大正期新興美術運動の概容と研究史

五十殿利治

 本書は大正期新興美術運動に関わる美術作品から文献・展覧会目録までの多様な資料を集成したものである。また、専門的研究者の論文も収録して、現在の研究水準を示すこととした。

 この運動に関わる現存作品はごく限られている。これにはさまざまな理由が考えられる。一番の原因は作品の評価が低かったことである。同時代において注目を浴びたとしても、購入されて大切に保管されるということは稀であった。専門的な教育を受けた人が少なかったおかげで、自ら作品を放棄したようにみえる人がいる。神原泰のように敗戦直後に破棄したような例もある。

 

 また、作品の材質や技法の問題も見逃せない。脆弱な材料を用いたり、ふつうの家屋では保管できないような巨大なあるいは複雑な構成物があった。パフォーマンスのように写真や証言でしか残せない「作品」もある。したがって本書ではできる限り多数の写真を掲載することを目指した。たとえ不鮮明な画質でも、記録の意味を優先させた。

 資料の中心は、展覧会にかかわる年表である。そこに写真資料も適宜配した。作品目録を翻刻したり、あるいはそれが人手できない場合は別の資料で補う一方で、図版編に掲載できないような画質の写真や出版物掲載図版を取り入れた。それによって、展覧会の様子がよりよく把握できるメリットもある。

 本書の意義については、研究史を振り返るなかで、明確にされることになるが、ここで特筆しておきたいことは、従来は近代美術史の弊でもあるが、ジャンルの壁で区別されていた日本画における対応を積極的に組み込んだことである。たとえば、玉村善之助は日本画家でありながら、『エポック』誌をはじめ美術雑誌を創刊し、あるいは「三科」のような美術団体に参画して、大正期新興美術運動の中枢にいた人間でもあった。彼に限らない。未来派美術協会結成において重要な役割を演じた伊藤順三もまた日本画家であったし、出品作も日本画とは思われないほど先端的であった。こうした日本画家の貢献について、さいわい、本書において当該分野の第一人者の協力を得ており、成果をしめすことができたと自負するものである。

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 つぎに、本書の年代設定について述べておく必要があろう。本書では大正九年[一九二〇]を起点とした山田耕筰と斎藤佳三がドイツから帰国して「シュトゥルム」の木版画を展示し、また東郷青児が初個展を開催した日比谷美術館[一九二二〜一九一五年]の時期も考えられないではないが、しかし未来派美術協会やブルリュークの来日による運動の台頭と比較すると、人脈でも運動形態においてもはっきりとした断絶がある。その断絶は、斎藤佳三との断絶である以上に東郷青児との断絶である。彼はブルリュークと出会ったことがスナップ写真により確認されるが、以後は行動を共にしていないし、大正十年[一九二一]からは国外にあったこともあり運動全体においては傍流(ぼうりゅう・主流派からはずれた流派)である。

ブルリューク ヴィクトール・パリモフ031 032 038 037 036 033 039 028

 大正九年[一九二〇]には、ともかく未来派美術協会が結成され、そこにウラジオストクから「ロシア未来派」のブルリュークとパリモフが来日して、普門暁が予想もできなかった撹拌作用が生じたのである。木下秀一郎という協会を導く人間も登場してきて、運動をつぎの段階へと推し進めた。

ダヴィト・ダヴィトヴィチ・ブルリュークと木下秀一郎 住谷磐根、岡田龍夫、高見沢道直-「踊り」-1924年-村山知義のアトリエにて(出典:『マヴォ』3号)

 問題は昭和三年[一九二八]の方であろう。本書の企画段階で関係者が討議した際に重要な指標となったのは、岡田龍夫が刊行した強烈な造形力を発散する雑誌『形成画報』であった。それをもって運動の帰結点としようということである。なるほど実質的な運動は、大正十四年[一九二五]の三科公募展の中断によって破綻している。一部が別の運動に転換していくとしても、全体としてはもはや結集力はなく、分散し、消滅するエネルギーだけが残っていただけである。しかし、その後退の経過については等閑視(とうかんし・いいかげんに扱って、放っておくこと)されて、従来転換し展開していくべクトルばかりで記述が進められてきたうらみがある。運動がどのような最後を迎えたのか、きちんとその過程を追うというのが本書年表の主旨なのである。さて、以下では、まずこの運動の概容を述べよう。ついで研究史を総括し、本書の意図するところを明示したい。

▶︎大正期新興美術運動の展開

 大正期新興美術運動とは、時代的には、白樺派の周辺において展開したフュウザン会や草土社の運動に続いて台頭する動きで、西欧の立体派[キュビスム]やイタリア未来派[フトウリズモ]等に触発された美術運動であった。

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 二科会で活躍する東郷青児や神原泰によって先鞭をつけられたが、大正九年[一九二〇]になり、急に社会的な注目を浴びるとともに、勢力を拡大した。いわば内圧と外圧の衝突が、運動の引き金となったのである。

神原泰 東郷青児

神原泰・未来研究 万鉄五郎

 この場合、内圧とは岸田劉生たちが「クラシック」へ大きく転回し、萬鉄五郎も孤独な営みにおいて「東洋回帰」するなかで、二科会の東郷の周辺によって新傾向への希求が徐々に膨張してきた事態を指している。かくして、はじめて「未来派」を名乗る画家たちが「未来派美術協会」の名を掲げて登場し、九月に小規模でも東京と大阪でグループ展を開催した。組織の中心となったのは、出品作の落選により二科展に反旗を翻した普門暁、そして巽画会で普門と近かった日本画家伊藤順三であった。名古屋で活動を始めていた木下秀一郎をはじめ、後藤忠光、相生垣秋津[日本画家・赤人会]といった参加者があった。

普門暁 「鹿・青春・光・交叉」1920-奈良県立美術館 未来派美術協会展木下 尾形亀之助朝の色感 ダビット・ブリューク魚を商う男054-1後藤忠光

 ところが、こうして萌芽が出たところで、以後は外圧の作用が急速に高まるのである。思いがけずそこに外国から援軍がやってきた。未来派美術協会展直後に「ロシア未来派の父」を名乗るダヴィト・ブルリュークとヴィクトル・パリモフシベリア出兵最中の極東ロシア・ウラジオストクから来日して、多数の作品を東京、大阪、京都で展示して、広範なジャーナリスティックな反響を呼んだ。それまでは、海外留学を果たした僅かな画家たちでさえ、最先端の動向であるだけに実物を眼にするのは稀であり、まして大方の日本人は画集や雑誌で不鮮明な白黒ないし三色版の複製に接するのがせいぜいであったところに、未来派や立体派の「実物」が展示され、上着のボタン穴に菊の花を挿すといった異様な風体の未来主義者による未来派的な奇抜な行動を目撃することになったのである。したがって、大多数の人にとっては、「ロシア」の未来派がなんたるかは二の次であったはずである。とりわけ、物体を画布に直接貼り付けるコラージュ技法は反響が大きいものであった。

