもよいだろう。その「アメリカニズム・・・が自分たちの身の回りに浸透し、新たな都市文化が生まれつつあると、戦前の日本人は認識していた。そして、敗戦後の日本で、米国の圧倒的な資材を目の当たりにしたひとびとは、自分たちの社会において、物質的な価値尺度が、理念や知性に取って代わりつつあることを実感させられた。

※ 花ビラ方式というのは、1つの階を“田”の字型に4つに分け、90cmずつ段違いにして、上から下まで続く大きな螺旋(らせん)階段のようにしたフロア構造のこと。ソニービルは8階建てということになっているが、実際には全25層のフロアがあり、中央の柱を中心に1周すると通常のビル1階ぶん下がることになる。また、どこのフロアいても上下2段ぶんの空間を見渡すことができるのも特長で、各フロアが連続性を持った「縦型のプロムナード」となった(盛田昭夫氏が1966年に日本経済新聞に寄稿した『銀座の庭』より)。

 芦原の代表作として衆目の一致する「ソニービル」(1966年)は、ビル自体が新興企業の広告塔であり、その意味では「アメリカニズム」の権化だったといってよい。海軍から復員直後、芦原が新宿の「戦災復興計画コンペ」に応募した際、鉄道路線図を描く手伝いをした東大の後輩、井上公資ソニーの宣伝部長となった緑で、芦原は設計を依頼された。このアメリカニズムの「広告塔」の提案者は、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫だったと芦原は振り返っている。「ソニービル」の計画が持ち上がったのは1963年とされる。完成は3年後で、その翌年の1967年には、自民党幹事長だった福田剋夫が「世は昭和元禄」華美に流れる高度経済成長真っ只中の日本を慨嘆している。

 建築界を振り返ると、すでに機能と合理の二つのイズムを形骸的に踏襲するだけのモダニズムの行き詰まりは顕著になりつつあった。しかし、露悪的、自虐的に商業主義と添い寝することを厭わない「ポスト・モダニズム」の台頭まで、まだ10年ほど待たざるを得なかった。「ソニービル」はどうかといえば、モダニズムが忌避してきた商業主義に積極的に関与し、それこそ倹約が美徳ではなくなった昭和元禄と同調していた。ル・コルビュジェらが1933年に定めた近代都市計画のバイブルとされる「アテネ憲章」に、商業施設の項はなく、消費そのものが建築家の仕事の対象から除外されていた後遺症が、職能の社会性を自負する建築家の間に根強く残っていた。芦原は「ソニービル」の発表時の「新建築」1966年7月号への寄稿のなかで、ソニーとはなにかを突き詰めて「ソニー製品にあらわれている質のよさからくる正確さ、無用の装飾を排した機能的美しさ」こそが「近代建築の精神にも相通じる」と記している。そして、「広告塔であるとか、ごたごたしたものを一切よして、よごれのない白色の材料や金属そのものの材質を中心に大きな製品であるかのごとく表現してみた」と述べている。

  通常、レプリカというものは、もとの製品より小さくなるものだが、ここではソニー製品が極大化されて都市の一角を占めた。確かに、日本や米国の大都市のような歴史性の乏しい都市空間を前提とするなら、モダニズムが産業革命以後の都市の着衣として近代建築を造営してきたわけだから、そこに工業製品のレプリカが似合わないわけではない。モダニズムは、産業革命以後、工業製品となった建材のより使いやすい「様式」を模索してきた。その意味では、芦原のいわんとするところは理解できよう。ただ、モダニズム批判が顕著になって以降は、工業生産の下僕としての近代建築のあり方は、自嘲的な文脈で語られることになったが、この時点の芦原には、持ち前の明るい性格もあって、シニスム(社会風習や既存の価値・理念などに対して,懐疑的で冷笑するような態度をとる傾向)は影もない。いや、その屈託のなさがあればこそ、「ソニービル」は、一般のひとたちの人気を呼び、建築界からも評価されたのである。「ソニービル」の各階の構成は「スプリット・フロア」の集積であった(下図)。一つの階の床は四つに分割され、その四つを螺旋を措きながら巡って昇降すると、次の階のレベルに至る構成だった。四分割で1階分を昇降するため、分割された床の段差は90cmになった。思えば異様な数値である。

