藤森照信建築

■藤森照信建築

▶︎植物

 人間の作る建築と神様の作ったという自然の関係、それも視覚的な関係について考える時、どうしても屋上庭園の一件は欠かせない。建築と植物が文字通り一体化しているからだ。

 屋上庭園のアイディアは古く、バビロンの空中庭園も屋上庭園と思われるし、今に残る実例では、14世紀のルツカのグィニージの塔が一番古く、二番目が下関の旧秋田商会ビル(1915)、その次がパリのル・コルビュジェのサヴオア邸(1931)とつづく。

 

 いずれも現場で見ると、根本的な問題がある。緑や水や土の部分だけ眺めているぶんにはいいが、建物と合せて見ると、木に竹を接ぐ違和感を禁じえない。ル・コルビュジェが、20世紀建築の五原則の二番目に強調したのは屋上庭園だが、屋上に全面的に植物を植えたのは小規模な家だけで、サヴォア邸などではアリバイ的にわずかしか土と水と緑を持ち込んでいない。小規模にやってみて、建築と自然は、距離をおいて併列するぶんにはいいが、合体したとたん視覚的違和感が生れることに気づいたのだろう。

 現在、エコロジーへの関心から、世界中で屋上庭園が試みられている。本格的な例としては、ドイツのカッセルのエコ・ヴィレッジ(1985)日本の福岡のアクロス福岡(1995)が知られているが、志はよしとするものの、建築と植物の視覚的な溝は消えない。

 これまで世界の有名無名の建物を見歩いてきたなかで、建物と植物の視覚的関係がうまくいっていると思ったのは、フランスの一群と日本の一群である。ともに、茅葺き屋根のてっぺんに草花が植えられていた。フランスではノルマンディ地方に固有な習慣で、もっぱらアイリスが植えられている。私の調べによれば、例外的にヴェルサイユ宮殿のアモーの農家の屋根もそうなっている。

 日本では“芝棟”と呼ばれ、戦前まで全国広く分布していたが、今は、東北地方などに限られ、アイリスはじめユリ、イワヒバ、キキョウ、ニラなどなどが植えられる。ユーラシア大陸の両はじという奇妙な分布はどうしてか。おそらく、新石器時代の頃、ユーラシア大陸の寒い地方では、防寒のため地面を掘り、上に茅葺きの屋根をオワンのようにかぶせ、屋根に土を載せ草を生やしていたが、そうした伝統がやがて芝棟になり、ユーラシア大陸の両はじだけに残った、と私はにらんでいる。一見すると奇妙に映るけれど、寒冷地の人類とともにあった、数千年の歴史を語る作りなのである。

 屋上庭園は違和感をぬぐえない。シンボリックな芝棟はうまくいっている。このことを頭の片隅に置きながら、さまざまな建築緑化を試みることになる。

■タンポポハウス

 第一号は、自宅であるタンポポハウス。ふつうの屋上庭園は、四角なビルの上に庭園を置くからまるで植木鉢のように上下に分離してしまうし、シンボリックな芝棟は緑の量が少なすぎる。両者の欠を克服するには、壁から屋根のてっぺんまで植物でおおえばいいだろう。しかし、全面的におおっては、建築の外観が死んでしまう。建築と自然が合体しながら、ともに相手を引き立てあうような関係が理想。そのためには、壁と屋根に帯状に植込めばよい

になって、視覚的一体化が可能となるだろう。

 タンポポを選んだのは、日本では、古来、春を告げる野草として愛されてきたからだ。春に日本の在来種を苦労して集め、夏の暑さを注意深くしのぎ、秋になって壁から屋根へと植え、冬をへてまた春になり、咲いた時はうれしかった。苦労のむくわれる思いだった。

 自慢しようと、いさんで伊東豊雄と石山修武と石井和紘を招いたのだが、建物を見上げた時の三人の反応はにぶい。たしかに、冷静な目で見上げてみると、黄色い点々がところどころに散るていど。タンポポは、足許に咲くのを上から見下ろす花で、屋根の上のを下から見上げる花ではない。

 努力がむくわれないという意味で失敗であった。

 建築と植物の関係の理想は、人体に産毛が生えるように建築から植物を生やすことだが、この理想に正面から取り組んだのが、タンポポハウスにつづくニラハウスにほかならない。毛穴のように点々と植込む。植込むのは、産毛のように伸びるニラ。

 そして、花が咲いた。美しかった。でも、毎年、管理はたいへんで、今は、ニラはほそぼそと生きているものの、根づまりして花は咲かない。

 タンポポハウス、ニラハウスにつづき、建築緑化を主要テーマとして取り組んだのにツバキ城がある。これ以上やるとアブナイ世界に入ってしまうギリギリまで緑化を計った。うまく出来、今もうまくいっているが、施主の谷口英久氏のメンテナンスの努力に、設計者はただ頭を下げるだけ。建築の緑化をまっ正面からさまざまに試みてきたが、神様が作ったという自然と人工の建築を一体化させるのは本当にむずかしい。

 そうしたなかで、シンボリックな緑化はうまくいく。点として植込んだ例には、一本松ハウス、ラムネ温泉館、線状に芝棟として植込んだのには養老昆虫館、ねむの木こども美術館がある。

 ねむの木の例は、近代になってから本格的に作られた芝棟第一号となるだろう。フランスの芝棟は土をちゃんと載せるが、日本の芝棟はほとんど載せない。土がなくとも、厚い茅の中に根を張り、足りない分は空中の湿気を吸って生きる。ねむの木は茅葺きではないので、厚く土を盛り、その上に芝をカバーし、花を植込んでいる。

 頼まれてスタートした神長宮守矢史料館が完成した後、また本業の建築史研究に戻ったのだが、腕がうずいてたまらない。卒業設計を最後に自ら封印してきたデザイン心が、神長官を突破口として溢れ出してしまったのである。ただ一作が出来たにすぎず、評価も定まらない。同世代の石山修武、伊東豊堆、安藤忠雄というトンガッタ連中は評価してくれたが、少し年上になるともうヨクワカラナイ状態。

 もちろん、設計の依頼があるわけもない。しかたなく自分の家を設計することにした。だから私の第二作は、自邸となる。当初、壁から屋根から全面的に土を入れ緑で包むことにしたが、そうすると雨が上って半日しても、私の家の窓の外には雨垂れがしたたりつづけていることになる。それはならじと、植物を少なくし、鉄平石を羽重ねした間に帯状に植え、かつ、植物の層を屋根と壁のコンクリートの面から浮かし、降った水は土と鉄平石の層を通ってコンクリート面に落ち、すみやかに排出することにした。そのディテールを考えるのも、工事をするのも大変だが、共同設計者の内田祥士氏の尽力でなんとかなった。

 家の名は、“Glass”にかけて“GrassHouse”とするつもりだったが、石山の命名でタンポポハウスとなった。その後、私の管理が悪く、タンポポは枯れたが、こぼれ種で庭にはいっばいの日本タンポポが生えているので、そのうち屋根にもどしたい。