歴史認識をめぐる章

■歴史認識をめぐる章

松竹伸幸

■ 日本の戦争はなぜ侵略といわれるのかてきました。

■村山談話はどこに意味があるのですか。

 その後の日本政府は、村山談話を受け継いでいるのですか。

 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」

 ここにあるように、日本が「国策を誤った」とした上で、日本の行為が「植民地支配と侵略」だったと認めています。つづけて、その行為への「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明しているのです。

 この談話は、村山総理個人の談話というものではありません。閣議決定されたものです。橋本龍太郎副総理を含め、当時の自民党の閣僚も賛同したものです。

 これまで見てきたように、自民党の首相がつづいている時代は、アジア・太平洋戦争を日本の侵略だと表明することはありませんでした。侵略の犠牲になった国は、そういう日本の政治に不満があったでしょうが、日本の経済援助を受けているとか、冷戦のなかで反ソ連陣営の結束が必要だなどの理由で、表だった批判は控えてきました。しかし、冷戦が終焉したことや、戦後50年という節目の年にあたり、侵略の被害を受けた人々の声が各国で高まるなかで、日本側の対応が求められていたのです。当時、アジアの国々から(アメリカやイギリスからも)談話を高く評価する声が寄せられましたが、日本とアジア諸国の平和友好の関係を築く基礎になるものとして、この談話には大きな意味がありました。

 この談話は、その後、政権に復帰することになる自民党にとっても、大いに意味のあることでした。村山談話により、「侵略と植民地支配への反省とお詫び」をするのが日本政府の公式の立場となたとはいえ、自民党の政治家の歴史認識までがただちに変わるわけではありません。しかし、この問題はアジア諸国との正常な関係が築けるかどうかにかかわることですから、総理大臣がどういう歴史認識をもっているのかは常に問われます。その際、自分の言葉で正確に語るだけの意思と能力がなくても、「村山談話を継承する」とさえいえば(くわえて問題発言をしなければ)、とりあえずは相手の理解は得られる水準には達することができるのです。

 安倍首相は、本音ではそれでは不満だつたのでしょう。日本は一点の曇りもない優れた歴史をもっていて、ぁの戦争もアジア解放の戦争だったと、どうしても主張したい。「後世の歴史家が判断するもの」という、以前のような自民党政治家の水準すら、安倍首相にとっては「逃げ」のように見えているのだと思います。

 なお、戦後60年にあたっての小泉純一郎首相談話も、村山談話を継承したといわれます。実際、「侵略と植民地支配への反省とお詫び」は、小泉談話にも盛り込まれています。しかし、「国策を誤った」という箇所は削除されました。安倍談話にある「針路を誤り」は、第Ⅱ部の「はじめに」で指摘したように評価が微妙です。55

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■日本はナチスのように人道に対する罪は犯していません。

 ナチスと同列においてはダメだと考えますが。 日本は人道に対する罪を犯していないともいえます。犯したともいえます。難しい問題です。

 もともと人道に対する罪というのは、ナチスのユダヤ人虐殺を念頭においてつくられた考え方です。特定の人種を劣等であると位置づけその抹殺を計画し、実行に移すという、それまで想像もできなかったようなことがやられたのでした。

 しかもこれは、いわゆる戦争犯罪というものとは性格が違っていました。ドイツ国民であったユダヤ人の虐殺は、他国との戦争を始める以前から計画し、実行されていたからです。戦争にともなう犯罪とだけはいえないのです。日本を裁いた極東軍事裁判所条例が、人道に対する罪の概念について、「戦前又は戦時中為されたる」罪だとして「戦前」の行為も包括していること、「犯行地の国内法違反たると否とを問はず」として、たとえ国内法に違反していなくても裁くとしていることは(引用は極東軍事裁判条例だが、ニュルンベルグ裁判条例もほぼ同じ規定)、この罪の特殊ドイツ的な事情を抜きにしては考えられません

 中国人や朝鮮半島の人々に対する蔑視、差別的感情は日本にも根強くありました。そのことが、戦争遂行過程で露骨にあらわれたのが、南京虐殺だったといえるでしょう。しかし、日本が中国人や朝鮮半島の人々の抹殺計画をもって実行に移したということは、絶対にありません。その意味では人道に対する罪を犯したとはいえないでしょう。東京裁判でも、この罪で被告を裁くという明確な判断はされませんでした。 ただし、人道に対する罪というのは、新しい概念であり、当時、明確に定義されていたわけではありません。そして、その後も発展しっづけています。

 国際刑事裁判所規程は、人道に対する罪について、「文民たる住人に対する広範な又は組織的な攻撃の一部として、当該攻撃の認識とともに行われた次のいずれかの行為をいう」として、「殺人」や「奴隷の状態に置くこと」などをあげています。民間人に対する組織的な攻撃ということが、現在も第二次大戦当時も、この罪の大事なポイントなのです。なお、慰安婦問題と関連しますが、「奴隷の状態に置くこと」とは、「人に対する所有権に付随するいずれかの又はすべての権限を行使することをいい、人身売買(特に女性及び児童の売買)の過程で当該権限を行使することを含む」とされています。