 未来派美術協会とブルリユークたちの交流はすぐにも実現した。ブルリユークたちの展覧会の会場で撮影された、ロシア人画家たちと東郷青児、普門暁、そして木下秀一郎のスナップ写真が残されている。日本画家では、八火社を率いる尾竹竹坂の一門が交流して、新聞記事になっている。しばらくして、未来派美術協会展が大阪に巡回した際には、さっそくブルリュークたちが参加している。

▶︎未来派美術協会結成とブルリューク来日

 ブルリュークたちにやや遅れて合流した家族、さらにチェコの画家ワッラフ・フィアラは小笠原諸島へ滞留などして日本各地を巡ったが、二年ほどして、それぞれチェコに帰国、あるいは渡米することになった。ちょうどそこへ入れ替わるようにして、ブルリュークのロシア未来派よりさらに新しいロシア美術の動き、とりわけ構成主義の思想を伝える作家が大正十一年[一九二二]六月にやってくるワルワーラ・ブブノワ(姪はオノ・ヨーコ)である。作家のパーソナリティとしては、過激な実践とは距離を置くが、紹介者として、また作品の制作者としては、ブルリユーク以上の存在として大正期新興美術の促進剤となるのである。

この間、未来派美術協会は大阪を根拠地にした普門暁と東京在住の木下秀一郎の問に軋轢が生じて、木下主導で第2回展そして第3回展となる「三科インデペンデント展」が開催されることになり、大正10年[1921の第二回展では、詩人で、美術雑誌『中央美術』の編集にも関わった平戸廉吉が参加していた。会場には平戸の「日本未来派運動」の宣言が貼りだしてあったと萩原恭次郎は証言している。『矩火』1922年9月]。とすれば、それは年末に日比谷の街頭で撒かれたといわれる「日本未来派宣言運動」の宣言書以外には考えられない。街頭に撒くという挑発行動があったのか確認できないが、未来派美術協会との関わりでみるならば、ブルリューク的な流儀ともいえるのである。

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 三科インデペンデント展無鑑査を狙った展覧会であったが、ブルリューク以後の未来派美術協会の方向を模索したものであった。協会はようやく「友よ醒めよ」[『みづゑ』1922年12月]という宣言を出すに至る。コラージュの技法が定着して、渋谷修妄のような話題となる作例が出品される一方で、ブブノワがロシア構成主義の「無対象」[いわゆる抽象]の画風を伝える油彩画を出品した。またやがて「マヴオ」や「三科」で活躍する柳瀬正夢、高見沢路直[田河水泡]、門脇晋郎[三科賞]、岡田龍夫、加藤正雄、浅野孟府[草之助]が参加して、陣容(じんよう・部隊配置の形。陣立て。比喩的に、人員配置のありさま。)が整いつつあった。

ワルワーラ・ブブノワ (Varvara Bubnova、1886-1983)道 1932年 ワルワーラ・ブブノワ 柳瀬正夢 066

ただし、木下は皮膚科医として当時福井に赴任し、やがて土岡秀太郎を中心とする北荘さらに北美に展開する同地での美術活動の種を蒔いていたが、そのため未来派美術協会の会務はのちに詩人として頭角を現す尾形亀之助に委ねられ、行き詰まりつつあった。

▶︎村山知義の留学と前衛の国際的ネットワーク

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 ところが、そこへ予期せざる聞入者が外国からやってきた。ただし、今度は歴とした日本人であった。聞入者というのは、専門的な教育はほとんど受けておらず、作家活動といっても雑誌に挿絵を提供する程度であり、独立した画家でも彫刻家でもない無名の存在に近かったからである。

その人、村山知義は大正11年[1922]1月、日本を発って、ドイツのベルリンを目指した。当時、日本と欧州の船旅はおおよそ四十日間だから、二月中旬、ベルリンの駅頭で彼を迎えた同窓の和達知男の手引きで、村山知義は同地の先鋭な美術界に頭から飛び込んでいった。そして、大戦前から新しい美術の策源地であった「シュトゥルム」画廊に出入りするうちに、まず東郷青児の義理の弟でパリから移ってきた永野芳光とともに、シチリア出身の詩人ルッジエーロ・ヴァザーリRugerro Vasariを介して大イタリア未来派展に参加することになった。それが三月のことである。つまり一月も経つか経たないかの問に、村山はウンベルト・ボッチョーニといった未来派の代表的作家と同じ会場で、もう作品を展示していたのである。

1908--ウンベルト・ボッチョーニ- ボッチョーニの‘サッカー選手のダイナミズム’ボッチョーニの彫刻‘空間における単一連続体’

Umberto_Boccioni_-_Self-portrait,_oil_on_canvas,_1905,_Metropolitan_Museum_of_Art wadachitomoo1923 村山知義、同籌子(かずこ)夫人 070-1和達和男 1922年和達和男-1 073 107

 1年に満たない滞在においても、機会と人物に恵まれて、村山はこうしたネットワークをまさしく驚異的に更新し、拡大していった。5月末には伝説的前衛作家たちの集会となつた第一回デュッセルドルフ国際展関連の美術家会議に参加することになつた。会議の結果を村山はさっそく『解放』誌11月号に報告した。同じく和達が会議の様子について、蒼空邦画会・第一作家同盟の山内神斧に書き送った便りは、そのまま雑誌『エポック』 に掲載されることになつた。

 9月には、「シュトゥルム」画廊前の通りを渡ってすぐの画廊=書辞「トワルディー」Twardyで、村山は永野と二人で連続個展を開いた。ダンスへの情熱が高まり、ニッディー・イムペコーフエンの踊りに衝撃を受けたのもその秋だった。

 ところが、村山は慌ただしく帰国する。10月にはロシア構成主義の作品も含めた大規模なロシア美術展が開催されているし、また11月には知人の仲田定之助が石本喜久治とともにバウハウスを訪問している。しかし、村山はロシア展にもバウハウスにも積極的な関心を示した様子がない。ワイマールのバウハウスには約束の時間に遅れたために行かなかったと述懐しているが、ベルリンからならば遠くない場所である。急な帰国の事情には不可解なところが残る。ただし、村山は前衛のネットワークをそのまま日本まで持ち帰った。『マヴオ』誌には各国の前衛雑誌の広告が載った、反対に同誌の広告が掲載されたように。当時、すでに相当数の日本人美術家がパリに住んでいたことがわかっているが、しかし、たとえばモンドリアンを含めポスト・キュビスムを扱うレオンス・ローザンベールの画廊に出入りして、村山のような前衛のネットワークに参加した者は当時いなかった。