 敷地もわずか700㎡しかなかったが、芦原は数寄屋橋の角地を占めるビルの道路に面した隅を切り欠いて、サンクンガーデン(下図)を設けることを提案した。四季折々、そこを使って季節感を味わえる仕掛けをしたいという芦原の話を井深と盛田は受け入れ、「ソニービル」は土一升!金一升の場所で「公共性」を確保するに至った。

 芦原が日本建築学会長時代、わたしは、芦原から学会百周年記念事業を黒川紀章と任されていたこともあり、銀座界隈を何度か一緒に歩いた。そのとき「ソニービル」の話を彼が持ち出し、話を聞いた。芦原が切り欠きのところに小さな三角の広場を残したおかげで、三角の2辺の屋上までの壁は、イベントに応じたバナーをかけることも出来るようになった。それはまさに「都市の床の間の掛け軸」の風情だった

■都市の「4畳半」を基準とす

 陣内秀信によると、芦原が、東大の最終講義の際、これまでの都市に対する考えをまとめた書籍がちょうど刊行されたばかりだと自著『街並みの美学』(岩波書店1979年)を壇上から披露したという。この『街並みの美学』は、ヨーロッパ、米国、そして日本の都市景観のあり方、考え方を、一般のひと向けに解題した書籍として広く賛同者を得た。「ソニービル」で「都市の床の間」を意識していたように、芦原は常に外部空間を意識しながら設計に臨んできた。その芦原の都市への視線は、丹下健三が「東京計画1960」や地震からの復興を期した「スコピエ計画」(当時のユーゴスラビア)のようなメガストラクチャー、つまり「現代の神殿」のような巨大な構造物で新都市を構築する視点とは異なり、等身大のスケールに基づいていたところに特色があり、それが一般のひとびとの関心を集めた理由でもあった。その論考は総括としての『街並みの美学』以前に、『外部空間の構成(彰国社、1962年)『外部空間の設計』(彰国社、1975年)などの書籍にまとめられた。それらの著作は海外でも訳出刊行され、多くの海外の建築家たちにも影響を与えた。『街並みの美学』に続き、『隠れた秩序』(中央公論社、1986年)を著し、ヨーロッパの都市とは異なる日本の都市の特性を踏まえた都市論、景観論の確立を訴えた

 芦原の外部空間論は直感的なところに特色がある。理論よりも、現実の都市のスケールを踏まえたのが等身大の提言として共感を呼んだ。専門誌『建築文化』1964年12月号に掲載した「外部空間の設計」では、次のような三つの仮説を提示している。

・EXTERIORDESIGNの第1仮説

 外部空間においては、内部空間の約9倍〔8、10倍)のスケールを用いること

・EXTERIORDE5IGNの第2仮説 

 外部空間においては、約24.000m〜25.000m を一歩度とするスケールを用いること

・EXTERlORDESIGNの第3仮説 

 外部空間においては、一歩度(24.000m〜25.000m) について、材質が少なくとも5〜6cmのひだのある単位のものを用いること

 「第l仮説」の約9倍のもとになる内部空間の寸法として、芦原は4畳半の和室を例示している。つまり、ひとは(日本人は)日常生活の空間を測る尺度として日本間の4畳半を基準としているといい、4畳半が2.7m角だから、「第2仮説」にあるように、都市においては24〜25mが、ひとが足を運ぶときの一つの単位となると説くのである。その24〜25m角を一つの単位(郡市における4畳半)として、ヨーロッパの大きめの広場の広さ(465mX190m相当)を換算すれば、都市における50畳敷きになるという。ここからが芦原の面白いところで、話を和室に戻して、座敷が100畳を超えると端っこにいるひとの頭が識別できなくなる。