 人道に対する罪をこういうものだと捉えれば、日本もまた、この罪をアジア・太平洋戦争の過程で犯したことは否定できません。しかし、それは日本に限ったことではなく、アメリカの原爆投下や東京大空襲に代表されるように、交戦国の双方が犯したものだということになるでしょう。

 なお、国際刑事裁判所規程で人道に対する罪が定義されたことにともなって、東京裁判当時に問題になつたナチスの行為は、「集団殺害犯罪」(ジェノサイド)だと位置づけられました。そして、「「集団殺害」とは、国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる次のいずれかの行為をいう」として、「集団の構成員を殺すこと」などが例示されています。

■アメリカの原爆投下や東京大空襲なども許されません。

 日本だけを悪者にするのはおかしいと思いますが。その通りだと思います。原爆投下などの罪でアメリカが断罪される日は必ず訪れるでしょうし、そうしなければなりません。

 これまで見てきたとおり、平和に対する罪というのは政治的な罪であって、日本だけが責めを負うことから逃れられません。しかし、人道に対する罪、通例の戦争犯罪は、第二次大戦の過程において交戦国の双方が犯したにもかかわらず、日本とドイツだけが裁かれたのです

 アメリカによる原爆投下東京をはじめとする各地への空襲ソ連によるシベリア抑留などは、そのなかでも特別に重大な犯罪でした。これらの罪の責任が問われないままでいることは、何よりも被害者にとって許されないことです。同時に、今後、国際刑事裁判所において人道に対する罪を裁いていく上でこれだけの罪が裁かれなかったことは大きな禍根を残すことになります。犯罪として裁くことは現実的でないにしても、国家指導者による謝罪は不可欠です

 この問題で、日本の被爆者団体は、声高にアメリカの謝罪を求めているわけではなく、核兵器の廃絶をかかげ、被爆の実相を世界に伝えることを重視しています。とはいえ、このことが、過去の経緯を見ても、アメリカの責任を問うことにつながっていると思われます。アメリカの原爆投下や東京大空襲なども許されません。日本だけを悪者にするのはおかしいと思いますが。

 いまから20年前の1995年、アメリカの国立スミソニアン航空宇宙博物館で、広島に原爆を投下したB29爆撃機の特別展示をおこなうことが決まりました。その際、原爆の惨状を撮影した写真なども展示することになっていました。ところが、退役軍人協会の反対によって、展示会は中止に追い込まれることになります。展示の台本では、原爆投下によって戦争の終結が早まり、100万人の米兵の命が救われたとする米政府の公式見解だけでなく、原爆投下の必要性はなかったとの別の考え方も示されていました。退役軍人協会による反対は、そういう展示台本の考え方に反発したものとされています。原爆投下がもたらす非人道的な惨状を展示しながら、原爆投下の正当性をうたうのは矛盾であって、被爆の実相を伝えるということは、原爆投下の必要性を強調する立場に対する最大の反論となりうることを、この経過は示していると思います。

 2011年以来、国連の場では、核兵器使用の非人道性に焦点をあて、核兵器不使用と核廃絶を求める決議をすることが重視されてきました。ところが、日本政府は、決議のうち、核兵器不使用が「いかなる状況においても」人類の生存にとって利益になるという部分に反対し、賛成していませんでした。アメリカの核の傘に依存している限り、日本を守るためのアメリカによる核兵器使用には反対できないというのが、政府の考えでした。しかし、2013年になって、ようやく日本政府も賛成に回ります。決議は、核兵器がもたらす結末は広島、長崎ではじめて使われた時から明白だったとして、「いかなる状況においても核兵器が二度と使用されないことが人類の生存にとって利益であり、「核兵器が使われないことを保証する唯一の方法は廃絶」とも訴えました。原爆投下の非人道性を打ちだすことは、核兵器の不使用、核兵器廃絶のためにも不可欠です。

■罪もない人が裁かれたといわれる一方、天皇の責任は不問に付されました。理不尽ではありませんか。

 東京裁判にはいろいろな問題があります。罪もなく裁かれた人の名誉回復も十分ではありません。天皇の戦争責任が議論にもならなかったことは、それにどういう立場をとるのであれ、他の被告が責任を認めなかったことも含め、重大な問題が起きたときに何の責任もとらないで済ませることが可能だという事実を残したことにより、現在につながる日本政治の負の遺産になったと思います。

 これを「無責任の体系」と位置づけ、批判する考え方が、戦後の早い時期から生まれました。私もそれには同調するものです。しかし同時に、東京裁判の最大の問題は、戦争をした責任が不明確だということではなく、その戦争が「侵略」だとする認識が、日本の政治指導部のなかに生まれなかったことにあると考えます。「責任」という言葉が語られる場合も、勝てる見込みのない無謀な戦争に突入した責任という意味であって、侵略戦争に突きすすんだ責任のことではない場合がほとんどです