 ダダイストやデュシャンと接触した東郷青児でさえも、一年を経ないうちに、1922年春にはイタリア未来派のマリネッティとの交流が途絶えた。その理由は簡単である。20年代前半のパリでは、戦勝国のナショナリズムが高揚してラテン的伝統への回帰の趨勢が強くなっていたので、過激な造形表現を歓迎する場がないに等しかったのである。敗戦後の革命的な状況によって混乱するドイツの首都こそ、ベルリン・ダダに代表されるように、前衛の苗床だった。

▶︎「マヴオ」と「アクション」

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 大正12年[1923]1月末に帰京した村山はヨーロッパで最新の動向であるダダと構成主義をさらに超えた主義である「意識的構成主義」を掲げてすぐさま走り出した。5月、神田文房堂での個展から始まり、美術雑誌へ毎月のように寄稿し、ドイツを中心として前衛美術の動向を伝えた。7月には、永野芳光に誘われるままに、ベルリンの「11月グループ」に倣いマリネッティ、ヴァザーリ等をメンバーとした「アウグスト・グルッペ」なるグループ展を組織することにもなった。このときに展示された現在大原美術館蔵のカンディンスキーの油彩は永野旧蔵であり、また同水彩で草月美術館蔵は村山旧蔵であった。

 そうした村山を、木下秀一郎というリーダーを失っていた未来派美術協会が無視するはずはなく、同会の解散[五月]にともをつ再編劇、つまり「マヴオ」の結成に引き込むことになったのである。「マヴオ」の最初の展覧会は、七月末に浅草寺伝法院という異例の場所を会場として開催された。会員は尾形亀之助、柳瀬正夢、大浦周蔵、門脇晋郎、そして村山であったが、出品点数ひとつをとっても村山の独壇場であった。グループ名こそ柳瀬の発案であったことがその日記で確認されているが、出品日録の表紙デザイン、宣言の草案も村山の仕事であった。

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 一方、習作展の頃、未来派美術協会には強力な対抗勢力が出現していた。大正十一年[一九二二]秋に二科展関係者を中心にして結成された「アクション」である。フランスに留学しマティスに接した中川紀元、同じく欧米に留学してアンドレ・ロートに学んだ矢部友衛、そして神原泰を中心にして、古賀春江、横山潤之助、吉田謙吉、浅野孟府、泉治作、吉郁二郎、重松岩音、山本行雄、難波慶爾らが参加したグループである。二科の有島生馬と石井柏亭を顧問に迎えていることに端的にうかがえるように、未来派美術協会ほどの暴力的な行動や混載からの逸脱とは無禄であったが、東京朝日新聞社が後援となつたおかげで、しきりに活動が報じられた。

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 翌年、ちょうど未来派美術協会習作展が丸ビルのライオン歯磨で開催された直後に、当時としては大判の展覧会目録を用意して、第一回展を日本橋三越で打ち上げるのである。日本画家のグループにも「アクション」結成の年[一九二二年]七月に華々しく宣言を打ち上げた第一作家同盟があった。院展を脱退した玉村善之助を中心とする高原会をはじめ、蒼空邦画会、青樹社、行樹社、赤人会が合流し、一部の作家は社会主義的な主張により政治社会的な意識を強く打ち出した。第一回展は京橋の星製薬で開催されたが、時期的には未来派美術協会による「三科インデペンデント展」の直前であった。とりわけ玉村は「三科」[童画年結成]そして「単位三科」[一九二六年結成]において重要な役回りを演じることになつた。

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 未来派美術協会が混乱している時期に海外から帰国した人間として重要なのは中原実である。中原は歯科学を学ぶために欧米に長期留学していたが、とくに渡欧後のパリで絵画に熱中し、中川紀元とも知己の間柄となつた。それが帰国後「アクション」展に出品する契機となるのだが、科学というものに対する理解と芸術的解釈において異彩を放ち、大正一三年[一九二四]十一月に自ら「画廊九段を開設し、ただちに「メカニズム」を旗印とする仲間と首都美術展を旗揚げするなど、めざましい活動を展開することになつた。151-12013011111590900000499331 中原実・ヴィーナスの誕生 123 151

 このように、内圧と外圧がばらばらに作用していたところが、ここにきて、ひとつに合流して、まさに大きな波動を生じさせることになつた。だが、一方で、関東大震災[1923年・大正12年9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。]による社会混乱は、この波動に参加する人間たちを一種の篩(ふるい)にかける結果となった。柳瀬正夢左翼運動との関わりから、甘粕事件や亀戸事件など不穏な社会情勢が色濃い東京から離れることになった。かくて「マヴオ」はすっかり旧未来派美術協会の色合いを払拭した。

▶︎関東大震災と大正期新興美術運動

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 しかし、この混乱をいわば千載一遇の好機のようにして、「マヴオ」は東京市内各地のレストランやカフェで同時的な展覧会を開催したのを手始めに震災後の街に飛び出した。当時、「アクション」の一部、そして今和次郎と東京美術学校図案科卒業生らの「尖塔社」が合流して結成された「バラック装飾社」が、いちはやく市街地に応急的に建てられたバラックの装飾の仕事に取り組んでいた。そうした集団がほかにも出来たが、「マヴオ」もまたいくつかを手がけることになつた。建物の構造を無視するかのような派手な彩色と絵柄が目立つバラック装飾は一面で「建築」への進出でもあり、分離派建築会の「大工」滝沢真弓と「ペンキ屋」今和次郎の間で「バラック装飾論争」が生じることにもなつた。132

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 建築あるいは環境への進出を村山知義はもっとも意識していた人間であった。上落合の自宅から吉行あぐり美容室に至るまでの設計を手がけたが、大正十三年[一九二四]四月、国民美術協会主催の帝都復興創案展が開かれ、建築部門に「マヴオ」が参加したのも、そうした意識からであったことは、「芸術の究局としての建築」[『国民美術』一九二三年十二月]という当時の論文からうかがえる。

 大震災のために、岸田劉生や谷崎潤一郎が関西へ転じたように、それは新興美術運動が地方へと展開する契機ともなつた。それ以前では、柳瀬正夢らの分離派洋画会の小倉、あるいは木下秀一郎が赴任した福井があったが、しだいに岡本唐貴や浅野孟府の神戸、外山卯三郎の札幌住谷磐根や戸田達雄や萩原恭次郎の前橋首都美術展の河辺昌久が帰郷した新潟などが拠点化してくる。