 そう考えると、ヨーロッパの広場の倍の広さになり、茫漠とした非人間的な空間に陥る。例えば、ニューヨークのワシントン広場(930mX430m)は、240畳敷きになるので、いかにも大きすぎるという論法である。

 「第3仮説」の路面材の「ひだのある素材」については、芦原の唱える「一歩度」を想定して、例えばモザイクタイルでは小さすぎて材質感が現れにくいので、レンガのような大きな寸法で目地が入るもので、かつ広いところではおうとつをつけて、距離に基づく材質感を持たせるよう配慮することを提案している。これは「駒沢公園中央広場(下右写真)茨城県民文化センター(下左写真)(1966年)などの多くの芦原作品で実践された。

 「都市の4畳半」を目安に、和室と外部空間を行き来する芦原の論述は、読み進むうちにどこか騙されたような気になりワクワクさせられる。こう書き進むと、生前の人懐っこい芦原の表情が浮かんでくる。正論を展開しながら、親しまれたのは、日頃の人徳があればこそと、今さらながらに考えるのは、わたしだけではないだろう。

■美大教育の理想の結実〜武蔵野美大の芦原義信

 1960〜70年代、前途有為な建築家たちが参加して、日本全国で大学キヤンパスの整備が進んだ。戦災復興が一段落し、高度経済成長の果実が、大学進学率の上昇に結びつき、大学の新設、施設増強が計画されたからである。ここでまた「ハーバード大学」にまつわる話に触れねばなるまい。

 東京・小平市に「武蔵野美術大学」が新キャンパスの用地を求めたのは1960年代はじめのことだった。1929年、吉祥寺の地に「帝国美術学校」として創立した同校は、1962年に4年制大学になった。美術大学の志願者数はうなぎのぼりで、人材養成の教育機関としての需要が高まり、現在の大学の立地場所を地主(小平)から買収し、手狭だった創立の地から主キャンパスを移転した。

 

 こうした美術大学としての組織改編、新キャンパスの推進者となったのは、当時、理事長をつとめた田中誠治(下写真)だった。田中は辣腕の学校運営者として名を馳せた人物で、1965年には、今後の美術大学のありかたを模索するため、欧米の美術大学の調査訪問に出向いている。

 田中は、ボストンのハーバード大学のデザイン大学院を訪れ、そこが建築主体であることを踏まえて、建築学科新設を想定した教学組織の強化に乗り出す。1964年度に「産業デザイン科建築デザイン専攻の新設」がすでに認可されていたが、田中は「その後」について、『武蔵野美術』51号(1964年1月)で次のように記している。

 「(新設の)建築デザイン専攻は将来建築学科として確立され発展してゆくことが予想される。ヨーロッパの美術学校は絵画、彫刻、建築の三科からなるものが多く、又米国のハーバード大学のデザイン大学院は建築を主体とするものであることなどからも、美術デザイン教育を行う大学に建築科をおくことの必然性は明らかであるし、他の科の学生にも必ずや良い影響を与えるものと信ずる」。

 この田中のハーバード大学大学院の受けとめ方は、グロピウスが「バウハウス」における教育の到達点に建築を据えていたことと重なり合う。デザインのためのトレーニングを重ねて、日常の生活用品のデザインを手がけ、それらを集積統括するものとして、建築を目指すという考え方だ。田中は、それを欧米の美術大学の見聞のなかで「移植されたバウハウス」を見学したときに実感として納得したのである。欧米の美術大学調査と前後して芦原を訪ね、キャンパス設計と建築学科の創設立ち上げの中心的役割を果たすことを依頼している。芦原は、神社建築家として知られる大江宏の求めで、すでに法政大学の教授をつとめていたが、この武蔵野美大への移籍の求めに応じ、キャンパスを設計し、建築学科を立ち上げた。