 東京裁判においては、侵略の定義がまだ確立途上だということもあって、日本の罪を追及した検察団のなかでも、何をもって侵略だと認定するのか、考え方が確立していなかったように思われます。太平洋戦争の開戦にしても、検察団の関心は当初、もっぱら戦線戦布告をしないまま真珠湾攻撃がおこなわれたことに集中しました。その結果、宣戦布告が遅れたのは手違いだとする日本側の弁明があり、議論は技術的な問題に終始した印象があります。実際の判決では、開戦の通告が遅れたことは、問題にされませんでした。

 東候英機をはじめとする被告は、日本の戦争は侵略ではなく自衛だと主張しました。その根拠は、日本はアメリカなどの経済封鎖で追い込まれ、生存のためにやむなく開戦したのだということにありました。ですから、日本の戦争が侵略であることを証明するには、この点の議論が不可欠でした。

 しかし、この点は、かみあった議論がされていません。東京裁判以前に創立された国連の憲章は、第Ⅰ部で紹介したように、「自衛権」というのは相手国からの「武力攻撃が発生した場合」に限られると規定しました。それは、武力攻撃もされていない段階で武力を行使することは「自衛」ではないと明確にしたものであり、最初に武力を行使することが侵略だという定義につながるものでした。ですから、検察団が国連憲章の精神を理解していたら、経済封鎖があったから「自衛」戦争なのだと被告が主張しても、それは自衛ではなく侵略なのだと反論できたはずなのに、そういう応酬は見られませんでした。何をもって自衛とみなし、何が侵略なのかという共通の土俵がないまま、検察側の立証と弁護側の反証が進み、判決が下されたような感じがします。

 ただし、検察側が提出した膨大な証拠は、事実の重さによって侵略の実態を明らかにしました満州事変のきっかけとなった柳条湖における満州鉄道爆破事件についても、日本側の謀略によって戦争と占領がおこなわれたことがあきらかにされました。そういう重い事実の積み重ねが、侵略とはこういうものだとの認識を世界こ広げる上で大きな役割を果たしたと思います。東京裁判にそのような意味があったことはたしかです。

■日本の朝鮮半島植民地支配が違法だったか合法だったかの論争があるそうですが、どういうものですか。

 韓国側からは、本による植民地支配は無法だった、国際法に違反していたとの主張がされることがあります。日本政府は、現在では植民地支配は無法とみなされるようになったが、当時は合法とされており、日本のそれも国際的に認められていたと反論してきました。

 両国の関係を律する日韓基本条約(1960年)を締結する議論の際、これが問題となり、条約では「もはや無効(already invalid」という表現を使うことになりました。いつの時点で無効(invalidというのは法的な無効性をあらわす)になったかは明示せず、あいまいなかたちで決着がされたということです。

 他国を植民地として支配するなどということは、いまや誰も肯定できないものであり、無法なことをされたと感じる韓国の人々の気持ちはよく理解できます。しかし、20世紀はじめの時点で、植民地支配が国際法上どう位置づけられていたかといえば、やはり合法だったということになるでしょう。当時、植民地支配を違法とする考えは、国際法のなかにはまったく存在しませんでした

 というよりも、当時の国際法というのは、欧米諸国が生みだしたもので、「主権国家」とみなされた国々だけの間で通用するものでした。その欧米諸国が植民地支配を合法だとみなせば、それがそのまま国際法となったのです。一方、植民地支配されるような国々がいくら声をあげても、その声は国際法の要素にはならなかったということです。

 勝手な考え方だと思われる人もおられるでしょうが、そもそも法律というのはそういうものです。たとえば、資本主義社会が生まれた当初、資本家が労働者を解雇するのは自由だとする考え方があり、それが民法などに規定されていました。当時、法律を策定する議会は資本家の代表で構成されており、労働者の意見は届かなかったのです。労働者も議会に代表を送れるようになって、ようやく資本家が勝手に解雇することは許されないという考え方が誕生し、立法化されるようになりました。

 国際法も、植民地が独立して主権国家となり、国連に加盟するようになって、大きく変化することになります。植民地支配についても、1960年になって、国連総会が「植民地独立付与宣言」を採択するなど、次第に違法だとみなされるようになったのです。

 要するに、法律がいつも正しいというのは幻想だということです。悪法も法なり、という時代があったということです。いまでもそういう種類の悪法があるから、法律の改正を求めたりする運動が、絶え間なくおこなわれているのです

 したがって、植民地支配を問題にする場合、合法か違法かというレベルで争っても、論点がずれているといぅことです。そういう議論では効果的な闘いができません。大事なことは、植民地支配を合法とするような大国の身勝手な論理世界を支配していたことそれ自体を、強く批判することでしょう。合法だったことを批判する論理が必要なのです。