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 大震災の翌年から翌々年にかけてが、大正期新興美術運動の頂点であった。大正十三年[一九二四]、「マヴオ」は年末まで走り続けた。連鎖的な個展の開催、雑誌『マヴオ』の創刊、版画集『マヴオ・グラフイーク』の刊行、パフォーマンスや「マヴオ団歌」[インドネシア・マルッカ諸島の民謡]、舞台美術展、映画館・葵館の般帳制作、そして年末十二月画廊九段における最後のグループ名を冠した展覧会である。絵とも彫刻ともつかない構成物、奇妙な音を発する楽器、見慣れないダンス、不揃いな活字の上下左右を無視した配置などなど、そのいずれもが従来の美術の枠組を大きく揺るがすものであった。その中核となつたのは、村山のほかに、高見沢路直、岡田龍夫、矢橋公暦、イワノフ・スミヤヴイツチこと住谷磐板、戸田達雄、加藤正雄らであった。とくに岡田、矢橋、高見沢は過激な行動をとる最左翼であったそのアナーキーな生活の一端は、平林たい子の小説『砂漠の花』[一九五七年]に書き留められている。

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 しかし、こうした過激な行動はしだいに「マヴオ」を引き裂いていく。実際、もはや「マヴオ」としての展覧会は開催されない。なるほど大正十四年[一九二五]には『マヴオ』誌が復刊されるとはいえ、編集は村山、岡田そして萩原恭次郎の三人の共同編集となり、マヴォイスト中心の誌面は詩人や文学者の寄稿が目立つものへと変容・変質した。誌面に「装置」「NNK」「都市動力建設同盟」というような別組織のネオ・ダダの主張が大きく掲げられることも「マヴオ」内での分派活動あるいは分裂状態を浮き彫りにするものである。

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 ただ、「マヴオ」グループの台頭は他のグループにも大きな波紋を投げかけた。「アクション」は第二回展で中原実、岡本唐貴という新人が参加したが、やがて二科への姿勢により会員間の意向の違いが鮮明になつた。神原泰は十月なかばに東京朝日新聞に「アクション」の解散についての記事を寄せることになった。また、第一作家同盟は早い時点で水島爾保布が脱退していたが、第一回展が開催される時期に、創刊が予告された「DSD」誌とは別に、玉村善之助が独自に『エポック』誌を創刊しており、解散は必至であった。

▶︎「三科」の成立

 こうした状況を背景にして、福井から帰京した木下秀一郎が提唱して、急速に「三科」が具体化した。その陣容は「マヴオ」をはじめ各グループが解体した未の新興美術運動の再編であったことを明示する。会員は浅野孟府、ブプノワ、神原泰、木下秀一郎、村山知義、中原実、岡本唐貴、大浦周蔵、渋谷修、玉村善之助、矢部友衛、柳瀬正夢、吉田謙吉、横井弘三であった。結成直後の十一月画廊九段で首都美術展が開催されたが、そこには旧「アクション」系の作家以外は概ね出品しており、最初の取り組みともいえた。「三科」は二度展覧会を開催した。第一回は会員だけで、翌年五月に、つぎは作品を公募して同九月にしたが、会期を全うできずに解散に追い込まれた。それでも、このふたつの催しは大正期新興美術運動の頂点であった。会員展で目立ったのは、構成物である。平面に物体を貼り付けたコラージュのスケールを超えた作品が会場に並んだ。また、木下秀一郎は人に化粧をして「作品」として展示した。この「作品」は会場を歩きまわって、観客を驚かせた。いまひとつは、五月三十日築地小劇場において催された「劇場の三科」である。美術家による十一の演目は多彩というよりも雑多であった。上演台本として唯一柳瀬正夢によるものが残されているが、記録から判断する限り、上演台本がなくてもふしぎでないような演目が目立つ。村山知義はダンスを踊ったし、矢部友衛はオートバイを観客席にむけて、エンジンをふかせた。文字通りのパフォーマンスの会であった。会場は満席であったと伝えられる。

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 九月の三科公募展は開催前から新聞で取り上げられた。当時展覧会場として使われた上野の自治会館は、本来は展示施設ではなく、座席があり、通路がある建物である。そこに無理矢理、作品が並べられたのであった。出品内容はまさに多彩であり、雑多である。村山は「宣伝旗、駄菓子の袋、停車場模型、舞台装置、印刷機の設計、門塔兼移動切符売場、舟こぎ、イス等の実用芸術品より所謂『醜き芸術』『恐ろしき芸術』に迄至る」と形容している[「三科展の弁」『中央美術』一九二五年十月]。むろん中原実の出品した油彩の大作《乾坤》もあったが、構成物の方が圧倒的な存在感を示したのである。

 こうした雑居性は三科の原動力でもあったが、他方で解体を促進する要因でもあった。会期が終わらぬうちに、「マヴオ」の一派が騒動を起こしたといわれ、解散広告を新聞に発表して幕を閉じた。

▶︎マヴオ」以後、「三科」以後

 大正期新興美術運動はほとんどこの時点でひとつの区切りをつけたといえる。あとは結集した人間たちの後退戦であり、運動の後日談というのに近いかもしれない。ただし、本書では丁寧にその部分を跡づけようとしていることを強調しておきたい。「三科」はいちはやく再興の動きが玉村善之助を中心に始まったが、それが「単位三科」として具体化するのは、翌年のことであった。また、旧「アクション」系は矢部友衛、神原泰、岡本唐貴、浅野孟府らを中心にして「造型」を立ち上げた。この楽観主義を謳ったグループに対して激しい非難を加えた村山に向かって、反対にダダの陰惨と応酬した岡本との間で論争があった。

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 だが、やがて両者はプロレタリア芸術運動で意外と近いポジションを取ることになった。村山は『プロレタリア美術のために』を、岡本は『プロレタリア美術とは何か』を同じ年[一九三〇]に、同じアトリエ社から出版した。ただし、両者が相交わるということはなかった。村山知義はひとつに大正十三年[一九二四]十二月築地小劇場公演のカイザー作「朝から夜中まで」の舞台装置を志願して好評を得た勢いで、河原崎長十郎、舟橋聖一ら心座の結成に参加するなど、演劇に深く関与していったこと、また柳瀬正夢の誘いもあって大正十四年[一九二五]十二月に日本プロレタリア文芸連盟の創立に参画したことで、しだいに美術家というよりも演出家・劇作家としてプロレタリア演劇に重心を移して活動することになつた。一方、「造型」も、矢部友衛が訪ロした成果として企画をまとめ、昭和二年[一九二七]に東京数寄屋橋の朝日新聞の新社屋で「新ロシヤ美術展覧会」を成功させるあたりから変容し、急速に左傾化したのである。