 芦原がハーバード大学大学院の修了者であることに、田中は満足を覚え、キャンパスと建築学科創設にあたって安心と信頼感を抱いたのは間違いない。一方、芦原は、田中の移籍要請に対して「学部長が交代すると全教員も入れ替えるのがハーバード大学のやりかただ」と応じ、人事を学閥にこだわらず自由にすることの了承を得た。それを受けて、当時、世界的に注目されていた早稲田大学出身の竹山実、東大系では磯崎新ら、活気あるメンバーが武蔵野美大建築学科の立ち上げに顔を揃えた。竹山は定年まで在籍し、1977年に刊行されたチャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』の表紙を、竹山とやはり武蔵野美大の教員だった粟津潔が合作した「二番館」が飾るなど、モダニズムの批判の流れのなかで、世界規模での存在感を発揮した。

■キャンパスを都市とみなす

 芦原は、キャンパスの中心に、四つの主要建物が囲む広場を置き、順次、設計にとりかかっていった。四つの建物とは「アトリエ棟(現4号館)」「デザイン棟(現7号館)」「美術資料図書館(現美術館棟)」「本館(現l号館)」である。

  なかでも「アトリエ棟」は、傾斜屋根を持つアトリエの集合体で、芦原はその特異な形態を、列車のなかで求めた「きび団子」の仕切られた箱から連想したという。この「アトリエ棟」は、キャンパス創設時の武蔵野美術大学のシンボルであり、職員が他大学などとの通信に使う「絵葉書」の図柄にもなった。

 神社建築の矢羽根を思わせる深い切り込みを妻壁(妻側の妻梁以上の外装の壁を指す)などに刻んだ「デザイン棟」は、屋上に張り出した梁が空中で交差し、神社の「千木(ちぎ)」を連想させる。1960年代に日本回帰をコンクリートで試みたモダニストの企ての一例がそこに見てとれよう。「美術資料図書館」は大きな吹き抜けを中心に持ち、正面に立つと、前面のガラス壁から背面のガラス窓の向うに広がる武蔵野の自然が見通せた。これもまた芦原の外部環境を尊重する姿勢を示している。

 「本館」は正面のゲートからキャンパスの軸線を進んだところに位置して、「スプリット・フロア」が空間を効果的に演出している。来訪者は、この建物の足下の低いゲート状の吹き放ちを抜けて、15段の階段を登り、建物中央の光庭に進む。ゲートを通るときに、頭を押さえられたような抑圧感を覚えると、次に自然光の降り注ぐ光庭で圧迫感から一気に解放される。光庭から切り返して半階分、階段をあがると大事務室に至る。この階段のまわりは壁にガラスブロックをはめ込むなど、モダニズムの美学のなかでの華やかさが実現していて心地よい。芦原が設営した最上質の表現の一つだろう。吹き放ちの1階天井には角材の列があしらわれているが、その実際の木と、木の型枠のあとが残るコンクリート壁の対比が、モダニズムの即物主義志向を物語っている。

 芦原は1964年から1970年まで武蔵野美術大学に在籍したあと東大教授に迎えられる。そして、1979年の東大退官後、再び、武蔵野美大に戻り定年の1988年まで教授をつとめた。異例の2度の教授職となったが、それだけ自身の設計したキャンパスに愛着を抱いていたことがうかがえる。

 外部空間への芦原の関心を踏まえて、武蔵野美術大学のキャンパスを眺めると、彼が個々の建築以上にキャンパスの骨格となる広場、そして、そこから派生する街路(通路)を徹底してデザインしたことが浮かび上がってくる。