■植民地支配ということでは欧米が先輩格なのに、日本だけが責められていると感じますが、違いますか。

 国際的に見ると、植民地問題を国際的に総括し、批判しようという機運が高まるのは、21世紀に入ってのことです。その問題のなりようも、日本と比べると、まだ穏やかなものです。

 2001年、南アフリカのダーバンにおいて、奴隷制虔と植民地支配などをテーマに国際会議が開かれました。約150カ国の政府が集まり、「宣言」が採択されます。 「宣言」は、奴隷制度については、「人類史上の恐るべき悲劇」「人道に対する罪」 であるとした上で、「深刻で重大な侵害行為についてすすんで謝罪し、適切な場合には補償をおこなった国々がある」ことを指摘しました。犯罪だと位置づけ、謝罪や補償を奨励したわけです(義務づけてはいませんが)。

 一方、「宣言」は、植民地支配についても、「甚大な人的被害と悲劇的惨状」をもたらしたものだと認めました。しかし、奴隷制のように犯罪だとはみなさず、「非難され再来が予防されなくてはならない」というだけで、謝罪や補償にふれることもありませんでした。奴隷制は植民地支配の結果ですから、奴隷制だけが突出して問題になるのは、少し不思議な感じがします。しかし、植民地支配はあくまで政策であって、その政策を遂行した結果として生まれた犯罪被害に対して謝罪し、補償するというのは、自然なことかもしれません。

 国ごとに見ても、植民地支配への謝罪を表明したことのある国は、おそらくイタリア2008年(村山談話の22年後)、リビアに対しておこなったものだけです。補償についていうと、そのイタリアによる対リビア経済援助を除くと、オランダがインドネシアに(2005年)ドイツがナミビアに(2007年)イギリスがケニアに(2013年)、一定額を支払っています。いずれも、植民地支配に対してというのではなく、支配の過程でおこなわれた集団的な虐殺事件に対して謝罪し、補償したものです。

 これらが21世紀に入ってからのものであることから分かるように、日本よりかなり遅い時期です。また、すべての植民地保有国が謝罪と補償をおこなったわけでもありません。

 日本の植民地支配が早くから問題になつたのは、欧米によるものとは異なり、隣人を支配するものだったことによるものでしょう。植民地支配というのは、支配された多くの地域の人々にとってみれば、見ず知らずの白人が突然あらわれ、武力で押しっけられるものでした。一方、朝鮮半島の人々にとってみれば、2000年もの間、争いもあったが友好関係もあった隣人に支配されることでした。支配の苛烈(かれつ・むごさ)さに違いはなくても、その屈辱感は特別のものがあったでしょう。欧米も、さすがに仲間内の国を植民地として支配し、言語を押しつけたりすることはありませんでした。例外としてイギリスによるアイルランド支配がありますが、日本と同様、その残した傷にイギリスは苦しんできました

 とはいえ、植民地支配が苛烈であれば、誰が支配したかにかかわらず問題になるというのが、前述の事例にあらわれています。植民地支配とそのなかで犯された犯罪への謝罪、補償は、欧米ではこれから本格的に問題になっていくのでしょう

■欧米は植民地を差別したが、日本は朝鮮人を日本人と同等にあつかったので、欧米とは違いがあるのでは。

 欧米による植民地支配が差別的で過酷なものであったことについては、いろいろな証言や資料が存在します。批判されて当然であり、国際的にこれからも大いに問題になっていくことでしょう。一方、日本の朝鮮半島支配が欧米と比較してどうだったかは、難しい問題です。過酷さということは、相手が感じることであって、定量的な比較はしにくい分野です。前章で述べたように、同じことであっても、仲間から受けたあつかいであるがゆえに、より過酷に感じるということもあるでしょう。支配の前半期が一般に「武断政治」と呼ばれ、その過酷さへの反省が後半期の「文治政治」を生みだしたということも、武力による過酷な弾圧があった事実を否定できないことのあらわれです。

 日本が支配するに当たり、朝鮮人を日本人としてあつかおうとしたのは事実です。フランスの植民地政策においても、いわゆる同化政策がとられ、フランス語を話し、フランスの文化に同化したものには、フランスの市民権を与えるという政策がとられました。ただし、そうでないものには市民権は与えられなかったのであって、日本の場合、すべての朝鮮人を帝国臣民と位置づけたわけですから、欧米とは異なる要素があります。

 しかし、日本人と同じ権利が与えられたかというと、そうではありません。よく指摘されているように、朝鮮人にも選挙権は与えられましたが、朝鮮半島には選挙区が設けられなかったので、事実上は選挙から排除されていました。また、慰安婦との関係で問題になることですが、 21歳未満の女性を売春目的で売買することを禁止した国際条約の批准に当たり、日本政府は、他の植民地宗主国と同様、この年齢条項を植民地には適用除外することとしました。そのため、まだ年端(としは)もいかない少女が慰安婦にされ、現在につながる問題を生みだすことになりました。

 何よりも考えなければならないのは、異なる民族を同じにあつかうこと自体、どうだったのかということです。とりわけ、日本語を話すように教育し、日本風の名前を奨励したことなどです。