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 このように一部は芸術よりも政治へと近づいていった。そうでない一部はどうだったのか。ひとつは純粋芸術志向の一団である。そしていまひとつはダダ・アナーキスト的な一団である。まず前者についていえば、ダダの陰惨や醜悪を嫌い、三科公募展で受賞した仲田定之助の《ブーベンコップのヴィナス》のような洗練された構成物を求める傾向も顕著となり、「単位三科」が成立することになつた。その意味するところは、ひとりひとりが単位となつた三科ということである。常務委員には、映画監督の村田実、仲田克之助、中原実、大浦周蔵、岡村蚊象[山口文象]、玉村善之助、山崎清が名を連ね、計三十四名の「単位」によって成立した。村田はすぐにドイツへ旅立ち、実質的な活動はなかったが、岡村のおかげで創宇社の建築家たちが加わっていることが注目されよう。趣意書は明らかに中原の手になるもので、科学的な世界観が表明された。

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 最初の展覧会「三科形成芸術展覧会」は「造型」による「新ロシヤ美術展覧会」の直後、昭和二年[一九二七]六月に二ケ所、室内社と資生堂で開かれた。また「三科」と同様に、朝日新聞社の講堂を使って「劇場の三科」が再度試みられた。仲田は、岡村蚊象とともに「ファリフォトン舞台形象」を実現した。人間の登場しない、ファルベ[色彩]、リヒト[光]、フォルム[形態]、そしてトン[音響]による抽象的な舞台を目指したのである。しかも「単位三科」は、大阪に展覧会が巡回したときには、最新のメディアのひとつラジオ放送にさえ挑戦した。「単位三科」らしい実験であった。しかし、この運動も短命であった。

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 いまひとつの流れは上の二つの流れに挟撃されたかのように看過されてきた。アナーキズム系の色合いが濃厚であったことも影響してよう。その中心は岡田龍夫であり、ネオ・ダダ期の「マヴオ」から「マヴオ」以後を彼が代表するともいえる

 ネオ・ダダ期の「マヴオ」には新しい作家が登場した。一号限りの雑誌『NNK』[一九二六年十二月]を創刊するとともに、工芸家集団の工人社で信田洋らと一時期活動を共にすることになる柳川税人、関西に舞台を移して活動した牧寿雄、あるいはほとんど関連が不明の野呂英夫である。とくに牧は岡田龍夫と高見沢路直と連絡して、大正十五年[一九二六]九月に京都を舞台にして「関西マヴオ」とでもいえそうな動きを企てた。関西では、大正一三年[一九二四]に、岡本唐貴と浅野孟府が神戸を拠点として際立った活動[展覧会、グループ「DVL」、雑誌『AKUYO』への寄稿等々]を行ったことが明らかにされているが、牧はその跡を承けた形で関西に根を張り、岡田たちと「舞台装置 映画セット」展を京都高島屋で企画し、さらに「マヴオ創作舞踊発表会」を催すほか、京都の地元の染織業と関わり染織デザインを手がけたりするのである。

 岡田は矢橋とともに「マヴオ大連盟再建」を訴えて、「マヴオ」の再編にもっとも拘泥したが、ネオ・ダダ期の「マヴオ」で自らが解体に動いた分だけ、代償も大きいものになったのである。

横井弘三 阿部貞夫 三科展覧会 1925村山友義1

 この時期の企図として見逃せない、いまひとつの動きは、横井弘三が中心となつた理想展である。そこには「三科」解体後になお意欲を捨てない若い作家たちが寄り集まっていた。「マヴオ」残党もほとんど顔を見せている。岡田龍夫と高見沢路直、デザイン会社を経営していた片柳忠男と戸田達雄、人形制作に長けていた川崎恒夫、『野獣群』や『構成派』を出した有泉譲阿部貞夫『国際建築』誌で「マヴオ同人」として寄稿している野呂英夫、プロレタリア漫画の松山文雄等々である。このほか、農夫や労働者といった雑多な出品者の名が出ている点で、三科公募展の延長線上にはあったが、運動を盛り上げ、支える主要な担い手とはなりえないものであった。この理想展は第一回が実質的に最終回であり、第二回も開催されたが、小規模なものとして終わった。

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 大正期新興美術運動はこのように一部は前衛性を政治的前衛につなげたし、また一部は「単位三科」的な芸術志向から都市モダニズムに展開七た一方、芸術運動としてダダ=アナーキズム系は舞台から姿を消していったのである。

▶︎研 究 史

 さて、日本近代美術史において大正期新興美術運動についての美術史研究が本格的に始められたのは、一九六〇年代末のことであった。ただし、それ以前にも、たとえば、森口多里はとくに 『明治大正の洋画』[一九四一年]でこの運動に目配りを忘れていないし、戦後も国立近代美術館京都分館[「前衛絵画の先駆者たち」展、一九六五年]、東京国立近代美術館[「日本におけるダダイスムからシュルレアリスムヘ」展、一九六八年]、神奈川県立近代美術館[「大正期の洋画」展、一九六二年]での展覧会により、この時期の作品が展示される機会があり、作品収集が進められた事実は見逃せない。

■研究の基礎

 研究の基礎となったのは、東京国立近代美術館の本間正義の業績である。当時存命であった代表作家たちにインタビューして、その会見記や寄稿を同館ニュース『現代の眼』[一九七〇年一月号から一九七一年三月号まで]に連載するとともに、自身の研究成果を『近代の美術』誌の「日本の前衛美術」[一九七一年三月]や『昭和四八年度東京国立近代美術館年報』に発表した。神原泰、村山知義、木下秀一郎、中原実、矢部友衛と、いずれも貴重な発言であった。成果には、現在では残念ながら典拠が不明となつてしまった貴重な作品写真や記録写真が盛り込まれている。

 同じ東京国立近代美術館で本間の同僚でもあった浅野徹も積極的に資料収集に当たり、その成果の一部は美術全集『原色現代日本の美術』八巻「前衛絵画」[一九七八年]と美術館年報の掲載論文「立体派、未来派と大正期の洋画」[昭和五十一年度、一九七八年]に結実させた。大型の美術全集においてこの運動の作品が取り込まれるということは文字通り美術史に組み込まれることを意味したのである。浅野はさらに神原泰研究を展開して、とくに「アクション」について成果を示した[「アクション第一回、第二回展の作品目録と岡本唐貴<失題》の原題名」『東京国立近代美術館研究紀要』一号、一九八七年]。

 ところで、浅野の研究活動と前後して、瀬木慎一、そして北川フラムらの近代美術研究会が意欲的に昭和戦前期を中心に基礎的文献資料の収集活動を行い、その成果を『現代美術のパイオニア』[瀬木慎一著、一九七九年]にまとめられる『古沢岩美美術館月報』連載記事として、あるいは東京セントラル美術館における「現代美術のパイオニア」展一九七七年六月]として発表したが、その一部において大正期新興美術運動に先駆的な位置づけが与えられたことを忘れるわけにはいかない。また大正期新興美術運動は別としても、展覧会の目録として刊行された『古沢岩美美術館月報』二十五号は資料性が高く、名古屋市美術館の山田諭が企画に携わった「日本のシュールレアリスム1925-1945」展[一九九〇年]が開催されるまでは、もっとも信頼される基礎文献となったといえる。