 キャンパスは東側に正門があり、広がる方位になっている。(上図) キャンパス中央に東西軸があり、正門から先述の四つの施設の囲う西に向かって軸線の設定はそれに沿って「中央広場」に向かい、そこで右へ45度ほどの角度で折れて、「美術資料図書館」右側の「レンガ広場」へと至る。軸線は「本館」に向かって緩やかに昇り、「本館」のゲート状の吹き抜け下の階段を15段、約1.8mほどあがる。そのまま進んで右に折れ、「レンガ広場」のしそところでまた階段を5段ほどあがる。主要軸線と「中央広場」「レンガ広場」は、意図的に異なる路面の高さで設定されている。外部空間の成立ちを多様で豊かにしたいという芦原の真骨頂が読みとれる。「デザイン棟」の脇の小さな植栽に面した通路も途中に高低差を持たせた階.殴があるなど、ある意味、とてもバリア・フリーで複雑な路面設定になっている。芦原とともにこのキャンパス設計に従事し、武蔵野美術大学教授となった保坂陽一郎によると、キャンパス設計の話が持ち込まれたとき、「小さな都市」を設計できると、芦原は受けとめたという。もちろん面積も膨大な広さではないし、大学という限られた機能を収めるという点で、現実の都市とは比較にならない。しかし、40代の芦原は、モダニストの多くが夢想した「都市の設計」の限定版を武蔵野美術大学で実践できることを前向きに受けとめ、法政大学からの移籍を決断した。「中央広場」については、イタリアなどヨーロッパの広場ではなく、伽藍の囲う古代日本の広場を想定して設計にあたったという。芦原が東大から戻ってきたおかげで、武蔵野美大の1964年に発するキャンパスは、中央の軸線と広場を尊重しながら、新しい校舎の建設が進められ、芦原の原設計の雰囲気を今日もとどめている。それは1960年代に建設された全国のモダン・キャンパスのなかでも希有な例といってよい。わたしたち現在の大学の教職員が未来に向けて継承すべき文化遺産の存在をまず認識し、可能な限り、原形を保つ形で保持していく必要を痛感する。

■もうひとつのモダニズムの系譜

 日本のモダニズムの系譜に、ル・コルビュジェ信奉者が大きな比重を占めていることは認めざるを得ないだろう。1923年東大入学(文学部だが)の坂倉準三(1901〜1969年)と25年入学の前川国男(1905~1986年)、そして、35年入学の丹下健三(1915〜2005年)、芦原と同世代の吉阪隆正(1917〜1980年)と続く系譜である。 

 坂倉と前川は第2次世界大戦以前にパリのル・コルビュジェの事務所で研鑽を積んだ。丹下もそれを望んだが戦時体制に阻まれた。吉阪は父親が国際連盟職員をつとめ、ジュネーブで暮らしたこともあり、戦後、ル・コルビュジェの事務所に席を置いた。吉阪は単なる信奉者ではなく、ル・コルビュジェの世界観を反転させる形で遺志を継承し、日本のポスト・モダンの流れのなかで、最大の成果をもたらした「象設計集団」の生みの親となった。芦原に始まる米国のモダニズムの薫陶を受けたひとびとは、ハーバード留学組に槇文彦、谷口吉生ら、ペンシルベニア大学に香山壽夫らがいる。

 東大建築学科において設計の中心役は、芦原のあと、槇、香山と継承され、その意味では、米国組が東大の主流を形成してきたといえる。芦原を囁矢(こうし・物事の最初)としてといってよいだろう、日本のモダニズムは、敗戦を一つの契機に、ヨーロッパからとは異なる経路で「バウハウス」に繋がる系譜を獲得したのである。

 芦原義信建築図面の保存、デジタルデータベース構築にあたって、「モダニズム盛期」の芦原義信の活動の軌跡の通覧を目的に本図録は編まれた。図面をデジタルデータ化してみると、芦原らが1960年代から1970年前後に米国で試みられたモダニズムの建築の詳細を緻密に学習し、日本の現場でその成果を実践していった努力に敬意を抱く。

 そのことが建築界を先導する自立建築家の地位を高めたのは間違いない。守屋秀夫、保坂陽一郎、澤田隆夫ら、米国から戻った芦原のもとに集まった優秀なスタッフが研鐸を積んで、芦原の名声を不動のものとした。

 個々の建築の詳細については、抜きんでた設計力で知られる上口泰位、山下博満(ともに日本設計)の両氏が、初期から中期にかけての代表作「中央公論ビルディング」や「富士フイルム東京本社ビル」などのディテールについて、緻密な分析に取り組み、本図録にその結果を寄稿している。設計者の立場でこそ綴り得た両氏の論考をぜひ参照していただきたい。

■写真資料(武蔵野美大学・1964~2016)