 そういう政策をとった動機についていえば、日本人と同じにあつかうのだという面があったかもしれません。あるいは、欧米が自国語を押しつけているのを、ただまねしただけなのかもしれません。

 いずれにせよ、それとは逆の場合、すなわち日本人がハングルを押しつけられることを想像すれば分かることですが、それなりに自国の文化に誇りをもっていれば、とうてい受け入れられるものではありません。そういう場合、同じものとしてあつかわれればあつかわれるほど、傷が深まるということになるでしょう。

 植民地支配が終わったあと、朝鮮半島の人々は、日本語の使用を止め、ハングルを使い始めました。一方、支配した期間の長さの違いもあるでしょうが、欧米が支配した国々では、いまでも英語やスペイン語が使われるところが少なくありません。その意味を考えるべきです。

 それに、もし本当に平等にあつかうというなら、日本人がハングルを使うという選択肢もあり得たのです。そんなことは問題にもならなかったことは、やはり平等は建前に過ぎなかったことをあらわしているのです。

■日本は朝鮮半島で教育制度もつくり、インフラも整備したので、近代化に貢献したという人がいますが。

 日本も江戸時代までは公的な教育制度が未整備で、明治維新(1874年)によってようやく制度がつくられ、発展してきました。朝鮮半島でも、日本から約20年遅れで近代教育制度がはじまりましたが、日本が植民地支配にふみだす頃は、小学校でさえまだ数十校だったといわれます。植民地支配の終わり頃には、各種の学校が1000を超えていたといわれますから、日本の支配下で教育制度が整備されたのは事実です。

 その他、日本は多額の国家予算を朝鮮半島に投じました。鉄道、道路、上水道、下水道、病院、工場などがつくられます。それらが戦後に残され、国の復興にそれなりに役に立ったのも事実でしょう。

 それに対して、投資の成果にあずかっていたのはおもに日本人である、という批判があります。教育面では、宗達玉氏の研究によると、朝鮮に住む日本人の就学率は九九%を超えていましたが、朝鮮人のそれは42年においても30%程度だったそうです(『「慰安婦」問題を/から考える』所収)。経済的な投資という面でも、その果実は日本人や日本企業のものになったという主張がされています。

 さらに、日本の投資は、あくまで日本の利益のためのものだったという批判もあります。たとえば鉄道の整備にしても、中国侵略に役立てるためのものだったし、教育にしても、忠実な帝国臣民を育てるためのものだというようなものです。

 こうした見解の対立は、それぞれに事実があるというべきものです。どちらかだけが正しいということではないでしょう。同時に、ある国の幸せとか進歩などを、誰が判断するのかということが大事です。世界の歴史のなかでは、優れた国が遅れた国・地域を進歩させるという「実験」が無数にやられてきましたが、それをどう見るべきでしょうか。第二次大戦後、ソ連が東欧を支配し、ソ連型の政治・経済制度を押しっけました。資本主義より社会主義が優れているのだということが、ソ連の政治家などから当然のことのように主張されましたが、その結末は私たちが目撃した通りです。

 あるいは、現在の中国によるチベット支配を見ても、同じようなことを感じます。中国政府は、約4500億円もかけたといわれる青蔵鉄道(青海省西寧とチベット自治区首府ラサを結ぶ高原鉄道)などの事例を取り上げ、チベットに多額の投資をして幸福をもたらしていると強調します。しかし、チベットの人々にとってみれば、中国の支配を強めたり、チベットの資産を中国にもちだすためのものだということになります。中国政府によるこうした宣伝を目にする度に、日韓条約交渉過程で日本は多額の金をかけて朝鮮半島に鉄道を敷設したと発言した日本政府代表のことを、ついつい思い出してしまいます。自分は優れているのだと感じていると、同じような思考パターンに陥るのかもしれません。

 ある国(さらには独立を望む地域)の幸せを、他国が判断してはなりません。学説として個人がいろいろ主張を展開するのは当然でしょうが、政治のレベルでそれをしてはならないのです。

■安重根について、日本政府は犯罪者だといい、韓国政府は独立運動の英雄だといって対立していますが。

 安重根(アンジュングン)は、朝鮮の独立運動家で、1909年、日本の伊藤博文を満州のハルビン駅構内で襲撃し、殺害しました。翌年、処刑されます。

 韓国において安重根は「独立運動の英雄」とされています。2014年1月、現在は中国領内にあるハルビン駅に、中国政府の協力を得て安重根記念館がオープンしました。これに対して、日本の菅官房長官は「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」と述べ、中韓に外交ルートで抗議したとのことです。

※宗主国(そうしゅこく)とは、実際の権力は対等もしくは逆転しているが格式や権威において上下関係を有するか、または格式や名目上の権威においては対等だが権限範囲において上下関係を有する諸国において、その最上位にあって他の関係諸国を下位とする国である。