▶︎ブルリユーク作品の発見

 また、研究の促進剤としての役割を果たしたとして、神戸におけるダヴィト・ブルリューク作品の発見があった。兵庫県立近代美術館の山脇一夫が「兵庫の美術家県内洋画壇回顧」展一九七六年十一月〜十二月]に際して調査を行った際に、ロシア未来派作品が出現したのであった。これが糸口となつて、福岡のブルリューク作品、神戸のパリモフ作品《海水浴場》なども見つかることになった。大正期新興美術運動にとって、ブルリューク来日が起爆剤だつたのと同様に、研究面でも同じ事態が生じたといえる。同時期の展覧会としては、東京都美術館における二科会を中心とした「戦前の前衛」展[一九七六年]、愛媛県美術館における「柳瀬正夢遺作」展[一九七八年]、奈良県立美術館の「特別陳列普門暁」展[一九七八年]があった。少しずつ再評価の気運が盛り上がり始めた観があった。

 その後の出版物として、『美術手帖』誌特集「TOKIO 1920’s」[一九八〇年七月]が多数の図版を盛り込み、岡本唐貴、神原泰、田河水泡の回想とともに、北沢憲昭の長文の論考「前衛美術の動向」を掲載したことで、一般的な理解が進んだ。北沢はその後幕末明治期の研究へと触手をのばしつつ、その関心を深めて『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』[一九九三年]にまとめた。また、中村義一「日本近代美術論争史』[一九八一年]中に収められた「大正アヴァンギャルドの青春」も文献を渉猟した労作であった。

▶︎海外の研究動向

 ここで注目したいのは、国外とからむ動向である。論文発表は後になつたが、しかし精力的な行動に驚かされもし、徹底した調査方法に啓発されもしたのは、リヨン大学のジャン=クロード・ランヌ夫妻であった。私事にわたるが、夫妻は五十殿(おむか)が一九八二年五月末アメリカのロングアイランドで開催されたブルリュークの生誕百年記念シンポジウムに参加し、研究発表をしたことから、当時の職場まで訪ねて来られたことを思い出す。このシンポジウムの結果は、アメリカのロシア研究雑誌で特集された。

 なお、ランヌは文学研究者である。日本でも、文学史の方面では、神原泰をはじめ平戸廉吉、尾形亀之助、萩原恭次郎など詩人が多く参加した運動であるため、菊池康雄『青い階段をのぼる詩人たち』[一九六五年]をはじめ、比較文学の千葉宣一の労作「アバンギャルド詩運動と大正詩の崩壊」[『講座日本現代詩史』二巻、一九七人年]などの先行研究の積み重ねがあった。ただ惜しまれるのは、今日でもまだその弊がないとはいえないが、美術史研究者との積極的な交流がなかったこと、ないことである。

 白川昌夫は現代美術家であり、また論客でもあるが、戦後日本における前衛の源泉を探究するために、ドイツのデュッセルドルフ美術館で「Dada in Japan-1920-1970日本のダダ」展を開催した[カタログ邦訳『日本のダダー1920-1970』一九八八年]。それまでともすれば、編年的に大正から昭和という直線的な流れで捉えられていた歴史を、むしろ断絶によって戦前の前衛と戦後の前衛を繋ぐように組み直した点が注目される。写真を中心とした資料展であるが、貴重な映像が盛り込まれた。同展は翌年東京大学教養部美術博物館でも開催されることとなった。展示品である写真資料一五三点は白川氏より寄贈されて、現在筑波大学芸術学系芸術資料収蔵室の所蔵となっている。

 海外における展覧会で大きな影響を与えたといえば、パリのボンピドゥー・センターにおける「前衛の日本 Japan des avant-gardes 1910-1970」展[一九八六年]を措いて他にない。この展覧会の企画のために尽力したのは、ヴュラ・リナルトーヴァであり、その調査研究はその後まとめられた。ボンピドゥー・センターらしい分厚いカタログでは浅野徹が「大正期の絵画を寄稿しており、多数の図版が添えられた。日本のこの時期の作品が、ただでさえ先端的動向の単なる焼き直しや模倣というレッテルを貼られがちであったことを想起するならば、この展覧会はそれが世界にも通用するというお墓付きを与えたことになる。

▶︎「ワイマールの画家たち」展から「モボ・モガ」展へ

 国際的な視野という点では、国際巡回展「ダダと構成主義」展[一九八八年]と神奈川県立美術館における「ワイマールの画家たち」展[一九八八年]も見逃せない。前者には、日本の作品は展示されていないが、日本におけるダダと構成主義の影響を探る企画となり、本書に関係している水沢勉と五十殿が寄稿している。水沢はそれ以前にすでに神奈川県立近代美術館に寄贈された宗像久敬のゲストブックについての研究で[「『わかちあった熱狂』 -宗像久敬氏旧蔵サイン帳について」『一九八三年度 神奈川県立近代美術館年報』]、一九二〇年代初頭のベルリンにおける日本人コレクターと前衛作家との交流、さらに帰国後の動向などを丁寧に調べていた。五十殿はベルリンで村山と交渉のあった永野芳光の遺族と連絡をとり、保管されていた資料を活用して寄稿した。「ワイマールの画家たち」展はベルリンに留学した仲田定之助旧蔵コレクションのほかに、和達知男の遺族のもとにあった作品が初公開された点で注目される。和達は無名のまま一九二五年に早世したが、ドイツでの活動、久保栄との交渉等において見逃せない人間であった。水沢は同展カタログ序文[「出会いが残したものー1920年代のベルリンと日本人」]で宗像、仲田、村山、永野といった人間たちのネットワークに言及しっつ、とくに和達に関心を払った。そうした関心はその後も持続的に深められて、日記の翻刻[「和達知男日記『うたかた』 [上・下]」『現代芸術研究』四号〜五号、筑波大学五十殿研究室]に続いて、第一生命ギャラリーにおける「和達知男」展に結実した[一九九九年]。

 水沢勉はまたシドニーにも国際巡回した「モボ・モガ」展を企画し[一九九八年]、白樺派誕生の年でもあり、大逆事件の年でもある一九一〇年から三五年までのモダニズムをたどったが、後述する「一九二〇年代・日本」展に匹敵する規模において企画され、英文版カタログも出版された。シドニーでは展覧会関連事業として[Modernism Modernity and the Modern  Japanese Culture and Society in the−1920’s and−1930’sというシンポジウムが催され、発表論文も公刊された[E.Tipton and John Clark,Being Modern in Japan)2000]。なお、関連企画として「劇場の三科」の再演が試みられた[一九九七年十二月十七日上演]。筑波大学河口龍夫研究室の協力によるものであり、ビデオ化されて、展覧会場で流された[パンフレット「1925-1997 劇場の三科」]。

