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大正期
夢二とベルリン
大正期新興美術運動
主要作家略歴
分化から終焉へ
大正期新興美術運動における空間意識について
大正期新興美術運動の概容と研究史
身体という橋
柳瀬正夢
第1章1900―1923
第2章1923―1932
第3章1932―1945
明治期
東京美術学校
岡倉天心
岡倉天心パンフ
岡田 三郎助
東洋の思想
萬 鐵五郎
高田博厚(彫刻)
現代まで
「コピーの時代デュシャンからウォーホル、モリムラヘ
美術論
瀬谷裕美
素描とは
美と土俗
大正期新興美術運動
■大正期新興美術運動
海外の美術動向
(特に未来派とダダ)の強い影響のもと、大正期(1910年代後半から1920年代前半。ただし、主として、1920年代前半)に興った前衛的な美術運動のこと
。美術史家
五十殿利治
により提唱された用語。
■黒田清輝らアカデミー派
1910年代までに洋画界の中心となったのは
フランス印象派の影響を受けた東京美術学校の
黒田清輝らアカデミー派
であり、文部省美術展覧会(文展)がその舞台であった。
■ヒュウザン会(1912年)、二科会(1914年)
これに対抗し、
ヒュウザン会(1912年)、二科会(1914年)など在野の団体
による活動が見られた。第一次世界大戦が終わると、
ヨーロッパへ留学する美術家も多くなり、フォービズム、キュビスム、表現主義などヨーロッパにおける新たな潮流が、同時代的に日本にもたらされる状況となった。
■
1920年には未来派の影響を受けて「未来派美術協会」が結成
。
さらにこうした動向に大きな刺激を与えたのは、
■ロシアの未来派や構成主義の作家の来日、及び村山知義のドイツからの帰国
(1923年)である。
前者はロシア未来派の作家ブリュリュック(ブリュリューク、ブルリューク)とパリモフの来日(1920年)と、構成主義の作家ブブノワの来日(1922年)である。当時の運動の担い手として、具体的には次のようなグループが挙げられる。普門暁、木下秀一郎、
柳瀬正夢、
尾形亀之助、大浦周蔵、浅野孟府ら
■アクション(1922年結成)
古賀春江、神原泰、中川紀元、岡本唐貴、矢部友衛
、吉田謙吉、浅野孟府、中原実、横山潤之助、吉邨二郎ら
■MAVO(1923年結成)
柳瀬正夢、村山知義
、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎で結成。他、岡田達夫、加藤正雄、高見沢路直、戸田達雄、矢橋公麿
■第一作家同盟(DSD)(1922年6月末結成)
メンバー34名で五団体が結集、太田聴雨、小林三季、佐藤日梵、松島肇、吉川青草、真野満(以 上、青樹社)、村雲毅一、荒木留吉、田中一良、玉村善之助(以上、高原会)、高木長葉、山内神斧、池田耕一、森谷南人子、西村陀宙、鳥居道枝(以上、蒼空 邦画会)、小林源太郎、水島爾保布(以上、行樹社)、船崎光次郎、松田操、榎本三朗(以上、赤人社)
これらのグループは、
1924年10月に大同団結
し、
『三科造形美術協会』(三科
)となる。しかし翌1925年には瓦解し、その後、
1925年の 『造形』
(浅野、神原、岡本、矢部、吉田、吉邨、作野金之助、吉原義彦、斎藤敬治、飛鳥哲雄、牧島貞一ら)、
1926年の『単位三科』
(中原、大浦、仲田定之助、岡村蚊象(山口文象ら)などのグループが生れた。(「
劇場の三科
」は、『三科』によるもの(1925年)と、『
単位三科
』によるもの(1927年)とがある。)
大正期新興美術運動はMAVOから三科結成の時期をピークとして解体し、
プロレタリア美術運動などに分裂した。
■プロレタリア美術
(
柳瀬正夢、岡本唐貴
など)演劇、詩、評論、文学等、美術以外の分野へ(
村山知義、神原泰など
)
「大正期新興美術運動」という名称は、
五十殿利治
の 大著『大正期新興美術運動の研究』(初版1995年)により、強く提唱された。従来から、日本においても「1920年代の美術」というとらえ方(1920 年代の主として前衛的な美術動向をすべてまとめるとらえ方)が主張されているが、
「大正期新興美術運動」というとらえ方は、この「1920年代の美術」に 対する次の批判を内包している
。「1920年代」という時期に、必然的な意味がないこと(必ずしも、1920年から1929年で、きちんと区分されているわけではない)この時期の美術動向を、その美術系統など
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