 ある人物の評価が、植民地宗主国旧植民地国との間で異なることはよくあり、珍しいことではありません。宗主国にしてみれば、誰であれ法律を守ることが求められるのは当然であって、殺人が許されるという見地には立てないでしょう。一方、植民地とされた人々にとってみれば、合法的に独立を達成する道が閉ざされているもとで、実力に訴えるという手段を排除するのは不可能だということになります。

 独立闘争のなかで武力を使う手段が認められるかどうかは、戦後の国際政治において、大きな問題となってきました。宗主国は武力による闘争を否定しましたが、植民地とされた地域の人々は、宗主国との武力闘争を勝ち抜き、独立を達成しょうとしのであって、武力を否定されることに反発したのです。そして、国際社会も、ある程度はそれを認めてきました。

 たとえば、テロ関連の条約のひとつに、「人質をとる行為に関する国際条約」(1979年、国連総会決議として採択)があります。人を拘禁し、その殺害予告などをもって脅迫し、何らかの目的を達成することを禁止する条約です。そんな行為は許されることではありません。しかし、この条約作成過程において、かつて植民地だつた諸国は、独立闘争のなかでの行為には適用すべきでないと主張しました。その結果、この条約のなかでは、「人民の自決の権利の行使として人民が植民地支配、外国による占領及び人種差別体制に対して戦うもの」については、一定の条件のもとにこの条約を「適用しない」と定められました。この条約は、安重根をテロリストだとする日本も共同提案国にくわわり、国連総会のコンセンサスで採択されたものです。一方、9・11テロなどをきっかけに、テロ行為は許されないという声が高まりました。とりわけ、政治的、宗教的その他の目的があればそういう行為が許されるという考えは、国際社会の支持を得られないようになっています。その結果、最近の条約においては、このような例外規定はなくなりました。 やはり、どんな状況であっても、殺人やテロが許されないという見地は堅持すべきでしょう。しかし同時に、それが許されると国際社会が公認していた時期はあったし、植民地とされた国にとっては、そのような感情が残るのは当然だということも考えなければなりません。この間題は、テロか英雄行為かなどのように、単純な二項対立では対応できない問題なのです

■明治の産業革命遺産が世界遺産に登録される際、朝鮮人強制労働が問題になりました。どう考えますか。

 日本が朝鮮半島を植民地にしたあと、朝鮮の人々のなかで、仕事を求めて日本にやってくる人が増えることになります。日本は一時期、その制限に踏み切りましたが、日中全面戦争の開始(1937年)にともない、逆に労働力の確保が必要となってきます。

 政府はまず、国家総動員法(1937年)をつくり、それにもとづいて国民徴用令(1938年)を発します。徴用とは、戦時に労働者を強制的に集めるための概念で、強制労働であっても戦時には合法的だとされました。

 この徴用令は当初、日本人だけに通用されるものでした。朝鮮半島においては、日本政府の動員計画をふまえ、毎年、地域ごとに人員や行き先を決定する労務動員計画が実施されました。徴用令にもとづくものではないので強制ではありませんでしたが、集める人員数に割当があるため、いきおい強制的に集められるケースもあったようです。そして、終戦まじかの44年になって、徴用令が朝鮮半島にも適用されます。短期間でしたが、従わなければ罰則があったので、文字通りの強制労働(戦時だから合法的ではあっても)でした。

 こうやって集められた朝鮮人の労働がきわめて過酷なものであったことは、いろいろな証言や資料で明らかになつています。賃金を支払うことは約束されていましたが、生活を維持するのにやっとであったり、不払いのケースもあったようです。明治の産業革命は日本を一人前の国にした「光」の部分ですが、それは朝鮮や中国の人の強制労働という「影」に支えられていたということです。日本近現代史は光と影が渾然一体となっているところに特徴があります。

 第二次大戦後、日韓条約(1960年)を締結する両政府間の議論の過程で、この時期の未払い賃金の支払いをどうするかが議論になりました。個々の労働者に支払うという案も日本側から出されましたが、韓国政府が一括して受領し、個々に支払うことで合意が成り立ちます。そして、条約のなかで、日韓請求権問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認されたのです

 慰安婦問題と異なり、日韓条約交渉のなかで直接の議題となり、決着した問題です。したがって、韓国の人々が日本企業を相手に訴えでても、韓国政府は「解決済み」という立場を表明してきました。しかし最近、韓国の裁判所が訴えを認め日本企業に賠償の支払いを求める例が生まれています韓国の最高裁判所も、条約により韓国政府の請求権は消滅したが、個人の請求権はなくなっていないとの態度をとるようになりました。

 条約は国家間でむすぶものなので、「請求権は解決済み」と決めた場合も、個人の請求権はなくならないとする学説もあります。その場合も、日韓条約交渉の経緯があるので、日本政府としては支払い義務は韓国側にあるということになるでしょう

 世界遺産問題の議論の結果、「意思に反して連れて来られ」た朝鮮半島出身者が多く存在したことを記憶にとどめるための措置を日本側が実施することになりました。的な問題とは区別して、被害を忘れないための努力を日本側が行なうことが、この間題で大事ではないでしょうか。