▶︎大規模展と好企画

 海外における一九二〇年代評価という気運へのひとつの対応が、東京都美術館で開催され全国規模で巡回した大規模な「一九二〇年代・日本」展 一九八八年]であった。国内的には本展によって大正期新興美術運動に関係する作家や作品の概容が提示されたといっていい。なるほど冒頭でも述べたように、この運動の所産である作品数には限りがあるが、それでも本展に係る調査によって新たに発掘された作品や資料については高く評価されなくてはならない。また、展覧会場で村山知義の「朝から夜中まで」 の巨大な舞台装置が再現されたことも新鮮な驚きであった。展覧会ならではのことといえよう。

 これより少し前、築地に移転した朝日新聞社の跡地に建設された有楽町マリオンに開設された有楽町朝日ギャラリーが有力な拠点となつたことを強調しなくてはならない。美術館に比べれば小さな会場であるが、しかし「柳瀬正夢」展一九八六年]、「アクション」展[一九八九年]、「斎藤任三」展[萬木康博企画・構成、一九九〇年]など、好企画が続いた。毎回、美術館にまけない充実した目録が用意されたことも見逃せない。筆者も「アクション」展に関わったが、その過程で神原泰に数回インタビューする機会に恵まれ、また神原自身のテクストをカタログに収録できたことは研究者冥利につきるものであった。

 同じように、板橋区立美術館の尾崎真人の展覧会企画と作品収集による貢献も同じころから開始された。「やさし恋と労働歌の街 東京の肖像−1920’s」展[一九八六年]から始まり、その後も「グラフィックの時代 村山知義と柳瀬正夢の世界」展[一九九〇年]、「日本の抽象絵画」展一九九二年]などへと展開するなかで、大正期新興美術に限らないが、これまで見向きもされなかった多数の作品を世にしらしめた功績は評価されよう。

▶︎作品収集・文庫日録・翻刻 

 昭和から平成となり、一九九〇年代になつて、研究の面でも、また展覧会や一般図書においても、大正期新興美術運動はさかんにとりあげられ、総論の時代から各論の時代へと移行することになった。まず、個別の作家の作品や資料が出現するようになつた。村山知義についていえば、京都国立近代美術館蔵《サディステイッシュな空間》[一九二二〜二三年] に続いて、宇都宮美術館に収蔵された《赤い着物の女の子》[一九二二年]があり、このほか東京都美術館に寄贈された浜素紀旧蔵資料について同館の加藤弘子が報告している[「浜素紀氏寄贈村山知義自筆資料」『東京都美術館紀要』十七号、一九九二年]。神原泰についても、宇都宮美術館に収蔵された《この苦しみにわれはいのちをかけたり》[一九二二年]はこの時期の神原作品として大作で貴重である。神原についていえば、大原美術館に寄贈されたイタリア未来派とピカソ関係の文献資料の目録『大原美術館神原泰文庫目録」一九九〇年が公刊きれている.とりわけイタリア未来派資料中には、イタリア本国にもないものがあるといわれる。

 同じく文庫目録としては、東京都美術館美術図書室でまとめた岡本唐貴の文庫日録「岡本文庫目録」[一九人六年]、さらに重要な内容を含む「柳瀬文庫目録」[一九九一年]、さらに板橋区立美術館に寄贈された河辺昌久の文庫についても「ART-INDEX No.2 河辺昌久文庫」[一九九二年]が刊行され、それぞれ重要な典拠となつている。なお、東京都現代美術館ではさらに柳瀬正夢の遺族から資料を受贈しており、野崎たみ子が日記の一部を紹介するとともに、MAVOという命名についての重要な考察を行っている[「柳瀬正夢の『マヴオ』」『東京都現代美術館紀要』三号、一九九人年、「柳瀬正夢の 『マヴオ』その2」同四号、一九九九年]。

 基礎資料の翻刻では、加藤弘子による「劇場の三科」上演演目の台本「柳瀬正夢作 漫劇『+?+?+?×÷=休日』一幕]」[『東京都美術館紀要』十五号、一九九一年]、と寺門臨太郎による仲田定之助の日記「未公刊資料 − 仲田定之助のベルリン日記[上・下]」[『現代芸術研究』 二号〜三号、一九九人年〜一九九九年]が挙げられる。

▶︎研究の多様化

 研究面での幅も大きく拡大した。まず中原実については、子息の中原泉氏が長年にわたる研究成果をまとめられて、『伝説の中原実』一九九一年]を公刊した。画廊九段のその後など、著者ならではの調査が反映しており、現在でも中原研究の基礎文献である。

 

 五十殿はそれまでの研究論文をまとめて博士論文「大正期新興美術運動の研究」[筑波大学、一九九四年]として提出して、翌年に公刊した。とくに、そのなかでは小さなトピックでしかなかった久米民十郎が大きなテーマとして成長したといえる。関係論文は『日本のアヴァンギャルド芸術−(マヴオ)とその時代』 [二〇〇二年]に収録されている。また、文学も含めた日本のダダにっいては、神谷忠孝の先行研究[冒口本のダダ』一九八七年]にも基づきながら、英文で概容を示した。

 平井章一は神戸時代の岡本唐貴と浅野孟府の活動を丁寧に跡づけた研究論文を発表して、ブルリュークを発見した山脇一夫がやり残した仕事である関西における運動の展開を解明した[「岡本唐貴、浅野孟府と神戸における大正期新興美術運動」『兵庫県立近代美術館研究紀要』五号、一九九六年]。本書の時代設定よりもいくぶん前になるが、北九州と下関における柳瀬正夢を中心とした美術活動をとりあげた浜本聴による一連の研究も重要である[「関門美術史ノート・近代洋画篇[序論]」『下関市立美術館研究紀要』七号、二〇〇〇年]。前橋については拙稿がある[「前橋『マヴオ』 − 地方都市のアヴァンギャルド」『芸術学の視座』真保亨先生古希記念論文集編集委員会編、二〇〇二年]。

 文学関係でも村山知義に正面から挑む論文が現れたことは特筆すべきであろう[林淑美「村山知義の『マヴオ』前後」『廃墟の可能性現代文学の誕生』栗原幸夫編、一九九七年]。やがて『彷書月刊』誌に「ダダイスト・村山知義の肖像」特集[二〇〇一年六月]が組まれたときにも、美術関係者ばかりでなく、文学や演劇の研究者が加わることになつた。