■従軍慰安婦問題はあれほど議論されながら、いまだに解決していません。どうすればいいのでしょうか。

 慰安婦の方はみなさん高齢化し、生存者は50人程度にまでなっています。その生あるうちに解決しなければ、「この間題は解決しないままで終わった」という記憶が韓国の人々の心に残るのであり、さらに深刻な問題になりかねません。慰安婦問題では日韓の間に、また日本の世論においても、深刻な見解の対立があるように見えますが、この間題での立場の違いを超え、解決のために力を合わせるべきです。

 この間題を解決するカギは、1983年8月4日の河野談話にあります。なぜなら、深刻な対立を乗り越える力が、この談話のなかにあるからです。慰安婦問題の解決のために努力している人々にとって、いま河野談話をどう堅持するかが大事な問題となっています。一方、多くの人は忘れているでしょうが、この談話が発表された当時、いわゆる右派系も談話の線での解決を容認しました

 読売新聞(社説)は、「「強制性」を認め、謝罪したからには、謝罪を形で表す何らかの措置が必要だ。・・・法律論だけですまされる問題でないことも明らかだ。・・・わが国、国民の気持ちが伝わるような措置をとってほしい」という立場でした。

 産経新聞(主張)も宮沢首相(当時)が訪韓時お詫びしたことを紹介しっつ、「(その同じ)言葉を繰り返す以外にない」と述べていました(両紙とも8月5日付)。 河野談話は、慰安婦は強制連行されたと主張する韓国と、国家が組織的に強制連行したことはないとする日本との間で、微妙なバランスをとって作成されたものです。「本人たちの意思に反して集められた」として、慰安婦本人にとっては強制連行といってよいようなものであったこと、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だったことを認めつつ、朝鮮半島においてそれを日本政府・軍が組織的に主導したようなことは書きませんでした。「日本の法的責任」認めなかったのです

 この河野談話にもとづき、「アジア女性基金」がつくられましたが、それは閣議決定にもとづいて、税金で運営されるが、民間の募金を集めるというものでした。そして、慰安婦に対して「償い金」や「医療福祉支援費」を渡すことになりましたが、「償い金」は民間の募金、「医療福祉支援費」は税金と、両者が混在したものでした。河野談話の矛盾した性格が反映したものです。

 ところが、政府の一部には、こうした活動に政府が関与すること自体を否定する動きがありました。そうした動きをとらえ、市民運動のなかにも、政府の責任を放棄するものだと批判する主張がありました。そのなかで、「償い金」を受け取る韓国の慰安婦は、総数の三分の一弱にとどまったのです。読売新聞などが河野談話を否定的に捉えるようになるのは、談話にもと、づく日本側の活動が韓国側から否定されるなら、これ以上のことはできないという判断にもとづくものだったのでしょう。

 しかし現在、慰安婦問題を主導する韓国の挺対協(挺身隊問題対策協議会)のなかにも、「日本の法的責任」という言葉の使用を問題解決の前提から外す動きも生まれています。そうであるならば、日本側の世論も、ふたたび河野談話を堅持した解決ということで合意が得られるのではないでしょうか。

■竹島問題にも日本の植民地支配がかかわっていると聞いたことがありますが、どういうことですか。

 竹島について、日本も韓国も自国の領土であると主張しています。19世紀以前からそうだったと両国が述べていますが、古い時代でもあるし、明々白々な根拠があるとまではいえないので、脇に置きましょう。問題は20世紀に入ってからです。日本が朝鮮半島を植民地化する1910年の前に、事態が大きく動きます

 明治政府は1905年、竹島を日本領にすることを閣議決定し、つづいて島根県知事が隠岐島の所管になったことを告示します。その後、30数年間、島根の漁民がアシカ猟に励むことになります。

 誰のものでもない土地をどうやって自国に編入するのか。この頃、そのための国際法のルールができあがっていました。「先占」といって、「この土地は自国のものだ」と先に宣言した上で、実効的に支配する(占有する)ことで、その国の領土になるというものでした。日本の行為は、それに合致しているように思えます

 ところが韓国は、1900年に皇帝の勅令を出し竹島(韓国ではいまのように「独島」ではなく「石島」と呼ばれていました)を鬱陵島と同じ行政区城にしたというのです。誰が見ても、日本より早いのです。しかし、「先占」というのは、いま紹介したように、宣言するだけではダメなのです。実効支配をしなければなりません。その点では、日本は竹島でアシカ猟をしたけれど、韓国は何もしなかったので、先占の要件は満たしていないことになります。

 しかし、韓国にも言い分があります。植民地になつたのは1910年だとはいえ、そこに向かう動きは、以前からありました。1904年には第一次日韓協約が結ばれ、韓国は日本が推薦する財政、外交顧問を置かざるを得なくなります。1905年には日本が韓国の外交権をにぎることになります(第二次協約)第三次協約(07年)では内政権まで奪われますから、竹島を実効支配しようにもできないではないかというのです。ただし、この過程で韓国は日本の支配全般の不当性を世界に訴えましたが、竹島問題の訴えは含まれていません。

 その後、第二次大戦終了にともない、アメリカもからんで領有権問題はさらに複雑な展開を見せます。いろいろな経過をへて、現在、韓国が実効支配し日本がそれに抗議するという関係になっています。韓国が竹島にこだわるのは、日本に植民地支配された歴史と体験にかかわる問題だからです。一方日本側にしてみれば、韓国を植民地にするという方法でも竹島を自分のものにできたのに、それとは別の手段閣議決定き先占の要件を満たすような手段)で領有したのは、植民地支配とは関係がないということになります。しかし、韓国にはそう思えていないのです。しかも、日本の政治家のなかに、植民地支配を賛美するような人が出てくると、よけいに反発が強まり、竹島へのこだわりが強まるのです。竹島問題で日韓が多少でも話し合いを進めるには、硬直した韓国の人々の心を溶かすことが不可欠です。そのためには、植民地支配を心から反省していることを明確にし納得を得た上で、竹島問題は植民地支配とは相対的に区別される問題であることを主張していく以外にありません。そういうことができない政治は、国益に反するものです。

■あとがき

 戦後70周年談話を発表する記者会見に臨んだ安倍首相の姿は、やけに自信に満ちあふれていました。新安保法制の審議で追い込まれ、支持率が下がっているのを、この談話で盛り返すのだという意気込みさえ感じさせるほどのものでした。

 実際、共同通信社が談話発表の当日と翌日に実施した世論調査によれば、談話を評価する声が評価しない声を上回るとともに、内閣支持率は34.2%と、前月の調査から5.5ポイントも上昇したとされます。ここには、日本の過去への反省を盛り込むべきだとする世論と、お詫びはもう十分にしたと考える世論の双方に配慮し、それなりにうまくブレンドした談話の到達点が反映しているのでしょう。安倍首相といえば、日本の戦争は正しかったのだという歴史認識をもつグループの代表格ですから、その本音を抑えて、日本国の代表者としての最低限の品格を維持したことへの評価もあるでしょう。

 私も、その点を評価するにはやぶさかではありません。しかし同時に、この談話を安倍首相個人の本音と重ね合わせてみると、本書で書いてきたとおり、歴史認識としての限界が浮き彫りになります。

 思い起こせば、安倍晋三民らのグループが、村山談話に代表される歴史観を「自虐史観」と批判し、「栄光史観」とでも名づけられるような歴史観を提示しはじめたのは90年代半ばのことです。これに対して、「自虐史観」といわれた側は必死で反論しますが、世論のなかでは「栄光史観」に軍配が上がったとみなさざるを得ないことは、安倍氏が首相にまでなるほどの世論がつくりだされたことからも明らかです。 日本の近現代史には、「自虐」と呼ばれる部分と「栄光」と呼ばれる部分と、その双方が混在しています。その「自虐」と「栄光」が争えば、自虐的なものには誰も目を背けたがるのが普通なので、世論上、栄光の勝利は目に見えています。しかし、私に言わせれば、自虐史観も栄光史観も、ものごとの一面だけしか見ない点では、歴史観として共通しています。安倍談話は、その両面を記述した点では、栄光史観(じっは独善史観)を一歩抜けでるものです。けれども、そのふたつをただ羅列しただけにとどまり、「栄光」も「自虐」に支えられていることをはじめ、両者の相互関係を捉えられていない点では、普遍的な歴史認識にはなり得ないものといわざるを得ません。

 これまで私は、おもに外交や安全保障に関する著作を出してきており、歴史認識を多少なりともあつかったものとしては、この春に出版した『慰安婦問題をこれで終わらせる。』(小学館)が最初です。まだまだ素人なのです。それでも、なぜこの分野に手を突っ込んだのか。それは、集団的自衛権の解釈改憲をはじめ安全保障にかかわる個々の政策課題では国民の反対が多いのに、選挙になると安倍自民党が勝利するという世論状況を見るにつけ「栄光史観」が跋扈(思うままにのさばること)する現状にメスを入れることが、どうしても必要だと考えたからです。その際、栄光史観に対して、ただ自虐史観(正確には罪責史観と呼ぶべきでしょう)を対置するというのでは、90年代半ばからの対決構図と同じであって、栄光史観を支持する世論を乗り越えるのは難しいと感じてきました。

 本書は、以上のような観点から、戦争と植民地支配にかかわる日本の近現代史について、私なりの見方をはじめて包括的に提示したものです。


松竹 伸幸(まつたけ のぶゆき、1955年 – )は、日本のジャーナリスト[1]、編集者。かもがわ出版編集長[2]。日本平和学会会員、日本ジャーナリスト会議出版部会世話人[3]。専門は外交・安全保障。自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会の事務局を務める。