 版画史からアプローチを始めた滝沢恭司の研究も多方面に展開している。とくに未来派美術協会員の後藤息光らの雑誌『青美』や「マヴオ」の版画についての美術館紀要論文[「大正期モダニズムの一枝」『町田市立国際版画美術館紀要』三号、一九九九年、「マヴオの版画について」同人号、二〇〇四年]はこの分野での顕著な貢献といえよう。とくに後者は「マヴオ」の版画についての本格的な検討であり、前衛美術雑誌の国際交流の問題や、幻の版画集『マヴオ・グラフィーク』についての仮説など重要な指摘が盛り込まれている。

 冒頭でも触れたが、この時期の日本画についてはほとんど同時代現象としてのみ述べられるだけで、具体的な検証は行われていないに等しい。しかし、玉村善之助の存在は境界的なもので、研究領域としての日本画と洋画とを橋渡しをするものである。とくにこの分野では、全般的には菊屋吉生が展覧会[「大正日本画−その間ときらめき」展、山口県立美術館、一九九三年]に関わるとともに、研究を深めている。加藤弘子は玉村に焦点を絞った継続的な研究を行っている[「大正期の玉村方久斗[1][2]」『東京都現代美術館紀要』三号・四号、一九九人〜一九九九年、「玉村方久斗文献目録」同五号、二〇〇〇年]。

 アメリカの若手研究者ジェニファー・ワイゼンフエルドGennifer Weisenfeldも長年この分野の研究に携わり、成果の一部をアメリカの学会誌に発表した後、プリンストン大学に博士論文を提出し、それを手直しして公刊に漕ぎ着けた。同書ではとりわけデザインへの展開に着目した章が充実しており、同氏の現在の研究課題とも関連してくる[五十殿による書評「大正期における『アヴァンギャルド』の『プロジェクト』 について」『美術史』百五十六冊、二〇〇四年]。

▶︎近年の展覧会

 展覧会もこの間多数開催されているが、主だったものにだけ触れておく。群を抜いて多く開催されているのは、柳瀬正夢展であり、研究活動も活発である。没後五十年を記念した「柳瀬正夢」展[町立久万美術館、一九九五年]、そして武蔵野美術大学美術資料図書館における「柳瀬正夢−疾走するグラフイズム」展[一九九五年]、三鷹市美術ギャラリーにおける「柳瀬正夢」展[一九九九年]、さらには生誕百年を記念した「柳瀬正夢」展[愛媛県美術館、二〇〇〇年]が催された。一方、井手孫六による評伝『ねじ釘の如く事画家柳瀬正夢の軌跡』 [一九九六年]が出て、武蔵野美術大学美術資料図書館では生誕百年を記念して「柳瀬正夢資料集成」をまとめた[二〇〇〇年]。このほか、同大学の柳瀬正夢研究誌や柳瀬正夢研究会の発行する研究誌も創刊された。

 ブルリュークに関係する展覧会としては、現在は閉館してしまったが、小樽にあったペテルブルグ美術館においてロシア美術館の所蔵品を中心とした回顧的な展覧会[一九九六年]があった。このほかにも、ブルリュークに関係した企画として、西宮市大谷記念美術館の「『未来派の父』露国画伯来朝記」展[一九九六年]がある。

 版画家ブブノワについても、町田市立国際版画美術館で大きな回顧展が開催され[一九九五年]、それまで唆昧であった様式的な変遷に即した作歴がようやく整理され、その作家活動の概容が明らかになつた。そのほか作家の回顧展として、「マヴオ」に関係した詩人萩原恭次郎の生誕百年を祝う「萩原恭次郎とその時代」展[群馬県立土屋文明記念文学館、一九九九年]、出品リストしか作成されていないが稀な企画であった「住谷磐板遺作」展[同館、一九九九年]、小林多喜二を生んだ街の市立美術館における「前衛と反骨のダイナミズム」展[市立小樽美術館、二〇〇〇年]、倉敷出身の岡本唐貴に焦点をあて「造型」時代の大作《海と女》[一九二六年]が出現した「岡本唐貴とその時代」展[倉敷市立美術館、二〇〇一年]などがあった。さらに、築地小劇場に焦点をあて、写真史と舞台美術史の境界を探った「築地小劇場とその時代 − 舞ムロ・美術・写真」展[名古屋市美術館、一九九九年]も好企画であった。同館では、岡本唐費や浅野孟府と関わりのあった神戸の写真家淵上白陽をとりあげた展覧会「構成派の時代 − 初期モダニズムの写真表現」[一九九二年]が開催されている。

 従来の研究的な枠組みを超えたものとして特記すべきなのは、町田市立国際版画美術館による国内巡回展「極東ロシアのモダニズム」展[二○〇二年]である。プルリユークたちが活動したウラジオストクそしてハバロフスクを中心とLた集束ロシアでの美書法動と日本での影響をたどったものであった。ロシア本国でもこの規模の展覧会は企画されておらず、世界的にも注目された内容であった。また筑波大学では関連する国際シンポジウムが開催された[「極東ロシア美術国際シンポジウム報告書」極東ロシア美術シンポジウム実行委員会、二〇〇二年]。

 最近の出来事として、大原美術館蔵神原泰文庫は、目録化されただけで、展示室で一般公開される機会がなかったが、同館の展覧会「インパクト 東と西の近現代 − もう一つの大原美術館」において、目録に掲載されていない資料を含めて展示されたことが特筆される[二〇〇六年七月]。

 以上のように大正期新興美術運動の研究はこの二十年ほどで大きく前進した。しかし、いまだに「三科造形美術協会」といった表現が横行している事態を考えあわせると、基礎的な資料に基づく認識がまだ十分に共有されていないと痛感される。とくに出品目録のたぐいは部数も少なく、入手も難しい。

 一方で、近年、さまざまな近代美術関係図善が復刻されている。美術雑誌に始まり、日本美術年鑑、主要な展覧会目録まで、研究の基礎が固まっている。また東京文化財研究所では 『大正期美術展覧会出品目録』[二〇〇〇年]を刊行している。今後も、こうした作業は続けられるし、そうすべきであろう。

 今後の研究を展望するとき、本書の公刊によって、研究の幅と奥行がさらに拡大して、この運動の位置づけがたしかなものとなることを念願してやまない。

 最後になったが、まず本書に係る著作権者の方々に御礼を申し上げる。また、芳名をすべて挙げられないが、本書は多くの方々の協力なしにはならなかった。謝意を表したい。

 本書の企画について国書刊行会の岸本健治氏から相談を受けてから、相当の年月が経過した。氏ならびに編集担当の工藤宏路氏に執筆者を代表して御礼を申し上げる。

(筑波大学芸術系専門学群)